少年と繋がり
先輩との決戦前日である。
「携帯電話を出して」
昼休み。トイレを済ませ、手を拭き拭きとやっている俺に、いきなりそんな声がかけられた。
ちょっと視線を下げると、そこには中見沢が腰に手を当て仁王立ちをしている。
「風紀委員にでもなったのかお前は」
眉根を寄せて難しそうな顔をしている小さき女に、思わず同じ表情になりながら俺は問いかけた。
うちの学校は校則上、携帯電話等の持ち込みは禁止になっている。
まぁなし崩しのなぁなぁな闘争を経て、一応授業中に鳴らさなければ教師達も黙認、という形にはなっているが、校則違反は校則違反である。
よって風紀委員が携帯電話の所持で一般生徒をしょっぴき、別室で別件についてネチネチと調べているという噂が、我が校内ではまことしやかに囁かれていた。
特に権力もなく、服装検査の度に駆り出される風紀委員にはいい迷惑である。
「違うわよ。良いから出して」
だが中見沢は俺の言葉の意味を察しつつもそれをさらり否定すると、こちらに向かって「ほら」と手を差し出した。
ペンを握ったり竹刀を握ったりしていたくせに、ふくふくとした柔らかそうな手である。
「わん」
衝動的かつ刹那的に手を重ねてみると、表面は少々硬くなっているが、ふにふにと押し返してくる弾力がある。
人間のくせに猫のそれのような感触である。
「……」
俺がその触り心地を堪能していると、気づけば中見沢が氷点下な瞳でこちらを見ていた。
この女本当に俺に惚れてんのかいな。
こういう場合は「やだ、私の手って肉球みたいだから恥ずかしい」とか照れる場面ではないのか。
「お前にはラブコメ適正が足りない」
「良いから退けてください!」
そんな不満も、中見沢の肉球は癒してくれる。
しかしそろそろ奴の爪がシャキンと伸びそうな気配を感じたので、俺はその手の上からお暇することにした。
「で、これがどうした?」
問いかけながら、お代の代わりに携帯電話を中見沢の手に乗せる。
ついでにもう一回手の感触を味わってみようと思ったのだが、奴はさっと手を引いてしまった。
「ロックは?」
「男はいつでもノーロック」
勝手に電源を入れられる間に尋ねられ、俺はニヒルに笑いながらそう答えた。
意味は特にない。
で、そんなノーロックな俺の携帯をぴぽぱといじった中見沢は、次に自分の携帯を取り出した。
幾分不器用にそれを操作すると、自分の携帯電話と俺のモノを突き合わせる。
聖なる学び舎でそんなふしだらな儀式をした後、中見沢は俺の携帯電話をこちらに突き返した。
「私のアドレス。登録しておいたから」
受け取った携帯電話を確かめてみると、確かに中見沢あげはの名前が登録されている。
な行なので奇しくも西暮雷花先輩(自宅)の電話番号の上だ。
あとでちびっ子とか肉球少女とか変えておこう。
それは置いといてしかし、何故中見沢は自分の連絡先を俺に渡したのだろう。
「深夜に素っ裸で散歩しろとか、脅迫メールを送れと?」
その意図がさっぱり分からず、問いかける俺。
もしくは中見沢にもやっと脅迫隷奴としての自覚が出てきたのか。
「ち、違います! 主に連絡するのは私!」
しかし中見沢は顔を真っ赤にし口調を敬語にし、そんな風に俺の希望的推察を否定した。
というか男子トイレの前で大声とか出すものだから、出てきた男子が硬直している。
「ちょ、ちょっと場所を移しましょう」
それを見て、中見沢はここが男子の社交場だと思い出したらしい。
奴は顔を赤くしたまま、俺に提案した。
「ほい」
もっともだと頷いた俺は、中見沢に手を差し出す。
「……何、その手は?」
「いや、こういう場合お手々引っ張ってくれるものかなと」
秘密の会合を見られた少年少女。
慌てた少女はついイケメンの手を握って走り出してしまい、正気に戻ってから「やだ私ったら」と頬を染めるのである。
そのようなドッキリハプニングを期待した俺だったが、中見沢はひっかからなかったようだ。
「貴方が二足歩行もできないぐらい退化したら、考えるわ」
奴は冷めた目でそう答えると、さっさと歩いていってしまう。
「お前にはラブコメ適正が足りない」
「いらないわよそんな物」
もっかいあの手の感触を味わう術は無いものか。
考えながら、俺は大股で歩く中見沢についていった。
ーーそれからしばらくして。
「ヒラク様。これはチャンスではないでしょうか」
中見沢の尻も見飽きてきた頃、背後に控えていた悪魔が、急にそんな事を言い出した。
