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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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宴は続く

 夜になって、王宮ではささやかな宴席が設けられた。

 正式な祝勝会は日を改めて盛大に催行される。今日のところは、国王の私的な謝意と労いを示す形であった。


 兵舎には酒と料理が届けられ、中隊長以上は王宮の大広間に招かれた。国王が臨席しているとはいえ和やかな雰囲気の宴で、旨い酒に舌鼓を打ちながら、彼らは内乱の終結を喜び合った。

 卓台は円形に設えられて、招待客は分厚い絨毯の上に直接腰を下ろして寛いでいる。女官たちが酒を運び料理を給仕して、百人近い将校たちの間を忙しなく行き来していた。

 広間の中央では、師団とともに帰還したサリエルがヴィオルを奏で、キルケがそれを伴奏に歌っている。王都への帰還を実感させる共演であった。サリエルの容貌は以前とは大きく異なっていたが、本人はまったく変わらぬ立ち居振る舞いを見せている。


 男たちの談笑と弦の音色と艶めいた歌声が混ざり合う中、セファイドは上座で杯を傾けている。言葉は少なく、穏やかに広間全体を見渡していた。招待客を無駄に緊張させぬための配慮だと分かってはいたものの、隣に座したシャルナグは彼の疲労を感じ取った。

 実の息子を失い、それでも戦勝を喜ばねばならない立場の友人の胸中は、推し量るのが難しい。だが、傷ついていないはずはないのだった。


「おまえ、大丈夫か?」


 シャルナグは小声で尋ねた。セファイドは視線を前に向けたまま、ゆっくりと蒸留酒を喉に流し込む。


「大丈夫だよ――悪かったな、嫌な役目を押し付けて」

「いや……それが私の仕事だ」

「あの子の運命だったんだよ」


 セファイドは低く呟いた。その言葉は自分自身に言い聞かせるためで、本心では割り切れていないのだろうとシャルナグは思う。

 彼が相槌に困っていると、セファイドは笑みを浮かべて彼を見た。


「これで現職を退くのか?」

「あ、ああ、そのつもりだ」

「なら、さっさとキルケを口説け。あれは強い女だが、ともに生きていく人間は必要だろう。その相手がおまえなら、俺も安心だ」


 話題に上った歌姫は、皆の視線を引き寄せながらあでやかに歌っている。戦勝の宴に相応しい明るい声は、ほろ酔い加減の聴衆の耳に心地よく響いた。

 シャルナグは厳めしく唇を引き結んだが、それは不器用な彼の照れ隠しである。大袈裟な仕草で杯をあおる友人に笑みを深くしてから、セファイドはやにわに表情を真面目なものにした。


「それから……辞職は少し待ってくれ。最後に力を貸してほしいことがある」


 妙な切実さの込められた依頼で、シャルナグは太い眉を寄せた。


「何があった?」

「明日話すよ。今日は存分に飲んで、休め」

「お父様」


 国王と将軍の会話に、第三の声が割り込んだ。彼らの前で、リリンスが身を屈めていた。薄紅色の絹の衣装に身を包んだ王女は、髪が短いとはいえ、旅の間とは別人のごとく華やかである。男ばかりの宴客の中で、その姿は否応なく目立った。

 セファイドの眼差しが和らぐ。


「リリンス、おまえ、ずいぶん酒を飲むようになったらしいな」

「お付き合いの手段として、やむを得ず」


 リリンスは口元を押さえてげっぷを堪えたが、顔は少しも赤らんでいない。将校たちと歓談しつつ、彼女は今夜も相当な量を飲んでいた。それを見ていたシャルナグは少し呆れた。かつてセファイドを酔い潰した女の血を引く娘である。


「少し疲れました。私はもう下がってもよろしいでしょうか?」

「好きにしなさい」


 王太子の表情に疲労は窺えなかったが、彼女は軽くお辞儀をしてその場を立ち去った。

 リリンスの退場に、広間の将校たちはあからさまな落胆の溜息をつき、シャルナグはそんな部下たちを睨みつけた。それから彼は先ほどの話題に戻ろうとしたが、間の悪いことにウーゴが挨拶に進み出て、続きは訊けずじまいだった。





 いつも通りの義母だ――きちんと髪を結い上げ豪奢な衣裳を纏ったタルーシアを見て、リリンスはそう感じた。燈台の淡い光に照らされた顔色は悪かったが、敷物の上に座った姿勢は国王正妃に相応しく端正だった。

