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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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生のしじま、死の呼び声

 約五ヶ月ぶりの紫煙を、セファイドはゆっくりと吐き出した。

 王軍が出兵した日以来の喫煙である。戦勝の願を掛けていたわけではないが、煙管を楽しむ気になれないほど緊迫した日々を過ごしていたのである。


 空気に溶けてゆく薄い煙の向こうに、サリエルが端座している。灼熱の大地を渡って来たにも拘わらず、黒髪は艶やかで肌に日焼けの色はなかった。王都を発った日と変わらぬ麗姿である。顔の左半面を覆う火傷痕を除けば。

 長椅子に座ったセファイドは、松毬まつかさのごとく変色した彼の皮膚を凝視した。事情を聞かなくとも、誰に何をされたのかは察しがついた。だが詫びるでも労わるでもなく、


「迷惑を掛けたな」


 とだけ言った。サリエルは首を振る。


「ご子息をご説得申し上げることは叶いませんでした。陛下のご期待に副えず、申し訳なく思います」

「あいつはそういう奴だと分かっていた。俺はただ、できる限りのことはしたと自分に言い訳したかっただけなんだろう。実の子を殺すための言い訳だ」


 セファイドは辛辣な言葉を淡々と繋いで、煙管に詰まった煙草の残りを吸い切った。身体に馴染んだ一服であるはずなのに、ひどく不味いものを口にしてしまったように顔をしかめる。

 軽くむせながら灰を捨てるセファイドを、サリエルは黙って眺めていたが、ふいに尋ねた。


「……いつからです?」

「何がだ?」


 セファイドは逆に訊き返した。


「アルサイ湖のことか?」

「いえ……はい、水位低下については、到着してすぐに神殿から知らせを受けました」

「神罰の存在を信じたくなったよ。アルハの怒りであれば、まだ鎮めようがある。が、そうでないのなら決断をせねばならん」


 皮肉な口調に、サリエルは目を伏せる。傍らにはヴィオルが置かれていたが、今この場でそれが奏でられることはない。

 神官たちの努力をよそに水位低下の原因は分からず、それは今も続いている。取水量を減らしてはいるが、湖が空になるまであと五ヶ月足らず――漁師たちはもう異変に気づいているようだった。噂が王都に広まるまで時間はかからないだろう。


「遷都の場所はすでに決めてある。今、急ぎ準備を進めているところだ」


 セファイドは事もなげに言うが、その意味はとてつもなく重かった。

 五十万もの民が移動し、受け皿となる都市が整備されるまで五ヶ月ではとても足るまい。水源のある土地ならばどこであれ先住の民がいるはずで、急な遷都は軋轢を生む。また、流通径路も大きく変化し、国内全土への経済的な影響も計り知れなかった。


