命の標
王太子は喪服の裾を大胆にたくし上げ、前屈みの姿勢でハアハアと荒い呼吸を繰り返した。船着場からずっと走って来たのは明白だった。
「おまえ……」
呻きに近い声がセファイドの口から漏れた。それ以上の言葉が繋げない。
「ま……間に合ってよかった……」
まだまともに喋れないリリンスは、必死で息を整えている。
サリエルは開け放たれた扉を見た。彼の耳に届いたのは二人分の足音で、戸口にはナタレが立っていた。無人になった礼拝堂を通り抜けて辿り着いたのだが、この先は聖域である。生真面目な彼は入室をためらっているのだろう。
強引に父王の後を追って来た王太子と、無条件に協力した侍従――称賛されるべき忠誠心だが、軽挙には違いなかった。
「なぜ来たのだ、リリンス! これは俺ひとりが受ける罰だと言っただろう! ナタレ、おまえもっ……」
我に返って叱責するセファイドの胸元に、リリンスは飛び込んだ。細い指が礼服の布地を掴み、見上げる黒い瞳は悲しみではなく怒りを宿している。さしものセファイドが気を飲まれるほど強い輝きだった。
「誤解しないで下さい。私はお父様をお引き止めするつもりはありません。ただきちんとお別れを申し上げたくて参りました」
リリンスは大きく息を吐いて、形のよい眉を吊り上げた。
「お父さんは最高の国王かもしれないけど、父親としては最低だからね!」
いきなり言い放たれた内容と、口調も声音もガラリと変わった彼女に、セファイドは再び驚いた。
「ついでに夫としても最悪! 国とか責任とか全部ひとりで背負って、妻にも子供にも胸の内を隠して、それで家族を守ってるつもりだったの!? 挙句に自分が犠牲になればいいなんて格好つけて、あとは娘に丸投げ? 身勝手なのよ! 自己完結しすぎ!」
こちらが本来の姿なのだろう。抑えようのない怒りに身を任せ、無遠慮な罵倒をぶつけてくる彼女は、生き生きとして見えた。凶暴な生命力が血管を駆け巡っている。
おそらくずっと堪えてきた感情だったのだろうと思え、セファイドには言い返すことができなかった。
「俺には……肉親を次々と死なせてしまった俺には当然の報いだ」
「だからそれが違うの! 兄様も伯父様もお母様も、それにお母さんも、みんな自分の運命は自分で選んだのよ。他人に生死を操られるほど弱い人間じゃなかった。勝手に罪悪感持たないで!」
悲鳴のような娘の言葉は、一つひとつが深く鋭くセファイドの心に刺さった。
国王の娘として、言いたくても口に出せなかった本音であろう。溜まりに溜まった激情を、彼女は身勝手な父親に向かって洗いざらいぶちまけた。
「勝手に孤独になって馬っ鹿みたい! 話せる人は周囲にいくらでもいたのに。小娘でも分かるのにどうして気づかなかったの? お父さんの罪はね、他人を犠牲にしたことじゃない。他人を見縊ったことなのよ!」
リリンスは彼に縋りついて、激しく揺さぶった。
「私は絶対に、お父さんみたいな人は選ばない。迷いも悩みも喜びも、晒し合って分かち合える相手と生きていくわ」
そう辛辣に言い放った後、険しく強張っていた可憐な顔が、ふいに別の表情へと崩れた。震える口元は悔しげで、それを見せまいとするようにリリンスはセファイドの胸に額を押しつけた。
「でも……それでも愛してるのっ……」
「リリンス……」
「お父さんが生きていてくれたら、湖が干上がっても構わない。国なんてどうなってもいい……お父さんさえいてくれたら!」
セファイドは何も言えずに、ただ強くリリンスを抱き締めた。
できるだけ淡白な別れにするつもりだった。国を投げ渡された娘にこれ以上の重荷を背負わせぬよう、別離の印象を軽くしたかったのだ。
そんな過保護な父の思惑を蹴散らして、リリンスは力尽くで彼の内面に踏み込んできた。そして彼が纏う誤解と偏執を強引に剥ぎ取り、破り去った。
虚飾を取り払われた自身の人生は、そう悪いものではなかったように思えた。ひどく心許なく、それでいて爽快な気分だった。
「ありがとう、リリンス……だがその気持ちは、二度と口にするな。オドナスに暮らす民のすべてが、王にとっては家族だ」
「……分かっています」
「顔をよく見せてくれ」
セファイドは両手でリリンスの頬を挟んで、その造形と温もりを確かめた。皮膚の下に流れる血潮を探るように。
「俺はアルハ神とはずっと折り合いが悪かったが、おまえという娘を与えてくれたことだけは感謝したい。おまえを遺したミモネにも」
