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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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黄昏の神話

 衛兵隊による王軍将校への奇襲は、広間に駆けつけた王軍兵士二百名の加勢により鎮圧された。自室の窓から抜け出したリリンスが軍本部に駆け込み、非常事態を知らせたのである。

 敵味方とも多数の犠牲者が出た。凱旋を祝うはずの宴の席にはおびただしい血が流れ、同じオドナス兵士の屍が累々と転がっていた。負傷者の数はそれ以上で、軍医や王宮付きの医師だけでは手が足りず、中央神殿にも応援依頼が出された。広間はさながら戦場のように、大勢の呻き声と血の臭いで溢れた。


 シャルナグは部下に指示を飛ばしながら、足元に伏した男を見下ろす。衛兵隊長ノジフは、未だ剣を交えているかのような険しい顔つきのまま息絶えていた。

 熟練の将軍といえども、手加減して勝てる相手ではなかった。シャルナグの眉間に深い皺が刻まれているのは、謀反の全容を把握しているであろう指揮官を殺してしまったからではなく、有能な軍人を失った口惜しさのためであった。

 血と脂に塗れ刃毀れした剣を、シャルナグは鞘にしまった。ノジフが単なる思い込みで凶行に走ったとは考えられなかった。主張は事実かもしれない――辞職する前に手伝ってほしいことがあると、セファイドは言っていたではないか。


「セファイド……おまえ、今度は何をやらかした?」


 彼が嘆息とともに呟いた時、


「国王陛下はご無事です!」


 廊下から広間に戻ってきたウーゴが、駆け足で近づいて報告した。


「ですが、警備にあたっていた衛兵が相当数やられたと……エンバス侍従長の殉職も確認されました」

「そうか……他にもまだ謀反人が潜んでいるやもしれん。衛兵隊の詰所を押さえて、加担した者を探せ」

「了解しました。閣下、顔色が真っ青ですよ? 大丈夫ですか?」


 気遣わしげなウーゴの視線から、シャルナグは顔を背けた。額に脂汗が滲み、指先が細かく震えている。右腕が燃えるように熱かった。

 尋常ならざる様子に戸惑うウーゴの前で、彼はその場に膝をついた。


「閣下!」

「シャルナグ様!」


 異変に気づいて、広間の隅からキルケの声が上がった。女官とともに王軍兵士に保護されていた彼女は、長い衣装をたくし上げて駆けつけてくる。


「シャルナグ様、お怪我を!?」


 キルケは、彼の右袖が破れて肘に血が滲んでいるのを見とめた。多量の出血ではなく、少し汚れた程度である。


「掠り傷だ。大袈裟にするな」


 シャルナグはそう答えたが、強い髯に覆われた頬からはみるみる血の気が失せてゆく。ウーゴはさっと表情を強張らせ、上官を怒鳴りつけた。


「早くおっしゃって下さい! 衛兵隊長の刃先には毒が塗られてたんですよ! 救護班! 早く来い!」

「うろたえるな……いずれは全軍を預かる男が……」


 小さな傷口から染み込んだのはどれほど強力な毒であったのか、屈強な将軍の身体から自由が奪われつつあった。関節が痺れ感覚が失せ、前のめりに崩れてしまった。

 キルケは衣装の裾を引き裂いて、その布をシャルナグの太い右腕に巻きつけた、少しでも毒の侵食を遅らせようと、力いっぱい締め上げる。


「しっかりして下さい、シャルナグ様! 目を開けて!」


 彼女は青白い顔を両手で挟み、必死で呼びかけた。宝石を散りばめた髪留めが外れて、細かく波打つ黒髪が彼の上半身に降りかかった。


「私、あなたにまだお返事をしていないわ。聞かずに死んだら勿体ないでしょ!? ねえ、頑張って!」


 想う女の励ましは耳の奥に届いていたが、シャルナグは何も答えられず、意識を失った。

 最期かもしれぬのに、気の利いた台詞ひとつ遺せない自分を情けなく思いながら。





 反乱は失敗に終わったが、深夜の王宮は喧騒に包まれていた。

 未だ混乱の収まらぬ中、国王はウーゴをはじめとする王軍幹部に事態の収拾を任せ、神殿に向かった。


 上着を取り換えただけの服装はあちこちに血痕が目立つ。険しい表情で足早に回廊を進む姿は、声をかけるのがためらわれるほどの殺気を纏っていた。

 恐れ気なく駆け寄って来たのは、リリンスであった。夜着から平服に着替えた彼女は、不安げな面持ちで息を切らせている。


「お父様……ご無事でよかったわ」

「よくやってくれた、リリンス。おまえが知らせに走ったおかげで、大事に至らずに済んだ」

「どちらへいらっしゃるのです?」

「神殿へ。アルサイ湖のことはもう聞いただろう? 神意を問うてくる」


 この非常時に父がそんな行動を取るとは、リリンスは意外な気がした。

 彼の後ろにはサリエルが追従している。燈台の灯りが弱々しいせいか、普段にもましてその横顔は白々としていた。リリンスは何気なく彼を眺めて――あっと声を上げた。もちろん、その左頬から火傷痕がすっかり消え失せていたからだ。


