ep44 調律
タイタニクスは、すでに大空の支配者としての威容を誇っていた。
遥か下方に見える街は、もはや掌の中に収まるジオラマのように小さい。風を遮る魔導結界の向こうに広がるのは、濃く澄んだ空と、銀色の雲海。その中を、飛空艇は滑るように進んでいた。
「わあ……あれ、さっきまでいた街だよね。もう豆粒じゃん」
「人の営みって、小さいなぁ……って言いたくなるな、こういうの見ると」
ルナベールも無言で景色を眺めていたが、その頬は穏やかに緩んでいた。
きっと彼女にとっても、こうして仲間と共に空を旅することは、ささやかで大切な“初めて”なのだろう。
「さてと、僕はそろそろ行こうかな」
ふと、スカイが体を伸ばしながら立ち上がる。
風に靡くマントの裾を整えながら、三人を振り返った。
「もう行っちゃうの?」
「これから、貴族専用レストランでランチタイムの演奏があるんだ。音楽で料理の味も変わるからね、腕の見せどころさ」
「さすがバード、仕事してるなぁ」
レインが感心して言う。
「君たちはどうする? しばらくこの景色を堪能する?」
スカイの問いに、ルナベールが振り向いて応える。
「いえ、私たちもそろそろ戻ろうかと思っていたところです。いつ依頼主が呼びに来るか分かりませんし」
その時だった。
「おい、おまえたち。ここにたのか」
低く響く声とともに、甲板の扉が開かれた。
現れたのは、例によって堂々たる軍服姿の男――ゼファル・ド・ヴァレンシュタインだった。
「まったく……どこへ行ったのかと思えば、こんなところで空を眺めていたのか。護衛というからには、勝手に持ち場を離れるな」
わずかに不機嫌そうな眉を寄せながらも、ゼファルの声に怒気はなかった。
どちらかと言えば“形式上の小言”のようだった。
「す、すみません……」とルナベールが一歩前に出かけたそのとき――
「ロゼが、お前たち三人をランチに誘ってみてはどうかと言っていた。……珍しいこともあるものだな。まぁ、たまには良いだろう」
「えっ、ランチ!? ロゼさんが、ですか?」
サヤが驚いて声を上げる。
「……まさか“格下を見るような目”のロゼ様からお誘いがあるとは」
レインがぼそっと呟いたが、幸いゼファルには聞こえていないらしい。
そしてゼファルの視線が、ふと三人の背後に立っていたスカイに移る。
「貴様は……誰だ? この者たちと同行していたようだが」
視線だけで威圧するような問いかけに対し、スカイはどこ吹く風とばかりに柔らかく微笑んだ。
「申し遅れました。僕はしがない音楽家、スカイ・J・フェニックスと申します。華族のランチに、少しばかりの演奏で色を飾りに参ります」
その言い回しには一切の虚勢も媚もなく、ただ静かに礼を尽くす音楽家の姿があった。
ゼファルは一瞬、何かを測るようにスカイを見つめたが――すぐに興味を失ったように踵を返した。
「……そうか。ならばいい。さぁ、おまえたちついてこい。レストランはもう開いている」
「それじゃあ、僕は演奏の準備をしておくよ。またあとで」
スカイが軽く手を振る。
「うん、またあとで~」
「スカイの演奏、楽しみにしてるよ」
「ありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています」
サヤとレインにつづいて、ルナベールも丁寧に頭を下げた。
ゼファルの背中を追い、三人はタイタニクスの貴族用レストランへと向かって歩き出す。
甲板からレストランへと進むにつれ、壁や柱は次第に黄金と大理石へと姿を変え、足元の絨毯には魔導紋様が浮かび上がり、まるで空の宮殿へ足を踏み入れていくようだった。
そして、重厚な双開きの扉が静かに開かれると、そこはまるで別世界だった。
きらびやかなシャンデリアが星々のように天井から輝き、魔導光が虹色の光をテーブルに散らす。床は滑らかな白銀石で磨き上げられ、壁には高名な魔法画家による動く絵画が飾られていた。