母親に生き写しの大きな黒い瞳は、奥底に大きなうねりを秘めながら真摯に見返してくる。
「お母さんはね、本当はお父さんが大好きだったのよ。私にはそう話してくれた。でもお父さんに飽きられるのが怖くて言えなかったの」
「そうか……」
まさか娘の口から恋人の本心が聞けるとは思っておらず、間の抜けた相槌しか打てないセファイドに、リリンスは微笑んで見せた。ささやかな秘密の暴露で肩の荷が下りたのか、無邪気な笑みだった。
「お母さんはちっとも不幸じゃなかったよ、お父さん」
守るつもりが守られ、救われた――セファイドは初めて気づく。リリンスはすでに、茨の道を揚々と歩んでいけるだけの強さを持っていた。
何も心残りはなかった。
再び、天窓から月を見る。金色の天体は、もう意志を持ってはいなかった。そこに浮かぶのはただの巨大な土塊だった。
「もう、行きなさい」
目元を拭ってから、セファイドは娘の肩を押しやった。しかしリリンスは強くしがみついて離れようとしなかった。理性で諦めていても身体が拒絶している。父を失いたくない、別れたくないと。
「リリンス、行くんだ」
「嫌! もう少し……もう少しだけ……」
「どこにいても、おまえの幸せを祈っているよ」
セファイドは、彼女が幼い頃にそうしていたようにリリンスの頬に口づけて、サリエルを見やった。彼は音もなく二人に歩み寄って、リリンスのうなじに触れた。
冷たい感触とわずかな痛みが走ったかと思うと、リリンスの全身が弛緩した。セファイドの袖を力いっぱい掴んでいた拳が開き、腰から力が抜けた。
尻餅をつきそうになるリリンスをサリエルは軽々と抱き上げた。
成り行きを見守っていたナタレが、我慢できずに禁忌の部屋に飛び込んでくる。サリエルはぐったりした彼女を慎重に彼の腕に渡した。その時に彼女の耳元で何かを囁いたようだったが、ナタレには聞こえなかった。
「じきに動けるようになるよ。大事に連れて帰ってくれ」
「サリエル……何をするつもりなんだ? 行って……しまうのか?」
「君たちに会えてよかった。つい長居をしてしまったけれど、やはり人間は面白いものだね」
「お父さん……」
ナタレに抱えられたリリンスが、必死で腕を伸ばした。自由の利かないその手の先で、セファイドが短剣を握っていた。その切っ先を思い切りよく自らの左腕に突き立てる。切創から血が盛り上がって、みるみる手首まで滴り落ちた。
「娘を頼んだぞ」
彼はナタレに向かってそう言って、赤く染まった左掌を石柱の板に叩きつけた。
板の上を移ろっていた文字が動きを止め、一呼吸の後、高い笛のような音が鳴り響いた。
「認証された」
サリエルは白い唇に笑みを刻んだ。安堵の微笑であり、別れの時が来た合図でもあった。
錆びついた歯車が回るような低い軋みが聞こえたかと思うと、茫然とするナタレの足元に凄まじい揺れが伝わってきた。半年前の大地震を思い出させる振動である。
『月神の間』全体が揺れていた。天上から細かい欠片が降り注ぎ、それは徐々に大きな石礫になってゆく。壁に亀裂が入るのが見えた。
アルハ神像が波に揺すられるようにぐらぐらと動き、ついには傾いで倒れた。
「早く行きなさい。この島から離れるんだ」
床で砕ける神の石像を尻目に、サリエルは強くナタレの肩を押した。ナタレはほんの一瞬躊躇したが、すぐにリリンスを抱え直し、身を翻した。
「お父さん! お父さんっ……!」
隧道を全力で駆け出したナタレの肩越しに、リリンスは掠れる声で叫んだ。激しく揺れる視界の中、青白い部屋は小さくなってゆく。雨のように降り注ぐ落下物の隙間に、セファイドの姿が見えた。
彼女が最後に見た父は、満足げに微笑んでいた。
振動は、神殿の地下にある扉の前で待っていたユージュたちにも伝わった。
真下から突き上げてくる激しい揺れに、神官たちは足を取られて蹲る。
「解放されたんだわ……」
ユージュは扉に縋って身体を支えた。冷たいチタン鋼の扉の奥から聞こえる音に、彼女は耳を澄ました。
揺れは収まるどころがますます強まっていった。低い唸りが地下室全体に響き渡る。壁や天井がミシミシと不気味に軋んだ。
先の地震を上回る強烈な揺れであった。周囲に積まれた貨物が踊るように跳ね、次々と落下してきた。頑丈な箱は壊れることはなかったが、どれもかなりの重量がある。神官たちは頭を低くして壁際から離れた。
「いかん! 出られなくなるぞ!」
