少年と作戦
夜の公園。原田と西暮と共にランニングを終えた俺は、一旦休憩を告げられたものの、ベンチの上で猛烈な腹筋を続けていた。
「気合い入ってるなーヒラク」
西暮が作ってきたスポーツドリンクを飲みながら、原田がぼんくらりと呟く。
「ていうか近所迷惑だから、あんまデカい声は……」
俺の脚を抑えている西暮が顔に似合わず常識的なコメントを放つが、聞いてはいられない。
「俺はなんとしても、鋼鉄の肉体を手に入れねばならんのだ!」
更に大声で俺が宣言すると、二人は揃って顔をしかめる。
同時に酸素が足りなくなり、俺はぶはぁっと最後の息を吐いて腹筋を中止した。
「どうだ? かなりムキムキになってきたか?」
呼吸を整えて上半身を上げると、ジャージをめくりに己が腹筋を原田たちに見せ付ける。
今まではどうにも頼りのなかった我が腹筋であったが、何だか最近はうっすら筋めいたものが浮かんできているような気もしているのだ。
「六つ以上に割れてから見せろ」
だが、そんな俺に対して原田は自らの芋虫のような腹を見せると、それをぐにぐにと動かした。
「ええい、汚い物を見せるな」
ただでさえむさ苦しいのに、酸素不足の状況で見ると吐きそうになってくる。
せり上がってくるものを堪えながら仕舞えとジェスチャーする俺。
「お前だって見せてるだろうがよ!」
「うわ、ぶ、や、やべろ!」
すると、奴は自らの腹をこちらに押し付けるという信じられない拷問を仕掛けてきた。
「あー。いや、漫画じゃないんだから、そんな簡単に筋力なんてつかないよ。効果が実感できるのは三ヶ月後ぐらいじゃないかな?」
そんな悪夢のような光景に、下の歯を見せてげんなりとした顔をする西暮弟。
奴は俺たちの行動には触れないことにしたのかそんな豆知識を披露してスポーツドリンクを飲んだ。
「ぐ、ぐぬ……」
ホモ原田を押し退けながら、俺は人類の構造限界を知りうめき声を上げる。
人間そんな簡単に筋肉がつくはずがないということは、俺にだって分かっている。
しかしそれでも、確認せずにはいられないのだ。
そして、体を動かさずにはいられない。
「うおおおおお!」
そんな訳で自由の身になった俺は、ベンチの上で腕立て伏せを開始した。
「……で、何をそんなに焦ってるんだ?」
しばらくそんな俺を眺めていた原田だが、腕立てが30回を超えた辺りでそんな風に問いかけてくる。
「別に、焦ってなど、いな、い!」
俺は自らの二の腕を叱咤しながらそう返すと、腕立て伏せを続ける。
しかしもう十回で限度が来、ベンチに頬を預けた。
そんな俺を、原田と西暮弟は寝不足かのような不細工な面で見ている。
「……一週間後に先輩と決闘することになった。おそらく最後の決闘だ」
結局、俺はこいつらにそれだけは言ってしまうことにした。
これから一週間、毎日こんな目で見られてはたまらない。
そうして口に出して、空恐ろしくなる。
そうだ。俺は、先輩と決闘するのだ。
特に策もなく、俺が負ければ先輩は死んでしまうようなやたらと重たい決闘を。
風邪は完治したはずなのに、体には震えが起こる。
「阿呆なことしたもんだな」
しかし、シリアスに悩む俺に対する原田の言葉は、慈しみの欠片もないものだった。
……こいつは事情を知らないのだからこんな事を言うのだ。
そう、俺が先輩と決闘する事になった悲劇的な経緯を……。
「何でそんなことになったの?」
ちょうどそんなことを考えている時に、西暮がずばりその事について尋ねてくる。
「うっ……」
聞かれ、その悲劇的な経緯にまつわる思い出を懸命に思い出していた俺は喉を詰まらせた。
こいつらに、先輩が死神に狙われているなどと話す訳にはいかない。
いやそもそも冷静に考えれば、俺は先輩を救おうと彼女に勝負をふっかけたわけではないのだ。
俺はが先輩に決闘をふっかけた理由は……。
「彼女の言いように、少々腹が立ってだな……」
