船出
セファイドが訪問した時、シャルナグは寝台に半身を起こした状態で髯を剃っていた。
「邪魔したか?」
多少からかいの混じった問いに、
「何で人の家に勝手に上がり込むんだおまえは! 何で誰も知らせないんだ!」
シャルナグは真っ赤になって喚く。いきなりやって来た国王の背後では、屋敷を取り仕切る家令が申し訳なさそうに頭を下げていた。強引に押し止められる相手ではあるまい。
「お気遣いなく。ちょうど終わったところですわ」
屈託なく微笑んで、ごつい頬を濡れ布巾で拭ったのはキルケであった。シャルナグが狼狽した理由がこれだ。彼女は寝台の縁に腰掛けて、伸び放題になった彼の頬髯を整えていたのである。
衛兵の反乱により負傷したシャルナグは、あの夜からまる四日間、床に伏した。身体に回った毒素のため高熱を発し、意識不明の状態が続いた。
キルケはそんな彼にずっと付き添って看病をしていたのだった。昨晩になってようやく彼が目を覚ました後も病後を見守っている。丁寧に石鹸の泡を拭き取る手付きは、幼子に対するような慈しみに満ちていた。
「どうぞごゆっくり」
剃刀と盥を手早く片付け、キルケは頭を下げて部屋を出て行った。家令もそれに続く。
南向きの広い窓から陽光が燦々と差し込み、爽やかな風とともに中庭側の窓へと流れてゆく。午後の空気は長閑で暖かかった。
取り残されたシャルナグは気まずげに咳払いをした。四日間寝たきりだったせいでやつれてはいるが、存外元気そうな友人の様子にセファイドは安堵の息をついた。
「おまえが生きていてよかったよ」
「よかったのかどうか……部下を大勢死なせてしまった」
将軍の声は暗かった。あの場で襲われた将校たちはもちろん、反旗を翻した衛兵たちもまた彼の部下には違いなかった。
「それでも、生きていてよかった。幸い、毒を仕込んでいたのは隊長だけだったらしい。他の負傷者も順調に回復している」
反乱に加担した衛兵は二百人に上ったが、ノジフ以外に毒刃を使用したのは、国王と王太子に差し向けられた刺客だけだった。卑怯と謗られる手段を使うにあたり、確実に仕留めるべき標的にのみ絞ったのだろう。
「久し振りにシドニアの夢を見たよ」
シャルナグは薄い肌布団に視線を彷徨わせながら、死別した妻の名を口にした。
「私の右腕を掴んで、物凄く怖い目で睨みつけてきた。妙な話だ、生前にあんなに怒らせた覚えはないのになあ」
「まだこっちに来るなと怒ってたんだろう。追い払われたんだよ――それと引き換えに」
セファイドは手近な椅子を引き寄せて座りながら、彼の右半身を眺めた。
分厚く包帯の巻かれたシャルナグの右腕は、肘から先がなかった。傷口から侵入した毒素のせいで彼の右手の先は完全に壊死し、救命のために切断を余儀なくされたのだ。
利き腕を失うことは、武人にとっては自らの存在価値を奪われるに等しい。だが、昏睡状態から目覚めたシャルナグは、取り乱すことなく状況を受け入れた。
「これで未練を残さず職を譲ることができる。諦めがついたよ」
彼は病み上がりの憔悴した顔に清々とした笑みを浮かべた。自暴自棄になった人間のそれではない。
「少しばかり生活は不便になるがな。慣れるまで時間がかかりそうだ」
「残った左手は彼女を抱くのに使え」
セファイドは部屋の入口をチラリと見やって言った。
友人の軽口に、平素であれば照れるか腹を立てるところだったが、シャルナグは胸騒ぎを覚えた。
「……神の怒りを鎮めるために、国王自らがアルサイ湖の生贄になると聞いた」
「昨日まで寝ていた男が、耳が早いな」
「おまえのことだ、本気じゃあるまい。ちゃんと落とし所は準備してあるんだろう?」
「アルハ神のご機嫌次第かな。何せあちらは、俺にご執心だ」
悲愴感の欠片もない口ぶりは、かえって深い覚悟を感じさせた。かつて神殿に追い詰めた兄を討った夜も、彼は同じように明るかった。
この男は悲しいほどありのまま現実を見据えている――シャルナグはつくづくそう思う。現実に過剰な期待は持たない。だから絶望もしない。自らの生死すら同じなのだろう。
望んで手に入れた国王の座、欲して推し進めた国土の拡大、セファイドはこれまで願うものをすべて掌中に収めてきたように見える。それは大多数の民の幸せに繋がる、幸福な合致だった。
しかし本当は、彼には単に選択肢がなかっただけではないか、とシャルナグは感じた。王家に生まれた彼の立場で物を見、考えれば、すべきことはひとつしかなかったのかもしれない。彼自身が望むと望まざるに拘わらず。