店内にいるのは、身分の高い者ばかり。宝石を散りばめたドレス、軍服に身を包んだ将官、魔導省の紋章をあしらった外套。
そんな者たちが、シルバーの食器を手に、談笑と微笑の交錯する空間に溶け込んでいる。
レインたち三人が足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに変わった。
「うっ……完全に場違い……」
サヤが小声でつぶやく。
レインも思わず姿勢を正す。普段の冒険者としての服装が、今は妙に落ち着かない。
「ご案内します」
案内係の女性が、淡く微笑みながら三人をレストランのやや隅に位置する席へと導いた。
そのすぐ向こう、レストランの中央には特別なテーブルがあった。
高級ベルベットのクロスに囲まれ、十数名の貴族が座るその円卓の中心には、ゼファル。その隣には、淡い桃色のドレスを纏ったロゼと、気品と威圧感を併せ持つ母・マリリア夫人が座っていた。
彼らはワインを片手に談笑し、互いの業績や商談の話に華を咲かせている。
「ロゼさん……なんか、つまらなそう……」
サヤがぽつりと呟く。
たしかに、貴族たちが笑う中で、ロゼだけは視線を伏せ、笑みの影に隠れたような顔をしていた。まるで、心だけがそこにいないかのように。
その時、レインたちの前にも料理が運ばれてくる。
黄金色に輝く焼きたてのチキンロースト、香草を散らしたサラダ、希少な海洋果実のコンポート――どれも普段のギルドでは絶対に口にできないような、最高級のランチプレートだった。
「うわ……なんか、すごいの来たんだけど」
サヤが思わずナイフとフォークを構えながら目を輝かせる。
「これ……ロゼさんのおかげか。あとで感謝しないとな」
レインも素直に驚きながら料理を見つめる。
ルナベールはふとロゼの方を見ながら、そっと微笑んだ。
「本当は……とても優しい方なのかもしれませんね。態度は少々きつくても、心根はきっと……」
その時、店内がふっと静まり、視線が一斉に中央の小さな演奏ステージへと集まった。
そこに立っていたのは、吟遊詩人の装いに身を包んだスカイ・J・フェニックスだった。彼は弓琴を手に、優雅に一礼し――静かに演奏を始めた。
第一音が放たれた瞬間、レストラン全体がまるで音の魔法に包まれたような静謐な空間へと変わった。
空気の密度が変わる。音が光となり、空間を染める。すべてが幻想の中へ溶けていくかのようだった。
――その時、不意に。
演奏に呼応するように、天井のシャンデリアが柔らかく輝きを変えた。
虹のような色彩が光の粒となって空中に舞い、壁に飾られた魔法画が音のリズムに合わせてゆっくりと動き出す。
床には音の波紋が広がり、透き通るような魔力の光が食器やグラスを照らして宝石のように煌めいた。
貴族たちのテーブルの間を、光の精霊のような幻影がすり抜けていく。
一輪の花の形をした光が現れ、旋律に合わせて空中で咲いては散り、また舞い戻ってくる――そんな視覚の魔法が、まるで夢のように広がっていた。
高貴な者たちも、冒険者の三人も、皆が音に酔いしれる。心が緩み、時が止まったように、そこにはただ“音楽の物語”だけが響いていた。
……だが、その中で。
ただ一人、ロゼの瞳だけが違っていた。
スカイを見つめるその眼差しには、子どものようなきらめきと、抑えきれない憧れがあった。
だが同時に、それと同じ強さで――深い、深い悲しみが滲んでいた。
その心の叫びが、唇ではなく瞳を通して語られていた。
そして、それに――気づいた者が一人だけいた。
演奏の最中、スカイの視線が、ふと彼女の方を向いた。彼は何も言わず、ただ弓琴の旋律を少しだけ柔らかく変える。
それはまるで、「君の声も、まだ世界に響ける」と囁くような、優しい調律だった。




