メガネっ娘店主はブロブフィッシュ顔男子を幸せにしたい
このお話はR15です。過激な表現が苦手な方はご注意下さい。
まだ日も明けきらぬ早朝。
フード付きマントで全身をすっぽりと覆い隠した大男が、未だ眠りから目覚めぬ町中を独り歩いていた。
間もなく、とある店の裏手にたどり着いた彼は、慎重な手つきで木製の扉を三度叩く。
すると、内側からカタリとカンヌキを外す音がして、ゆっくりと開いた隙間から壮年の男が顔を出し、周囲の様子を窺いつつ大男を中に招き入れた。
会話は特になく、手で指示された場所へ大男は背に負っていた荷を降ろす。
そこから大男が数歩ばかり後退し距離を取ったところで、入れ替わるように荷の前に陣取った壮年の男が、おもむろに検品作業を始めた。
やがて、全てのチェックを終えた壮年男は、ズボンのポケットから数枚の硬貨を取り出し、大男の足元へと無造作に放り投げる。
大男は、やはり無言でそれを拾い上げ、壮年の男の鋭い視線から逃れるようにして、足早に店を立ち去った。
町から少し外れた森の中。
己の住処である粗末な小屋に戻った大男は、マントを外し、深いため息と共に己の体格に合わせ作った手製の椅子へと腰かける。
怪しげな取引に身をやつす悪人……というわけではない。
彼は、ごくごく普通の善良なキコリである。
ただし、生来より醜い見目をしており、それを理由に明確な差別を受けていた。
彼が伐採した樹木だなどと知れたら売れるものも売れなくなるからと、雑貨屋の主人である壮年男の言いなりに、人気のない早朝、決められた日毎に足を運んでいるのだ。
大男の持ち込む材木は他のキコリの物より明らかに上質なのだが、店主はそれを相場の半値以下で買い叩いている。
そんな事実を知っていながら、大男は買い取ってくれるだけありがたいと、文句の一つも零さず彼の元に通っていた。
更に、狩人ほど技術に精通しているわけではないが、森の獣を始末し解体して肉屋に持ち込むこともあれば、採取した薬草や果物等々をそれぞれ対応する店舗に納めることもあった。
彼への態度は、どこも雑貨屋と似たり寄ったりだ。
大男はその体格に相応しい強さを持っており、他のキコリが避けるような森の奥深く、豊かだが危険な地域にも足を踏み入れることが出来る。
また、性格によるものか生来の小器用さゆえか、彼の扱う品はどれも非常に質が良い。
確実に有用である大男を、ただ醜いからという一点だけで、町人たちは各々都合の良いように扱っていた。
とはいえ、もう何年も人目を避ける生活が続いているため、彼の存在を噂話程度にしか知らぬ住民も少なくはないのだが……。
~~~~~~~~~~
さて、深い森のある北西と反対の、海に面する南東の商業地区に、一つの軽薬販売店があった。
軽薬販売店とは、その名の通り治療院等では扱わない軽度な効能の薬を販売する店だ。
軽薬の種類に関しては、大陸国際連合の薬師協会において明確に定められている。
それは例えば、肌荒れに効く塗り薬であったり、風邪予防のうがい薬であったり、はたまた虫よけの薬であったりする。
各地にある薬師協会の支部に申請し審査を受けて許可を得れば、薬師資格を保有する販売員がおらずとも軽薬を売買することが可能となるのだ。
そこそこ大きな商家の次女として生を受けたメーネは、友人の駆け出し薬師を主な仕入れ先とする契約を交わし、親の出資を受けて、この軽薬販売店を営んでいた。
年齢や性別を理由に、当初は閑古鳥が鳴いていたこの店も、女性の入りやすい華やかな内装やメーネ自身の真面目な人柄、薬の種類の豊富さや確かな効能などが口コミで広がり、今では、少なくとも赤字にならない程度の顧客を得ている。
そんな開業から数年後の、ある日のこと。
夕方から夜に変わろうかという閉店間際、彼女の店に一人の不審な大男が足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
メーネが反射的に定型文を口にするも、大きなフード付きマントで自身の姿をすっかり覆い隠した男は、入り口に立ち止まったまま無言で彼女を見つめるのみだ。
「あの、お客様……?」
様子のおかしさにメーネが軽く首を傾げれば、男はようやく、ゆっくりとした動作で顔にかかるフードを後方へと落とす。
「っひ!?」
そこに現れ出でた容貌に、細い喉から思わず小さな悲鳴が漏れた。
円やかな三角形に近い下膨れの頭部に、ブヨブヨとした血色の悪い肌。
しかし、それを覆い隠す毛はどこにも存在していない。
いや、髪どころか眉も睫毛もなく、完全に全てが陽の下に晒されている。
落ち窪んだ目は極端に小さく、また黒眼がちでどこを見ているかも不明瞭。
鼻は大きくU字の形に垂れて、上唇に重なっている。
への字にだらしなく開かれた当の唇は肉厚で色味が薄く、しかし、裂けているかのように横広で大きい。
怯えるメーネに気付いているのかいないのか、男は拙く訛る低い声を途切れ途切れに響かせ始めた。
「あ、オラぁ、その……肌がいつも、ジリジリして。
ここに良いクリームがあるってぇ、噂、聞いて……」
「っえ、あ…………あぁ」
恐れに鈍る脳みそで、しばし遅れてメーネが男の主張を理解する。