 広間での酒宴を抜けて来たリリンスは、彼女の前でひざまずき、丁寧に頭を下げた。


「無事に戻って参りました、お母様」

「息災で何よりでした。少し痩せたわね」


 タルーシアは義娘の姿をしげしげと見た。眼差しに怒りや恨みは微塵もない。そういった生々しい感情をすべて綺麗に片付けてしまったような、穏やかで乾いた表情をしている。

 正妃の私室には相当数の女官が詰めているはずだが、今は気配がなかった。窓からの微風が薄紫色の遮光布を揺らす。


 会話が途切れると、辺りは途端に静かになった。

 リリンスはややためらった後、衣服の懐から小さな布の包みを取り出した。丁寧に解くと、中には掌に乗るほどの壷が入っていた。それを恭しくタルーシアの前へ差し出す。


「兄様を連れて帰りました」

「これは……あの子の?」

「遺灰の一部です。どうぞ、お母様のお手元に」


 持ち帰られたアノルトの遺灰は、おそらく王家の墓への埋葬を許されないだろう。それを見越して、リリンスはその一部を取り分けておいたのだった。

 タルーシアは小さく軽い壷を両掌で包んだ。口元に浮かんだ安らかな笑みは、我が子の帰郷を喜ぶ母親の顔そのものだった。


「兄様はお母様に詫びておいででした。ご自分が不孝をしたと……お母様を悲しませてしまうと心配していらっしゃいました」

「優しいあの子らしいわね。リリンス、おまえには辛い思いをさせました」


 タルーシアは壷を大切に懐へしまうと、手を伸ばしてリリンスの頭に触れた。長旅で傷んだ短い黒髪をゆっくりと撫でる。


「こんなに短くしてしまって……年頃の娘が」

「いいんです。気持ちが軽くなりました」

「母親のことで私に気を遣っているのなら、不要な配慮ですよ」


 心中を言い当てられて、リリンスは沈黙した。

 死んだ生母に生き写しだという自分の容姿が、義母を苦しめていたことは知っていた。このまま短髪を通せば少しは違って見えるかと、彼女なりに考えた末の行動だったのだ。


「旧いえにしは捨ててゆきなさい、リリンス」


 タルーシアの涼やかな黒瞳の中に、ふと厳しい光が宿った。我が子を旅路に送り出す母親のそれである。


「過去を片付けるのは私たちの責任です。おまえはこれから、前だけを見て歩けばいい」


 決別を告げるような言葉を投げられて、リリンスは彼女を慰めようとした自分を恥じた。彼女は悲嘆に暮れるだけの弱い人間ではなかった。王族の宿命を背負って、過酷な人生を耐えてきた女なのである。

 義母の深く強い覚悟が何なのか、リリンスは気掛かりだった。しかしその場では黙って首肯するしかなかった。


 この時彼女の真意を問い詰めなかった自分を、後になって死ぬほど悔やむことになるのだが――。





 広間から風紋殿に続く回廊の途中で、ひとり佇む人影があった。

 今夜は朔月で、空に月明かりはない。立ち並ぶ円柱に取り付けられた燈台だけが、覚束ない光源だった。

 セファイドは立ち止まり、付き従っていたサリエルも歩みを止めた。

 彼らのやって来た方向からは楽しげな笑い声が響いてきている。夜が更けて主が退席した後も、宴は賑やかに続いているようだった。


 廊下の端で膝をついたのは、ナタレであった。ロタセイの緋色の装束を脱ぎ、オドナス王都の民と同じような服装をしている。ここでセファイドが通るのを待っていたのだろう。


「旅の間、何度もリリンスを救ってくれたそうだな」


 夜明けまででも待つつもりだったのだろうと知り、セファイドは若い侍従に声をかけた。


「私は自分に課せられた責務を果たしただけです、陛下」


 ナタレは慎ましく答えて、意を決したように顔を上げた。


「お許しが頂けるのならば、今後も王太子殿下にお仕えしたいと望みます」

「あの日尋ねたことの、それが答えか?」

「はい。ロタセイに王権が戻っても、私はこのまま王都に留まります」


 彼は迷いのない口調で告げた。

 セファイドがナタレに王宮への残留を提示したのは、約半年前、アノルトが王都を出立した日であった。それからあの大地震が起こり、王子と王兄の反逆が明らかになって、今回の内乱が勃発した。目まぐるしく変化した状況下で、リリンスと同じくナタレの中にも強靭な決意が生まれたようだった。

 セファイドは両腕を組んで、ナタレを見下ろした。


「娘を愛しているのか?」

「はい」

「リリンスも、おまえを?」

「……はい」

「父親の前でぬけぬけと……俺が丸腰で幸運だったな」


 不機嫌そうな声の中に苦笑の響きが混じった。こういう事態になっているのを知っていたのかと彼はサリエルを見やったが、楽師は特に感慨もなさげな無表情である。

 恐縮するナタレを再び険しい顔で睨み、


「だが、属国の王族をオドナス女王の王配にはできないぞ。おまえはリリンスのものになるが、リリンスは決しておまえひとりのものにはならない」

「そのような大それた望み、元より抱いておりません。私の個人的な感情と立場は無関係です」

「殊勝な心がけだ。では、将来リリンスがロタセイを攻めたら、おまえはいささかの躊躇もなしに同胞を殺せるのだな」

「その覚悟です」


 ナタレは即答した。


「けれど、リリンス殿下は何の理由もなく戦争を起こすお方ではありません。殿下のご決断であれば、私は信じて従うのみです」


 真っ直ぐな視線を向けられて、セファイドは頬を緩めた。甘い――そして青臭いと思う。それでも一笑に付すことはできなかった。彼がリリンスを献身的に守り抜き、無事に連れ帰ったのは事実なのである。

