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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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家路

 ナタレの態度が急によそよそしくなった理由を、リリンスは何となく想像できた。

 職権を濫用したであろうシャルナグに恨みの籠った視線をぶつけるが、保護者を自認する将軍はまったく堪えていないようだった。

 幸いにも、リリンスには個人的な問題に拘っている暇はなかった。一団の中には亡き王兄の妻子が加わっている。内乱の首謀者の家族である彼女らは王都に連れ帰られ、処遇について国王の裁定を受けなければならない。


「あなた方が罪に問われることがないよう、私からも父に進言します。どうぞ安心して下さい、カシマ伯母様。困ったことがあれば何なりとおっしゃって」

 

 リリンスは義理の伯母にそう言って、何かと気を配った。特に幼い三女と四女の健康状態を細かく注視し、無理はさせなかった。ティンニーも積極的に世話を手伝って、遊び相手にもなっている。


「リリンス殿下、多分なご厚意に感謝しますわ。娘たちにはどうかお咎めのなきよう……私はどんな罰でも受けますから」


 姪に頭を下げるカシマもまた、夫の遺灰の入った壺を抱えていた。フェクダはマージ・オクで火葬されたが、すぐに王軍が接近してきたため埋葬する余裕がなかったのだ。


「伯母様に咎はありません。夫の罪で妻が罰せられるなんて馬鹿げてます」

「いいえ、この人を止められなかったのが私の罪です。私は夫がやっていることが悪いことだと……オドナスに亀裂を入れる行為だと分かっていて放置していたの。私の従順さが結果的に夫を暴走させてしまったんだわ」


 彼女の声には夫への愛情と、それに数倍する後悔が含まれていて、リリンスは胸が痛んだ。その言葉を受け止めるべき相手は、すでに白い灰になっている。

 それでもカシマは母親である。子供がいる限り早まったことはすまいと、リリンスは信じていた。目が離せなかったのは長女のマルギナタであった。

 マルギナタは大人しく帰途についていたが、その表情にはずっと生気がなかった。駱駝の背に揺られていても休憩していても、常にぼんやりしている。話しかければ答えるものの、自分から喋ることはなかった。


 アノルトの死因は、表向き自害ということで処理されている。しかしリリンスは、マグナスを通じて真実を知らされた。そしてサリエルからは、マルギナタがどんなに献身的にアノルトに尽くしていたかを聞いている。彼女に対する気持ちは複雑だった。

