3-8 自転車
美咲さんと僕が目指す遊戯施設は、自転車で十分の場所にあるらしい。それは徒歩で駅に行くよりも少ない所要時間だから、そう遠くないといえる。
自転車は僕が漕ぎ、美咲さんが後ろに乗るスタイル。
美咲さんは僕に過不足なく抱きつくので、その麗しい感触の対処に四苦八苦している。
「なあ、春坊」
「どうしました? 美咲さん」
「私の胸はどうだい?」
なんてことを聞くんだろうか。
とりあえずどう返すか考える。
「どう?」
美咲さんがしつこく聞いてくる。
僕はわざと間を置くように言う。
「あの、美咲さん」
「ん?」
「世の中には聞いていいことと悪いことがあります」
「うん」
「そして、美咲さんが聞いたことは悪いことに当たります」
「へぇー。でも、私はそんなこと気にしないもんね」
どうやらまったく聞く耳持たないようだ。
あまりの美咲さんらしさに、僕は笑いが込み上げてくる。
「それで結論、春坊はやっぱりむっつりすけべだったか」
「それは否定しておきます。ていうか僕は普通の方ですよ」
そこは意地でも反論しなくてはならない。
けど、美咲さんは大らかな笑顔でこんなことを言う。
「そうだよねぇー。否定するよね。中学生ってそういうのに意固地になるお年頃だったっけ。まあ、私はわかっていて聞いているけど」
「だったら、なおさらたちが悪いですね」
「うはは。たしかにそうだな」
美咲さんの笑い声を乗せて、自転車は進んでいく。
車輪の稼働している音が、自転車に乗っている感覚を実感させてくれる。
進んでいる方向は学校と反対方面だ。
この辺の地理にはあまり詳しくない。
「春坊」
ふいに美咲さんが話を切り出す。
少しだけトーンを落とした真面目な調子。
「あの、どうしました?」
と、僕は聞く。
すると美咲さんは、黙りこくってしまう。
何か言葉を探しているのかもしれない。
「私さ、自転車に対してはどこにでも行けるっていう幻想を抱いているんだよ」
ようやく口を開いたかと思えば、大方今回の失恋とは関係ないこと。
話がどこに向かっているかわからない。
なので、僕はあいまいにしか返せない。
「そうですか」
「なんだよ。気のない返事だな」
「いえ、そんなつもりはないんですけど」
「そうか。ま、いいよ。というか持論なんだけどさ、車や原付に乗っていてもなお、自転車のどこでも行けるような感覚は消えないんだ。なぜかわからないんだけど、昔のままその感覚が消えてなくならない」
美咲さんは後部座席でしみじみと言う。
「不思議ですね」
「そう、不思議なんだよ。不思議で不思議でしょうがない」
「でも、それは美咲さんが自転車を好きだからではないですか?」
「おー、いいこと言うね、春坊。私なんかは小説、または歌詞でも二人乗りのシーンたくさんあるのに、ドラマやアニメになると交通法違反で規制されてしまうのが許せない派だからな。屈指の名シーンが忠実に再現されない時はどんだけ憤ったか」
美咲さんが熱く語る。
けど、僕には留意できない点があった。
「美咲さん」
おもわずブレーキを止めて聞き返す。
「二人乗りって交通法違反なんですか?」
「そうだよ。知らなかったのか?」
「はい。それに僕は、これまでに何度も違反していますけど」
「そうみたいだな」
「しかも今だって」
降って湧いてきたような驚愕の事実に、しばし愕然とする。
やはり、僕には知らないことが多すぎる。
世の中は謎であふれていて、わからないことだらけだ。
すべての事象を見抜いていそうな瞳をしている直でも、じつはこんなふうに困惑する時もあるのかもしれないとふと思う。
「それにしても、自転車の二人乗りが違反だなんて知らなかったです。他にもこんなことが多々あるんでしょうね」
「そういうもんだよ。誰もが知らずのうちに何かをしてしまっている。人は誰だって最初からは知らない。だからこそだ。もちろん恋愛だってそう」
「恋愛、ですか?」
「そうだな。それで……あー、上手いこと言おうとしたけど言葉が出てこないな。鳥子みたいに上手くいかないわけだ」
ははは、と笑う美咲さん。
夜の闇に笑い声が木霊する。
やはり豪放磊落な人である。
「ま、とにかく何かあった時にはお酒を飲めばすべて解決。それが私の行動原理」
美咲さんの吹っ切れた声が聞こえる。
今回はすぐに振られてしまっただけあって、この前みたいなことにはならなそうだ。
僕は涙を流す美咲さんはもう見たくない。
あんな体験は犬にでも食わせたらいい。
「さあ、今夜も飲むぞ」
「あ、それで自転車なんですね」
「ばれたか。では、帰りも運転よろしく」
ふいに手が離れたので後ろで振り向く。
すると、びしっと敬礼をしている美咲さん。
なんだか微笑ましくなってくる。
「わかりましたよ。お酒を飲んだ後の美咲さんだと、酒気帯び運転で捕まりかねないですからね」
「よくわかっているな、春坊」
「たまたまです」
「そうかい。それと春坊、クリスマスには鍋だから」
「はい、善処します」
と、僕は返答する。




