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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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神様のいない夜

 刺客たちは一瞬怯んだもののすぐに襲い掛かってきた。

 ナタレはリリンスを壁際に押しやると、その前に立ち塞がった。一人の左胸に刃を叩き込み、閃いた剣先を別の男の喉に突き立て、瞬く間に二人を葬ってのける。狭い間合いで敵の攻撃を躱せるのは、卓越した動体視力の賜物だった。

 黙々と、機械的とも思える動きで『仕事』をこなしてゆく彼の方こそ、暗殺者に相応しく見えた。


 寝台の布団も、床も、壁も、おびただしい血潮に塗れた。本来鮮烈な赤であるはずの染みは、薄闇に紛れて暗い青に見える。鉄の混じった臭いの中、血の滴る剣を構えたナタレは、仮面のような無表情で敵方に近寄った。

 鬼気と言ってもいい彼の迫力に、残り四人になった刺客は後ずさった。


 戸口の傍まで下がった男の一人が、いきなり前方へつんのめる。その背中を思い切り蹴飛ばして入って来たのはフツだった。

 よろけたその男に再度蹴りを入れ、床に倒れたところを踏みつけて、


「武器!」


 フツが怒鳴る前に、ナタレは手近な死体から剣を取って投げた。足元に突き刺さったそれを素早く引き抜いて、フツは容赦なく男の背中に突き立てた。


「前にもこんなことあったな。お?」


 剣を構えたフツは鼻をひくつかせ、思い切り顔を歪めた。見ようによってはおどけている。


「妙な臭いがする。この剣、毒塗ってあんで。気ぃつけや」


 二対三の戦闘はあっという間に終結した。

 ナタレもフツも、以前に王都の路地で乱闘に巻き込まれた時から格段に腕を上げている。フツはその腕力を生かして相手の攻撃を押し払いつつ、敵二人の脳天から胸元まで斬り下ろした。ナタレもさらにもう一人を仕留め、刺客八名は殲滅された。


 もうええぞ、とフツが声をかけると、待ち兼ねたように居間から侍女が飛び込んできた。宿直のキーエと、異変を察知してやってきたティンニーである。彼女らは血の海になった部屋の様子に怯むこともなく、壁際で立ち尽くすリリンスに駆け寄る。


「殿下! お怪我はございませんか!?」

「う、うん……何が起こってるの?」


 あまりの出来事にリリンスは狼狽を隠せない。ナタレは死体となった男たちの軍服や装備を調べ、


「やはり、こいつらは本物の衛兵です。組織だった計画なのかもしれません。新手が来る前に、早く避難を」


 と、冷静に告げた。衛兵隊の一部がこの暗殺に加担しているとすれば、ぐずぐずしているうちに援軍が投入される恐れがある。情報を得るための生存者を残さず、彼があえて全員倒したのは、その可能性を考慮したからだった。


「その人たち……神罰がまだ続いてるって……」

「それを考えるのは後にしましょう。今はとにかく安全な場所へ」

「いえ、ちょっと待って。神罰云々で私を襲ったのならば、当然お父様も狙うはずよね」


 リリンスは震える手で口元を押さえた。当初の動揺は去り、大きな目には理性の光が宿っていた。


「あなたたち、腕が立つのはどっち?」


 ナタレとフツは顔を見合わせた。一瞬の間の後、少し嫌そうにフツが相手を指す。


「悔しいけど、こちらさんです」

「ではナタレ、すぐに国王陛下の元へ向かいなさい」

「しかし殿下!」

「私なら大丈夫。窓から逃げるのには慣れてるの。お願い、お父様を守って」


 返り血で汚れるのも構わず、リリンスはナタレの手に自分のそれを重ねた。彼女はもう震えてはいなかった。

 逡巡したナタレが結局了承したのは、真剣な眼差しに押し切られたのと、何よりもその言葉が王太子の命令だと気づいたからであった。





 追加の酒を取り出た女官の悲鳴が響き渡ると同時に、広間に衛兵が雪崩れ込んできた。

 人数は百人以上――宴会に出席した将校の頭数を上回っている。彼らはすでに抜刀していて、ときの声を上げながら広間に拡散した。卓台が引っ繰り返り、皿や酒瓶が荒々しく蹴飛ばされる。

