地獄か、地獄
晴れた空は青く、雲ひとつない。
風は穏やかで、庭にある松の木を優しく揺らしている。
澄んだ大気を伝わってくるのは、鳥のさえずりだろうか。
爽やかな朝だ。
枕をかえされる事もないし、屋根裏部屋を走り回る足音に煩わされる事も、洗い立ての小豆をぶちまけられる事もない。
あたしの人生で、五指に入るくらいには平和な目覚めだった。
昨日の一件がなければ、踊りだしていたかもしれない。
「……名前は、いらないって、言ったのに」
気分は最悪だった。とんでもない勝利条件を突きつけてきた狐のせいだ。
脳裏に浮かぶニヤけた顔が苛立つ心に火をつける。
行き場のない怒りを、あたしは手短にあった枕にぶつける。
「……風花? 朝からどうしたの?」
ポスポスと枕を叩いているあたしを不思議そうな眼差しで見つめる少女に、ここがどこかを思い出した。
……そういえば1000年くらい時を越えたんだった。
そりゃあ、枕返しも、家鳴りも、小豆洗いもいるわけがない。平和なはずだ。
抱えた枕をそっとおいて、あたしは首を振る。晶を巻き込むわけにはいかないと考えた。
「ごめん。ちょっと夢見が悪かっただけだから、気にしないで」
正確には「夢渡りに失敗してとんでもない事になった」だけれど嘘はついていない。
けれど彼女は誤魔化されてはくれなかった。
たぶん、あたしの目に生気が宿ってなかったからだと思う。
「なにか、あったんだね」
疑問ですらない、ただの確認。
黒い瞳が宿す光は中々に鋭くて、言い逃れることを許してくれそうにない。
「ねぇ風花、この時代に不慣れがあなたが自分ひとりで解決できる事なら、私は何も言わない。けど私の目には、とてもそうは見えない」
気のせいかな? 小首をかしげる美人さんは、なかなかに目の毒だ。
しかも相手はパジャマである。なんだかイケナイ気分になってくるのは気のせいだろうか。
「……夢渡りを、したの」
見詰め合うこと数拍。あたしは負けた。
光速の手のひら返しだとか言わないでほしい。
ただ単に、あたしが根性なしなだけである。
それに、あたしの体の中には空狐が刻んだ呪がある。動かぬ証拠ってやつだ。
晶の力がどれ程のものかはわからないけれど、見る人が見ればわかるだろう。
何より、家に滞在させてもらっている身で隠し事は良くない気がする。
一つ屋根の下、共に暮らす人間を誤魔化しきれるほどあたしが器用ではない、ともいえる。
だから、素直に話した。
夢殿に呼ばれたこと。
そこから、おそらく異界と思われる場所に落ちたこと。
尾のない狐にあったこと。
うっかり名前を教えてしまったこと。
ちなみに晶はこのあたりで頭を抱えた。
わが身の事ながらあたしも頭が痛い。
でも本番はこの後だ。晶にはもう少しがんばってもらいたい。
「どうしてそういう条件になったの!?」
案の定、あたしの話を聞き終わった晶は叫んだ。気持ちはわかる。
「負けたら空狐のものになる。勝っても空狐の名前なんて厄介なものを知ることになる。どっちに転んでもダメじゃない」
そのとおりだ。もっと言ってほしい。
できればあの狐に届くように。
「あたしが何の力もないただの人間なら、狐の名前を知ったところでどうにもならないんだけどね。世の中そんなにうまくは出来てないってゆーか」
あたしに力がなかったら、あるいは、陰陽師として未熟であったなら、問題はなかった。
なんせ相手は上位のお狐様だ。名前を知ったからといってどうこう出来るお方ではない。
力を持たぬ普通の人間が、神の名を口にしたところで何も起きないのと同じように。
問題は、あたしに狐の血が流れている事。
そして、あたしが修行を終えて力の使い方を知った陰陽師である事、だ。
陰陽師の言葉には魂が宿る。
そして、異形の血は、同族に影響を及ぼす。いい意味でも悪い意味でも。
空狐に影響を及ぼす可能性を持つ陰陽師だなんて、最悪ではないか。
相手は狐の中でも上位の存在なのだ。うっかりでもなんでも名前を知ってしまえば、間違いなくブラックリストものだろう。
あたしが手に入れた名前をどう扱うかは関係ない。ただ知っている、それだけで消されかねない。
つまり。
あたしは、この勝負に負けたら狐のおもちゃ確定で、勝ったら命の保証はないというわけだ。
なにこの無理ゲー。
クリアできる気がしない。
「……ねぇ晶。あたし、安らかに死ねるかな?」
1000年先の未来で家族が暮らしているであろう方角を、あたしは死んだ眼で探す。
当然見つかるわけもなく、視線は虚空をさまようことになった。
「ちょっと風花、しっかりして。大丈夫、方法はあるから」
きっと。小さな声で付け加えられたその言葉を、あたしの耳はしっかりと拾う。
「きっと……そうね。きっと……きっと……川くらいは心穏やかに渡らせてくれるよね」
「やめよう風花。その思考は危険だと思う。言霊って本当にあるし、大丈夫って信じたらどうにかなる気がするの。だから前向きに生きる事を考えよ?」
どうしたら楽になれるのかな、と危ない方向に向かうあたしの思考を、晶は必死に引き戻そうとしてくれた。
肩をつかんで、前後に揺さぶって、ついでに耳元で必死に何事かを訴えている。
吐息すら感じられる距離に美人さんがいて、ものすごく目の保養だ。最期に見る光景としては上等なのではなかろうか。
「風花聞いてる? ねぇ聞いてる? 戻ってきて。大丈夫だから! 心当たりはあるから!」
現実逃避を決め込んだあたしの手を握りながら、彼女がどこかしらに電話をかける。
そうして、あたしは彼女のいう心当たりーー真言ちゃんを紹介された。