刹那、彼女の販売員としての誇りが感情を上書きし、急速に顔付きが引き締まった。
「大変失礼いたしました。
お客様、もう少し詳しく症状を伺ってもよろしいでしょうか」
「あっ、お、おぉ。頼んます」
頭を下げて非礼を詫びたのち、静かに客の元へと歩み寄るメーネ。
安堵したように小さく息を吐き出す男の姿を見れば、もう彼女のどこにも彼を怖れる気持ちは残っていなかった。
軽度とはいえ、仮にもここは薬屋だ。
広い範囲の火傷やケガの痕に悩む顧客もメーネは少なからず相手にしてきている。
そうした過去の経験もあって、薬を必要とする者に対し、その見目で態度に優劣をつけるような考えは彼女の中に育っていなかった。
「お客様のお悩みに合致する商品として、まずはこちら、馬油クリームになります」
「ばぁゆ?」
「はい。馬油は人の油脂に最も近い馬から採れる油で、浸透力が高く保湿性に優れているんです。
乾燥しがちな肌をお持ちの方や炎症のある方にお勧めさせていただいております。
ただし、こちら使用期限が短くなっておりますので、購入の際はご注意ください」
薬師ではないので製法にはノータッチだが、責任感の強いメーネは自らの店舗で扱う薬について、その全ての効能や特性を把握している。
「ええと、よく分かんねぇけど、じゃあ、ソレで」
「いえ、お客様。お待ち下さい。
最も効果が見込まれる物として先にご紹介させていただきましたが、原材料の馬油は他領からの輸入品でお値段が少々割高となっておりまして」
「えっ。あ、あぁ、確かに、他より高ぇ、かな」
手の動きで促され、同じ棚に並ぶ別のクリーム数個の値札を確認し、大男は小さく頷いた。
それを確認して、彼女は再び丁寧に言葉を紡ぎ始める。
「火傷など一時的な利用であれば問題にならない程度ではありますが、お客様の場合、生来の肌質による症状で、定期的かつ半永続的な購入が必要であることを考えますと、少々効果を落としても日持ちが良くお買い求めし易い他の商品の方がご都合に沿う可能性もございます。
もし、腕をお貸しいただけるなら、いくつか候補のクリームや薬液を少量ずつ塗布いたしますので、諸々比較した上で、ぜひ納得のいく品をお買い求めいただきたく……」
「は、はぁ。手間ぁかけます」
「いえ、私、これが仕事ですので」
顧客一人一人の事情を考慮した彼女の接客術は、そのまま高い満足度に繋がり、必然的に売り上げ重視の他の店舗よりもリピーターの割合が多くなっていた。
まぁ、それでも、細かいことなどどうでもいい、説明を聞くなど面倒だと感じる人間は、他店に流れていくのだが。
「私、店主兼相談販売員のメーネと申します。
当店の商品について、何か不備や不安、疑問点などございましたら、いつでもお声かけくさだい。
それでは、ドニカカさん。本日は、ご来店ありがとうございました」
「い、いやその、こっちこそ、助かった、です。どうも」
ちなみに、お客『様』からドニカカ『さん』に敬称が変わっているのは、この国の貴族特占法によるものだ。
平民が名に様と付けて呼んでいいのは貴族が相手の場合のみで、客の正体が知れぬ内は可能性がゼロではないということでお客様と呼称するのだが、立場が平民だと明白になった時点でそれが使えなくなり、メーネの場合に限っては名前にさん付けで呼ぶようにしている。
ただし、接客というものを意識しているのは本来、貴族も訪れるような大店ぐらいだ。
彼女が営んでいるような小売り店では、基本的に客相手だろうがお構いなしに砕けた会話がなされている。
もちろん、中にはメーネの態度が丁寧すぎて落ち着かないと軟化を求める者もいるが、いかにも大店経験者といった余裕ある佇まいは、一定の安心感や信頼感にも繋がっていた。
ついでに、そこそこ美人で清潔感があり行き届いた気遣いの出来る彼女であるので、当然ながら男性の顧客に恋愛的な意味で惚れ込まれることもある。
しかし、普段の言動から如何にも出自の良さが滲み出ており、結果として、身の丈に吊り合わぬ高嶺の花と本人の知らぬ内に諦められているパターンが多かった。
ただ、自己肯定感が底辺をさまよっているドニカカに関しては、仕事熱心な好い人だったという所感を抱きつつも、自分のような醜男の相手をさせて悪かったなという申し訳なさばかりが胸に圧し掛かっていた。
とはいえ、営業時間を超えてまで彼女と話し合い選び抜いたクリームの具合は大変良く、以後、それがなくなる頃合い、約三週間に一度のペースで店を訪れることになるのだが。
「いらっしゃいませ」
「ど、どうも」
ドニカカはいつも、閉店間際の夕方にメーネを訪ねた。
なぜなら、これが最も人通りの少ない時間帯だからだ。
買い物客や子供は夕餉の支度を前に帰宅しており、仕事人が職場から姿を現すにはまだ些か早い。
そんな短い隙を狙って動いている。
自分のせいで通りすがりの無関係の人間を不快にさせるのも心苦しいし、何より己の如き不審者が店の常連だと広まればメーネが気の毒だと、そんな風に考えているのだ。
まれに店内に他の客がいた場合は、中に入らず建物の陰に隠れて待ち、それが閉店時間を超えるようならば、何も買わず帰宅することすらあった。