気まずい気分のまま俺がそう答えると、奴らは揃って呆れた顔をした。
身の程知らずめが。悪魔と同様に、奴らの顔にもそんな時が明朝体でデカデカと書いてある。
身の程知らずだろうが考えなしだろうが、挑んでしまったからには仕方なかろう。
文句があるかと開き直った俺が睨むと、原田は「しかし」と言って腰に手をやった。
「お前が美人につっかかるなんて珍しいな」
「そうか? 見かけた美人とはなるべく恋に落ちるようにしているが」
「そりゃ引っかかってると言うんだ」
首を傾げた俺に、原田はふぃーとため息を吐く。
「お前は美人の言うことならホイホイ聞いて、そのままポイされてばっかりだったからな。喧嘩をふっかけるなんてなかっただろ。特に負ければ絶交レベルのは」
そうして奴は、つらつらと失礼な俺評をぶちまけた。
最近は持ち上げられてばかりだったので、こういうことをされると懐かしくもあり新鮮でつまり非常に腹が立つ。
腹は立つが、それと同時に「というか先輩に負ければ絶交どころか絶縁。永遠にサヨナラなのだ」と思い起こしてまた冷や汗が出る。
「……美人に絶対服従するのは、人類の義務だ」
自らを戒めるように、俺は呟いた。
俺はなんと大それた事をしたのだろう。
普通の美人に逆らうだけでも極刑ものなのに、先輩という大美人に勝負を挑むとは。
きっとあれは風邪をひいていた所為である。
今のような健常な状態では決してやらなかったであろう愚かな行為である。
こんなぼんくらり頭は潰れてしまえばいいと、俺は両の掌底でもってこめかみをぐりぐりとやり結果頭を抱えた。
「じゃぁ今からでも先輩に謝って、決闘はやめてもらうか?」
そんな俺に、原田が突き放すような、あるいは試すような口調で尋ねてくる。
これまでの経緯を考えれば、当然の提案だ。
しかし、俺はそう言われてからようやく、その手があったかと弾かれたように原田を見た。
見てから、だが、吐いて吐いて吐く物がなくなった重病人のような有様になりながら、俺は言葉を吐いた。
「それは……嫌だ」
そもそも先輩とのしばき合いなんて、彼女との結婚生活がかかっていなければしたくない。
その先に人生の墓場ではなくそのままの意味の墓場がかかっているのなら尚更だ。
しかし、それでも尚、俺は先輩との決闘を取りやめる気にはならなかった。
いや、今からでも土下座して「すみませんでした」と言う準備はある。
あるにはあるが、それを断固として拒否する俺が知らん内に心の中に居座っているのだ。
頑固者めそこをどけ! と理性を司る俺が蹴飛ばしても、そいつは理由も言わずむっつりとそこに座り込んで動かない。
何故だ。何故なのだ。
「そうか。そうだろうな」
煩悶する俺に対し、原田は当たり前だろうというように深く頷いた。
どいつもこいつも俺への評価は安定しないくせに、こういう場面になると何故決まって「それでこそ」みたいな表情をするのだろう。
その「それでこそ」が自分でも把握できていない俺としては、非常に腹立たしい。
「まぁ俺も、今の姉ちゃんには思うところが無くもないよ」
そんな風に俺が立腹していると、俺たちの会話を目つき鋭く見ていた西暮がふと呟いた。
「曖昧な物言いだな」
顔の作りのおかげで常に物事を考察しているように見えるこいつだが、その実大抵はぼんやりとしている。
そこを見抜いた俺は、今回もどうせ特に考えがあって発言した訳ではなかろうと西暮につっこんだ。
「昔は剣道一直線の熱血キャラで、あれはあれで弟としては恥ずかしかったからね」
すると奴は、遠くを見ながらそんな風に語る。
その言葉には妙な重みがあった。
昔の先輩といえば、言い寄る男には「私に勝ったら良かろう」と言って叩きのめすようなサムライガールだったらしい。
確かにそんな人の弟ともなれば、常人には無い苦労を一つ二つ背負い込んでいてもおかしくはなかろう。