トイレの時はなるべくこいつの存在を無視しているせいで、今まで後ろにいることを忘れていた。
「貧相な尻だが、触るなら確かにチャンスだな」
しかし急に話しかけられるのも、慣れたものである。
間違っても中見沢には聞こえないように、小声で返答する俺。
中見沢の尻はスカートに包まれているが、俺ぐらいの存在になるとその形状ぐらいは簡単に透視することができる。
奴の尻は体格通りの小振りぶりであり、揉むというよりはスカートをめくると共に冷やかしてやりたいような形状であった。
「いえ、そういった色ボケた話ではありません。明日の決闘を、彼女に手伝ってもらえば良いのです」
だが悪魔は中見沢の尻に興味がないらしい。
奴はピンと指を立てると、無駄に爽やかな笑みでそう言った。
しかしその目は底なし沼のごとき淀みっぷりである。
「手伝うって何を……。あの手で先輩をふにふにすれば良いのか?」
うんざりとした気分で、俺は肩を竦めた。
どうしてこいつは先輩と中見沢を絡めようとするのか。
「それも有効でしょうが、ただ後ろに立っていただくだけでも効果的です。彼女の姿を見ただけでも先輩様は戸惑い、本来の力を発揮できなくなるでしょう」
……いや、こいつが中見沢を使おうとするのは確かに当然だ。
目の前を歩く小振りな尻は、先輩の動揺を誘うという意味では最適すぎるものなのだから。
「ごめんこうむる」
だが俺は、そんな悪魔の提案をしっしと退けた。
「何故です? ここは何をしてでも勝たなければならないところなのではないのですか?」
問いかけては来ているが、悪魔の表情は落ち着いたものだ。
まるで俺の返答を予測していたような様子である。
確かにこの間、中見沢に謝らせてみてはと言われたときよりも状況は悪い。
それでも俺は、中見沢に頼る気にはならなかった。
何故かは自分でも分からない。
そも先輩に勝負を挑んだことと言い、最近の俺は自分でも分からないことだらけである。
「惚れているからではないですか?」
そんな右も左も危うい俺に、悪魔がぼそりと呟く。
「はっはっは、何をバカな!」
俺がこんなミニマムサイジングに惚れている?
そんな訳はない。あまりにだ。
ちゃんちゃらおかしくて思わず高笑いがでる。
前を行く中見沢の尻がびくりと震えた。
「惚れているから彼女を巻き込まず、傷つけずに解決したいなどと自惚れたことを思っているのではないのですか?」
「検事かお前は! 弁護士を呼べ!」
だと言うのに悪魔の奴は、まるでここが法廷かのように問いつめてくる。
我慢できなくなった俺は、思わず奴に向かって叫んでしまった。
「な、何? どうしたんですか!?」
おかげで中見沢が振り返ってあわあわと慌てだした。
「叫びたい年頃なんだ。気にしないでくれ」
「……この前の風邪が、脳にまで行っちゃったわけじゃないのよね?」
「脳がイっちゃってる訳じゃない。失礼なことを言うな」
心配しているんだか馬鹿にしているんだか分からない中見沢を宥め賺すと、俺は肩越しに悪魔を睨む。
「……お前は俺に何を言わせたいんだ」
そうして、殊更に小声で奴に尋ねた。
「いえ、事実確認をしておかねばと思っただけでございます」
すると悪魔は、涼しい顔でそんな風に答える。
「じじつかくにぃん?」
どうせ卑猥で下衆な好奇心だろう。
思いっきり胡散臭そうに見てやるが、奴はびくとも揺るがない。
「契約主の望みが不透明ですと、私もサポートが難しいもので」
お前が俺をサポートしたことなんぞ、数えるほどしかないではないか。
ツッコみたかったが、あらぬ方向を睨んでいる俺を中見沢が不審そうに見ているので、俺はそちらに視線を向け直した。
「で、どこまで行けばいいんだ?」
気づけば俺たちは、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下手前まで歩いてきてしまっている。
体育館の中ではバレーをやっているらしく、きゃいきゃいとした声が響いていた。
それを見ながらというのも乙だろうが、こんな所まで歩いてきた中見沢の意図とは外れるだろう。
おかげで悪魔とくだらん話をしてしまった。
「別に……アドレスを交換したから話は終わりよ」
だというのに、中見沢はふてくされたような表情でそんな事を言い出す。
先ほどの奇行を誤魔化されたと感じたからかもしれない。
だが、不満に感じるのは俺とて同じだ。