 相変わらずのナタレの生真面目さには呆れたが、胸の中に灯った感情が喜びだと認めざるを得なかった。娘を誠実に愛する若者の存在は、確かに嬉しかった。

 セファイドは軽く息をつくと、


「そこまで腹を括っているのならば、何も言うことはない。俺が退いた後はリリンスの力になってやってくれ。二人のことは二人でよく話し合って決めろ」


 と言い残して、ナタレの前を通り過ぎて行った。

 ナタレは冷たい石の床に額がつくほど平伏して、長いことその場から動かなかった。





 王宮に戻ってからずっと、リリンスは違和感を感じていた。

 オドナス王宮は生活の場であり、これまで彼女の世界のすべてだった。内部の構造を知り尽くしてなお、壮麗で巨大なものだった。

 それなのに今、長く伸びた廊下も高い天井も緑の深い中庭も、なぜか全部小さく見える。贅をつくした自室さえ、どこか窮屈に思えた。

 外にある世界は――本物の世界はとてつもなく広いと知ってしまったからだと、リリンスは分かっていた。これから自分が対峙しなければならないのは、あのすべてなのだ。


 今さらながら途方もない責任に身が震えて、彼女は両腕を擦った。枝がぎしりとたわみ、濃い緑の葉が風に騒いだ。


 リリンスはひとり、木の枝に腰掛けていた。自室の外に茂る肉桂の木である。

 彼女は幼い頃から、この巨木に登っては女官長にこっぴどく叱られていた。タルーシアの部屋から戻り、就寝の準備を調えて寝台に入ったものの目が冴えて、久々に登ってみたのである。

 宿直の侍女たちは、今頃控えの間で眠っているのだろう。筆頭侍女のキーエは涙ぐんでリリンスとの再会を喜んだが、痣と傷だらけになった彼女の身体に唖然としていた。その後、リリンスが浴室で入念に手入れされたのは言うまでもない。


 葉擦れの音とともに、リリンスの胸の中もざわめいた。自分を迎えた父母の態度を思い出すと、奇妙な不安を感じる。二人ともあまりにも自然で、かえって何かを隠しているのではないかと勘繰ってしまうのだった。

 我が家であるはずの王宮で気持ちが落ち着かない。夜の大気の静けさは表面だけで、本当はとんでもない嵐がすぐそこまで近づいているような気がした。


 柔らかな夜着に包まれた肌に粟が立ち、リリンスが再び身を竦ませた時、木全体が不自然に揺れた。

 驚いて辺りを見回した彼女は、すぐに気づいた。茂った枝葉の間から見えたのはよく知った顔である。


「またこんな所に登って……」


 呆れた調子でそう呟いたナタレは、リリンスの座った枝のすぐ下まで登り着いていた。幹に掴まり、頑丈な枝に足を掛けて彼女を見上げている。

 リリンスは笑顔になった。この木の上で彼と会うのは三度目である。初めて会った時の思い出が鮮やかに甦ってきて、真夜中にも拘わらず、彼女は眩しい日の光を感じた。


「私を探していたの? ここまで登って来れば?」

「無理だよ。二人乗ったらその枝は折れてしまう」

「昔は並んで座れたのにね。私たち大人になったんだ」


 わずかな寂しさを滲ませて、リリンスは幹に凭れた。


「あなたこそこんな時間に私に会ってていいの? 将軍に叱られるわよ?」

「今じゃないと会えないだろ」


 彼女の皮肉っぽい口調を、ナタレは気にしたふうもなかった。頭上で揺れる夜着の裾に目をやりながら、


「今、国王陛下のお許しを頂いてきたんだ」

「え?」

「約束通り俺は王都に残って、将来君の支えになりたい」

「本当に!? うわ!」


 リリンスは弾かれたように身を乗り出し、勢い余って体勢を崩した。頭から落ちかける彼女を、下にいたナタレが慌てて抱き留める。二人分の体重を支える枝が大きくたわんだ。

 不安定な姿勢のまま、リリンスはナタレに力いっぱいしがみつく。


「嬉しい! お父様に殺されなくてよかった!」

「殺されるって……ええ?」


 恐ろしい台詞に当惑するより先に、足場が不気味な音を立て始めて、ナタレは焦った。


「え、枝が折れる! とりあえず下に下りよう。な?」


 彼は興奮するリリンスをなだめて、そろそろと木から下り始めた。二人揃って枝ごと落下する大惨事だけは避けなければならなかった。


 どうにか地面に下り立つと、ナタレは根元にしゃがんで冷や汗を拭う。リリンスは髪についた葉っぱを払って、ああ怖かったと無邪気に笑った。

 そしてその笑顔に別のものを滲ませ、


「少し寒いわね。中に入ろうよ」


 と、ナタレの手を取った。

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― 新着の感想 ―
[一言] 三度目は記憶から消えていたのですが、肉桂の木、大活躍ですね。出会った頃、淡いけど特別な夜、そして二人の重さで折れそうになって時間経過を見事に表していると思いました。
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