セファイドは軽く首を振った。
「諸国を併合して砂漠を駆け回っていた頃は……楽しかったな。世界は広くて砂ばかりで、どこまで行っても果てが見えなかった。毎日のように命のやり取りを経験するのに、不思議と自分が死ぬとは思えなかった」
独白めいた言葉とともに、遠い夕日を眺めるような表情で彼は目を細める。
赤く焼け落ちる空と、金色の砂丘、敵味方入り混じった兵士の躯、乾いた血の臭いを運ぶ風――シャルナグの脳裏にもかつての日常が一瞬蘇った。
死線を潜り抜けながらも怯まずに進めたのは、ただその先が見たかったからだ。
「若かったんだよ、私もおまえも。それに少し頭がおかしかったんだろう」
「まったく同感だよ。正気ではできない仕事だった。こんなことは俺たちの代で十分だ」
「リリンスはおまえを凌ぐ名君になると思うぞ。たぶんおまえとは別の手法で」
追従など決して口にしない友人からの賛辞に、セファイドは破顔して立ち上がった。
「もう行くよ。慌ただしくてすまないな」
「ああ……またな」
返事の代わりに差し出されたのは、左手だった。意図が分からずシャルナグは当惑したが、すぐに気づいて自分も無事な左手を伸ばした。
三十年来の朋友は固い握手を交わした。
「達者でな」
怪我人の見舞いには不似合いな挨拶に、シャルナグの胸騒ぎが再燃した。だがセファイドは砂漠のように明るい笑顔で身を翻した。
長身の後ろ姿が間仕切り布の向こうへ消えてから、あいつと握手をしたのは初めてだったな、と彼は思い至った。
シャルナグの寝室を出ると、中庭に面した廊下の端でキルケが佇んでいた。
丁寧にお辞儀をする彼女の前を無言で通り過ぎ、数歩歩いてからセファイドは立ち止まった。
「あの不器用な堅物をよろしく頼む」
「まだ……分かりません。ただの同情かも」
「嫌いでなければいい。情愛は後から育つものだ」
「陛下、私は」
キルケは一歩踏み出し、しかしそれ以上は進めなかった。進んではいけない気がした。
「私たちは、この都がなくなってしまっても、どこへでも参ります。どこででも生きていけます。陛下のいらっしゃる場所こそがオドナスの中心になるのですもの」
これまで受けた恩義に報いたいのに、どれほど自分がこの国を愛しているか伝えたいのに――そう声を掛けるのが精一杯だった。
「ありがとう。そう言ってくれる者たちを守るのが、俺の存在価値なんだよ」
セファイドは振り向かずに答えて、颯爽とした足取りで去って行った。背負ったものの重さと、捨てなければならないものの大きさを微塵も感じさせない、真っ直ぐな背中であった。
キルケは彼の後ろ姿が廊下の角に消えるまで見送って、再びシャルナグの部屋に足を向けた。
五ヶ月前に受けた四度目の求婚に、返事をするために。
王都にやって来て覚えた櫂の扱いは、三年間でずいぶん上達していた。ナタレが一人で操る小舟は、危なげなく湖を進んで、中島に辿り着いた。
アルサイ湖の水位低下は、彼の目にも明らかだった。水面を漕いでいる間はそれほど感じなかったが、岸に近づくと草の生えていない岩盤が剥き出しになっている。ずっと水中にあったはずの部分である。
船着場も太い橋桁を露出させていて、相対的に桟橋は高い位置になっていた。
舟を舫うと、ナタレは耳を欹てた。緩い風に乗って艶めいた音色が鼓膜を震わせる。彼にとってはお馴染みの弦の音である。
神殿に行くつもりだったが、目的の人物は案外近くにいるようだった。
ナタレは音を頼りに、丘の上の神殿に続く道を登って行った。傾きつつある太陽に急かされるように、自然と速足になった。
サリエルは丘の中腹にいた。
道から外れた茂みの向こうが崖になっていて、そこに腰を下ろしている。膝に抱えたヴィオルが、切なげな旋律を伸びやかに歌っていた。
眼下に湖面が望める見晴らしのよい場所だった。すでに太陽は気怠い茜色を帯びて、湖を赤く照らしていた。
彼はナタレが声を掛ける前に演奏を止めた。
「何か用かい?」
「あなたと話がしたくて来た」
振り向いた白い顔は、最後に別れた十日前と変わらず美しい。しかし、あの夜凄惨な現場を目の当たりにしてしまったナタレは、平然と復活した彼を今までと同じには受け入れられなかった。
緊張を露わにするナタレに、サリエルは微笑んだ。
「瞳孔が拡張しているね。運動量以上に心音も速まっている。私が怖いか?」
「……あなたの正体はこの際どうでもいいんだ。サリエルが月神の御使いでも、もっと邪な何かでも構わない。お願いがあるんだ」