落下した貨物に埋め尽くされてゆく通路を見て、ゼンが警告した。
「全員退避だ。早く外へ出ろ!」
「ユージュ、早く!」
カイがユージュの腕を掴んだが、その手は強く振り払われた。
彼女は瞬きもせずに、四百年間開かなかった扉を見詰めている。その表面に、一筋、縦に亀裂が入っていた。
激しい振動の中、亀裂はゆっくりと幅を広げてゆく。割れたのではなく開いたのだ。実に静かに滑らかに、扉は左右に分かれた。細長く開いた入口から青白い光が漏れている。
「駄目だ!」
魅入られたように立ち尽くすユージュの肩を、カイは再び掴もうとした。背後では轟音を立てて荷物が崩れている。
「ごめん、どうしてもこの先が見たい……!」
呟きとともに、細い背中はカイの腕を擦り抜けた。
糸で引かれたように躊躇なく、彼女は入口に吸い込まれた。
次の瞬間、扉の両脇の貨物が雪崩れた。背後からリヒトに引っ張られて、カイは仰向けに転倒しつつも頭上からの直撃を免れた。
荷物は次々と転がり落ち、彼らと扉の間を遮った。乗り越えて行こうにも揺れが激しく、逡巡している間に障害物は数を増やしてゆく。
「ユージュ!」
「馬鹿、もう無理だ!」
リヒトはカイの襟首を掴んで強引に立たせると、引き摺るようにして通路を後戻りした。
「とにかく今はここを出よう。あいつは大丈夫だ。絶対にけろっとして戻ってくるさ」
仲間の後を追って地下室の出口へと向かうリヒトは、自分に言い聞かせるように明るい口調で言った。しかしその表情は、カイと同じく苦しげに歪んでいた。
湖底の振動は中島を中心に起きたが、奇妙にも湖の外側まで伝播することはほとんどなかった。王宮の桟橋で夜明けを待つ人々や、湖岸に集まった王都の民には、ほんの小さな地響きが伝わっただけだった。だから、揺れに気づかない者も多かった。
しかしその後すぐ、湖面が大きく波立ち始めたのは誰の目にも留まった。風もないのに、白い波頭が次々と岸へ押し寄せて来るのだ。
南の空から西の地平へ向けて、満月は静かに落ちてゆく。静謐な夜空を、中島から一斉に飛び立った鳥たちの羽ばたきと鳴き声が乱した。
皓々と照る月明りの下、湖は生き物のように蠢いた。その光景はあまりに不吉で不気味で、人々は呆然と立ち尽くす。神に祈りこそすれ、逃げ出す者はいなかった。
何かが終わるのか、それとも始まるのか――彼らは恐れとともに奇妙な高揚感をもって、オドナスの運命を見守っていた。
月の姿がほとんど沈みかけ、東の空が薄明るくなってきた頃だっただろうか。
「おい! 見ろ!」
「島が……!」
湖岸の砂浜でまんじりともせず夜明けを待っていた人々の間から、驚きの声が上がった。
指差された先、沖に浮かんでいたはずの小さな中島は、神殿ごとその姿を消していた。
リリンスとナタレの乗った小舟は荒波に襲われ、まさに嵐の中の木の葉のように翻弄された。
櫂を漕いで進める状況ではなかった。ナタレは船縁にしがみつき、リリンスが投げ出されないように上から覆い被さって、激しい揺れに耐えた。舟が大波に突き上げられる度に身体があちこちにぶつかったが、痛みを感じる余裕はなかった。ただ彼女を離すまいと、ひたすら固く抱き締めていた。
リリンスは何も言葉を発しない。気絶しているのかと思ったが、ナタレの背中に回された腕には力が籠っていた。小さく震えながらしがみついてくる。
こんな時なのに、その温かさはナタレの心を安らかにした。
湖の底で何が起きているのか、オドナスは救われるのか滅ぶのか、この舟が無事に岸へ辿り着けるのかどうかすら分からない。たったひとつ確かなのは、今自分たちが生きていることだけであった。
何て儚い存在なんだろう――冷たい波を被りながら、ナタレはリリンスの身体をより強く引き寄せた。
たぶん自分たちは、風や波や砂と同じ、抗えない節理の一部なのだ。世界という残酷で美しい仕組みの中の、一瞬の現象にすぎない。
湖に生まれた泡沫のように、砂漠に刻まれた風紋のように
不確かな存在だからこそ、腕の中にある彼女の命が、そして自分の命が、かけがえのないものに思えた。
ある者は国と家族を守るために、ある者は権力を奪取するために、またある者は愛する女を手に入れるために、その命を燃やした。国王となるリリンスもまた、自らの命の使い道は定めているのだろう。
おまえはどうする、と問われているような気がした。圧倒的な世界と自分とを分ける標に何を掲げる、と。