「また、戦いが起こるな」


 新たな土地で、あるいは混乱に乗じた国内各地で、何らかの争いが勃発するのは不可避だった。国力の衰退を狙う諸外国からの侵略すら、覚悟しておく必要がある。

 アノルトの死もリリンスの悲しみも、すべて無駄になった――あまりに皮肉な結果に、セファイドは苦渋を隠し切れなかった。


 緊迫した王都の現況を聞きながら、サリエルは無言である。再び巻き起こるであろう動乱にも、彼だけは無関係なのかもしれない。

 長い沈黙の後、セファイドが口を開いた。


「サリエル、おまえのことはユージュから聞いた」


 銀色の瞳が二つ、探るような黒い眼差しを受け止める。


「にわかには信じられない話だがな……おまえなら何とかできるのか?」

「確約はいたしかねます」


 それは、できるということなのだろう。ようやく返された言葉は、セファイドの疑念を払拭する程度には明瞭だった。しかし彼は、続けて穏やかではない内容を告げた。


「ただし、それには犠牲が必要です。オドナス王家の人間を――あなたの肉親をひとり、『遺跡』に捧げて下さい」

「何だと? どういう……」


 セファイドが問う前に、足音が聞こえてきた。部屋の入口、廊下の方からだ。

 人払いはしているはずだった。セファイドは訝しげに眉をひそめる。


「失礼いたします」


 戸口に吊るされた麻布が静かに開かれ、姿を現したのは衛兵の一人だった。浅葱色の軍服に身を包んだ若い兵士が、戸口で礼儀正しくひざまずいている。


「神官長猊下から、火急のご伝言が届いております」

「ユージュから?」


 状況が状況だけに、嫌な予感を覚えたセファイドが入室を許可すると、衛兵はきびきびとした動作で部屋に入って来た。手にした白い封書をセファイドに差し出す。

 それを受け取ろうとして、彼はその若い衛兵の顔に見覚えがないことに気づいた。国王の身辺警護担当はたいてい固定されていて、ここ最近で異動はなかったはずだ。


「おまえは……」

「……月神の裁きを受けよ!」


 突如、鋭い煌めきが視界の下から跳ね上がった。衛兵が腰の剣を引き抜きざま斬り上げたのだ。

 セファイドは咄嗟に身を捩って躱したが、距離が近すぎた。素早く立ち上がった衛兵は、彼に避ける隙を与えず第二撃を振り下ろす。

 首筋に落ちてくる剣先の動きは、ひどく緩慢に見えた。空気の裂ける音も白刃の残像も、セファイドははっきりと知覚した。

 斬られる――そう覚悟した時、衝撃は別の方向からやってきた。

 体側を強く押され、よろめきながら振り返った彼が見たものは、衛兵の剣を胸に受けたサリエルの姿だった。


 いつ移動し、どうやって身体を割り込ませてきたのか――彼の動きはあまりに俊敏だった。対峙する刺客ですら相手が変わったことに対応できず、剣はそのまま斬り下ろされた。

 湿った布が引き裂かれるような、嫌な音がした。


「サリエル!」


 セファイドの叫びとともに、サリエルは膝を折る。


「刃に毒が塗られています。お気をつけ下さい」


 彼は胸を見下ろして、冷静な口調でそう告げた。傷口から鮮やかな血潮が溢れ出し、破れた服を染め、床に溜まってゆく。


 同時に廊下で大勢の足音が湧いた。間仕切り布を跳ねのけて部屋に押しかけてきたのは、それぞれ剣を手にした衛兵たちである。救援かと思いきや、その切っ先はすべて主人であるセファイドに向けられていた。


「……誰に剣を向けているか分かっているのだろうな」

「オドナスに神罰をもたらした張本人だ。死んで神の赦しを請え」


 最初の兵士を含め十名の刺客に囲まれて、セファイドの判断は早かった。出口を塞がれたと知るや部屋の奥に走って、寝室の壁に掛けられた長剣を引っ掴む。

 鞘を抜き放った彼に向かって、兵士たちは一斉に斬りかかっていった。





「な、いつ飲みに行く?」

「行かない。そんな約束した覚えないわよ」


 馴れ馴れしく肩に回された手を、ティンニーは素っ気なく振り払った。気安い口の利き方に反射的にそう反応してしまう。

 フツは大仰に顔をしかめて頭を掻いた。傷ついたと言わんばかりの態度だが、回廊から届く薄明かりでも、それが演技だと言うことはよく分かった。目が笑っている。


「ええやん、付き合おうや。俺たち、相性よさげやと思うけど?」

「勝手に決めないでよ」

「俺のこと嫌いか?」


 ずばりと訊かれて、ティンニーは面食らう。深夜の中庭に誰もいないのは分かっていたが、何となく人目が気になってオリーブの木の幹に寄り添った。


「そういうわけじゃあ……ないけど」


 嫌いではない。嫌いだったらこんな時刻にこんな場所に呼び出されて、素直にやって来るはずがない。長旅の後で心身ともに疲れ切っていて、本来ならばしばらく実家で静養したほどなのだ。