当然といえば当然だが、メーネもドニカカが人目を避けている事実には気が付いていた。
敢えて理由を尋ねなかったのは、来店初日の態度からすでに察するものがあった故だ。
あれだけの巨体であれば、理不尽な誹りから自棄になって人道を踏み外し、ならず者と化すのは簡単であっただろう。
しかし、彼はただ一方的に打たれ続けて、独り心身に傷を負いながら生きることを選んだのである。
臆病な小鳥に等しいドニカカがどれだけ勇気を出してメーネの店を訪れたのか、そんな想像を膨らませれば、店員の立場を除いた彼女個人としても、彼を邪険に扱おうなどとはとても思えたものではなかった。
「コレ、ここに置けばいいのか?」
「きゃっ」
「あ、すまねぇ。重そうだと思ったら、つい。
オラなんかが触ったら、汚れて使い物にならなくなっちまう、よな」
ある月末、メーネが店内高所に保管していた商品の在庫数を確認すべく、木箱を抱え降ろそうとしている場面に出くわしたドニカカ。
どこか危なっかしい動きを見て、考えるより先に彼女から箱を取り上げていたが、直後、小さな悲鳴を聞いて我に返り、彼は申し訳なさそうな顔付きで謝罪の言葉を口にする。
メーネが驚いたのは、ドニカカの接近に気付いていなかったからであり、そこに他意はない。
しかし、彼の発言からは、常日頃、ドニカカがどんな扱いを受けているのかが透けて見えるようで、メーネは反射的に否定の声を上げていた。
「そんなことはありませんっ!」
「お」
「あ、ごめんなさい。大きな声を出して。
でも、本当に汚れるなんて有り得ないですから。
そもそも、商品は木箱の中に入っているわけですし。
だから、ありがとうございます。助かりました」
しおらしいセリフとは正反対の力強い瞳で、メーネはドニカカを見上げている。
信じて欲しいと、そう主張するような彼女の表情を受けて、ただ彼は困惑し、たじろぐことしか出来なかった。
「え、あ、おう。なら、その、いいんだけども、よ」
こうした些細なきっかけを幾度か繰り返して、店員としての矜持だけではなくメーネ自身が優しい人なのだと徐々に理解していったドニカカ。
やがて少しずつ彼の中の恐れや緊張が薄れて、必要最低限のみの会話から、雑談らしきものを口に出せるようになっていく。
「ま、前から気になってたんだけども。
その目につけてるキラキラしたのは、いったい何だ?」
「あ、コレですか?
コレは、海の向こうの大陸から取り寄せた眼鏡という魔道具なんですよ。
柄の部分に魔文式が刻んであって、このクリスタル部分ごしになら、目の悪い人でも良い人と同じ綺麗な風景が見えるんです」
「へぇ。世の中にはスゲェ物があるんだなぁ」
己の質問に対し、相手から笑顔で答えが返ってくる。
たったそれだけで、ドニカカは人生で最大級に大きな幸福を感じていた。
メーネの前でだけは、醜く愚鈍な化け物などではなく、何の変哲もない人間なのだと信じることができた。
同時に、メーネも明らかになっていくドニカカ本来の性質を微笑ましく見守っていた。
彼は己を否定され続けながら、その全てをただ受け止め、そして、反対に自身以外の全てを肯定する。
知識に乏しく子供のように純粋で、けれど無邪気ゆえの残酷さなどはなく、ひたすら善性を保っているのだ。
「あぁ、弱ったな」
「ドニカカさん? お店の前でどうしたんですか?」
「お、あぁ、メーネさん。いやその、猫が足に引っ付いて」
「まあ」
「今朝は猪を狩ったから、その臭いが残ってたかな。
ぜ、全然離れねぇ……参ったな」
「一度抱き上げて、その辺に放してあげれば良いのでは?」
「うんん。小さくて柔こいから、下手に掴むのも怖くてよ」
「あら、ふふ。そういうことなら、私がやりますよ。
少しそのままでいてくださいね」
「……すんません」
「ほら、おいで子猫ちゃん。この人は私のお客さんなの。
遊びたいなら、また今度にしましょうね?」
接客中とは異なる、柔らかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべ甘く囁くような声で猫へと語りかけるメーネに、ドニカカは思わず見惚れ頬を朱に染める。
直後、彼は己の立場を顧みて、小さく首を横に振った。
彼女は不可侵の女神であり、心を寄せることなどあってはならないと。
そして、次の三週間後。
身に余る想いの天罰のように、メーネの店の扉を開こうとした刹那、ドニカカはガラの悪い三人組の青年に絡まれてしまう。
そのまま人目につかぬ裏通りへと連れられて、彼は木の棒や石などの凶器でもって徹底的に痛めつけられた。
ブ男は営業妨害、化け物がメーネに近付くな、などと悪意だらけの忠告と共に。
時が過ぎ、三人組が完全に去ったことを確認してから、ドニカカは満身創痍となった巨体を起こし、ゆっくりと表通りまで戻っていく。
すると、偶然にも閉店作業のためドアからメーネが姿を現し、ちょうど路地から躍り出たばかりの彼と視線が合ってしまった。
愛用している大きなフード付きマントはあちこち引き裂かれており、現状、醜い顔も傷も隠しきれてはいない。
一瞬の驚きの後、彼女は顔色を真っ青にして、すぐさまドニカカの元へと駆け寄った。
「ドニカカさん、大丈夫ですか!?
