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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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微睡む流砂の遺産

 頭と首筋に鈍い痛みを覚えて、セファイドは目を覚ました。

 視界に入って来たのは、白い光。眩しいだけの冷たい光で、反射的にまた瞼を閉じた。頭痛の上に身体もだるく、二日酔いに違いないと、彼は寝返りを打った。寝台の感触が妙に硬い。


 数瞬の後、セファイドは跳ね起きた。


 白々とした光に照らされた明るい部屋であった。

 彼の執務室程度の広さと思われるが、家具がないのと、天井や壁がのっぺりと無機質なために広々と見えた。彼が寝かされていた床も、木材でも金属でもない滑らかな素材でできている。

 痛む頭を巡らせると、少し離れた壁際にサリエルとユージュの後ろ姿があった。彼らの向かっている壁面は、そこだけ大きな硝子板のようなものが嵌め込まれており、表面に文字と図形を点滅させていた。


「起きましたか?」


 気配に気づいたらしいユージュが振り返って、素っ気ない口調で話しかける。


「ここは……?」

「『遺跡』の中です。上はどうなっているのか分かりませんが、無事に入ることができました」

「俺は助かったのか……」


 セファイドは呆然と呟いて、左腕を見た。自分で切りつけたはずのそこには、湿った薄い布のようなものが貼り付けられていた。出血は止まっていて、痛みもあまりない。

 ユージュは腕を組んで溜息をついた。


「そんなに派手に切るなんて、あなた馬鹿ですか? 血はほんの数滴でよかったのに。ああ、それ外さないで下さい」

「早く言え。聞いてなかったぞ。これは何だ?」

「無駄に痛い思いをしましたね。サリエルの皮膚です」


 彼はさすがにぎょっとした。傷の治癒が早まりますと説明されても釈然としない。当のサリエルは壁に向かい合って、何やら板の上で指を動かしていた。自らの皮膚を引き剥がしたという男は、涼しい顔をして作業に没頭している。

 やがて、


「……酸素の注入が終わりました。気温、気圧ともに正常です。行きましょう」


 と、サリエルは壁の一部に掌を当てた。凹凸のない壁に縦の亀裂が入り、ゆっくりと左右へ広がり始める。この先に格納されたものこそが、旧時代の『遺産』なのである。

 ユージュはもちろん、セファイドも強く興味をそそられて、扉へと進んだ。





『遺跡』は、地下にあるとは到底信じられぬほど広大な施設だった。


 果ての見えない資材庫から始まり、五千人の技術者が眠っていたという棺の部屋、彼らが数年間暮らせる居住区、植物の栽培工場、そして大規模なクローン培養設備――そこにある機械や装置は、当然セファイドにとって未知の機構ではあったが、旧人類がこの『遺跡』に注ぎ込んだ執念だけは分かった。

 これほど広大な施設が地下に隠され、なおかつ八千五百年を経た現在も正常に作動していることに、セファイドは改めて驚嘆した。同時に口惜しい気持ちにもなる。どうせならば、地上で生き抜くためにこの技術を使えなかったものかと思う。


「別の星を目指した移民団は、その後どうなったのだろうな」

「連絡も接触も一切ありません。到達できなかった可能性が高いかと」


 サリエルは淡々と答えるだけだった。去っていった人類に対しては、興味を持たないらしい。もともとそういう思考回路が組み込まれているのか、あるいは長い時間の中で諦めに達したのか。


 『遺跡』の内部を進んで行くにつれ、人の気配の絶えた空虚さが際立つようになった。

 もぬけの殻になった五千人分の冷凍睡眠ユニットは白く汚れ、機能的な居住スペースは塵ひとつなく静まり返り、植物工場に緑はすでにない。クローンを新生児段階まで成長させる球形のカプセルが、コードとチューブの束に繋がれて天井から無数にぶら下がっている様は、熟れずに干からびた果実を思わせた。

