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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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罪と罰

 国王の執務室で、リリンスは大臣たちから報告を受けていた。


 一ヶ月ほど前からアルサイ湖の湖水が謎の減少を続けており、最悪の事態に備えて遷都の準備を始めていること。国民への発表はリリンスらの帰還を待って行う予定だったこと。

 反乱の首謀者は異常事態を知った衛兵隊長のノジフで、部下たちを扇動し凶行に及んだらしいこと。


 リリンスは気丈に話を聞いていたが、続けてタルーシア自害の報が寄せられた時、衝撃のあまり立っていられなくなった。彼らを焚きつけたのは彼女だったのだと、すぐに思い至ったからだ。

 過去を片付けるのは私たちの役目だと言い放った義母は、恐ろしいほど落ち着き払っていた。すでに覚悟は決めていたのだ。いや、実の息子が逆賊と呼ばれた時から、彼女は決心していたのかもしれない。


「どうして……あの時……」


 無理やりにでも問い詰めなかったのかと、リリンスは父の執務机に突っ伏した。義母の命を救える最後の機会を、自分はみすみす逸してしまったのだ。


「王太子殿下に申し上げます!」


 彼女の悲嘆は、切羽詰まった呼びかけで遮られた。隊長に代わって衛兵隊の指揮を取る副隊長が、執務室の外に駆けつけていた。


「た、ただ今、王都の民が王宮前に詰めかけております。湖水の減少を知って神罰だと……国王陛下から直接の説明を要求している模様。その数およそ二千」

「馬鹿な!」

「いつまでも隠してはおけないわ。時間の問題だったでしょう」


 執務室に詰めた国宰たちには動揺が広がったが、リリンスは冷静に首を振った。


「このままでは暴徒になりかねません。衛兵隊と憲兵隊に強制排除の許可を」

「許可はできません。集まった人々に対する武力の行使は一切禁止します」


 きっぱりと言い切って、彼女は立ち上がる。

 この場に父はいない。二人の兄も遠く離れた領地へ帰ってしまった。自分で何とかするしかないのだ。


「私が行きます」


 自然な足取りで、リリンスは部屋の外へ向かった。





 男は苛立つ気持ちを抑えながら、王宮の正門を見上げていた。

 人の背丈よりも高い鉄の門扉は、日が昇ったばかりの現在は固く閉ざされている。朝の開門時刻はもうすぐだが、この状況では開けられないだろうと思えた。

 男の周囲には数え切れぬほど大勢の人間がひしめいている。みな、王都に暮らすごく普通の人々であった。商家の下働きや染物職人や食べ物屋の主人や、群衆は様々な職業の人間で構成されている。


 男は、広場に店を出す露天商であった。

 先の地震で妻を亡くした悲しみは未だ癒えなかったが、幼子を二人抱えて悲嘆に暮れている暇はなかった。今朝も普段通りに子供を母親に預けて、広場の定位置で開店準備をしていたところ、市場の一角で騒ぎが起こっているのに気づいた。

 発端は、今朝獲れた魚を市場に持ち込んだ漁師たちだった。彼らの口から語られたのは驚くべき事実だった――アルサイ湖の水位が確実に下がっているというのである。

 もちろん季節によって多少の水量変化はあるから、漁師たちは最初はさほど気に留めていなかった。しかし日を追うごとに水は減り、岸辺は茶色い土を露出するようになって、今朝はついに今まで決して見えなかった水中の岩が姿を現したという。


 そういえば最近水路の水が減っている、水門の管理人があまり街の酒場に顔を出さなくなった、箝口令が敷かれているに違いない――そんな憶測が次々に飛び始め、


「神罰の続きだ! 王国の跡継ぎがアルハ様のお気に召さないんだ!」


 誰かがそう言って、いっきに動揺が広まった。

 神殿を荒したという王兄、王太子の指名に異を唱えたという第一王子、この二人が討ち取られて、アルハの怒りは鎮まったと誰もが思っていた。安堵は根底から揺らいで、地震以来の不安が亡霊のように人々の心に蘇った。

 真実はどうなのか――それを知りたいと、誰からともなく彼らの足は王宮へ向かった。


 早朝の涼しさには不似合いな熱気に押されて、男もここまでやって来た。とはいえ怒りの気持ちは湧いていない。国王の行動が神罰を呼びアルサイ湖が干上がるなど、まだ半信半疑だった。

 冷たく頑丈な門扉を前に、男は考える。いくらここで待っていても、たぶん国王は出てこないだろう。下々の者が国王に説明を求めるなどとんでもないことだ。今は自分たちを見張っているだけの門兵が剣を抜くまで時間はかかるまい。そうなれば憲兵だって駆けつけてくる。


 衝突になるのが分かり切っていて、男はその場を離れられなかった。ただ事実が知りたい――その気持ちが苛立ちから怒りへ変わることも、彼は分かっていた。


「国王出てこい!」

「神罰が続いているのは誰のせいか!」


 気の早い者たちが門を叩き始めた。負の感情はたやすく群衆に伝播する。あちこちで怒声が上がり、門兵が緊張の面持ちで剣の柄に手を掛けた。


 その時、門は重々しい音を立てて内側から開いた。

 動き始めた扉を避けて人々は後ずさったが、王宮へ繋がる入口が開かれたと知るや、一斉に雪崩れ込もうとした。


 しかし、群衆の足は止まった。門の内側に一人の少女が立っていたからである。

 痩躯を包む金糸雀カナリヤ色の衣装が、朝の光を浴びて輝く。無造作な短髪に縁取られてはいても、その面貌は息を飲むほどに美しかった。

 少女の周囲には数十人の大人がいた。剣を携えた衛兵がほとんどだったが、文官然とした男たちまで彼女を守るように居並んでいる。少女のすぐ背後から鋭い視線を巡らせているのは、彼女と同年代に見える少年である。