あざがこんなに出来て……どうして、いったい誰にやられたんですっ」
「あ、あぁ、ちょっと、な。
問題ねぇ。軽く小突かれただけだ」
ドニカカはメーネの問いを拙くはぐらかす。
例の青年たちを庇っているわけではない。
彼らの言葉を最もなことだと納得してしまったからだ。
だからこそ、それを彼女本人に伝えるのは憚られた。
「ウソ。問題ないワケないじゃあないですか」
「ほん、本当だ。オラぁ、丈夫なだけが取り柄だから」
「いいえ、治療院に行くべきです。私、連れ添いますから」
「や、オラ、この顔だしよ、他の患者の迷惑になっちまう。
なに、唾でもつけてりゃあ治るからよ」
「…………だったら、せめて私のお店で手当てさせてください。
これ以上は、軽薬販売員の立場としても譲れません」
「あー……なら、その、世話んなります」
メーネが治療院へ連れて行くことを諦めたのは、ドニカカの言葉と正反対の想像に至った故である。
彼が他の患者によって、追い打ちのように心まで傷付けられてしまう可能性に気付いたのだ。
一方で、ドニカカは三人組の罵倒もあり、彼女の善意の申し出を断りたかったのだが、結局、眼力の強さと己の太い手首を掴む僅かに震える細指に逆らえなかった。
「……やり返したい、とは、思わないんですか?」
「へ?」
店の奥の居住スペースに連れ込まれたドニカカが無理やり裸同然の姿に剥かれ、羞恥に耐えながらも、そのまま手際のよい治療を受けていた所、ふと、真剣な表情をしたメーネから物騒な問いを投げかけられる。
「ドニカカさんは、体格も大きいし、かなり力がありますよね。
稀に狩りもやっているということは、戦う術もある程度は会得しているんでしょう?
人から酷い仕打ちを受けないためにも、それを利用しようとは考えないんですか」
彼の手足に反撃の痕跡はない。
また、傷の状態からも、一方的に暴行を受けたであろう事実は明白だった。
ドニカカの性格は把握しているが、それでもメーネは彼の現状がもどかしくて堪らない。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、彼はヘラリと緩く笑って、こう答える。
「いやぁ、うん。オラ、そう、昔っから力だけはあるから、よ。
それを振るっちまったら、相手にどんなケガさせちまうか知れねぇし。
痛いのも、怖いのも、よくねぇことだろ。
オラは、ホラ。デカイし、鈍いから、いいんだ、別に」
「そんな……」
反論はいくらでもあったが、メーネは口を噤んだ。
彼の表情には根深い諦念が滲んでおり、今、自分が何を言ったところで届きはしないだろうと感じたからだ。
「あの……手当て、終わりました。
もう服を着ていただいて大丈夫ですよ」
「あぁ、うん。助かった。ありがとう、メーネさん」
ドニカカは短く礼を述べ、彼女に背を向けて、あちこち破けたシャツとズボンを手早く身に着ける。
その間、部屋の奥へ向かい再び戻ってきたメーネの腕には、濃灰色の大きな布が掛けられていた。
「良かったら、この外套使ってください」
「えっ?」
彼女は布地の肩にあたる部分を指で掴んで高く掲げ、ドニカカへと全体像を見せつける。
「以前に父が忘れていったものなんですけれど、どうせ、あの人は似たような品を沢山持っているだろうし、そのまま貰っていただいて構いません。
裾は少し短いかもしれませんが、父は恰幅が良いタイプなのでドニカカさんでも着れると思います」
事情を口にしながら、サイズを確認するように、彼の巨体へ広げた外套を当てるメーネ。
対して、ドニカカはとにかく恐縮といった表情で、頭を横に振っていた。
「い、いや、そんな、こんな上等な……オラ、貰えねぇ」
「そうですか?