若者の真摯な眼差しに、苦渋の翳が落ちた。
「あの人を……国王を死なせないでほしい」
予想していた訴えであったのか、サリエルに驚きの気配はなかった。
「陛下はオドナスに必要な人だ。湖と同じか、それ以上に貴重な存在だと思う。今あの人にいなくなられたら、国は乱れて分裂してしまうかもしれない」
「それこそ君の望みだったのでは? ロタセイは再び独立を果たせるだろう」
少し意地悪く指摘されて、ナタレは口籠る。
確かに二年前まではそう信じていた。国王さえ、セファイドさえいなくなれば、祖国は自由になれるのだと。しかし今は、砂漠を小国が乱立していた二十年前の状態に戻すことが良策だとは思えないのだった。
それに何よりも――。
「リリンスからこれ以上家族を奪わないでくれ」
ナタレは押し殺した声で、胸の奥底の本心を吐き出した。
幼くして実の母親と死に別れ、自らの拘わる後継者争いで兄と養母を亡くし、今また父親を失おうとしている。自分も肉親と縁が薄かっただけに、ナタレは彼女の悲しみが痛いほどに理解できた。しかも父親の逝去は、彼女の肩に孤独以上のものを押し付ける。
「今この状況で王座を継ぐのは、あまりにも酷すぎる。彼女にはもっと時間が必要だ」
「君の世界はリリンス殿下を中心に回っているんだね。あまり一人の人間に囚われすぎるのもどうかと思うが、故郷しか眼中になかった頃よりは建設的になった」
皮肉っぽい言葉も彼が言うと毒がなかった。サリエルはヴィオルを手に、ゆっくりと立ち上がった。
「同じように、陛下も湖を守ることを望んでいる。彼はここで生きて、やるべきことを全部済ませた。後は次代の人間に任せたいと考えても、誰も文句は言えないよ――もう、解放して差し上げろ」
「サリエル……」
「それとも、力尽くで止めるか?」
今の今までそんな考えは微塵もなかったのに、サリエルが一歩踏み出すと同時に、ナタレの右手が腰の剣に掛かった。無意識の反応だった。本能が相手を敵とみなしているのだと知り、ナタレは戦慄する。
夕日が湖面に跳ね返り、岩と木々を赤く照らす。逆光になってサリエルの表情は見えない。
初めて出会ったのも、こんな時刻だった。
アノルトと真剣で渡り合った時を凌ぐ緊張感が、ナタレの背筋に冷たい汗を流した。
理性とは関係なく、もう一歩でも楽師が近づけば身体が反応する。赤く張りつめた大気に禍々しいものが満ちた時――。
「私を斬っても無駄だと知ってるだろう?」
サリエルの声は至近距離から聞こえた。
たった今、数歩の距離を置いて立っていたはずの彼は、ナタレの間近に迫っていた。移動の軌跡を何ひとつ感じさせずに。
しかも、ナタレが握った剣の鞘にサリエルの左手が掛かっている。軽く添えられたようにしか見えないのに、万力で締めつけられたかのごとく、ぴくりとも動かせない。
「君の野性は素晴らしいが、その腕は大切な人のために活かすといい」
凍りつくナタレに優しく囁いて、サリエルはそのまま進んだ。
茂みを抜けて小道へ戻り、神殿の方へ登って行く彼を、ナタレは黙って見送るしかなかった。全身から汗が噴き出し、肩の筋肉が弛緩した。
剣を抜かなくて、いや、抜けなくてよかったと、心底思った。発作のような殺意がもたらしたであろう結果は、想像したくもなかった。
汗を拭いつつ手元を見て――ナタレは息を飲んだ。
抜けないはずである。鋼鉄でできた剣は無残に壊されていた。折られていたのではない。鞘の上から握り潰されていたのであった。
薄い金色の満月が、南の空で冷酷に輝いている。
その冴え冴えとした光に気後れしたのか、濃紺の空に他の星の姿はない。荒野をただひとり行く旅人のように、孤高の天体は峻厳であった。
アルサイ湖は月光を惜しみなく受け止めてなお、空よりも暗い色合いに沈んでいた。風はほとんどなく、湖面は滑らかで、木々の間に埋められた巨大な鏡のようだった。天空を渡る月の姿をさかしまに映し出している。
時間の止まった水の面を鋏で切り裂くように、一艘の瀟洒な小舟が渡っていた。
樹脂で黒く塗られた船体には、そこかしこに銀色の飾りがつけられている。舳には行灯が提げられて、ぼんやりと水を照らした。
二人の神官が櫓を操るその舟の乗客は、オドナス国王ただ一人であった。白い礼服姿の彼は、艫に近い部分に設えられた座椅子に腰を下ろして目を閉じていた。湿った夜の大気が彼の頬を撫でてゆく。
明るい月光の下、舟は真っ直ぐに中島へと向かって行った。