 それでもユージュはまじまじとカプセルを眺めていた。かつてそれらが人工羊水で満たされ、胎児を抱いていた光景を思い浮かべるように。彼女もまた同様の装置から誕生したのである。


「クローン胚の保管庫は、この先?」


 ユージュはサリエルを振り返って、尋ねる。


「ええ、ですが……」


 サリエルは秀麗な顔を曇らせた。





 保管庫は、培養室の一階層下にあった。

 『遺跡』の本体とも言えるそこには常に最優先で電力が供給され、零下百九十六度の低温が保たれているはずであった。しかし――。


「何で……ここだけ……」


 ユージュは呆然と呟く。彼らの歩みは冷たい水に遮られていた。培養室からさらに地下へ降りる階段は、半ばまで水に浸かっていたのである。


「壁面の一部に亀裂が入り、地下から浸水しています。管制室の履歴では、六ヶ月前……ここが動き出した際に地盤がずれ、負荷が掛かったようです」

「ではこの『遺跡』は、もう……?」

「排水しなければ、徐々に水に沈んでゆくでしょう」


 ユージュは絶句し、セファイドを見た。

 皮肉な結果である。八千五百年も持ちこたえた施設は、自らの起動により最中枢を失ってしまった。彼の故郷と言うべき場所は水没し、祖先である人間たちの素は死滅してしまっていたのだ。自らの起源を失くした男は、だがあまり動じてはいない。


「旧い人間たちを蘇生できないのならば、もう『遺跡』に価値はないだろう。ここを閉じてくれ――地上の民のために」


 それを命ずるのが最後の責任だとでも言わんばかりに、静かに告げた。

 かつてこの場所で誕生した人間たちの意向を、管理者たるサリエルは当然のごとく受け入れた。





「これからどうなさいますか?」


 管制室に戻り、システムのシャットダウン作業を終えてから、サリエルはセファイドに尋ねた。


「アルサイ湖の水量は元に戻ります。救国の英雄として迎えられますよ」

「どうせあと一年だ。せっかくおまえが用意してくれた死に場所を、無駄にしたくない」

「速やかな死を望まれるのならば、今ここでお手伝いをいたしますが」


 物騒な台詞も彼が口にすると誘惑のように聞こえる。


「けれど、あなたはすでに死んだも同然、身分も責任もしがらみもありません。残りの人生をどう使おうと、完全なる自由です」


 セファイドは顎に手を当てて、しばし考え込んだ。今まで重責を背負うのが当然の立場だった彼は、いきなりその負荷を取り除かれて戸惑っていた。


「……北へ行きたい」


 そう呟いた彼の表情には、少年のような生気が満ちていた。


「極光が見てみたい。連れて行ってくれ。いつだったか約束したよな」


 北の空にはためく光の帯、砂漠では決して出会えぬその風景が見たいと、かつてセファイドはサリエルに言ったことがあるのだった。サリエルの返答はその時と同じものだった。


「かしこまりました」


 サリエルは微笑んで了承した。死出の旅路を導く役目は彼の名に相応しく、しかし陰鬱さは微塵も感じさせなかった。

 すると、それまでずっと黙っていたユージュが口を開いた。


「私も……一緒に行ってはいけませんか?」

「それは駄目です」


 サリエルは即答した。簡単な計算の解を答えるような、気負いのない口調である。そう言われるのが分かっていたのか、ユージュは目を伏せた。


「私はずっと……答えが知りたかったんです。自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、知りたかった」


『第二世代』と呼ばれる彼女らは、施設の中で育成された旧人類の複製である。過去を直接知っている『第一世代』とは違って、旧文明の知識はあっても記憶はない。今の時代に交わって生きていくと決めたからこそ、自分たちの出自がひどく不確かなものに思えた。聡明なユージュは特に、曖昧な過去と明瞭な未来に懸隔を感じていた。