では、お貸しするということで、またご来店いただいた時にでもお返しくだされば」
「でなくて、あの、オラなんかが着ていいような代物じゃあ」
「ドニカカさん。
そんな全身ボロボロの姿で歩けば、通りすがりの方に何事かと思われてしまいますよ」
「うっ。た、確かに……?」
指摘を受け、ハッと視線を下げてみれば、みすぼらしく破れた服の隙間から、包帯諸々が施された血色の悪い肌が覗いている。
しかも、今はすでに夜にかかる時間帯だ。
このままフラフラと出歩けば、顔面の効果も相まって、いかにも墓場から這い出た怪物のように見えることだろう。
状況を正しく把握すれば、さしもの彼も、観念するより他はなかった。
「じゃ、じゃあ、えと、申し訳ねぇけど」
「はい、どうぞ」
覚悟を決め、ドニカカはおずおずと上質な灰の外套に手を伸ばす。
取ると同時にメーネに促され、そのまま遠慮がちに羽織ってみれば、傷付いた体がすっぽりと厚い布に覆われ隠れた。
我知らず、安堵の息を吐くドニカカ。
醜い己の姿を町中で晒しているのは、自己肯定感の低い彼にとって、やはり落ち着かないことだったのだ。
「あ、今度、その、礼します、今日の、何か」
三人組に店の迷惑だ何だと散々言われはしたが、ここまで恩を受けておきながら黙って距離を取るなどというのは、さすがに心苦しいドニカカである。
だから、彼は、せめて最後に何か自分に出来る精一杯を返して終わろうと思った。
メーネならば、ドニカカが気持ち悪いという理由で礼の品を拒否されもしないだろうと、そうした信頼も重なっていた。
「うーん。普段なら遠慮するところなんですが、ドニカカさんのお礼がどんなものなのか少し気になるので……。
はい、分かりました。楽しみに待っていますね」
どこか少女じみた悪戯な笑顔で、メーネが頷く。
途端、己の鼓動が急激に高鳴るのを感じたが、彼は敢えてソレに気が付かないフリをして、無言で深く頭を下げてから軽薬店を後にした。
そんな出来事から、ほんの数日が経過した、とある早朝。
メーネは三日に一度の習慣として、契約薬師である友人宅へ向かっていた。
調薬時の利点を言い訳に薬師女性は昼夜逆転の生活を送っており、互いの都合を考えた際、早朝が最も良いだろうという結論に至ったのだ。
そこでは、顧客の感想を共有したり、ニーズに沿った改良案を話し合ったり、公表された新薬について議論を交わしたり、扱いに注意の必要な商品をメーネが直接受け取ったりと、より良い経営のための打ち合わせ諸々が行われている。
しかし、この日……メーネが友人の元へたどり着くことはなかった。
「んん! んんんんん!」
「あーあ。俺ら差し置いて、あんなブ男誘うとかさぁ、頭イカレてんじゃねぇの?」
「アッチがデカくねぇと満足できねぇってか、この糞ビッチ女がよぉ」
「俺らのプライド傷物にしてくれたお返しに、テメェもブッ壊してやんよ」
ドニカカを襲った三人組の青年たちが彼女を拉致したからだ。
理由は単純。
怪我を負ったドニカカをメーネが気遣い、店に招き入れる場面を彼らは目撃していた。
自分たちに靡かなかった女が、醜く愚鈍な男と懇意にしているのが気に食わなかったと、そういうことらしい。
彼らは彼女を攫って慰み者にし、更にその後、店を徹底的に破壊して、留飲を下げようとしている。
青年三人が貧民街の隠れ家へメーネを連れ込むまでの手並みは鮮やかで、常日頃からこの様な凶行を繰り返しているであろう事実は明らかだった。
メーネも防犯用の魔道具はいくつか持ち歩いていたが、使う間もなく後手に拘束され、つい先ほど服を短剣で裂かれる過程で全て見つかり破壊されてしまっている。
「へへ。歯ぁ全部折って咥えさせようぜ」
「またかよ。お前ホントそれ好きね」
「やるなら先にこっち入れさせろよ、痛みで肉がいい具合に締まっからよ」
「んんんんーーーーッ!」
不穏なやり取りを耳にしたメーネが必死に身を捩るが、太い縄は強固に結ばれており解ける気配がない。
いよいよ悪魔たちの手が彼女の肢体に伸びようとした、その瞬間……。
「っメーネさん!?」
「あ?」
そこに場違いな巨体、ドニカカが飛び込んで来た。
「チッ」
「アイツぁ」
「んんんんん?!」
これは偶然のことだが、本日は雑貨屋への木材納品日である。
常であれば足早に森の自宅へと帰還するところ、今日に限ってはメーネへの謝礼の品をどうするかと、参考になりそうな何かを求めて町中を散策していた。
普段なら南東の商業地区に住むメーネと出会うことなど有り得ないが、三人が彼女を連れ込んだ貧民街は森に近い北西側に位置したため、彼が彼女の声を聞きつける奇跡が起きた、というわけである。
それでも、猿ぐつわをされた状態でのくぐもった叫びなど、通常、人の耳に届くものではない。
だが、ドニカカの聴覚が特に優れていたことと、静かな早朝の時間帯であったことが幸いした。
メーネは道中、何度か暴力を振るわれながらも果敢に助けを求めて喉を震わせており、ドニカカはそんな彼女の声を追って、たった今、ようやくこの隠れ家を探し当てたのだ。
「……っは。何だお前、一人か?」
「悪ぃけど、ブ男はお呼びじゃねぇんだよ」
「図体だけのウドの大木が。この前さんざ俺らに教育されたの忘れたかぁ?」
想定外の闖入者へ即座に得物を構え警戒態勢を取る三人だったが、相手がドニカカ一人であると知るやいなや、一転して調子付き、口々に悪態を吐く。
しかし、彼らの言葉はドニカカの耳を素通りしていた。
真っ先に視界に映った衝撃的な光景が、彼の意識を独占していたからだ。
服を切り裂かれ裸同然の格好で緊縛された、頬や腹に痛ましい痣をこさえ髪を乱して涙ぐむ、憐れなメーネの姿が……。
