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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
エピローグ
80/80

遠い約束

 湖畔は少し風が強かった。


 堤防沿いの小道を、リリンスはひとり歩いていた。

 身に纏っているのは豪奢な絹の長衣だったが、ふくらはぎが見えるほど裾をたくし上げ、軽快に足を運んでいる。堤防を乗り越えた際にできてしまった鉤裂きも、気にしてはいなかった。


 今日はリリンスの十七歳の誕生日だった。王宮では朝から祝賀の行事が催行され、王太子である彼女の元には大勢の客人が挨拶に訪れた。

 自らの立場と責任を弁えている彼女は、笑顔で来賓の応対をし、忙しい予定をこなしていたのだが、半日が限界だった。もともと窮屈な人間関係が苦手な質である。


 これまでに何度もやったように、侍女の目を盗んで自室の窓から抜け出して、堤防によじ登って湖畔へと下りてきた。しかし、うまくいったという高揚感はすぐに冷めて、徐々に自己嫌悪が彼女を苛んでいた。大きな黒い瞳は物憂げに揺らめき、清楚に整った美貌に暗い翳が落ちる。


 こんなことで立派な国王になれるんだろうか――リリンスは風に乱される長い黒髪を払って、大きく溜息をついた。

 王女の逃亡を許して、たぶん侍女も衛兵も叱責されるだろう。何か失敗すれば、他の人間に多大な迷惑をかける立場だということは身に染みて分かっていた。

 でもそれでも、いずれ王位に就けば許されないであろう我儘を、今のうちにやっておきたい願望は強かった。


 南の青空に、上弦の月の薄い姿が浮かんでいる。昼下がりのアルサイ湖は、澄んだ空を映して青く輝いていた。風が湖面に細かな波を立て、遠くで漁船が網を打っている。

 長閑のどかで平穏な、オドナスの風景であった。


 ふと、風に乗って美しい音色が聞こえてきた。リリンスは足を止めて、その音源を探す。甘く艶やかな、どこか懐かしい弦の音色である。

 ひどく興味を惹かれて、リリンスは音の方へ進んだ。


 近くなってくる音を頼りに湖畔の小道を歩いてゆくと、小さな浜に出た。白い砂礫の上に黒い岩がいくつか転がっていて、そのひとつに腰を下ろした人影が見えた。


 男性と思われるその人物は、ごく粗末な旅装束に身を包んでいた。膝に乗せているのは、無花果を縦に割ったような形の珍しい弦楽器。短い弓を滑らせて演奏している。艶めいた音色で歌われる切ない旋律は、遠い異国の曲ではないかと、リリンスには感じられた。

 彼が腰掛けた岩には、小さな袋が広げられている。そこから白い粉のようなものが風に巻き上げられ、湖の方へと流れていった。陽射しを受けて煌めきながら、湖面の大気に交わり拡散し、やがて見えなくなってゆく。

 奏でられる音楽は、それを見送っているようだった。


 リリンスは抗えない好奇心に背中を押され、彼に近寄った。

 演奏が止まった。湖を見詰めていた男は、ゆっくりと彼女の方を向く。その顔を正面から見て、リリンスは比喩ではなく呼吸をするのを忘れた。

 風に揺れる豊かな黒髪と、砂漠の民には有り得ない白い皮膚――まだ若いその男は、明らかに異邦の人間である。

 そしてその顔立ちは、彼女がこれまでに見た誰よりも美しかったのだ。照れて正視できない段階を遥かに超えて、目が離せないほどだった。


 ぼんやりと佇むリリンスを前に、彼は驚いたように瞬きをした。長い睫毛に縁取られたその目は、今まさに空に座す真昼の月のような銀色をしている。


「リリンス様……?」


 男に名を呼ばれ、リリンスはびっくりして我に返った。


「どうして私の名前を知っているの? あなたは誰?」


 すると男は、一瞬の間の後、口元に苦笑を刻んだ。


「私は旅の楽師です。どうやら人違いをしてしまったようですね。ご容赦を」

「もしかして、リリンス女王を……私の曾祖母をご存じなのですか?」


 はっと閃いて、リリンスは重ねて問うた。楽師はまた瞬きをして、楽器を脇に置いた。


「そうか、もうそんなに時間が……」

「私は、このオドナス王国の王太子リリンスと申します。名君の誉れ高い曾祖母にあやかって、同じ名をつけられたそうです」


 初対面であるはずの楽師に堂々と名乗ってしまったのは、彼の雰囲気になぜが懐かしいものを感じたからだった。先代リリンスの名を知っていることからも、王家にゆかりのある人間ではないかと思えた。

 楽師は立ち上がって姿勢を正し、ゆったりと頭を垂れた。礼儀正しくはあるが、親愛の情が込められた仕草である。リリンスはいっぺんに彼のことが好きになった。


「お目にかかれて光栄です、殿下。リリンス陛下はまだご存命なのでしょうか?」

「いえ、ご長命ではあったのですが、私が生まれてすぐにお亡くなりになったそうです」

「そうでしたか……」

「お若そうに見えますけれど、楽師様、ひいおばあ様とお知り合いなのですか?」

「ええ、昔、とてもお世話になったのです」


 楽師は懐かしげに微笑んだ。少し寂しそうな笑顔に見えた。

 それで、リリンスは曾祖母のことを彼に話した。といっても彼女自身も直接見知っているわけではなく、すべて父や祖父からの伝聞ではあったが。幼い頃から聞かされ続けた話は彼女の中で揺るぎない事実になっていた。


