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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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全き神の御前で

 小さくなってゆく舟影を、リリンスは湖畔から見送っていた。

 王宮の船着場である。衛兵隊が掲げる松明の下、大臣や官吏、王軍将校の面々、侍従と女官、後宮の妾妃までもが集まって、静かに暗い湖を眺めている。

 リリンスを含めてほとんど全員が黒衣を纏っていた。衛兵が軍服の腕に巻いている黒い帯は裳章である。

 さらに身分の低い下働きの使用人たちは、堤防の上によじ登って目を凝らしていた。平服でこそあったが、沈んだ表情は船着場の人々と同じであった。


 アルハの神罰は自分一人で被る――あの朝、王宮に押しかけた民衆の前でセファイドはそう宣言した。


 月が満ちるまでの半月間、廷臣からの反対や抗議や説得にはいっさい耳を貸さず、彼は粛々と王太子への引き継ぎをこなした。実際にはかなり前から準備を進めていたらしく、新女王を中心に据えた組織体制はほぼ固まっていたようだ。


「でも、戻って来られるのよね……?」


 不安げに尋ねたリリンスに、


「分からないが、無事にはすむまいと思う」


 とセファイドは正直に答え、ますます動揺する娘の頭を撫でた。


「心配するな。この五ヶ月間の遠征で、おまえは王宮で十年学ぶ以上の経験を積んだ。自信を持って務めなさい」


 そういうことではないのだ――リリンスは父の舟が消えていった湖を見据えて唇を噛み締める。

 国王の責任とか重圧とか、今さらそんなものに怯えているのではない。ただ父を失うのが怖いのだ。母のように兄のように、自分の前から消え去ってしまうのが恐ろしいのだ。

 だがリリンスは、そんな気持ちを口に出せぬまま父を見送った。

 国王の務めは国を守ること――その唯一絶対の約款を果たすために、王族は国民から尊ばれてきたのだ。国王の命ひとつで国が救えるのならば迷う余地はなかった。リリンスが同じ立場にあっても、同様の選択をしただろう。


 理性に刷り込まれた王族の使命と、身体の奥から湧き上がってくる肉親の情の間で、リリンスは翻弄され、一種の放心状態に陥っていた。


 父はたぶん戻って来ない。直感で分かっていた。なのに自分は、こんな所でこんな黒い服を着て、何をやっているのだろう――。


 知らず知らずのうちに彼女は胸で掌を組み合わせて、月に祈った。そうすればいくらか楽になれると思った。


 ――これでいいのか?


 確かに声が聞こえて、リリンスは振り返った。

 居並んだ侍従の列の中にナタレがいる。黒衣の若者は、強い眼差しを彼女に向けていた。


 いいのか? 本当にいいのか?


 彼と目が合った瞬間、リリンスの身体が勝手に動いた。周囲に整列した廷臣たちの間を擦り抜けて、桟橋を駆け出したのである。ナタレもまた、彼女に合わせるようにその場を離れる。


「殿下、どちらへ!?」

「私も父とともに行きます。見物してる場合じゃないわ」

「なりません!」


 大臣の一人がリリンスを止めようとしたが、すかさずティンニーが邪魔をした。リリンスに付き添っていた侍女は、えいやとばかりに体当たりを食らわせたのである。

 一人を何とか躱しても、他の者たちがリリンスの行く手を遮った。何があっても夜明けまでここで待てと、国王から厳命されている。


「ああっ、陛下! どうして行ってしまわれたの!」


 突然、妾妃の間から大声が上がった。カガラという名前の女であった。彼女はわざとらしく顔を両手で覆い、リリンスを捕まえようとしていた国王侍従に凭れ掛かった。


「私たちをお見捨てになるなんてあんまりですわ……これからどうやって生きていけばいいのでしょう……」


 めそめそとすすり泣きながら、同じように衛兵にしなだれ掛かったのはエバリンという女である。カガラよりは真に迫っているが、こちらも嘘泣きであった。

 すると次々に妾妃たちが愁嘆を演じ始め、手当たり次第に周囲の男性に縋りついた。女の細腕とはいえ、力いっぱい抱きつかれて泣き喚かれて、官吏も侍従も兵士ですら当惑した。


 早く行け、と小さく指差すカガラを視界の端に収めて、リリンスはその隙に人垣を通り抜けた。ナタレが彼女の手を取り、桟橋の先端へ向かって走る。足元で木板がギシギシと音を立てた。


