ep67 覚悟
――ギャアアアアアアアッ!!
空が割れるような咆哮が、天地を揺らす。
ヴォルフガング=ガランダスが、ゆっくりとその巨躯を反らし、口を大きく開いた。
その瞬間、大地が呻いた。
「……ッ! あれは……!」
ルナベールが蒼白になる。
ゴゴゴゴゴ……ドォォォォォンッ!!!
九つの火山の頂が、次々と吹き飛ぶ。
紅蓮の噴煙が空を焼き尽くし、煮えたぎるマグマが天高く噴き上がった。
しかし――それは空に広がらなかった。
すべてのマグマが、引き寄せられるように、ヴォルフガングの口元へ吸い込まれていく。
渦を巻き、火と大地と怒りのエネルギーが、その顎の奥へと飲み込まれていくのだ。
「そんな……火山の力まで……」
ロゼが息を呑む。
それだけでは終わらなかった。
グググ……
飛空艇タイタニクス――その巨体が、ゆっくりと、しかし確実に傾き始めた。
「な、なんだ!?」
「これは……タイタニクスが引き寄せられてる!?」
誰かが叫ぶと同時に、甲板にいた乗客たちは、重力に逆らうように足元をとられ、倒れ込んだ。
ヴォルフガングが生み出した、超質量のエネルギーによる引力――
その中心にあるのは、すでに九つの火山を飲み込んだエネルギー球。
燃える大地、うねるマグマ、そして無数の雷光。
すべてが一点に集約され、"星を穿つ終焉の彗星"と化す。
それは、もはや“兵器”などという次元ではない。
国を――いや、大陸そのものを消し飛ばしかねない威力を孕んだ、“災厄”だった。
「……今度こそ終わりだ」
誰かが呟いたその声に、誰も否定を返せなかった。
助けは来ない。
エグゼアが到着する時間すら残されていない。
船体は傾き、片翼は焼き落ち、いまや魔物の重力圏に囚われている。
タイタニクスも既に限界を超えていた。
そして、放たれようとしていた。
この世界を終わらせる災厄が――
「……ダメです」
ロゼが震える声で言った。
誰よりも早く、彼の決意に気づいていた。
スカイの目が、もうすでに“最後”を見据えていることに。
「スカイ……あなた、また自分を犠牲に……!」
その手を掴む。離さないように、必死に。
スカイは微笑んだ。
どこまでも優しくて、どこまでも残酷な笑みだった。
「ロゼ……ごめん。旅の約束、守れなさそうだ」
「……やだ……」
ロゼの瞳に、涙が滲んだ。張り詰めた声が震えて、今にも崩れそうだった。
「私たち、昨晩あんなに……未来の話をしたじゃないですか……! ずっと……ずっと、そばにいようって……!」
「…………ごめん」
スカイはロゼを背にし、振り返らずただ謝り続けた。
その姿は、まるで永遠に贖いきれない罪を背負っているかのようだった。
それでも、彼はゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、どこまでも静かで、揺るぎない光を湛えていた。
「でも……ロゼと出会って気づいたんだ。すべてを懸けてでも……守りたいと思える人が、できたって」
その言葉に、ロゼの肩が震える。
「それは……君だ、ロゼ」
ロゼの目が、はっと見開かれる。
時が止まったような静寂の中、彼女の視界が滲む。胸の奥から熱が込み上げてくる。
「君の行く末を……"空"から見守らせてほしい」
ロゼの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
数秒の沈黙のあと、遥か遠くで爆発音が響いた。火山が噴き上がるような轟音が、空を震わせる。
「……さっき、言いましたよね」
ロゼの声が震える。涙に濡れたまま、スカイ背中を見上げる。
「“人のことより、自分を大切にしてください”って……ちゃんと、言ったはずです……!」
「ごめん……でも、自分以上に大切な人ができたんだ」
「……青龍で、水上舞踏会で踊ろうって…………」
「……ごめん……」