 オドナスで公式に認められた初の女王リリンスは、十七歳で即位した後、王国にますますの繁栄をもたらした。

 何度か大きな戦争もあったが、基本的には穏健派として知られ、国内においては属国の自治を広く認めた。女王自らが国土を隈なく渡り歩いて、直接人脈を築いたのだという。各属国の首長を議員とする連邦議会を発足させたのも彼女の功績のひとつである。今やオドナスは、議会君主制を掲げる唯一の国家である。


 私人としてのリリンスは、在位中に未婚のまま五人の子を産んだ。王配を持たなかったために公式記録に残されてはいないが、子らの父親は属国の王族出身者で、女王直属の親衛隊長であったと言われる。

 二人が正式に結婚したのは、女王が四十歳で退位した後のことであった。


「あの二人らしい……」


 楽師は溜息をついた。何十年も前の話なのに、まるで旧い友人に対するような反応だった。リリンスはいささか訝しみながらも、話を続けた。


「その後、王位は彼女の息子から孫……私の父へと引き継がれ、次代は私が担うことが決定しています。私は曾祖母以来の女王になるの」


 無意識に沈んだ口調になってしまったのを感じたのか、楽師は首を傾げた。


「あまり嬉しそうではありませんね」

「名誉なことだとは思うし、頑張ろうって気もあるんだけど、やっぱり……立派すぎるひいおばあ様と比較されてはね……自信がないわ」


 リリンスは楽師の座っていた岩に腰掛けた。俯いて、所在なげに服の裾をいじる。


「今日だって……勝手に王宮を抜け出してきちゃったし」

「先代のリリンス様も、脱出するのはお得意でしたよ。若い頃はしょっちゅう気儘をして、たくさんの人に迷惑をかけて、叱られていました」

「嘘。どうしてあなたがそんなこと知ってるの?」


 楽師は答えなかったが、リリンスは少しだけ励まされた気がした。祖父も父も曾祖母の若い頃の話はしないが、偉大な女王にも自分と同じような娘時代があったのだと想像すると、ちょっと面白かった。

 リリンスは岩から飛び降りて、美貌の楽師にせがんだ。


「ねえ、よければ王宮へおいで下さいませんか? あなたを宮廷楽師として推薦したいわ。あんな素晴らしい演奏、他にできる方はいないもの」

「身に余る光栄ではありますが、殿下、私はひとところに留まるわけにはいかないのです」


 楽師は岩の上に置いてあった袋を手に取り、中身の白い粉を最後まで風にばら撒いた。小さな袋はあっという間に空になって、彼はそれを懐にしまった。


「あれは灰?」

「ええ、この地にゆかりのある方のご遺灰です。ずいぶん時間がかかってしまいましたが、やっと約束が果たせました」


 湖へ吸い寄せられてゆく灰の輝きを、楽師は穏やかな眼差しで見送っていた。

 彼が弔っていたのは誰なのか、リリンスは訊きたかったが、なぜかできなかった。

 楽師は砂の上に置いてあった小さな荷物を肩に担ぎ、楽器を腕に抱えた。


「行ってしまうのですね。残念だわ」

「申し訳ありません。殿下、最後にひとつ、不躾な質問をお許し下さい」


 戸惑いつつも肯くリリンスに、


「殿下のお母様は、もしかすると、東方のご出身でいらっしゃいますか?」


 そう尋ねる楽師は真摯な表情になっていた。

 恐ろしいほどの美貌に正面から見据えられて、嘘など吐けるはずもなく、また吐く必要もなかった。


「王妃である私の母はオドナスの民ですが、その昔に東方から渡っていた一族の末裔です。かつては月を崇める神官の地位を独占していた一族であったとか……もう何十年も前に神殿は解体され、みな還俗を果たしていますけれど」


 わずかに黄みを帯びたリリンスの肌は、確かに異国の血を感じさせた。この地を生きる場所に定めた旧い民の血が、オドナスの血と混じり、彼女の中に流れているのだった。


 楽師はひどく安堵したように微笑んだ。旧友の無事を確かめたような、心底からの喜びが伝わってくる。事情が飲み込めないにも拘わらず、リリンスの胸が締めつけられた。

 この人はこれまでも、これからも、ずっとひとりなのかもしれない――理由もなく、そう思った。


「ありがとうございます。あなたとお会いできてよかった――どうかお元気で」


 楽師は深々と頭を下げ、ゆっくりと踵を返した。

 リリンスは声を掛けようと、せめて別れの言葉を告げようと、手を伸ばす。


 一際強く風が吹いた。

 乱れた髪が頬にかかり、視界を奪い、彼女は慌てて髪を掻き上げる。そこにもう楽師の姿はなかった。


 あまりにも突然の消失に、夢でも見ていたのかとリリンスは当惑した。しかし砂浜に残された足跡が、彼の実在を示していた。


「名前も聞かなかった……」


 呟いたリリンスは、眩しいアルサイ湖を眺め、それから蒼天に浮かんだ白い半月に視線を映した。あの美しい楽師はそこへ帰って行ったような気がしたのだ。


 薄れゆく弱々しい月は、地上の営みを見届けて、空に溶け込むのを待っている。


 小道の方から声が聞こえてきた。王太子を探しに来た侍女たちだ。

 リリンスは大きく息を吸い込んで、美しい幻に別れを告げた。そして服の裾を摘み、自らの人生へと元気よく駆け出していった。




                                       ―了-

この物語が、皆様の記憶に残りますように。


2014年6月13日  橘 塔子

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― 新着の感想 ―
[良い点] 再読して良かったと思わせる素晴らしい作品でした。 特に後半は夢中で読み続けました。続編も後半盛り上がるのは謎解きの要素があるからかもしれません。 ラストの締めくくり方も、後の時代から振り返…
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