1-2 恋わずらい
最後の授業を終えて、ようやくチャイムが鳴る。
なので僕は、数学の教科書とノートを片付けて帰宅の準備。
正直、今日はなかなか集中出来なかったため、勉強の成果はあまりない。
そんな時に当てられなくて良かったと、ひそかに胸をなで下ろす。
「さ、坂本くん」
隣の席に座っている吉田さんが僕を呼ぶ。
そこに目を向ければ、いつもと変わらない彼女。
あまそぎの髪型の大和撫子である。
「何? 吉田さん」
「あ、あの」
やけに遠慮がちなのは、吉田さんのデフォルト。
さらにはいつも顔を赤くしているので、恥ずかしがり屋の一面もあるのかなと思う。
「坂本くんに紹介したい本があって」
「ほんと?」
「うん。新しい本」
「そっか」
こういう時には、本を読んで気分転換した方が良いのかもしれない。
なので、吉田さんの提案はとても魅力的に思えた。
「それでどんな本?」
一応、僕は聞いてみる。
「うんとね」
「うん」
「れ、恋愛小説なんだけど」
言いつつも、吉田さんの語尾が段々と小さくなっていく。
恋愛小説を勧めることに違和感を持っているのかもしれない。
「やっぱり男の子は読まないかな」
案の定、そんな心配をしてくる。
けど、それは大きな間違いだ。
「そんなことないよ。きっと読む人もいるって」
「そうかな」
「うん。そう思う」
僕がそう言うと、吉田さんは少しだけ希望に満ちた顔になる。
「それで、坂本くんは読んだりする?」
「恋愛小説?」
「うん、そうだけど」
心配そうにのぞきこんでくる吉田さん。
まだ不安があるのかもしれない。
「そうだなぁ。やっぱり、僕一人の判断だとたぶん読まないと思う。でも、吉田さんが勧めてくれるなら読むつもりでいるよ」
「そうなの?」
「うん。それに今の状態にはうってつけの処方箋だと思うし」
「えっ、処方箋?」
「ああ、なんでもないよ」
吉田さんが怪訝そうな顔をしたけど、僕は笑ってごまかす。
ともあれ、ここでは吉田さんが勧めてくれるというのが何よりも大切だ。
なにせ、僕の部屋の隣に住む女子大生は官能小説を強制的に読ませてくる。
なので、それに比べたら、どんだけ素晴らしい読書体験ができるのだろうか。
「吉田さん」
「はいっ」
「とりあえずさ、新しい本を紹介してくれるみたいでありがとう」
「ううん。こっちこそありがと、坂本くん」
「いいや、吉田さんがお礼を言うことなんてないと思うけど」
しかし、吉田さんはゆっくりと首を振る。
「ううん。そんなことないよ。私は、坂本くんと本の感想を言い合ったりできることが嬉しくてたまらないから」
言い終わった後、吉田さんはさらに顔を赤くする。
「それは僕も同じ気持ちだよ」
「ほんとに?」
「うん」
僕はうなずく。
「あ、それよりも坂本くん」
安心したのか、吉田さんが急に話を変えてくる。
「最近、元気がないみたいだけどどうしたの?」
「あー」
どうやら隣人にも見抜かれているみたいだ。
それとも、誰にでもわかるのだろうか。
「も、もしかして恋わずらい?」
「え?」
「あ、なんでもないの。一時期の私の症状と似ていたからそう思っただけで。それに恋わずらいだったら私があれだし」
後半の吉田さんの声は、まるで小さすぎて聞こえない。
僕は聞き返そうとしたが、吉田さんが未だにあたふたしているので諦める。
「それにしても恋わずらいか」
これはそうかもしれない。
あるいはそうじゃないのかもしれない。
やっぱり答えなど簡単に出ない。
――それによくわからないんだ。
僕の心の真ん中となる部分がはっきりとしていない。
そう、まるで核心というべきものが存在していないみたいだ。
そしてそれは奇妙さと不可解さをまじり合わせたものでもあり、多少の喪失を感じてしまうものでもあるのだ。