「でもお前はその面で往来を歩くことの方を恥じろ」
そんなことを考えて少々同情しかけたが、あの素晴らしき姉を恥じるとは何事だ。
あんな乳を持つ姉を持っているというだけで、男子高校生としては甲子園球児以上の勝ち組となる。
そもそも俺は高校球児に何の憧れもない。
「あぁ!?」
俺の冷静で的確な言葉が図星をついたのか。
西暮弟が自身の背中に彫ってある阿修羅のごとき表情で俺を睨んでくる。
「スミマセン」
あまりの迫力に、俺の口が意に添わない5文字を吐き出す。
すると、奴はコホンと咳払いをして話を続けた。
「だからって今の状態はやり過ぎ。ぜんぜん喋らないし友達も作らないし美容院も行かないし」
その様は、彼女の弟というよりおかんに見える。
こんな凶悪な顔のおかんを持った覚えはさすがに無いが。
「風呂に入るならまだ良いではないか」
「入らなくなるのも時間の問題だと思うね」
ともかく俺はより底辺を示して西暮をなだめようとしたが、奴はそれに対し皮肉げに笑う。
確かに今の先輩であれば、じきに外界との接触を断ってヒキコモる等の行動に出てもおかしくはない。
いや、このままだとその前に魂を持ってかれて風呂など関係なくなってしまうのだが。
「ううむ……」
「と、言うわけで」
そう考えて唸る俺。それを引き戻すように両手を合わせた西暮は、こちらの目を覗きこんで言った。
「なんか手伝えることある?」
「なんだ。お前も俺に惚れたのか」
下手にガンをつけられるより恐ろしいその表情におののきながらも、いち男子としてのプライドを以て軽口を叩く俺。
軽口を叩いてから、その可能性を想像し体がガタガタと震える。
そんな俺を「さっきまでの話、聞いてなかった?」と呆れ顔で見てから、西暮は言葉を足した。
「……先輩が良い勝負すれば、姉ちゃんもちょっとは元気になると思うんだ。根っこはスポ根のままだからね」
確かに俺がスコップ魂で渡り合ったときの先輩は、妙に嬉しそうだった。
剣など役には立たないと口にしても、やはり戦いになるとワクワクしてしまうような戦闘民族的本能が彼女には残っているのだろう。
「言ったろ? 姉ちゃんにはライバルが必要だって」
ちょっと恐ろしかった彼女の姿を俺がプレイバックしていると、こちらの納得を察したのか西暮は腕を組み、若干得意そうにそう言った。
ライバルが、必要ねぇ……。
「あー……なんかそんなことを言った? 気もしないでもないなぁ」
「……アンタが俺の言葉なんか微塵も記憶してないのはよく分かった」
そんな話していたかしらん? 思い出せないまま俺が曖昧な返事をすると、奴はげんなりとした様子で肩を落とす。
仕方なかろう。男の台詞なんぞいちいち覚えている奇特な人間がこの世にいるものか。
「先輩の事なら、どこでどんな乳揺れしたかまで覚えてるんだがな」
「……人選間違えたかな?」
フォローのつもりで言ってはみたが、俺の評価は覆らないようだった。
もう良いからとでも言うように、西暮は顎をしゃくる。
もう良いから何かして欲しいことを自分に伝えてとっととおっ死ねとおっしゃっているのだろう。
「ふむ……」
男にして欲しいことと言われても、あまり俺の視界に入るなぐらいしか思いつかない。
しばらく考えた末、とりあえずということで俺は奴に要求した。
「お前の姉の弱点を教えろ」
「身も蓋もないなぁ」
西暮はまたもや呆れた顔をする。まぁ普段の犯罪者顔よりこちらのほうがまだ平和に見えるのではないか。という気はする。
「身も蓋も何もお前が協力すると言ったんだろうが。もさもさしてないでさっさと話せ。もさもさするのは下半身だけにしろ」
しかしそれがムカつかないかと言えば、そんな事はない。
俺がせき立てると、西暮は下の歯茎をいぃと見せてから呟いた。
「……そういう下ネタが苦手かな?」
「ほう?」
そもそも今のは下ネタだったか?