 フツはぱっと顔を輝かせた。良くも悪くも裏表のない若者である。


「ほんまに!? じゃ付き合おう! 俺の彼女になって下さい」

「よく簡単にそんなこと言えるわね。信用できない」

「俺、あんたのこと好きやねん」


 愛嬌のある顔立ちに真面目な表情を浮かべ、至近距離でティンニーを見詰める。彼女は慌てて目を逸らした。こんなふうに率直に告白されるなんて思ってもみなかった。


「私、恋愛よりも仕事がしたいの」


 相手が嘘を吐いていないと分かったから、口を突いて出たのもまた正直な気持ちだった。


「最初はね……ここでいい相手を見つけて結婚して、すぐに辞めるつもりだったんだ。でも、姫様を見ていて気持ちが変わった。あの方に……王太子殿下にずっとお仕えして、お役に立ちたいと思ってる」

「ええよ、そんなん好きにすれば」


 フツは屈託なく微笑んで、ティンニーの頬に触れた。避けようにも背後は木の幹で、彼女はびくりと身を竦めた。


「俺、働いてるティンニーが好きやし」

「それとね、遊ばれるのは嫌! いくらど田舎の小国でも、あなた王族でしょ? 私みたいな平民……」


 ティンニーは狼狽して結構な失言を吐いたが、田舎者呼ばわりされたフツは笑みを崩さなかった。日差しに焼かれて傷んでしまった彼女の髪を撫でながら、


「王族いうても端っこの方や。万にひとつも王位継承権なんか転がり込んで来いへんよ。俺はこのままオドナスに残るつもりやから、ぜんっぜん気にせんでええ」


 と、片手で肩を引き寄せる。


「遊びとちゃうよ。元気で勇ましくて一生懸命なあんたが、真剣に好きなんや」

「ふ、フツ……」


 誘うんなら正々堂々と誘え、と憤慨していたリリンスをティンニーは思い出した。これは正々堂々とした告白になるんだろうか。

 ぎゅうっと胸に抱きこまれて鼓動が速まった。何か、何か答えないと――焦るティンニーの目は、フツの肩越しに奇妙なものを捕えた。


 茂った植栽の向こうに見え隠れする回廊を、十人近くの衛兵が移動している。それは珍しい光景ではなかったが、見るからに殺気立った表情で小走りに進んで行くのは異様だった。何やら非常事態が勃発したとしか思えない。


「ちょ、フツ! 離して」

「ちゅーしてくれるまで離さへんぞ」

「馬鹿! ふざけてる場合じゃないわよ」


 ティンニーはフツの顎を掴んで、強引に押しのけた。頭の中にはリリンスのことしかなかった。





 寝台の端に腰掛けて、ナタレはリリンスと何度も唇を重ねた。

 疎遠になっていた時間を埋め合わせるように身を寄り添わせ、深く浅く、口づけを繰り返す。ナタレがきつくリリンスの身体を抱き締めると、リリンスも両腕を彼の首に絡めた。

 灯りがひとつだけ灯された寝室は、薄暗く静かである。彼らは視覚以外の感覚で、お互いの存在を意識し合った。

 彼女の柔らかな肌の感触と体温が、薄い夜着越しにはっきりと感じられる。体臭に溶け込んだ香油の匂いは、ひどく官能的にナタレの鼻孔をくすぐった。


 リリンスの指に左腕を掴まれて、ナタレは小さな呻きを漏らした。隣室で休んでいる侍女を思い出して息を詰めたが、リリンスは彼の反応に気づいたようだった。


「あ、ごめん……まだ治ってないのね」

「大丈夫だよ」

「傷、見せて」


 ナタレが答える前に、リリンスは彼から上着を剥ぎ取った。その下の服も無遠慮に押し開いて、露わになった上半身をまじまじと眺める。

 一片の贅肉もなく引き締まった身体には、数多くの傷跡が残っていた。あちこちの皮膚が部分的に変色しているのは、治りかけた火傷である。最も深く新しいのは、左の二の腕に刻まれた切創――アノルトとの対決で負ったそれはまだ生々しい縫合痕を見せていた。