 従姉妹同士、互いに打ち解けらぬまま、旅は終わりに近づいていた。





 共闘した属国からの援軍は、帰路の途中でそれぞれの国許へと帰って行った。国王からの正式の謝礼や褒賞は、後日改めて使者が遣わされる予定である。

 オドナスのために犠牲を払った属国の兵士一人ひとりに、リリンスは心からの謝辞を述べた。彼らとはすでに酒を酌み交わす仲になっていた。


 長きに渡った戦が終わり、みな疲労しながらも晴れやかな表情で王軍師団に別れを告げた。

 王太子は顔は可愛いがめっぽう酒に強い――後にそんな評判が国内全土に流布することになる。


 ハザンが率いるロタセイの部隊も、王都に立ち寄ることなく帰郷することになった。

 再会した時と同様に、ハザンとナタレは強く抱擁し合って別れを惜しんだ。


「皆によろしくお伝え下さい、兄上」

「ああ、だが一度は帰ってこい。どんな選択をするにしろ、おまえの故郷は永遠に変わらない」


 ハザンは弟の背中を励ますように叩いて、それからリリンスの前で身を屈めた。


「殿下、あなたとお会いできて本当によかった。どうかオドナスを良き方向へお導き下さいますよう。東の守りは今後も我々が責任を持ちます」

「ありがとう。あなた方がいてくれて心強いわ」

「弟を頼みます」


 ナタレとよく似た顔に小声でそう言われて、リリンスは思わず微笑んだ。


「ええ、大事にします。ハザン様も、奥様と……お子様を大切にね」


 ハザンは照れたような笑みを浮かべた。国に到着する頃には彼は父親になっているのだ。 

 だが整列した仲間の方を振り向いた彼は、いつも通りの厳しい表情に戻っていた。


 『緋色の雄兵』と謳われる男たちは、来た時と同じく颯爽と東へ戻って行った。砂塵を巻き上げて遠ざかってゆく同胞の赤い騎影を、ナタレはいつまでも見送っていた。





 リリンスが自分で髪を切っていると、天幕に入ってきたティンニーがきゃあと声を上げた。


「何をなさっているのです姫様!? せっかく伸びてきたのに!」

「いいのよ、うっとおしいから」

「だって明日には王都に着くんですよ。もう短くしておく必要はないじゃないですか」


 ティンニーははさみを奪い取ったが手遅れだった。うなじが隠れる程度に伸びていたリリンスの髪は、再び思い切りよく裁断されてしまっている。ティンニーは仕方なく、バラバラに跳ねた毛先を切り揃え始めた。


「あの、姫様……以前におっしゃってたことなんですけど」


 小さな文机に立て掛けられた手鏡の中で、二人の少女の目が合った。


「一生独身を通されるって……もしかして、そのために髪を短くなさるのですか?」

「ああ……そこまで深くは考えてなかった。でもたぶん、結婚はしないと思う」

「どうしてですか? だって姫様は、ナタレ様と」

「属国の王族を王配に立てるのは難しいの。その程度のことは弁えてるわ」


 髪型がどうにか整って、リリンスは肩に積もった毛髪を払い落とした。振り向いた彼女は愛らしく、だが旅に出る前よりもずっと逞しくなっている。切なげな顔をするティンニーに笑いかけ、


「あなたこそどうなのよ? フッくんに口説かれた?」

「く、口説かれるなんてそんな……命を助けたんだから、帰ったら食事に付き合ってくれとは言われましたけど」


 もじもじする侍女に、リリンスは呆れて溜息をついた。


「何なの、その恩着せがましい誘い方は?」

「でも助けてもらったのは事実ですから……」

「あっちだって私たちの裸見たんだから、貸し借りなしよ。誘うんならもっと堂々と誘えと言ってやりなさい。私が言おうか?」


 本当にフツを叱り飛ばしかねないと危惧したらしく、ティンニーは慌てて首を振る。彼女もまたあの人懐こい若者を憎からず思っているのだと分かって、リリンスは表情を和らげた。


 この戦争は係わったすべての人間に傷を残した。だが、積み重ねられた死と悲しみの質量には比べるべくもないが、こんな小さな幸せの種が撒かれたのもまた事実である。

 リリンスはほんの少しだけ救われた気がした。





 最後の夜に相応しく、夜更けの野営地は静かだった。今夜ばかりは十分に休養して明日の凱旋に備えよと、将軍から通達が出ている。天幕の中でこっそり酒盛りをする者はいるだろうが、動いているのは巡回する見張り役くらいだった。

 王都まであと一日の圏内に入っているため、灌木や下草の茂った風景はもはや砂漠とは言えない。吹く風も柔らかな湿り気を帯びていて、月のない夜は穏やかだった。


 野営地の外れで、マルギナタは南の空を眺めていた。

 晴れ渡った暗い空では、無数の星が呼吸をするように瞬いている。彼女は息苦しさを感じて、右手に握ったものを見下ろした――料理用の小刀である。

 旅の間、自殺防止のため刃物の類は持たせてもらえなかった。夕食の準備を手伝う際に、隙を見てくすねたものだ。星明りを集めて鋭く輝くその切っ先を、マルギナタは目の高さに上げた。