「サリエル、あなた、その顔……」

「この男はな、アルハの御使いなんだ。オドナスを滅ぼしに来たらしい」

「ええ?」


 冗談にしては、父の口調は投げやりすぎた。訳が分からず当惑するリリンスに、サリエルは困ったような笑みを見せた。その穏やかな微笑が不吉だとは、彼女には思えなかった。

 付き添ってきたナタレがリリンスを下がらせる。セファイドは何やら念を押すようにナタレに肯き、足早に先へ進んで行った。

 ナタレは明らかに緊張した顔で二人を見送ったが、慄きに似た感情はむしろサリエルに向けられていた。





 アルサイ湖の中島はいつになく静かだった。王宮での負傷者救護に多数の神官が駆り出されているからだ。舟で渡ってくる途中でも、応援の神官を乗せた数艘の舟と擦れ違った。

 先触れもない訪問だったため、船着場で待つ者はおらず、セファイドはサリエルを伴って神殿への坂道を進んだ。

 星明りだけが頼りの道行きは暗く、濁った水が足元に纏わりつくような感覚を彼は感じた。


 神殿に到着すると、礼拝堂ではなく資料の保管棟の前で、ゼンともう一人の神官が立っていた。


「いらっしゃいませ、陛下。十分なお出迎えができず申し訳ございません」

「俺が来ると分かっていたのか?」


 セファイドは挨拶をしたゼンに尋ねて、それから彼の隣に立つ女性神官を眺める。髪を顔の脇で纏めたその女は、白い神官服の腹部がはっきりと膨らんでいた。


「ユージュがそう申しました。王宮での有事を聞いて、今夜中に必ずあなた様がおいでになると」

「聡すぎて可愛げのない女だ。で? なぜ妊婦が神殿に?」

「これは一族の希望です。我々にも守らねばならぬ未来ができました」


 実年齢よりも老けて見える皺深い顔が、いっそう険しく引き締まった。最長老の神官の傍らで、母となる女はサリエルを見詰めていた。信頼よりもさらに強い、信仰に似た感情が穏やかな眼差しに宿っている。


「いったいどれだけ隠し事をしているんだ! 契約違反もいいところだぞ」


 セファイドは苛立ちと呆れが入り混じった声で罵ったが、ゼンは特に気にした様子もなく、彼らを中へと招き入れた。





 保管棟一階奥にある部屋で、ユージュは待っていた。

 セファイドですら滅多に入室しないその部屋は、三、四十人で会議ができるほどの面積があった。広さ以上にガランとして見えるのは、彼ら以外に人間がおらず、家具も極端に少ないためだ。

 家具と呼べるのかどうか――素っ気ない簡素な机と椅子が等間隔で十組余り配置され、その上には似たような板が斜めに立て掛けられている。ごく薄いその板は鏡のようにも見えるが、表面は淡く輝き、様々な図形や文字を映し出していた。


「敵の多い方ですね」


 ユージュは血で汚れたセファイドの衣服に目をやって、ぼそりと言った。天井全体が光源になった照明は、彼女の理知的な面差しを硬質に照らしている。装飾を排除した無機質な部屋の雰囲気は、この女の居場所として相応しかった。


「湖の異変が露見して、殺されかけたのですか?」

「簡潔に言うとその通りだ。サリエルを連れてきた。何とかしろ」

「南部で酷い火傷を負ったと聞きましたが?」


 問いはサリエルに向けられたものだった。少し青白いこと以外は何ら異常のない美貌で、彼は肯く。


「先ほど腹部に裂傷を負いましたので、やむを得ず、再生を」

「この人を庇ったのね。まったく傍迷惑な……いっそ斬られてしまえばよかったのに」


 ユージュはオドナス語ではない言葉で毒づいて、一瞬憎悪すら籠った視線でセファイドを射た。


「何か悪口を言ったな」

「サリエル、水位の低下は『遺跡』が排水を始めたからですね? いろいろやってみたけれど、ここの端末からはどうしても中枢システムに入れない。停止するには扉の向こうへ行かなければ」