「ここに来れば何かが得られるかと思っていたけれど、無駄でした。『遺跡』が閉じられた以上、もう私に役目はありません。サリエル、私は……」


 私は誰の複製なのか――無意味と分かり切っている質問が口をついて出そうになった。しかしその前に、ひんやりとした掌が彼女の両肩に置かれた。

 子供を諭す父親のような、母親を労わる息子のような、深い親愛の情を籠めてサリエルはユージュを見下ろしている。人ならざるモノの眼差しとは思えなかった。


「ここで生き延びた事実こそが、あなたの求める答えではありませんか。あなたは望みを託された一個の命であり、私が守るべき可能性のひとつです」


 低い体温とは裏腹にサリエルの手は力強く、言葉からは熱を感じた。人間に対する慈しみが伝わってきて、ユージュは眩暈すら覚えた。彼にとっては一瞬にも等しい寿命の生き物であるはずなのに。


「生きていって下さい、ユージュ、幸せに。どこからやって来たかよりも、どこへ行くのかの方が重要なんです」


 だからなのか――あまりにも脆弱だからこそ、彼は無条件に人間を愛おしむのかもしれない。瞬きをする間に消えてしまう命を、本気で憎むことなどできないのだ。

 ユージュはそう思い至って、なぜか胸の辺りが温かくなった。彼女にとっては不慣れな、それは幸福という感情だった。


「……先達もいることだしね」


 ユージュはぎこちなく笑って、サリエルの後ろで渋い顔をしているセファイドを見やった。旧時代のクローンの末裔であり、この時代に『遺産』が根付いた証拠でもある。


「本当に最後まで可愛げがなかったな」


 サリエルに対しては妙に素直な神官長の態度が面白くないらしく、セファイドは苦々しげに言い捨てたが、


「だがまあ、おまえのおかげでずいぶん楽しかった。礼を言うぞ」


 と、いくぶん乱暴に彼女の髪を掻き回した。ユージュは不機嫌そうに眉を寄せつつも、その手を払うことはしなかった。

 それからサリエルに向き直り、


「あなたはこれからも旅を続けるのね。すべての『遺跡』が滅ぶ日まで」

「創造主との約束ですから。この寿命がいつまで続くのかは分かりませんが」

「私とも約束をして下さい」


 彼女は両手で彼の手を包み込み、わずかに瞳を潤ませた。


「必ず戻ってきて。あなたが守った可能性を……私たちの未来を確かめにきて下さい」

「お約束します」


 サリエルが肯くと、ユージュは今度こそ心から安堵したような笑顔になった。





 ユージュを『遺跡』から送り出して、サリエルとセファイドは別の出口に向かった。彼らが脱出し終えたら、すべての出入口を封鎖しなければならない。

 電力の供給が途絶え、非常電源も尽きつつある。徐々に暗くなってゆく通路を足早に歩きながら、セファイドはサリエルの横顔に声を掛けた。


「おまえは平等なんかじゃないぞ、サリエル。管理者のくせに、明らかに依怙贔屓をしている」

「そうでしょうか?」

「気にするな。それこそが人間のさがだ」


 苦笑交じりの言葉に、サリエルは少しだけ驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに頬を緩めた。


「複製とオリジナルは別人格だと理解しているつもりだったのですが……やはり彼女は私にとって特別だったようです」

「何!? ではユージュは……」

「そのお話は追々に。旅は長いですから」


 完璧に作られたヒューマノイドは、ひどく人間臭い表情で微笑んでいた。





 中央神殿の神官たちは、渡し舟に分乗して何とか全員が脱出を果たした。

 その後、波の収まった夜明けのアルサイ湖を渡る途中で、彼らは湖岸にある岩場にユージュの姿を見つけた。満月の夜に鐘を鳴らす祭壇の岩場である。


 落ち着けといさめる仲間たちを振り切って、カイは水に飛び込んだ。結構な距離を泳ぎ、息を切らせながら岩場に上がる。

 驚くユージュの肩を濡れた手で掴み、


「ユージュ! 怪我はっ……怪我はない!?」

「え……ええ、どこも……」