 ひどく疲れていた。六年ぶりに帰る王都に郷愁など感じなかった。未来は南の地にあったはずだ。その未来が失われた今、自分はここで何をしているのだろう――。

 首筋に押し当てられた小刀は冷たかった。アノルトもこの冷たさを感じたのだろうか。


「何をなさっているのですか?」


 ふいに声を掛けられて、マルギナタは身を竦ませた。振り返った先にサリエルが立っている。白い外套に身を包んだ彼の姿は、天に座すべき月を連想させた。

 マルギナタは恐れと憎しみの混じった目で楽師を見る。彼はただ傍観していただけだと分かっていても、この男こそがすべての元凶ではないかという思いは澱のように残留していた。


「放っておいて。もう生きていたくないの。私はアノルト様に謝らなくちゃいけない」

「死んだ人間には謝れませんよ」


 刃物を首に当てて震える少女を前に、サリエルの口調は無感情だった。


「それに、今死ななくても、あと百年も経たぬ間にあなたの命は尽きます。どうしてそんな短い生を捨てたがるのか、私には理解できません」

「あと一日でも一瞬でも、私は耐えられないの! 苦しくて重くて……生きていけない」

「でも死んじゃ駄目よ!」


 別の声が重なった。サリエルの背後で、リリンスが息を切らせていた。

 帰還を目前にして神経が高ぶったのか、夜中に目覚めた彼女は、同じ天幕で寝泊まりしているマルギナタの姿がないことに気づいて探していたのだった。


「ごめんね、マルギナタ。あなたが抱えているその苦しさは、本来私が感じるべきものだった。兄様を死なせた罪悪感を、あなたに転嫁してしまったわ」


 リリンスは切りたての髪を微風にそよがせて、立ち尽くすマルギナタに歩み寄った。紅潮した顔を歪ませたその表情は、マルギナタと同じだった。


「わ、私が……私がアノルト様を殺したの。この手で……刺し殺した」

「兄様が何をしたか、聞いた。お父上の仇を討ったんでしょう?」


 リリンスの声は努めて冷静だったが、わずかな震えを含んでいた。アノルトが伯父を斬ったのは、おそらく自分のためだと察している。暗殺者を差し向けたフェクダを排除したのだ。

 自分が従軍したことで兄と伯父は反目し、血が流れた――マルギナタの復讐はその結果だ。


「マルギナタ、兄様は自害したのよ。王都にもそう報告をした。あなたは何も言わないで」

「でもっ……」

「オドナスの第一王子が女に殺されたなんて、公にはできない」


 突き放すような物言いは、マルギナタの興奮を冷ますのに十分な厳しさを持っていた。リリンスは大きな瞳に星明りを宿して従姉を見詰めている。


「だからその苦しみは、秘密と一緒にお墓まで持って行くのよ。兄様の死を、あなたは一生背負って生きなくちゃいけない」


 兄の命を奪った相手に対する冷え冷えとした眼差しが、ふと、和らいだ。


「私も同じだから……私たちは、兄様の生きた証拠を背負って生きるの。死んでしまったら、兄様をもう一度殺すことになってしまう」


 マルギナタの手が、力なく下ろされた。小刀は足元に滑り落ち、草に埋もれる。

 彼女は胸を押さえて、鈍い痛みに耐えるかのように眉根を寄せた。


「私はリリンス様ほど強くない……きっと耐えられない」

「慣れるよ、いつか」


 リリンスはマルギナタの正面まで近づいたが、手を取ることも抱き締めることもしなかった。同じ苦痛と重荷を抱えながら、決して分け合ってはいけない相手だった。

 マルギナタは涙の浮かんだ目元を拭い、身を翻した――野営地の方へ、生きている人間の方へ。


「あなたの兄は私の父を殺し、私はあなたの兄を殺した――お友達になれそうにはないわ」


 悲しげな、しかししっかりとした言葉を発する背中に、リリンスは微笑んだ。


「今はね。先のことは分からない――人って変わるから」


 彼女がよろめきながら戻って行くと、サリエルは草の上に落ちた小刀を拾い上げて息をついた。


「自分で選択した結果なのに、どうして苦しむのでしょうね」

「逆よ。後悔するのが分かってて、選ばなきゃいけない時もある」


 リリンスはひどく大人びた表情で、さっきのマルギナタと同じく胸を押さえた。


「あなたにはそういう経験はないの?」


 問われたサリエルは、何も答えなかった。

  