「っお、オメェ……オメェら…………メーネさんに何したあっっッ!?」
怒りに身を震わせたドニカカが、大地すら揺るがす激しい咆哮を上げる。
だが……。
「バぁカが。大声程度でビビるかよ」
「俺らがテメェみてぇなマヌケ野郎をどんだけ処分してきたか分かる?」
「ははっ。吠えるだけならガキでも出来るってなぁ」
青年三人は彼の叫びを笑い飛ばして、直後、各々武器を手にドニカカへと襲い掛かった。
ほんの僅かにタイミングをずらしつつ、男たちは三方向から長さの異なる凶器を突き出す。
玄人はだしの巧みな連携技だ。
彼らは誘拐の目撃者となったブ男を完全に殺害するつもりでいた。
「んんんーーーーっ!」
未だ塞がれたままのメーネの口から、籠った悲鳴が響く。
そして、次の瞬間に起こった現象を、彼女は正しく認識できなかった。
三人の男たちが突如として宙を舞っていたのだ。
「んんっ!?」
森の深淵で凶悪な獣を相手取って来たドニカカにとって、人間の動きは鈍く、また、軽かった。
彼は迫る攻撃を最小限の動きでいなして、その太ましい腕の一振りでまとめて薙ぎ払ったのである。
それが一秒にも満たぬコンマ単位の出来事であったため、メーネの一般的な動体視力では追えなかった、というわけだ。
三方の壁に各々叩き付けられた男たちが気絶しているのを確認して、ドニカカは肩掛け鞄から常に持ち歩いていた借り物の外套を取り出し、メーネに被せる。
次いで、口に噛まされた布を外せば、彼女が潤む瞳で巨体を見上げた。
「あ、ありがとうございます」
「いや。あー、えっと、な、縄も切りてぇから、背の方に回るな。
ちょっと触っちまうかもしれねぇが、その、大丈夫か?」
「はい、お願いします」
視線をあちこち泳がせながらドニカカが問えば、メーネは僅かの躊躇もなく頷いた。
それから宣言通り彼女の背後に移動した彼は、外套の合わせ目を回転させて、そこから覗く厳重に縛られた細い腕に手を伸ばす。
「…………すまねぇ。
オラ、グズで、こんなになる前に、間に合わなくて」
縄の切断される音の合間に、沈痛な声色の謝罪が響いた。
白く華奢な背に、硬い床に突き飛ばされた際に出来た青あざや、抵抗し暴れたことによる擦り傷が目立っていた。
彼の後悔に対して、メーネは何度も首を横に振る。
「ドニカカさんがいなければ、この程度では済みませんでした。
本当に……感謝の言葉もありません」
「……そ、そうか。そうかな」
素直に受け止めきれない様子のドニカカへ多少やきもきしつつも、彼女は今そんな問答で時間を無為にしてよい状況ではないと思い直し、別の話題を口に乗せた。
「この人たち、しょっちゅうお店に来ては、商品も買わずに居座って、やれデートしようだとか食事に行こうだとか、しつこく誘ってくる困った男性グループだったんです」
「え?」
「毅然とした態度で対応していれば、その内に飽きていなくなるだろうと思っていたのに、まさかこんなことになるなんて……。
ごめんなさい。私の認識が甘かったせいで、ドニカカさんに迷惑を掛けてしまって」
ドニカカの位置からは顔こそ見えないが、メーネが落ち込んでいるのは明らかだった。
「っそんな、謝らないでくれ。オラが勝手に飛び込んだだけだろ」
「勝手に、だなんて。ふふ、こんな時まで謙虚なんですから……もどかしい」
「へっ?」
間もなくして、無事に拘束から逃れたメーネは、まず男たちから服を奪い身に着け、ドニカカと共に隠れ家を軽く捜索して、発見した予備の縄で彼らを一纏めに縛りあげた。
全身満遍なく雁字搦めにしたので、見張りを立てずとも大丈夫だろうということで、二人は足早に貧民街を後にする。
自己肯定感の低いドニカカは、道中、痛みに呻く彼女に手を貸そうとも言えず、ひたすら黙って歩いていた。
「暴力の証拠に治療院で診断書を貰って、あの人たちを警邏に引き渡して……傷のこともあるし、お店は数日休業かしらね」
ふう、と愁いを帯びた溜め息を吐くメーネ。
知識にも乏しいドニカカは、ただ心配そうな表情を浮かべて彼女に侍っているしかない。
「助けていただいたドニカカさんにも、何かお礼をしないといけませんね。
急なことで用意はありませんが、よければお店の品をどれでも……」
「いや、オラぁ必要ねぇです」
「そんな。これだけお世話になっているのに、タダではとても帰せません」
「なら、この間の治療の礼と引き換えってことで」
「ええ?」
「怖ぇ思い、させといてよ。物貰っても、オラ、逆に申し訳ねぇから」
「…………分かりました。ドニカカさんが、そうおっしゃるなら」
頑なな彼の反応に、無理に気持ちを押し付けたところで何の謝礼にもならないだろうと冷静に判断をくだしたメーネは、ここでの主張を一度引き下げる。
ただし、完全に諦めたわけではなく、今後、客として訪れたドニカカに少しずつ様々なサービスの形で返していこうと考えていた。
まさか、以降、彼の来店が全くなくなるなどとは想像だにせずに……。
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そして、拉致事件から約半年後。
「待って、ドニカカさん!」
早朝。最も森に近い町の出入り口で、大きな全身をマントで隠した不審人物は、眼鏡をかけた若い女性から唐突に声を掛けられた。
「……メーネ、さん?」
めっきり店に顔を出さなくなったドニカカを気にして、メーネは過去に雑談で知り得た情報を元に、彼を待ち伏せしていたのだ。
「お久しぶりです……じゃなくて。
あの、どうしてお店にいらっしゃらなくなったんですか。
もしかして、うちの商品で何か問題が?