 カイは大きく息を吐いて破顔した。それから思い出したように表情を険しくして、彼女の頬を軽く叩いた。


「心配かけて! 今度こんな真似したら、ゆ、許さないからな!」

「ごめんなさい……」


 ユージュは素直に謝った。少し疲れているようだったが、何か大きな荷物を下ろしたような清々しい表情でカイを見返す。カイはなぜか顔を赤くして俯いた。


「帰ろう。みんな待ってるよ。神殿はなくなってしまったけど、何とかなるさ」

「そうね」


 朝日の眩しさに手を翳し、ユージュはふと動きを止めた。

 艶やかな弦の音色が、微風に乗って耳に届いた気がしたのだった。





 昇り始めた太陽の光に、アルサイ湖は金色に輝いていた。


 穏やかに戻った湖面に漂う小舟の上で、リリンスは身を起こした。波を被って全身がびしょ濡れだったが、怪我はなかった。

 彼女を抱えて揺れに耐えていたナタレも、続けて起き上がる。

 櫓杭ろぐいは壊れ、櫂は流されてしまっていた。助けが来るまで、とりあえずここに浮かんでいるしかなさそうだ。


「聞こえる?」


 リリンスが問うと、ナタレは目を閉じて耳を澄ませた。


「ああ、聞こえるよ。サリエルのヴィオルだ」


 甘く懐かしい異邦の調べが、彼らの鼓膜を震わせていた。その美しい音色は、水底から響いてくるようにも、朝焼けの空から降り注ぐようにも思えた。


 励ますように、感謝するように――別れを告げるように。


「お父様はオドナスを救ってくれた」


 彼女の頬を水滴がいくつも流れ落ちる。それは涙ではなく、澄んだ湖水だった。

 水位は戻っていたのだ。湖岸に見えていた黒い岩盤が、完全に水没している。

 リリンスはほっと息をついて、ナタレに微笑みかけた。ナタレもまた濡れた顔を手の甲で拭って、笑った。


「これから、やることが山積みだね」

「うん、でも……何とかなると思う。行く先さえ見誤らなければ、きっと大丈夫。その方向はいろんな人が教えてくれた」


 自信に満ちた強い眼差しを、リリンスは岸辺に注いだ。そこに集まった王都の民は、湖上に王太子の姿を見とめて歓声を上げていた。


「この国のために、もう誰も死なせないわ」


 夜空を支配した月が沈み、眩しい太陽が昇るように、えにしは彼女へ引き継がれた。断ち切ってしまうのではなく、彼女はそれを受け入れた。父の命も母の命も兄の命も、そして自分の命も、ひと続きの大きな流れだったのだ。


 それに、異邦の楽師は約束してくれた。

 お父上を必ずこの国に連れ帰ります――あの時、彼女を抱き上げたサリエルはそう囁いたのだ。

 いつ、とは言わなかった。もしかするとずっと未来の話かもしれない。だが不思議とリリンスはその言葉を信じられた。サリエルはこれまで、決して嘘を吐かなかったのだから。


 遠い遠い約束である。


 新女王万歳の声が響く中、王宮の方向からたくさんの舟がやって来るのが見えた。彼女を探し、迎えに来た人々である。リリンスは舟から身を乗り出して大きく手を振った。


「……私たちは生きていこうね、ナタレ」


 反対の手は、自然にナタレの手を握り締めていた。ナタレは強く握り返し、肯いた。


「ここで、生きていこう」


 掌は温かかった。体温はじわじわとリリンスに伝わる。もどかしいほど緩慢な流れではあったが、いつかその温もりは喪失の悲しみを侵食する。


 彼らの人生は、続いてゆくのだから。


 張り裂けそうな胸の痛みを堪えて、リリンスはもう一度笑った。湖面に反射した日差しが、髪を伝う水滴をキラキラと輝かせた。


 白から青へと色を変えつつある空の下、弦の音は徐々に小さくなって、やがて完全に聞こえなくなった。

 後には、優しい風が水面に波紋を残すだけだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ユージュの天才という設定は、そういう事情もあったのですね! ここでまた驚きました。
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