 杯を剣に持ち替えて、シャルナグは立ち上がった。酒気を微塵も感じさせぬ機敏な動作である。

 他の将校たちもそれに続くが、足元がふらついている者が少なくなかった。


「何の真似だ、ノジフ!」


 シャルナグは衛兵の中心に立つ男に向かって怒鳴った。卓台を挟んで対峙するその男は、衛兵隊長のノジフである。十年以上に渡って王宮の守備を統括してきた彼は、誰よりも王家と職務に忠実な軍人であるはずだった。


「これは月神のご意志です、将軍閣下」


 ノジフはごく冷静に告げた。右手の剣の切っ先は、ぴたりとシャルナグを捉えている。


「我々は国王と神殿にたばかられていた。王太子の出自こそが、あの地震を招いた原因だったのです。しかも国王は正統な王子を殺めた――その大罪が、今度こそ決定的にオドナスを滅ぼす」

「埒もない……」

「閣下が信じなくとも、アルサイ湖はあと数ヶ月で干上がる運命です」


 ざわ、と将校たちに動揺の気配が広がる。敵を惑わせるための虚言だとは思えぬほど、ノジフの低い声には鬼気が籠っていた。


「我々はアルハの怒りを鎮め、この国を救わねばならない。背信者たる国王と偽の王太子、そして第一王子弑逆に加担したあなたの首を、神への供物として貰い受ける!」

「ふざけんじゃないわよ!」


 突如、張りのある美声が跳ね上がった。キルケである。広間の中央に立つ彼女は、燃えるような瞳でノジフを睨みつけていた。逃げ遅れた女官が数人、その周囲で身を寄せ合っている。


「あの方がどんな思いで決断されたかも知らないで! リリンス様への後継者指名が気に入らないのなら、決まったその時に文句を言えばよかったのよ。そんな度胸もないくせに、後になってぐだぐだと……何でもかんでも他人のせいにするな!」


 まさに舞台上の歌姫――キルケの啖呵は実に堂々としていて、よく通る声質と相まって部屋中に響き渡った。明快だが、腹の底からの怒りが籠っている。

 ノジフは一瞬呆気に取られ、すぐに眉を釣り上げた。押し殺していた感情が噴き出し、語気が荒くなった。


「余所者が分かったような口を叩くな! オドナスの命が消え失せようとしているのだぞ!」

「だから何だっていうのよ。こんな時こそ一致団結して国王陛下を助けて、対策を練るのがあんたたちの仕事でしょうよ。それとも何? 陛下を殺したら天災が収まるって証拠でもあんの? アルハ様があんたにそう言ったの?」


 キルケは腕組みをして、涼やかな両眼を不敵に細めた。アルハ信徒でないからこそ口にできる大胆な問いかけだったが、真理を突いている。


「私に言わせれば、湖の一つや二つなくなったって、優れた指導者が生きてた方がよっぽど国のためになるわ!」

「黙れ! 汚らわしい奴隷女め!」


 激高した衛兵の一人が大股でキルケに詰め寄って、剣を振り上げた。

 しかしその剣先が彼女に向かって下ろされることはなかった。彼女の背後からいきなり現れたシャルナグが、一刀のもとにその衛兵を斬り捨てたのである。敵の注意が歌姫に引きつけられていたとはいえ、実に静かで俊敏な移動であった。