 肌が引き攣る緊張感の中、少女の表情だけが晴れやかだった。物怖じしない大きな瞳が群衆を映し、可憐な唇が言葉を発した。


「こんな早朝に何事ですか?」


 実にさり気ない問いかけであるのに、声はよく通った。地声に恵まれている上に発声方法を心得ているのだろう。


「私は第三王女のリリンス、オドナスの王太子です。父に代わって用件を伺います」


 ざわめきが広がり、男もまた驚いた。

 昨日の凱旋行進では遠すぎてよく分からなかったが、間近で見る王太子は想像したよりずっと人間的だった。美しくはあっても異質ではない。以前に会ったような既視感すら、男は覚えた。


「こっ、国王陛下はどこに……?」


 群衆の中からためらいがちな声が上がった。王太子の自然な佇まいに気を抜かれたようだ。王太子はそちらを見て、


「父は中央神殿に参りました。アルサイ湖の異変について、アルハの神意を問うためです」


 と、あっさりと答える。再び人々がどよめいた。


「やはり水が減ってるんだな!?」

「神罰なのか?」

「第一王子を殺したせいか!? 国王が子殺しの罪を犯したからじゃないのか!」


 詰め寄らんばかりの勢いでいきり立つ彼らとは対照的に、王太子は静かに首を振った。


「まだ分かりません。それを確かめるために、父は神の御前にいるのです」


 耳触りのよい言葉で欺いたり、不都合な事実を隠匿する回答ではなかった。


「もし本当に神罰なら、そしてその原因が父と私にあるのなら、何らかの形で責任を取るつもりです。アルハ神の怒りが治まるように、この身を処すとお約束いたします。けれどもし……神罰でないのならば」


 王太子は言葉を切り、男は唾を飲み込んだ。神罰には関わりなく湖が消え失せようとしているとしたら、それこそが最も恐ろしい。

 だが、彼女は少しもその顔を曇らせずに、快活に続きを述べた。


「その時はこの都を出ましょう。アルサイ湖の恵みに依存してきた王都は、湖の消滅とともに滅ぶのが運命さだめ――でも人間は、私たち人間は違います。神の恵みを失っても生きていかなければなりません。神が私たち一人ひとりを直接殺しでもしない限り、生き続けるべきなのです。生存こそが、私たちに許された唯一絶対の自由なのですから」


 化粧っ気のない若々しい美貌が人々を見据えた。二千もの人間を均等に見渡しているにも拘わらず、男は彼女の視線を意識し、一対一で対峙しているように感じた。

 神をも畏れぬ強い言葉で群衆を鼓舞しながらも、その眼差しはあくまで誠実である。


「新しい土地はすでに見つけています。その地で今以上に豊かな王都を築きましょう。オドナスの民でありたいと望む人間が一人でもいる限り、国は決して亡びません」


 王太子は輝くような笑顔を見せた。

 神罰であれば父親ともども身をもって贖罪し、神罰でなければ遷都計画の陣頭に立つと、この可憐な少女は宣言しているのであった。どちらにせよ命懸けになるのは必至である。

 口で言うほどたやすい事業ではない。壮絶な苦難の道になると分かり切っていながら、人々は彼女の決意に飲まれた。途方もない理想を掲げたその言葉を信じたいと、男も思った。


 王太子がさらに何か言おうとした時、ふいに、その背後の衛兵隊が二つに割れた。

 彼らは機械仕掛けのごとき動きで道を空け、奥から登場した人物に敬礼の姿勢を取った。文官たちも恭しく頭を垂れる。

 姿を現したのは、背の高い壮年の男だった。濃紺の長い上着に包まれた体躯は逞しく、彫りの深い端整な顔立ちは鷹を思わせる。このように慇懃な形で迎えられる人物といえば一人しかいなかった。


「神意は下った」


 国王は王太子以上に晴れやかな表情で言った。神殿から戻ったばかりなのだろうが、姿勢にも声にも疲労の色はない。その健やかな明朗さは、人々に安堵を抱かせるに十分だった。

 しかし続けて語られたのは、平穏とは程遠い内容だった。


「此度の災いは、すべてアルハの神罰である。神は、神殿を荒しいくさを引き起こした王兄と第一王子に怒り、半年前の大地震をもたらした。さらに、兄と子を手に掛けた余に対しても罰を下したのだ。その罰こそがアルサイ湖の異変である」

「そんな……」


 王太子は激しく動揺して国王を見る。父親を慮る、ごく普通の娘がそこにいた。

 彼女の驚きはもっともだと、男も思う。罪人を誅した者までが罪を被らねばならないとは。


「子殺しはそれほどまでに罪深い。しかも、余が肉親を殺めたのはこれが初めてではない」


 国王は厳しく言い放った。それは自らへ向けた峻烈な呵責である。


「これらはあくまで国王個人が背負うべき罪。次の満月の夜、余は神殿に赴き月神から相応しき罰を賜るであろう――それでチャラだ」


 最後に彼は子供っぽい笑みを見せた。


 伝えるべきことはすべて話したと言わんばかりに、そのまま素っ気なく身を翻す。王太子が慌てた様子で後を追い、兵士たちは門の前に立ち塞がって、終わりだ解散しろと皆に告げた。

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[一言] 柘榴石の首飾りを売った地震で亡くなった女の人の家族は民衆視点の代表だったのですね。再登場するとは思っていなかったので(忘れていました)驚きました。
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