原田審査員に判定を仰ぐと、奴は力強く頷いて言う。
「ヒラクは歩く下ネタだからな」
「アァン?」
俺が敬いを忘れた原田を睨んで脅しつけてやろうとするも、奴は涼しい顔である。
「何その打ち上げられた深海魚みたいな顔」
「お前の真似だ阿呆め」
不思議そうな顔をする西暮に言ってやると、奴はあっちょんぷりけと自らの頬を持ち上げ、それから「さすがにあんな顔じゃないよな」とマッサージをしだす。
「で、その話の続きは?」
不気味な顔が変形し、妖怪めいた様相を呈した西暮弟に、俺は先ほどの言葉の続きを促した。
苦手なものということで少しでも参考にしたいという気持ちがあったのと、もう一方で輝くお宝エピソードの匂いを感じ取ったからだ。
「いや、続きって言われても、姉ちゃんは昔からそういう話を聞くと耳を塞いだり口であーあー言ったり転げ回ったりするってだけで……」
しかし、思ったようなお色気創話は西暮の口から飛び出さない。
「小学生かお前の姉ちゃんは」
「そういう部分は多分にあります」
思わずつっこみを入れると、西暮が恭しくそんな返事をした。
何やら前にもした覚えがあるやりとりだが、まぁそこはどうでも良い。
いや待て。しかし下ネタに過剰反応するということは逆に意味が分かりすぎているということであり、むしろ先輩はえっちなお方と言えるのではないだろうか。
これは見過ごせない点である。
「ぐふふ」
「ぐふふとか笑う人初めて見た」
「お前ほどその下卑た笑いが似合う奴もいないな」」
思わず笑いを漏らした俺に対し、男二人がやっかみを飛ばしてくる。
「失礼な。先輩攻略の糸口が見つかったので、ニヒルな笑いを漏らしていただけだ」
「攻略って……今の話でどうやって」
俺がそう答えると、西暮は知りたがっているというよりはやれるものならやってみろといった感じの呆れた表情をした。
「確かにスケベ心に関しては、お前にかなう奴はいないが」
そして、隣の原田がぽつりと呟く。
「そ、それだ!」
それを聞いて、俺はベンチから立ち上がった。
下ネタが苦手ということはつまり、不要だと思われていた俺のエロス・ステータスが役に立つわけである。
いらない魂なんてないんだ!
万歳! 素晴らしいエンディングへの道が見えた!
……いやしかし、スケベ心なんぞでどうやって先輩を倒せというのか。
「スケベ心なぞで倒されてしまったら、私の出る幕が無くなってしまいましね」
今日は一言も発さず、何が嬉しいのかニコニコとした表情で俺たちを見守っていた悪魔。
そんな奴が、憎らしいことに非常に楽しそうに言う。
まぁ先輩にあからさまな弱点があったら、こいつも困り物だろう。
例えば先輩に虫が大の苦手などという乙女らしい弱点があれば、尺取り虫を木の棒に這わせて近づけるだけで勝てるというステータスだの悪魔との取引だのはまるで関係ない幕引きになってしまう訳だし。
俺が契約する可能性が増えたので、こうやって嬉しそうにしているわけだ。
この悪魔め。
本人に言っても「そうですが何か?」と返すだけであろう事は予測できるので内心で罵倒するだけだが。
「ちなみに先輩は虫が苦手などということは?」
「毛虫まで素手で掴める」
「それは指がかぶれるから注意してやってくれ」
ついでにふと思いついて弟に聞いてみたが、彼女のワイルドな一面が明らかになっただけであった。
やはりこんな弱点と呼べるか分からないもので先輩を倒そうというのは無理があるか。
そう考えて諦めようとした俺。
しかしその刹那、脳内を一筋の光が走り抜ける。
「どうしました?」
悪魔が問いかけてくるが、ダイナミックに無視である。
……これならもしや、俺の能力を活かしつつ先輩攻略の突破口を開けるのではないだろうか。
いやしかし、こんなことをしたら俺に対する先輩からの評価がひどいことになる気がする。
いやいや、かまうものか。
いや、かまいはするけれど、とにかく俺は先輩に勝ちたいのだ。
もとい勝たなければならないのだ。
「ちょっと耳を貸せ」
覚悟を決めた俺は、ちょいちょいと原田西暮両名を招いた。
「いや、こんな場所で聞いてる奴なんていないだろ」
「……先輩ってやっぱそっちもいける人なの?」
しかし奴らは何を警戒したのか。こちらに近づいてこないどころか一歩引いて俺を見る。
やっぱとは何だ。そっちもどっちも行けるわけがない。
「うるさい! こういったことは雰囲気なのだ!」
嫌がる二人の首に無理矢理手を回した俺は、自らが思いついた天才的な策略を両名告げたのだった。
決戦の日は近い。