「場所を移すと言ったのはお前だろうが。そんなこと言うなら俺がここまで歩いてきた歩数……」
「865歩です」
「865歩返せ」
話が終わりなら先程の「ついてきて」は何のつもりだったのか。
あまりの理不尽に、俺はつい悪魔と連携して中見沢を追いつめてしまった。
「か、数えてたの!?」
それを聞いた中見沢は、目を見開いてひっくり返ったような声を出す。
俺も正確な歩数など出るとは思わなかったのだが、悪魔の奴が電子えんま帳を掲げて件の数字を表示させている。
どうやらあのスマホもどきには、歩数計アプリも入っているらしい。
こいつらにダイエット需要などあるのだろうか。
「で?」
まぁ、悪魔がメタボにチェンジしようが知ったことか。
俺は中見沢を促した。
「その、少しダイエットでもと……」
しかし、今のやりとりで中見沢はすっかり臍を曲げてしまったらしい。
歩数にちなんでか、苦しい言い訳までしてくる。
お前はもっと肉をつけろ。尻はともかく胸部に。
余程そう言いたかったが、俺は自らの言葉を飲み込んだ。
ちょっと脅かしすぎたかと反省したのだ。
女子をいじめるのは俺の流儀ではない。
悪魔の奴が好きだのなんだの小学生のような冷やかし方をしたので、俺もそのあたりの精神年齢に戻っていたらしい。
息を吐いて頭を冷やすと、俺は中見沢にゆっくりと問いかけ直した。
「俺に何か用があって……もしくは用が出来る予定があって、連絡先を渡したんじゃないのか?」
連絡先を所望するということは、また何か厄介事が増えたのかもしれない。
俺とて色々忙しく、中見沢以外の手なら借りたい状況だ。
だが、一応話ぐらい聞くことも出来るだろう。
「よ、用っていうか……」
俺がいくらか真面目な顔をしたことに対し、中見沢は失礼にも驚いたような顔をする。
それから、左右の指を組合わせて相撲を取らせながら、口を開いた。
「その、漫画が……」
「漫画?」
「ま、漫画が出来たときに、困ると思ったんです!」
俺が更に問うて見ると、中見沢は得意の逆ギレ敬語でそう叫ぶ。
「あー、漫画か」
言われ、俺はようやく思いだした。
そう言えば俺は、こいつが漫画を描いたら読んでやる約束をしていたのだった。
色々と立て込んでいた上にどうせ随分先の話だろうと、すっかり記憶の片隅に追いやっていた。
「……どうせ忘れてたんでしょう」
俺の様子を見て、中見沢が半眼でこちらを睨む。
あからさまに「なんだ」という気配を見せたのも悪かったかもしれない。
先輩も命がかかっているが、中見沢としても人生を決めるようなターニングポイントに差し掛かっているのだ。
傍目から見ると、間違いなくUターンしたほうが良いポイントだと思うのだが。
「い、いや、漫画と連絡先の関係が分からないだけだ」
しどろもどろに答える俺に、中見沢はやはり疑わしげな目をしていたが、やがてため息をつくと共に言葉を吐き出した。
「だって、学校に持ってくるわけにはいかないでしょう? 漫画の原稿用紙なんて」
「……買ったんかい」
「まぁ、一応……」
俺がツッコミを入れると、中見沢は口をもごもごと動かしながら指相撲を再開する。
漫画など描けないと言っていたくせに、実際はかなり乗り気だったようだ。
この様子では、デジタル全盛期の今の時代にトーンやら墨汁やらまで買い込んでいるかもしれない。
機会があっても半年は先の話だろうと思っていた俺の予想は、大きく裏切られそうな案配である。
「それなら確かに、今までのようにはいかないな」
なんだか大事になってきた。考えながら、俺はふむと呟いた。
ノートならば勉強をするフリをして図書室で見ることが出来る。
しかし中見沢先生の生原稿などというものが用意されるとなると、隠れて読むのは厳しい。
そうなると、学校内で読むには成人指定の本や非合法の薬を取り引きするようなやりとりが必要になるかもしれない。
「そうなると、その、外で会うことになるし。だったら連絡が取れたほうがいいなって……」
「そうだな……」
中見沢の言葉に、俺は顎に手を当て再考した。
猥褻本の受け渡しであれば俺は慣れたものだが、女の身では覚えもあるまい。
ついでにそれは、中見沢としては自分で生み出したくせに、猥褻本より見つかりたくない代物である。
だが連絡が取れれば、例えば休日に喫茶店なんかで待ち合わせ、そこで原稿を読むなんてことも出来る。
ついでにそこで昼食をとって、漫画のネタに映画なんかを見に行くことも可能である。
