お狐様は遊びたい
さっきまでの暗闇は何だったのだろう、と思うくらいの光があたしの目を焼く。
憎たらしい程に晴れた空には雲一つなくて、夏の海でも照らしてるのかってくらいに力強い太陽が浮かんでいた。
冬でも夜でもない不思議な空間に、平安貴族でも住んでそうな建物。
どうみてもこの世ではない場所にある部屋の中、あたしは神妙な顔で正座している。
「安倍もいよいよ教育者が足りなくなったのかい?」
あたしの目の前、しどけなく横たわり頬杖をついたお狐様は、呆れを隠そうともせずに息をついた。
銀の輝きを帯びた白い髪が床に広がって意味の分からない色気を醸し出しているけれど、今はそれどころじゃない。
あたしはひたすら小さくなるばかりだ。
「申し開きのしようもございません」
言い訳などできるはずがない。
生まれた時に与えられる真名は、一番身近で一番扱いやすい呪いだ。
それを力ある存在に握られるという事は、命を握られるに等しい。
簡単に教えて良いものではないと、子供でも知っている。
もちろんあたしも知っていた。
知っては、いた。
「ごめんなさい。あたしがポンコツなだけです」
うっかりとはいえ、あたしが名乗ってしまったのは事実。
相手が狐だったのは、なんというか幸運だった……という事にしたい。
安倍の家は、狐の家系だから。だからきっと、同胞枠でどうにかなる。
「ねぇ、目が泳いでるんだけど。まさか自分は安倍だから見逃してほしいとか考えてない?」
訳がなかった。知ってたけど。
なんでもない時にあたしを過去に飛ばす安倍の血は、肝心なところで役に立たない。
今こそ時間を遡る場面だろう。そうしたら、あたしは全力で5分前のあたしを止める。
「ものすごく考えてます!」
あたしはやけっぱちで叫んだ。
空狐だなんて相手が悪すぎる。太古の神にも匹敵する力を持ち、人とは違う理に生きる存在に太刀打ちできるわけがない。
みっともなくあがいて、どうにかなる次元ではないのだ。物語のような奇跡なんてそう簡単に起きるものではないと、あたしはちゃんと知っている。
正直にいうなら、もうどうにでもなれって気分だった。人生諦めも大切だと思う。
「うん、いいねぇ。素直な事は美徳だよ」
時には椿のような潔さも必要だ、と覚悟を決めたあたしを狐は笑う。
伸びてきた指先が、あたしの額に触れた。
「けど、すぐに諦めるのはいただけない。人間は少々みっともないくらいでちょうど良いんだから」
――トン。
そのまま軽く押されて、気が付けばあたしは床に転がっていた。
まったく力を入れたようには見えなかったのに不思議だ。
「ねぇ、かざか。ボクと遊ぼうか」
さっきあたしが口にした音であたしの名を呼びながら、彼が上にのしかかってくる。
正確な発音も漢字もまだとられていないというのに、逆らってはいけないと思ってしまうのだから、本当に相手が悪い。
「……遊ぶ?」
「そう。遊びだよ。ずっと退屈してたんだ。相手になってよ」
くつり、くつりと喉を鳴らし、眼を細めながら迫ってくる狐の色気はだだ洩れだ。
ついでに神気も垂れ流しで、あたしは大変息苦しい。
羽のような柔らかさで頬を撫でられて、背中がぞくりとした。
なんとなく、怒らせてしまった気がしなくもない。
このままではまずい事になる。そんな予感がした。
「キミが勝ったら、ボクの名前をあげる」
吐息すら感じられるほど近くで、琥珀がとろけた。
吹き込まれるのは、甘美な毒だ。蟲惑的な声に、頭がぼんやりとする。
何も考えられなくて、誘われるままに頷いてしまいそうになるのを、あたしは懸命にこらえた。
「空狐を従える機会なんて、そうそうないよ?」
あってたまるか、と思った。