「全員、隊列を崩すな」


 追いかけようとする衛兵たちに、ウーゴが素知らぬ顔で命じた。


「国王陛下は我々に待機を命じられた。勝手に離脱することは許さん――ですよね」


 未だ言動が貫録不足の部下を、シャルナグは不機嫌そうに見返す。隻腕となった彼は、今日をもって職を辞すことを表明していた。


「どうなっても知らんぞ。せっかくあの男が何もかも背負おうとしているのに」

「俺としては新女王に貸しを作っておきたいんです。なに、もしも湖が消えてしまっても、その時は別の土地に移ればいいだけのこと。いくらでも戦って見せますよ」


 ウーゴはふんと鼻を鳴らして胸を反らした。


 衛兵は結局動かなかったが、数名の役人がリリンスらの後を追った。リリンスとナタレは桟橋の端まで駆け抜けて、そこにもやわれた一艘の小舟に乗り込んだ。


「揺れるよ、座って」


 ナタレは手早く縄を解き、櫂で思い切り桟橋の柱を押して、舟を離岸させた。舳先を掴み損ねた役人が、勢い余って落水し、派手に飛沫を上げた。


「ごめんなさい! ちゃんと戻って来るから!」


 滑らかに進み始めた舟の中にしゃがんで、リリンスは船着場の人々に叫んだ。


 風のない湖面を、舟は静かに滑って行く。灯りはないが、青い月光が行く手をけざやかに照らし出している。櫓杭ろぐいの軋みと、櫂が規則正しく水を掻く音だけが夜気を震わせた。


 衝動的に父の後を追ったものの、具体的な考えがあったわけではない。興奮が冷めるにつれて、リリンスは途方に暮れた。


「どうしよう……」


 自分自身に向けた呟きであったが、船尾でを漕ぐナタレは誠実に答えた。


「リリンスの好きにやればいいんだよ。君の父親だ。こんなふうに別れたら絶対に後悔する」

「そうね」


 リリンスは喪服の裾を握り締め、気丈に視線を上げた。


 そして気づく――湖の縁に沿って、無数の灯りが連なっている様に。

 それは岸辺に集まった王都の住人たちだった。人々は松明や行灯を手に、月神の怒りを鎮めに向かう国王を見送っている。

 ある者は不安げに我が子の手を握り、ある者は涙ぐんで跪き、ある者は一心に祈りの言葉を唱え――直接見るには岸は遠すぎたが、人々の表情と仕草をリリンスはまざまざと想像できた。

 橙色の光の粒が繋がった曲線は、湖を取り囲む星の首飾りのようだった。


 あれが父の守りたいものか――リリンスは改めて思い知る。オドナスとは土地でも王権でもなく、そこに住まう人々なのだ。国家の本質というものが、不思議なほどすんなり腹に落ちた。


 今晩目にしたこの光景を、自分は一生忘れないだろうと思った。





 セファイドは丘の上の神殿に辿り着いた。

 先導する若い神官、カイとリヒトは神妙な顔で押し黙っている。サリエルからすべての事情を聞いた彼らの心は、すでに決まっているようだった。旧人類の複製として『遺跡』にしがみつくのではなく、この土地に根差して生きてゆく。それは一族全員の意志であり覚悟だった。


 神殿の礼拝堂の扉が開くと、広々とした堂内は数多く灯された蝋燭の光に照らされていた。

 入口から祭壇のある奥まで神官たちがずらりと居並んで、国のあるじを迎える。その視線に奇妙な親愛が籠っているのは、起源を同じくする者への親近感なのかもしれない。四百年以上に渡って血を繋いだ『遺産』は、ある意味彼らの理想の姿であった。


 セファイドは無言で進んで、祭壇の前に佇むユージュの前で立ち止まった。


「礼拝をなさいますか?」


 変わらぬ無表情で問う彼女に、


「必要ない。どうせここには何もいない」


 と、彼は答えた。

 ユージュは淡い微笑を浮かべて、セファイドを祭壇の後方へと導いた。そこには『月神の間』に繋がる入口がある。

 小さな金属製の扉の錠前はすでに開いていた。ユージュは燭台をセファイドに渡し、一人で行くように促す。


「この先は危険が伴うと、サリエルが。私たちはこの場から退避して、地下の扉の前で待ちます。首尾よくいけば内側から開くはずですから」

「承知した」


 セファイドは灯りを受け取って、危険が待つという隧道の闇に身を沈めた。

 