 王都の民は熱狂と拍手をもって、凱旋する兵士の隊列を迎えた。

 逆賊を討伐した王軍師団を一目見ようと、ほとんどの住民が大通りに詰めかけた。沿道を埋め尽くして、あるいは通り沿いの建物に上って、帰還した兵士たちに歓声を送る。父親や息子の姿を見つけた者たちは、涙声で名前を叫んだ。

 月神の神罰を招いた背信者たちは滅ぼされた。これでオドナスには再び平穏と繁栄が戻る――誰もがそう信じ、神に感謝したのだった。

 地震の被害はもうほとんど痕跡を残さぬほどに復旧されている。舗装し直された広い大通りを、隊列はゆっくりと進んだ。

 兵士たちみな堂々と顔を上げている。この街は俺たちが守ったのだ――誰もがそう信じ、誇らしげに胸を張ったのだった。


 セファイドは王宮の正門まで出て、師団の到着を待っていた。

 彼の目は、将軍とともに隊列を率いたリリンスの姿を捉える。約五ヶ月ぶりに見る娘は、駱駝の背で凛と背筋を伸ばしていた。短く切られた髪はまるで少年のようであった。

 国王の臨場に隊列は止まり、兵士たちは次々に駱駝から下りる。リリンスは誰よりも早く飛び下りて、外套の裾を翻しながら父に駆け寄った。

 輝くような笑顔はやはり娘のものだった。そのまま抱きついてくるかと思いきや、彼女はセファイドの前で立ち止まり、丁寧に膝を着いた。


「無事帰還いたしました、陛下」


 そう、大人びた声で挨拶をする。背伸びした子供のそれではない、自然に身に着いた端正な礼儀であった。

 確かに何かが変わったリリンスの物腰に、セファイドは彼女が経験したであろう苦難を思いやった。砂漠の旅はそれだけで過酷である。加えて、今回の道行きは肉親を討つという残酷な目的があった。


「第一王子を討伐し、南部の内乱を鎮圧して参りました」


 父の懸念をよそに、リリンスはごく端的に報告した。


「リリンス」

「お父様、私、兄様を殺して来ました」


 はっきりとそう言い切るリリンスの手を取って、セファイドは彼女を立ち上がらせた。そのまま細い身体を胸に抱き締める。


「よく無事で戻った、リリンス。おまえは何も悔やむな。アノルトの命を奪ったのはこの俺だ」

「いいえ、私は王太子の地位を守るために、兄様を排除したんです」


 リリンスは泣いてはいなかった。すでに心の中で答えを出しているらしく、表情は平静である。絶望しているのでも自棄になっているのでもない。ただ、静かで強い諦観の念を感じさせた。

 娘は乗り越えたのではなく、受け入れたのだ――セファイドは気づいた。最愛の兄を失った悲しみも喪失感もすでに彼女の一部になっていて、すべて大切に抱えたまま生きてゆこうと決心している。

 そこにいるのは、もう無邪気で世間知らずな子供ではなかった。


 日焼けした顔が、旅立つ前よりも彼女を数段逞しく見せていた。それだけに痛々しくて、セファイドは彼女を抱く腕に力を込めた。

 王国の平和を願って、リリンスは血を分けた兄と戦った。その果てに民の幸せがあると信じて、後継者の責任を全うした。

 魂を削るような努力も犠牲も、すべて無駄にする事態が今起きているとリリンスが知ったら――すでに幾多の悲しみを知った娘の瞳に、今度こそ本物の絶望が宿るかもしれないと、セファイドはそれだけを恐れた。


「すべて俺の責任だ。これまで起こったことも――これから起こることも」


 父の言葉には隠し切れない苦悩が宿っていて、リリンスは不安げに顔を曇らせた。

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