 リリンスは痛々しそうに顔を歪めて、腕の傷をそっと指でなぞる。


「私のせいで、これからも危険な目に遭わせてしまうかもしれない……」

「それが俺の役目だ。リリンスさえ無事ならいいんだよ」

「でもナタレが傷つくのは嫌!」


 ぶつかるように抱きつかれて、ナタレは寝台の上に倒れてしまった。厚い布団と絹の敷布が二人分の体重を柔らかく受け止める。


「お願い、あなたは死なないで。私と一緒に、生きて」

「死なないよ。俺は強いから、君を悲しませたりはしない」


 見下ろすリリンスの顔が、薄闇の中でほっと和むのが分かった。アノルトの死は彼女の心に深い傷を刻んだのだと、ナタレは思い知る。

 よかったな、彼女の一部は永遠にあんたのものだ――胸の内で呟くが、それは嫉妬よりも諦めに近かった。代わりに、わずかな躊躇が消えた。


 ナタレはリリンスを引き寄せて、体勢を逆転させた。布団に押し付けられたリリンスは、怯える様子もなく彼を見詰めている。黒い瞳が潤んだように揺らめいて、彼女もまた高揚しているのが分かった。

 独占は許されない――分かっていてなお、今だけは自分ひとりのものにしたかった。

 ナタレは唇といわず頬といわず乱暴なほどの勢いで口づけた。夜着を掻き開き首筋に唇を這わせると、リリンスは切なげな吐息を漏らした。


「ずっとこうしたいと思ってた」

「うん……知ってた」

「君の傍にいると、人生は美しいものだと感じられる。生きていく価値があると信じられるんだ。リリンス……俺も君と生きたい」


 優しく微笑んで肯く彼女が愛おしかった。指を絡み合せると、小さな震えが伝わってくる。ナタレもまた震えていた。

 戦慄に近い幸福感の中で、熱い素肌と呼吸が重なり合った――その時。


 部屋の中に新しい風が流れ込んできた。居間に繋がる戸口が開かれたのだと気づくと同時に、ナタレは身を起こした。

 侍女たちではなかった。荒々しい足音とともに間仕切り布を跳ね上げて踏み込んで来たのは、衛兵の軍服に身を包んだ男たちである。薄闇の中でも、彼らが剣を握っているのは分かった。


 剣呑な表情と全身から噴き出す殺気で、ナタレは彼らの目的を直感した。幸いにも帯はまだ腰にあって、そこに挟んだ短剣を引き抜く。


「何事です!?」


 リリンスは乱れた夜着の前を合せて、辺りを見回した。七、八名の兵士たちは寝台を取り囲み、入口と窓際を塞いだ。


「殿下個人に恨みはないが、神罰を招いた元凶だ、アルハの名の元に誅する」


 何ら迷いのない、決意を秘めた声で一人が告げる。

 ナタレはリリンスを背後に庇いながら、素早く人数と立ち位置を把握した。


「神罰? それはもう収まったはずでしょう」

「収まってなどいない! 国王と神殿はひた隠しにしているが、アルサイ湖の水が減り続けているのだ」


 リリンスは息を飲み、床を擦る音がして、包囲が狭まった。


「これが神罰でなくて何だ!? アルハの怒りの原因は、第一王子と王兄ではなかったんだ。庶子の王女が王太子に立ち、あまつさえ正統な王位継承者を殺したことが滅びを招いている。我々はこれを正さねばならん!」


 白い剣先が閃いた時、ナタレはすでに寝台から飛び降りて男の懐に入っていた。

 計算されたような滑らかさで、湾曲した短剣の刃が喉元を薙ぐ。剣を振り被ったままの姿勢で刺客が転倒し、血飛沫が宙に舞った。

 リリンス殿下、と居間の方で叫ぶ声がする。侍女キーエのものだと分かって、


「助けを呼んで下さい! 襲われています!」


 そう叫び返し、ナタレは寝台の掛け布団を掴んだ。襲ってくる刺客に向けて投げて、視界を塞いだ隙に接近し首筋を斬りつける。確実に頸動脈を切り裂く手腕は見事としか言いようがなかった。


 傷口から鮮血を噴いて倒れる男の手から、ナタレは長剣を奪い取った。


「死にたい奴からかかってこい。たとえ月神であろうと、王太子殿下に危害を加える者は俺が排除する」


 脅しでも警告でもなく、それは宣言だった。

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