それが終われば適当に街を回ったあとディナーへ行って後は夜の街へである。
「って、デートか」
「違います!」
桃色路線へと発車オーライしかけた自らの脳にツッコミを入れると、中見沢も真っ赤になって否定してくる。
背後では悪魔がニヤニヤと笑っているのが気配で伝わり、非常に不愉快である。
まったくなんだと言うのだ。
デートぐらいムカつくことにその辺の小学生でもやっているというのに。
そも百戦錬磨のヒラクさんが、中見沢相手に臆していると思われるのも甚だ不快である。
夕にもこの前ビビっていると指摘されたばかりではないか。
意を決した俺は、中見沢へと男らしく宣言をした。
「よし、そのデート受けて立とう!」
「人の話を聞いてください!」
それに対し、中見沢が悲鳴に近い声を上げる。
しかし誘ったのはお前なのだ。
男に外で二人きりで会いたいなどという意味を、その体でとくと知るが良い。
「明日以外ならいつでも良いぞ。バンバン連絡してこい」
何やらむしろ逆な感じで楽しみになってきた。
俺は腕をがっぽがっぽと動かしながら中見沢の挑戦を待ち受ける。
「明日は何かあるの?」
すると中見沢は、小動物のごとく首を捻って尋ねてきた。
「え? 明日は、だな」
明日は先輩との決闘である。
しまった。ついテンションが上がって言わなくても良いことを言ってしまった。
「言っておしまいなさい、ヒラク様」
背後の悪魔が悪魔的に囁く。
だが言えない。
好きだから? 巻き込みたくないから?
いやいやいやいや。
「大事な、用事なの?」
冷や汗まで流れ始めた俺に気づき、興味本位で聞いてきたであろう中見沢が、段々と不審そうな目つきになってくる。
やばい。何か言わなくては。
「……デートの、予定がある」
そっぽを向きながら呟いた俺に、中見沢は「ふぅん」と半眼で呟いたのであった。
◇◆◇◆◇
その夜。風呂から上がった俺はふと思い出して悪魔に言った。
「そう言えば、お前との付き合いも明日で終わりだな」
悪魔との仮契約は一ヶ月が期限。
魂を売る売らないに関わらず、それが終われば奴は俺に付きまとわなくなるわけだ。
万々歳である。これでもうトイレの音を気にせずとも済むし、部屋の中で猥褻な本を読むにも遠慮はいらない。
……まぁ、独り言に応える相手がいなくなって少々調子が狂う。なんて事もありそうな気がしないでもないが。
「そうでございますね」
だが、そんなちょっぴりセンチになった俺に対して、悪魔の返事は無味乾燥であった。
態度はもっとそっけない。奴はちらりともこちらに視線を向けず、手元の電子えんま帳をてしてしといじくっている。
しかもそれは、俺が風呂に入るために奴と離れる前からずっとだ。
「……お前はさっきから何をやっているんだ」
ここで不機嫌になったら負けである。
分かっていながら、俺は眉根を寄せて奴に問いかけた。
「いえ。私もちょっとした仕込みをしておこうかと」
すると悪魔はようやく顔を上げ、いつもの胡散臭い笑顔でそんな風に応える。
「ラーメンでも作るつもりか」
言いながら、俺は奴の操作する画面をのぞき込んだ。
もちろんこの悪魔が、そんな平和かつ勤勉なことをしているはずがない。
「似たようなものです」
しかし奴はそう言ってはぐらかすと、俺が見る前に電子えんま帳を仕舞ってしまう。
「……対決の邪魔だけはするなよ」
非常に胡散臭い物を感じ、俺は悪魔に釘を刺した。
一応仮契約中だが、こいつは悪魔である。
いや、悪魔だからというよりこいつだからこそ、何をしでかすか分からないのだ。
「とんでもない。ヒラク様を補助し、幸せに導くのが守護天使たる私の役目です」
「基本設定を忘れるな! お前はただの胡散臭い悪魔だろうが!」
不安に思う俺の気持ちを増幅させようとしているかの如く、悪魔がまたしてもおかしな設定をねつ造しだす。
「はっはっは。明日の対決、二人三脚でがんばりましょう」
つっこみを入れると、今度は高笑いである。
「誰がその気を削いでると思ってる……」
なんだかどっと力が抜ける。
こんな奴が居なくなることに、少しでもセンチメントを感じた俺が阿呆だったようだ。
「さてヒラク様。またお風邪を召してはいけません。早くお布団へどうぞ」
「布団をめくるな! 入るな! 暖めるな!」
ナチュラルに人の寝床へ入ろうとした悪魔を蹴り出した俺は、早々に眠ることにしたのだった。