 サリエルは黙って机の上の薄い板を覗き込む。指でなぞると、文字らしきものが表面を流れていった。


「外側からアクセスできないよう、意図的にネットワークが遮断されているように思えます。やったのは、サリエル、あなた?」


 ユージュの瞳が黒雲母のように煌めいた。冷ややかでありながら、純粋な知識欲を感じさせる輝きである。


「四百年前にあの扉を閉じたのはあなたなんでしょう?」


 その一言はセファイドにも聞き取れる言語で発せられた。しかし、彼がその意味を理解するまで少しかかった。

 さすがに絶句するセファイドに対し、サリエルはごく自然に肯いた。


「ええ、私です。あの時、ここの水はすでに多数の人間の糧となっていました。彼らから生きる環境を奪うわけにはいかなかった」

「だから手をつけなかったのね。水を抜かず『遺跡』の本体を湖底で朽ちるに任せた」

「それは少し違います。守るべき『遺産』はその時解放しました」

「ちょっと待ってくれ、話がまったく見えない」


 セファイドは頭痛を堪えるように眉間を摘みながら、二人の会話を中断させた。遥か昔に滅んだ文明の痕跡がアルサイ湖に沈んでおり、サリエルはその番人なのだというところまではついていける。だが王国の起源にまで彼が拘わっているなど理解の埒外だった。

 ユージュはサリエルから視線を外さずに、素っ気なく答える。


「こう申し上げればお分かり頂けますか? ここにいるのは、オドナス建国神話に登場するお方――あなた方の言葉で言えば月神アルハその人なんですよ」


 具体性に欠ける説明に、セファイドはますます渋面を作る。どう反応してよいのか分からなくなっていた。


「サリエル、おまえ……いったい何年生きているんだ?」

「地上に降ろされてから八千三百五十七年と二百十日になります」

「八千……」


 再び二の句が継げなくなるセファイドの前で、サリエルは淡い微笑を浮かべた。旧い友人に再会したような、不思議な懐かしさが籠っていた。


「私の本当の名前は、CT5300―Sといいます。人間ではありません。旧時代に作られた人工生命体です」

「意味が分からない」

「順を追ってお話しします。あなたには聞く権利がある――あなた方こそが、かつてこの地に眠っていた『遺産』そのものなのですから」





 今から約八千五百年前、永遠に続くかと思われた人類の繁栄に斜陽をもたらしたのは、他天体の衝突でも、未知のウィルスの蔓延でも、人類自身が作り出した大量破壊兵器でもなかった。急激な気候変動が起きたためである。


 発端は突如として始まったマントル対流の活性化であった。それは数億年分の大陸プレート移動をわずか二百年の間に引き起こすほどのもので、各地で大規模な地震が頻発し、火山は軒並み噴火した。地形も海岸線も大きく変化して、海流が変わり、異常気象が続いた。

 海面上昇や砂漠の拡大による可住面積の減少、平均気温の低下と農作物の不作――人類による惑星深層部の開発が何らかの影響を及ぼしたのではないかとも考えられたが、すべて後の祭りであった。必死の努力も虚しく、人類はその数と文明を衰退させていった。


 二百年という時間は、星の歴史の中では一瞬にも等しい短期間である。しかし一方で、人類にとってはあらゆる手段を講じ、結論を出すのに十分な歳月であった。

 もはやこの星では文明を維持できない――彼らは、二百年に渡る闘いの末にそう断じた。


「人類の大部分は……と言っても、最盛期の半数以下に減少していましたが、この地上を去ることを選択しました。地球によく似た環境の惑星を見つけ、移住を決めたのです。当時の文明をもってしても辿り着くのに数百年はかかる、遥か彼方への旅です」


 サリエルはごく淡々と語る。彼の口から出ると、途方もない昔話も真実味をもって聞こえた。

 セファイドとユージュは、端末と呼ばれた板の前の椅子に座って、話を聞いている。ユージュにとっては物心ついた時から教えられてきた歴史であった。


「この地上から人間がいなくなったのか?」


 信じられない様子のセファイドの問いに、サリエルは首を振る。


「いえ、ほんの一握り、去らなかった人間はいたのです。地球から逃げることをよしとせず運命を共にすべきだという信条の持ち主や、それに……当時の政治的、経済的理由で移民船に乗れなかった者たちです」


 はたして、人類は二つに分かれた。地球を見捨てた多数派と、様々な事情で残留を余儀なくされた少数派である。そこには当然、綺麗事では済まない争いがあった。詳細な説明を避けたが、サリエルの表情にもわずかな苦みが混じった。


「去った者たちは、自分たちの文明の一部を地球に残していきました。いつの日にかまた生存可能な環境が戻ることを信じ、比較的安定した地盤を選んで、各地の地中に『遺跡』と呼べるものを隠しました。ここも、そのひとつです」

「当時の技術と知識を保存していったのだな。この神殿にあるような」

「けれど、彼らが本当に遺したかったのは、別のものでした。彼らの究極の望みは、復活した地球で人類の文明を再生すること。そのために、彼ら自身を遺していったのです」


 すなわち、各地の『遺跡』に隠されたのは数億人分のクローン胚だった。

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