 足元すら見えない暗い隧道から『月神の間』に出ると、相対的に明るく感じた。中天に懸かった満月が、天窓から青白い光を惜しみなく注いでいる。

 冷たい石造りの堂内に生命の気配はなかったが、天窓の真下にアルハ神像が麗姿を晒している。

 その前にサリエルが立っていた。白地に銀糸の刺繍をあしらった服は、大理石と同じく輝いていた。


「いい月夜ですね」


 彼は月明かりの冷たさを楽しむかのごとく、空を仰いでいた。

 オドナスの民を厳格に監視するあの天体は、彼にとっては故郷であり、また墓標でもあるのだ。


「なぜ、満月の晩を選ばれました?」

「舞台装置だよ、民を納得させるための。全き神の御前で、旧き王の罪と命は相殺され、清められた権力は新しい王へと譲渡される。よくできた演出じゃないか」


 セファイドは軽やかに言って、天窓を見上げた。ちょうど真上から覗き込んでくる満月は、死人の眼球を思わせた。


「どのみち、俺はもう長くないのだろう?」


 さり気なく付け加えられた問いに、サリエルはわずかに目を伏せる。それが答えだった。


「タルーシアの盛った毒のせいか?」

「いいえ、あの毒は古すぎました。リリンス様の母君のお命を奪ってから八年、すでに無害なものに変質していたようです。陛下のお身体を蝕んでいるのは、別の病巣です」


 サリエルはセファイドに歩み寄り、その鳩尾みぞおちの辺りに手を触れた。

 管理者に与えられた鋭敏な知覚は、人間の心音と脈拍、呼吸や筋肉の動きまで正確に感知する。セファイドの身体に起きた異常の状態と原因を推論するのは、彼にとって特に難しい作業ではなかった。


「膵臓に腫瘍ができていると思われます。もって、あと一年といったところでしょうか」

「そうか」


 辛辣な宣告に、セファイドはなぜかほっとしたような表情になった。結果的に妻の殺意が無効になったことに救いを感じたのだった。長い時間の中で変質するのは、人の感情も毒薬の成分も同じだった。


 セファイドは床に目を落とした。そこには何もいない。


 かつてこの部屋で彼が殺めた実の兄は、今際の際に呪いの言葉を吐いた――おまえはこの先も近しい者を殺し続ける、と。その呪いが成就したからなのか、あるいはセファイドの寿命が尽きかけているからなのか、月が満ちるごとに姿を現していた血塗れの亡霊は、もう見えなかった。


「病に食い尽くされるよりは、いくらか格好のいい死に様だな。始めてくれ」


 サリエルは肯いて、アルハ神像の傍に戻った。


「この石像は、四百年前に外に出た技術者が、地下の施設から引き揚げたものです。旧い時代の宗教美術で、今はもう折れてなくなっていますが、元々は背に翼の生えた人間を象っていました」


 血の通わぬ石の顔を、同一の静けさを湛えた美貌が見上げる。アルハの姿だと言い伝えられてきた石像を、セファイドもまた改めて眺めた。


「そういえば背面が少し欠損しているか。旧い神には翼があったのか?」

「神ではなく、神の御使いの姿です。しかし、信仰する者がいなくなった今、これはただの目印にすぎません」


 サリエルは石像の正面に立ち、台座に右掌をあてがった。力を込めたふうはないのに、石像が小刻みに揺れる。耳触りな摩擦音が響いて、石像は床の上を台座ごと後退し始めた。


「建国以来、動かしたことがないと聞いているぞ」

「重かったからでしょう」


 呆れたようなセファイドに淡々と言ってのける。相当な重量のある石の塊が動いたのは、サリエルの人間離れした筋力のせいか、それとも仕掛けが施されていたのか。


 石像が動くと、四角く残った台座の跡がそのまませり上がってきた。サリエルは目印と言ったが、床の一部に特殊な機構が組み込まれていたらしい。

 石の角柱はサリエルの腰の高さで止まった。細かい傷の入ったその表面が自動的に横にずれて、中から光沢のある黒い石板のようなものが現れた。

 サリエルは何ら迷うことなく、指で石板をなぞる。その動きにつれて細かい文字が板の表面を流れた。セファイドは興味深げに覗き込んだが、彼には読み取れぬほどそれらは高速で表示されていた。


「インターフェースは正常に作動……あとはDNA情報を正確に解析できるかどうか」


 サリエルは一つひとつ確認するように呟いて、セファイドを振り返った。


「陛下、こちらへ――あなたの血液が必要です」

「血液?」

「この『遺跡』で眠っていた旧人類の遺伝情報こそが鍵なのです。砂漠の民に混じることで消失した系譜もありますが、最も古い血統を持つ王族であれば、必ずそれらを持っているはずです」

「『遺跡』に入る資格があるかどうか確かめるというわけだな」


 セファイドはむしろ楽しげに石柱に近づいて、服の左袖を捲り上げた。


「この部分に血を……」


 光る板の一部を指して言いかけ、サリエルは動きを止めた。軽い溜息とともに天井を仰いだのは、彼にしては珍しく憮然とした仕草だった。


 理由はすぐに分かった。入口の小さな鉄扉が勢いよく開いたかと思うと、『月神の間』に黒いつむじ風が飛び込んで来たのである。

 唖然とするセファイドの前に駆け込んで急停止したのは、リリンスであった。

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