「私に、楽器の演奏を教えてくれるって…………」
「……ごめん………」
「一緒に演奏をして、歌を歌って……世界を旅をしようって…………!」
「……ごめん、ロゼ」
ロゼは、堪えきれず嗚咽する。
「わたし……わたし……あなたのことが……!」
――その瞬間、ロゼを包み込むように、スカイは彼女を静かに抱きしめた。
何も言わず、ただその温もりだけを、胸に刻むように。
「……ごめん、ロゼ」
優しく、囁くような声だった。けれど、誰よりも深く、誰よりも真っ直ぐな想いが込められていた。
ゆっくりと身体を離し、彼はロゼと目を合わせる。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「――愛してる」
ロゼの目が、見開かれた。
次の瞬間、涙が溢れて止まらなくなる。
「……そんなの……ズルい……!」
振り絞るようにそう言ったロゼの声は、かすれていた。
スカイは微笑んで、何も言わず──
二人は静かに唇を重ねた。
それは、永遠の約束を交わす、最初で最後のキスだった。
少し離れた場所で、ただ黙って立ち尽くすレインたち三人。
何も言えない。何も、言葉にならなかった。
短くも永遠に心に残るような、温かな時間が終わり、スカイはゆっくりとロゼの額に手を添える。
その手のひらが、淡く輝き出す。
「……?」
ロゼの身体に、その光がそっと流れ込んでいく。
眩い輝きが、まるで祝福のように彼女を包んだ。
それを見つめるレインたち。
「今のは……」
思わず漏れたルナベールの声も、かすれていた。
スカイは何かを、ロゼにだけ聞こえる声で囁いた。
唇の動きは読めない。
ただ――それが、最後の言葉だと、本能で分かった。
ロゼの目に、新たな涙が滲む。
そして、スカイが皆の方を向き――静かに、笑った。
“あとは、頼んだ”
そう言わんばかりの、穏やかで、晴れやかな微笑みだった。
彼の目に、迷いはなかった。
あるのは、ただ一つの願い。
愛する人を守るために――使命を全うするという、確かな覚悟だった。
風が、吹いた。
そして、スカイは振り返り、魔物へと向かって歩き出す。
嵐のようだった咆哮も、噴火のごとき振動も――
すべてが、静寂に飲まれる。
スカイは、ただ一点。ヴォルフガング=ガランダスを見据えていた。
その瞳に宿るのは、恐れでも怒りでもない。
"決意"だった。
「――響かせよう」
静かに、胸の奥から吐き出すように呟くと、彼の足元から音が生まれた。
青く、金に輝く魔法陣が、一枚、また一枚と展開されていく。まるで空へ階を築くように、彼の周囲を取り巻くように。
「此処に在るは、千の声、万の祈り。願いを束ね、旋律とせん」
音符の光が、輪となり舞い上がる。
「我が鼓動は、命を燃やす響き。我が魂は、空を駆ける矢となりて」
身体から放たれる光が、翼のように広がる。
「この空、この地、この時、この命――」
レインが呆然とそれを見上げた。
ルナベールも、サヤも。ロゼは両手を胸に当て、泣きながら祈るように見つめていた。
「いま全てを、響きに還そう」
スカイは、目を閉じた。
そして、最後の言葉を。
「――――《終律翔奏:ラスト・フェニックス・スケルツォーネ》」
その瞬間。
スカイの身体が光に包まれ、輪唱するように魔法陣が共鳴し、彼の命が音となって放たれた。
――ズギュウウウウウウンッ!!!
放たれた一筋の旋律は、咆哮と同時に放たれたヴォルフガングの彗星と衝突し……
そのすべてを貫いた。
超質量エネルギーの塊、大陸を滅ぼす威力を持ったそれさえも、音の波動の中に消えていく。
世界を裂く雷鳴のような轟音。
眼前を覆うのは、燃えるような金の光柱――
その中心で、スカイ・J・フェニックスの姿は、静かに、溶けていく。
まるで、彼という存在そのものが“旋律”として、空へと還っていくように。




