1-16 稲葉 奏
参考になる本はいくつかあった。
たとえば、相手を悲しませない断わり方というピンポイントな本。さすがに男装云々は関係なかったけれど、この本はかなり頼りになるに違いない。
「ちょうどいい感じの本があったよね」
「うん。その他にもいい本もあった」
結局、綾はこの本の他に二冊ほど借りている。
これらを読んで、当日に備えるらしい。
「早速、今日読んでみる」
綾はイチョウの木を見上げながら言う。
イチョウの木はすでに葉をつけていない。
最近は朝夕も寒くなっているし、冬が近づいてきていると感じる。
「あのさ、綾」
「ん?」
「当日、僕は女装しないけど大丈夫だよね」
「うん。がんばるから見守っていてよ。絶対だからね」
「オーケー。わかった」
ただ、今までこういうパターンは一度もない。
綾が男装する時、僕はいつも隣にいて女装していた。
それは僕達のなかでは当たり前ともいえる秘密の遊戯で、その関係は変わることはないと思っていた。
けど、今回は様相が違う。
なので、これだけ準備をしていても予想外の事が起こるかもしれない。
それが起こらないように祈るだけだ。
「春。これは私次第だから、春が気に留めなくてもいいの」
「そっか」
「そう。春は女装はしないけど、いつも通りにしてくれればいい」
「そうだね」
「じゃあ、この話はこれで終わり。他の話をしよっか」
こうして綾の言う通り、僕達は他の話をする。
話題はとりとめのないことで、さして挙げるまでもない。
やがて、月極駐車場と都立公園の入り口が近づいてくる。
ここは綾と別れるポイントだ。
「じゃあ、春。バイバイ」
「うん。じゃあね」
あいさつをして別れようとする。
が、そこで彼女を見つけた。
稲葉奏。
昔、僕達と仲良くしていた一つ年上の女の子。
特徴的なおさげ髪をしているので、すぐにわかる。
「あ、春くん。それと綾ちゃん?」
奏ちゃんがこっちに気がついて声をかけてくる。
「え、もしかして」
綾の表情が確信に変わっていく。
「奏ちゃん?」
「そうだよ。綾ちゃん」
久闊を叙す旧友との再会に、大きな喜びを表す二人。
けど、僕は冷静ではいられない。
あの日の言葉と行動が心に残っている。
二人は僕を差し置いて会話をしはじめる。
女の子同士の会話らしく、突然話題が変わったりして聞いているだけでも大変だ。
「私ね、今度、このイチョウ並木の街に帰ってくるんだ」
「え? ほんとに?」
「うん。それでここの近くの高校に編入する予定」
「ここの近くの高校? それって私と春が受験するところだ」
「そうなの?」
「うん」
ここで一段落がついたのか、二人してこっちを見る。
二人とも、僕のことは忘れていた感じの表情をしている。
「春くん」
と、奏ちゃんが口を開く。
「二十日ぶりくらいだね」
「えっ?」
綾が驚く。
無論、それは当然だ。
奏ちゃんと僕が以前に会ったことも、そこで突発的に起こった出来事も知らない。
あれは感極まってと言っていたけれども、奏ちゃんは僕にキスをした。
このことは今でも鮮明に覚えているし、僕の悩みの種になっている。
「春、奏ちゃんとは会っていたの?」
「前に偶然会ったんだ」
「そうなの? 奏ちゃん」
「うん。そうよ」
奏ちゃんもうなずく。
「そういえばね、綾ちゃん。私、綾ちゃんに言っておきたいことがあるんだ」
「えっ? 何?」
「綾ちゃん。私ね、初恋の人が忘れなくてこの街に戻ってきたの」
「初恋?」
「そう、初恋」
そして僕を見てくる奏ちゃん。
「ま、まさか、春?」
綾が聞く。
「うん。そして今も好きなの」
奏ちゃんがそう言うと、綾は驚きを隠せないといった表情になる。
僕もまた、この展開に言葉を返せない。
「それでね、こればっかりはどうしようもないから聞いてみるけど、春くんと綾ちゃんは恋人同士だったりする?」
この発言には、綾がいち早く反応する。
「な、何言っているのっ。奏ちゃん。わ、私達はそんなんじゃないんだからね」
「そっか。恋人同士じゃないんだ。それならさ、私は春くんにアプローチしてもいい?」
奏ちゃんはなぜか綾に聞く。
「べ、べつに好きにすればいいじゃない」
と、綾は返す。
けど、それを聞いた僕はなぜか悲しくなる。
なんでだろうか。
僕にはわからない。
べつに幼馴染との関係はこれまでと変わらないし、それに僕は関係性の変化を望んでいない。そう、物事には適切な距離というのが存在してるのだから、このままの関係性で構わない。
「それで春くん。今度デートしない?」
奏ちゃんがいきなりの提案をしてくる。
「デート?」
「うん」
絵里ちゃんのおかげで、デートに対する不信感はまったくない。
けど、妙な胸騒ぎはぬぐえないでいる。
「デ、デート」
そして綾がさびしそうな顔をしてつぶやく。
なので、僕はおもわず言ってしまう。
「あのさ、せっかくだからみんなで楽しもうよ。直も入れてさ。どう?」
奏ちゃんは少し考えてこう言う。
「春くんがそういうなら」
「春。べつに私の気を使わなくていいのに。デートしたければすればいいでしょ。二人だけで」
「綾、今の言い方はないよ」
「うるさい。春のばか。春はばかなんだから」
「何でそうなるのさ」
僕達はそろってそっぽを向く。
「ねぇ、二人ともどうしたの? こうなったのは私のせいだよね」
「「違うよ」」
とりあえず、綾と僕が同時に答えたのが救いだった。
けど、ギクシャクした感じは多少残っていた。