「よく言ってくれた、キルケ殿。セファイドが聞いたら喜ぶ」


 彼は血糊を跳ね飛ばしつつ、誇らしげな笑みをキルケに向けた。


「あなたは今や紛うかたなきオドナスの民、この国があなたの居場所だ」


 キルケは褐色の頬を紅潮させて、大きく肯いた。言葉は出て来なかったが、感謝と喜びがその目を潤ませていた。


「ノジフ! 彼女の言う通りだ。たとえどんな天変地異だろうと、その原因を国王に帰結させるなどあまりに短慮! 身勝手な解釈で陛下のお命を狙うのなら容赦はせんぞ」

「望むところです。閣下とは本気で勝負してみたかった――かかれ!」


 隊長の宣言を合図に、百人を超える衛兵が戦闘を開始した。


 迎え撃つ王軍の将校もそれぞれ腕に覚えのある者たちである。奇襲への動揺は一瞬で、素早く応戦を始めた。

 しかし、戦いは圧倒的に不利だった。軍人ばかりの宴席であったため帯刀が許可されていたのは幸運だったが、身体に回った酒精が彼らの腕を鈍らせていた。


「散らばるな! 密集して出口を突破するんだ!」


 あちこちで斬り倒される部下の呻き声を聞きながら、ウーゴが指示を飛ばした。彼自身はさほど酔っておらす、向かってくる衛兵を二人続けざまに斬り捨てた。

 シャルナグもまた次々と敵を倒していった。唸りを上げる武骨な長剣が、人の肉と骨を一撃で断つ。衛兵たちは斬撃を止めることもできずに、腕ごと斬り落とされてのた打ち回った。恐るべき将軍の剛腕である。


 圧倒的な技量の差を知り、個々では勝負にならぬと感じたのか、敵勢が一瞬引いた。シャルナグはその隙を見逃さず、ウーゴに視線を送る。


「キルケ殿たちを頼む。私が前へ出て突破孔を開く」


 告げられて、ウーゴは額の汗を拭った。その手元も血に塗れている。


「頼もしいですね。しかし、まだ閣下に死なれては困ります」

「たまには上官の顔を立てろ」


 シャルナグはにやりと笑って卓台を蹴飛ばし、敵の眼前へ踊り出る。行く手にはノジフが立ち塞がっていた。

 




 国王の私室に近づくにつれ、ナタレの目に異様な光景が飛び込んできた。

 暗い廊下のあちこちにわだかまった影――倒れ伏した衛兵たちだった。彼らの身体の下に、あるいは大理石の床や柱に、鉄臭を放つ黒い染みが飛び散っている。惨劇の痕跡はひどく静かで、呻き声ひとつ聞こえない。全員すでにこと切れているのだ。


 反旗を翻した兵士の一団が、警備に当たっていた同僚を斬り倒して先に進んだのだろう。やはり組織的な犯行だと確信し、ナタレは先を急いだ。

 すると、視界の先に動くものが見えた。廊下の真ん中に倒れた影がわずかに蠢いている。ナタレはそれに駆け寄って、愕然とした。

 壁の燈台の光に照らし出されたのは、俯せに倒れたエンバスだった。浅く荒い呼吸に背を上下させながら、片手を前方に伸ばしている。彼の身体の下から掠れた血の染みが長く尾を引いていて、負傷しながらもここまで床を這って来たと知れた。


「侍従長、しっかりなさって下さい!」


 ナタレはエンバスを抱き起した。仰向けにすると、彼の胸から腹にかけては朱に染まっていた。


「ナタレ……か……?」

「はい、すぐに医者を……」

「陛下を……お守りしろ……」


 エンバスはナタレの袖口を掴んだ。死相を浮かべた侍従長は、最後の力を振り絞るように部下に命じた。


「賊は陛下の部屋に……早く行って……お助けするのだ……!」


 大恩ある上司を見捨てて行けるはずもなく、ナタレは大きく首を振ってその冷たい身体をさすった。


「駄目です、侍従長、あなたを放ってなど行けません」

「馬鹿者……この三年……私は何を教えた? こんな老いぼれのために……自らの責を疎かにするのなら……おまえは何も学んでこなかったことになるぞ……」


 瀕死とは思えぬほどの強い力でナタレを押し返し、エンバスは再び床に仰臥した。先の国王の代から侍従を務め、人生の大部分を王家に捧げてきた男の、それは鮮烈な矜持だった。