それとも、やっぱり私のせいで面倒事に巻き込まれたから……」
矢継ぎ早に言を紡ぐ彼女へ、ドニカカは焦ったように首を振り、否定した。
「あぁ、いや、違うんだ。すまねぇ、誤解させちまったみてぇでよ。
アンタを嫌な気分にさせたくなかっただけなんだ」
「え?」
ソレは完全に予想外の答えで、メーネは理解が及ばず言葉をなくす。
「あー、その、オラはメーネさんを助けただろ。
けども、大体はよ、言われんだ。
オラに恩人ヅラされるのは気持ち悪ぃモンで、思い出したくねぇから二度と顔を見せるな、って。
あん時、アンタは感謝してくれたけど……時間が経ったら、やっぱり、ってことも、あるんじゃねぇかって」
「っ有り得ない!
どうして良いことをしたのに、そんな酷い扱いを受けないといけないんですか!」
ドニカカの受けてきた仕打ちに対し、彼女は憤慨した。
妙な疑いをかけられた事実も悲しかったが、彼がそんな考えに至るような人間になったのは、これまでの経験が重なってのことであり、そこを責めようとは思わなかった。
過去の人物へと怒りを向けるメーネに、ドニカカはどこか寂しさを含んだ笑顔を見せる。
「……あぁ。アンタは、優しい。そんで、正しい人だ。
だけども、オラにこれ以上、そうある必要はねぇ」
「っどうして」
穏やかな拒絶を受けて、彼女は反射的に理由を問う。
「オラはな、嫌われてるのが普通だ。
だからよ、花みてぇな娘さんに、あんまマトモに扱われると、うっかり惚れちまいそうになってよ」
「ほれ……え……っえ?」
唐突に彼のイメージとそぐわぬ単語が飛び出して、メーネの脳が困惑に揺れる。
「な、気持ち悪ぃだろ?」
「っ違、そんなことありません!」
苦笑いと共に吐き出された同意を求める問いかけは、一瞬で彼女に冷静な思考を取り戻させた。
即座に否定を返すメーネだが、ドニカカの表情は暗い。
「……迷惑、かけたくねぇんだ。
オラのこたぁ、もう放っておいてくれねぇか」
「でも、私、本当に……っ!」
更に声を重ねるも、彼の心に届くことはなく、巨体は本来の目的地を思い出したかのように、両の足をゆっくりと動かし始める。
「ドニカカさん!」
「メーネさんは、オラをちゃんと客として扱ってくれてよ。
そんで、買えたクリームの具合も良くってよ。
助けになれれば、感謝の言葉だって、いっぱいくれてよ。
久ぁしぶりに、いい気分だった……ありがとうな。
そんじゃあ」
「まっ……待って、待ってくださいッ!」
メーネがどれだけ懇願しても、ドニカカの歩みは止まらなかった。
やがて、彼が道を曲がり、背に負う納品物の木々すら見えなくなっても、彼女はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
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「ドニカカさん、こんにちは」
「なっ、メーネさっ、な、んで」
そして、最後の邂逅から約二ヶ月。
以前と同じ場所、同じ時間帯に、再びメーネはドニカカを待ち伏せ、声を掛けた。
すっかり彼女との縁は切れたものと思い込んでいたブ男は、目を白黒させて戸惑っている。
「貴方に放っておいて欲しいと言われてから、私、毎日すごく悩みました、迷いました。
そうして、考えて、考え抜いた末に、決めたんです」
「決めた?」
ドニカカは頭上にいくつも疑問符を浮かべた。
セリフ通り、彼女の瞳には強い意志の光が宿っている。
目の前の女性がいったい何を考え、何を言おうとしているのか、彼には欠片の予測もつかない。
「出過ぎた真似だとは分かっています。
でも、私は認められない、認めたくない。
すごくちっぽけな、普通の人の普通のことが、貴方の人生における幸せであるなんて」
「ええと……」
「そんなの、あんまりにも哀しすぎるじゃあないですか。
ドニカカさんは、謙虚で優しくて、善良を絵に描いたような人で。
だったら、ちゃんと幸せにならないとウソじゃあないですか」
「……メーネさん。気持ちは、その、ありがてぇけどもよ」
「結婚しましょう」
「ホァッ!?」
「私が貴方を絶対に幸せにしてみせます。
だから、結婚してください、私と」
まさかのプロポーズであった。
完璧に寝耳に水状態のドニカカ。
彼は全身を小刻みに震わせ焦り倒しつつも、メーネの極論を窘めるべく分厚い唇を開く。
「ま、まま待つんだ。同情なんかで自分の人生をドブに投げ捨てちゃあいけねぇ」
だが、相手は二ヶ月かけて理論武装してきた商人女だ。
その場で思いつく程度の異議など、よもや通るわけがない。
「大丈夫です、ちゃんと私も一緒に幸せになります。
あまり自覚はありませんが、己の未来を全て捧げてでも貴方を幸せにしたいと思ったのなら、それはもう好きってことなんじゃあないでしょうか?