本来、狐はヒトの手におえる存在ではない。
彼らは神に仕える神獣だ。人の身で使役するだなんて、おそれ多い。
信田の御方と相思相愛になったあたしの先祖がおかしいのだ。
人間ごときが安易に関わっていい存在ではない。
汝、その血を驕る事なかれ。謹みを持って生きよ。多くを望むべからず。
勘違いするな。狐の血を引いていても、お前がヒトであることは変わらぬ。
力に頼るな。己を過信するな。ヒトはヒト。それ以上を望めば破滅が待っている。
それは、安倍の家系に産まれた子が、その血を色濃く受け継いだ子が、真っ先に叩き込まれる言葉である。
「いら……ない」
気力を振り絞って、それだけを告げた。
あたしの頬をなでる手がピタリと止まる。
場を支配していた重苦しい神気が薄れ、奪われていた思考が動き出した。
この機会を逃せば、もう後はない。
お狐様があがけと言ったのだ。一度は諦めたけれど、諦めずに済むのならそれに越した事はないのだ。
「あなたの名と同等の価値を持つものなんて、あたしには思いつかない。だから、あなたのいう遊びには参加しないし、名前もいらない」
何の代償もなく神の遊戯に参加できるだなんて思っていない。
相手は名前を賭けると言ったのだ。こちらもそれ相応のものを用意する必要があるだろう。
けれどあたしには、そんなもの用意できない。
うかつに手を出せば、とんでもない事になるのは目に見えている。あたしだけじゃない。あたしにかかわったすべての存在が、だ。
自分だけならばいい。どんな結果になっても、アホな事をしたと反省して終わる話だ。
けれど、それに他者がかかわるならば話は違ってくる。
「見くびらないで。身の程くらい、知ってる」
頬に触れる手を振り払って、目の前にある琥珀を睨み返した。
狐は驚いたような顔であたしを見つめている。
薄い唇が、弧を形作った。
「へぇ」
その時感じたものを、あたしはどう表現したら良いのかわからない。
三日月を描く唇が、細められた瞳が恐ろしい。
まるで神話に出てくる8つの首を持つ蛇にでも睨まれたかのような気分だ。
……あ、死んだ。
本能的に感じた。
あたしは、今、死んだ、と。
人間、本気で死を身近に感じた時は思っているよりもずっと冷静になれるのかもしれない。
「すこし誘導しただけで簡単に名前を口にするから、もっと愚かな娘だと思っていたのに。キミおもしろいね」
十分過ぎるほど近くにあった美貌がぐっと近づいてくる。
湿り気をおびた吐息があたしの唇をくすぐった。
「ねぇ、やっぱり遊ぼうよ。条件は……そうだね。ボクが勝ったらキミはボクのもの。その代わりキミが勝ったら、逃がしてあげる。君の望む場所に還してあげてもいい」
拒否は、許されなかった。
圧倒的な力の差が、従う以外の選択肢をすべて消し去る。
「あたし以外には、手を出さないと約束するなら」
あたしに出来たことは、些細な条件を付け加えるだけ。
その精一杯の抵抗を、まるで予想していたかのように狐はやすやすと受けた。
「もちろん。ボクが欲しいのはキミだけだからね」
にっこりと満面の笑みを浮かべ、歌でも詠むかのように遊びの内容を告げる。
「ボクの名前を探してごらん。期間は10日。年が明ける前に見つけたら、キミの勝ちだよ」
体温の低い唇があたしのそれに重なって。
絡みつく息と共に呪が刻まれるのを感じた。
「これで、契約成立」
薄れ行く意識の向こう。
尾のない白狐が子供のように笑った。
実りの神子と恋の花もお読みいただいてる方にとっては、少し違和感がある回かもしれません。
ですが、それは「相手が違うから」です。もしもここに来たのが風花でなく晶だったら、また違う展開になるのです。