 ナタレは拳を握りしめ、膝をついたまま深く頭を垂れた。

 そして勢いよく立ち上がると、廊下を走り出した。一度も背後は振り返らなかった。





「何をしている! 相手は一人だぞ!」


 指揮官が焦ったように叱咤する。彼の足元にはすでに五、六人の兵士の屍が転がっていた。セファイドと斬り結び、倒された者たちである。

 いかに腕の立つ国王であろうと、圧倒的多数をもってすれば瞬時に仕留められるはずであった。それなのに――。


 彼らの目の前で、血刀を引っ提げたセファイドは不敵に笑っていた。

 追い詰められたふうを装い背面を壁に守らせて、巧みに一対一の接近戦に持ち込んでいる。敵を突破して逃亡するのは難しいと判断して、応援が来るまでの時間を稼ぐつもりなのだ。

 しかし、斬っても斬っても一向に減らない敵の数に、セファイドは息を切らせていた。新たな加勢が投入されたらしく、彼を取り囲む兵士の頭数はむしろ増えている。体力にはまだ余裕があるものの、血と脂に塗れた刃は確実に切れ味が鈍っていた。


 いよいよ命運が尽きたか――内心をチラリと弱気が掠めたが、それが表情に出なかったのは幸いだった。

 じり、と相対する兵士の歩が進んだ時、


「陛下! ご無事ですか!」


 怒りさえ籠った声とともに、敵の包囲の一端が崩れた。

 振り返った衛兵に身構える時間も与えず、いっきに斬り倒して前へ飛び出してきたのはナタレだった。返り血に塗れた全身から噴き出す殺気はセファイド以上である。


「遅いぞ。一人か?」


 ぶっきら棒な問いかけに、ナタレは早口で答える。


「王太子殿下も襲われました。そちらはすべて片付けましたので、ご安心を。今頃は王軍本部に救援を求めているはずです」

「リリンスを放置してこっちへ来たのか?」

「ご本人がそうお命じになったので。陛下が否とおっしゃるのならば、今からでも戻りますが」

「おまえはな、そういうところが……」


 セファイドの苦言を最後まで聞かず、ナタレは踏み出してきた衛兵の剣を受けた。刃先を滑らせるように薙いで崩し、がら空きになった胴へ鋭い突きを入れる。

 血臭がさらに濃度を増した部屋の中で、国王と侍従は背中合わせに剣を構えた。


「仕方がない――ぬかるなよ、ナタレ」

「御意」


 声を上げて襲い掛かってくる敵兵を前に、二人の様子はどこか楽しげですらあった。





 隣室の様子は、居間にいるサリエルにも伝わっていた。声、息遣い、金属音から、彼は大勢の人間の動きを正確に感じ取っている。大量の血液を失ってなお、彼の知覚に狂いはなかった。

 響いてきた振動が、突如途絶えた。ややあって、二人分の足音が近づいて来る。


 床に座って長椅子に凭れたサリエルが顔を上げるより先に、彼らの方が膝をついた。刺客の集団を返り討ちにしたセファイドとナタレは、さすがに肩で息をしていた。


「サリエル……どうして……」


 呆然とするナタレに、サリエルは白蝋の顔で微笑みかけた。


「お二人とも、ご無事でよかった」

「おまえのおかげだよ。命拾いをした」


 セファイドはサリエルの破れた衣服を押し開いて、傷の程度を調べた。が、その手元はすぐに止まる。

 胸から脇腹に掛けて斬られた傷口は、相当に深かった。無残に裂けた皮膚の内側から血が溢れ、腹圧で内臓らしきものすら覗いている。

 厳しく唇を引き結ぶセファイドを前に、サリエルはどこか他人事のように傷を眺めた。


「……助かりませんか?」

「ああ……致命傷だな」


 細い溜息を漏らしたサリエルの頭を、セファイドは胸に抱き寄せた。ほんの数瞬そうしていて、


「すまない――すぐに楽にしてやる」


 と、手にした剣を服の裾で拭った。賊の血で汚れた刃をせめて清めたのだと分かって、ナタレはその腕を掴んだ。


「陛下!」

「離せ。それとも、おまえがやってやるか?」

「い……嫌です、できません。まだ生きているのに」

「戦場で何を学んできた? 情けをかけるのならば、長く苦しませるな」


 セファイドとナタレは睨み合った。どちらも、お互いの胸の内にある凄絶な葛藤を感じ取っていた。

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