だったら、問題はありませんよね?」
「えええ?」
「貴方は以前、優しくされたら惚れてしまうと言いました。
だとすると、私、これから沢山ドニカカさんに優しくする予定なので、もう両想いは確定ということになります。
つまり、順番は少し前後しますが、何も問題はないですよね?」
どうも、相手が冷静になる前に畳みかけようとしている節のあるメーネ。
さすが大商人の娘、ここぞという時の押しが強い。
「いやいやいや、待て、しかし、その、アレだ。
結婚ってことは、夫婦になるってことで、つまり、こう、触ったり触られたり、するんじゃねぇのか?
さすがにソレは気持ち悪ぃだろ? 無理だろ? な? な?」
ドニカカ、必死である。
しかし、これは完全な悪手だった。
彼は気付いておくべきだったのだ……初来店から平然と腕に触れてきた彼女が、傷の手当てに服を剥いで薬を塗り込むメーネが、今更、その程度の覚悟を必要とするわけもないのだと。
つまり、発した当人の思惑とは裏腹に、現実、ただただ盛大に墓穴を掘ったに過ぎない。
「分かりました。不安があるなら、今すぐ検証しましょう」
「へ?」
「ドニカカさん、ちょっと屈んでいただけませんか?」
「えっ。あ、あぁ。こんぐらいか?」
不穏な空気を感じながら、なお素直に従ってしまう辺り、この男の人の好さは筋金入りだ。
「はい、少しそのままで我慢してくださいね」
「構わねぇけど、いったい何……を……」
直後、二人の間に小さなリップ音が響く。
「うん。大丈夫でした」
「……っだぃ!?」
さすがに無断で唇は非常識かと、メーネは血色の悪い彼の頬へキスを贈った。
彼女の思いも寄らぬ行動に仰天したドニカカは、動揺から膝を震わせ、無様に尻餅をついてしまう。
「無理とも気持ち悪いとも思いませんでしたよ、全然。
ドニカカさんはどうでした?」
視線の高さが逆転し、背に太陽を負ったメーネが、しれっとした顔で襲った男に所感を尋ねるなどした。
「な、な、なんっ!」
「嫌、でした?」
「そんなことはねぇけども!」
悲しげな表情で重ねて問われ、うっかりバカ正直に答えてしまうブ男。
情けなく狼狽えるドニカカとは対照的に、攻める側のメーネは至って冷静沈着だ。
「め、メーネさん、アンタ、滅茶苦茶だ」
「自分でもビックリしていますよ。
貴方がそうさせたんです、責任を取ってください」
「うぅ……っ」
呻くドニカカ。
迫るメーネ。
……間もなく、雌雄が決しようとしていた。
「ドニカカさん」
「オラは、き、嫌われ者で、一緒にいたら、アンタにも迷惑が……」
「そんなもの、はねのけてやります。
私、これでも、多方面に伝手があるんですよ。
自分のために使おうとは思いませんでしたが、もし、今後ドニカカさんに迷惑をかけてくる輩がいたら、物理的にも精神的にも社会的にも追い詰めて、町にいられなくしてやってもいいと考えています」
「えっ。そ、そこまではちょっと……」
物騒な提案に、ちょい引きする善良なブ男。
微妙な反応をスルーして、彼女は最後の攻勢とばかりに彼の頬を自身の両手で包み、至近距離でつぶらな黒の瞳を捉えて語る。
「ドニカカさん。
不安があるなら、私が全て解消してみせます。
貴方はただ一途に私を愛していればいいんです。
それだけで、幸せになれるんですよ。
ねぇ? 簡単でしょう?」
実にカルト宗教の洗脳じみた告白である。
覚悟を決めた人間の凄みに圧されてか、この時、ドニカカの思考はほとんど停止しかけていた。
「ほら、頷いてください……ね?」
「………………お、おぅ」
促されるまま、ついに陥落してしまう巨キコリ。
彼の同意を耳にするやいなや、メーネは晴れやかな笑みを浮かべて、こう宣った。
「あぁ、良かった。
これからよろしくお願いしますね、ア・ナ・タ」
「ひょぇっ!?」
「そうそう。嘘でも夢でもない証拠に、婚約指輪をお渡ししておきます。
さ、はめてあげますから左手を出して?」
「何でもうそんなモノが!?」
赤くなれば良いのか、青くなれば良いのか、もうワケが分からないドニカカである。
こうして、虐げられし孤独なブ男と聡明な大商人の娘は、後日、一組の夫婦となるに到った。
夫となったドニカカは、ただひたすら妻を誠実一途に愛し続け、また妻メーネは当初の宣言通り、夫を幸福にするため生涯尽力し続けたという。
二人は一男二女の子宝にも恵まれ、主にメーネの手腕により実に順風満帆な人生を送ったそうだ。
また、仲睦まじい凸凹夫婦の存在は、いつしか大きな評判となり、やがて、彼らを理想の男性像女性像とした意識が町の若い世代を中心に広まっていったとか、いないとか……。
「……ねぇ、アナタ。
私、アナタをちゃんと幸せに出来ていますか?」
「ああ、メーネ。怖ぇぐらいに、な」
おしまい。




