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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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砂時計のごとく

 空が赤く染まった夜から八日後、リリンスたちはドローブを発つことになった。

 二万の正規王軍のうち、半数がドローブとマージ・オクに残され、新行政官が赴任するまでの暫定統治を任された。責任者となる師団長は、ウーゴとは違ってまつりごとに明るい人材である。


「またお会いしたいものだな、リリンス殿下」


 見送りに来たシキはリリンスを豪快に抱擁した。立派な胸の谷間に顔を押し付けられて、少々照れながらリリンスは彼女の背中に手を回した。


「シキ様たちには本当にお世話になりました。この先もずっとよい友人でいさせて下さい」

「そう努力したいね。即位の際にはお祝いに伺うよ。もっとも、その時までに私の任期は終わっているかもしれないが」


 朗らかに笑うシキにもう一度礼を言い、リリンスは彼女の両脇に控えるカサカとニーザに目を向けた。


「あなた方も、ありがとう。短い間だったけど楽しかったわ」

「殿下とともに旅ができて光栄でした」

「あんたいい王様になるぜ、嬢ちゃん……っと」


 ニーザは南洋語で軽口を叩き、慌てて肩を竦める。リリンスは笑って、彼らと握手を交わした。

 イーイェンの面々の後ろには、豪奢な装いの中年男が十人余り集まっていた。いかにも豪商然としたその男たちは、ドローブ商工組合の代表者、いわば街の顔役ばかりだった。


 彼らは数日前にリリンスに面会して、彼女の美しさを褒めちぎり、国王への全面的な恭順を誓い、これまで自分たちがどれほど街に貢献してきたか滔々と講釈した。要するに街の自治は任せてほしいと言いたかったらしいが、リリンスは笑顔で彼らに例の献金記録を突き付けたのだった。


「ずっと不思議だったんです。兄も伯父も、長い戦争を続ける資金をどう工面するつもりだったのか。特にドローブは港湾整備に予算がカツカツで、余剰などなかったはずですものね。でも、これで得心がいきましたわ」

「献金は内乱が勃発した後も途切れていない。それどころか増額している。立派な反逆幇助だぞ。全財産没収の上、縛り首だ」


 シャルナグが強面を存分に生かして脅し、海千山千の商人たちは顔色を失った。

 知事が南部独立を企てているという情報を、彼らドローブ商人はアノルトよりも先に掴んでおり、将来への先行投資として南部支援を決めた。その証拠は総督府とともに焼けたと安心して、御しやすそうな若い王女を言いくるめにかかったのだが――。

 結局、リリンスがまあまあとシャルナグをなだめる形で場を取り成した。この記録は私が誰にも見せずに保管しておく、という彼女の言葉に、商人たちは縋るしかなかった。


「南部の再興に皆様のお力は欠かせません。どうか今後はご本業に専念なさって、ドローブの経済を立て直して下さい」


 リリンスの物言いは真摯で、打算や欺瞞は欠片もなかった。

 そして今も、彼女は屈託のない笑みで彼らに向かい合っている。身を覆う真新しい外套は、ドローブで新調したものだ。王軍への物資提供はすべて商工組合の『厚意』によって行われた。


「滞在中、商工組合の皆様にはお世話になりました。じゃんじゃん稼いで、しっかり納税して下さいね」


 実も蓋もないことを、なまじ冗談とも思えない口ぶりで告げられて、商人たちは似たような苦笑いを浮かべる。脅されるよりも始末が悪い。まんまと恩に着せられた彼らの表情は、決して不快そうなものではなかった。


 リリンスが別れの挨拶を交わす間、イーイェン兵とロタセイの男たちも、お互いに肩を叩き合って別れを惜しんでいた。言葉こそ通じなくとも、船上で生活を共にした彼らの間には友情に似たものが生まれたようだった。

 その光景を目にして、シャルナグは感嘆の思いを新たにする。

 あそこで笑っている少女は、懸案事項だった南洋諸島部との協調関係を構築したばかりか、まったく接点のない民族同士の縁まで結んだ。利害関係だけの外交交渉によるものではなく、人となりを理解し合った上での絆は堅く、深い。感情が入るだけにこじれるとややこしいが、リリンスは何の気負いもなくやってのけた。


「ね? 褒めてあげて下さいよ」


 小声で得意げに囁くウーゴを叱り飛ばす気にはなれず、シャルナグは隊列に向かって出発を告げた。


 馬に跨ったリリンスは笑顔で手を振り、最後に穏やかな青い海を見やった。暖かな南の海は、ここで起きた悲劇も悲しみもすべて受け止めて、変わらずに輝いていた。

 次はいつ見られるか分からない風景である。名残惜しく思うリリンスを、隣に並んだナタレが促した。


「さあ……帰ろう」


 リリンスは肯いて、自分の鞍に結びつけた革袋を撫でた。中には小さな壷が――兄が入っている。


 全身に残った兄の記憶も、それがもたらす胸の痛みも消えてはいない。たぶんそれは一生消えないのだとリリンスは思った。自分は生涯兄の死を背負い続ける。

 それでいいのだろう――アノルトの生きた証はリリンスの痛みの中にある。彼の記憶を全部抱き締めて生きていこう。重みにいつかは慣れるはずだ。


「家に帰りましょう――兄様」


 リリンスはそう呟いて、視線を山の向こうに向けた。





 アノルトの死と王軍の勝利は、伝令によって先に王都へ知らされた。

 約一ヶ月をかけて大陸の南端から届けられた手紙を、セファイドは謁見室で受け取った。そしてそのまま、真っ直ぐタルーシアの元へ向かった。


 自室で着替えていたタルーシアは、突然の夫の訪問に顔を強張らせた。午後の執務が開始されたばかりであり、彼女もまた来客の準備をしていたところである。

 よい知らせであるはずがない――直感はひどく現実感を伴っていた。

 侍女たちが部屋の隅に下がる中、セファイドはタルーシアに歩み寄った。


「南部から知らせが届いた」


 冷静すぎる表情であり声であったが、タルーシアは妻だけが嗅ぎ取れる異変を察知した。夫は確かに動揺している。それが悪い予感を決定的なものにして、彼女は顔を背けた。


「言わないで下さい……お願い!」

「タルーシア、聞くんだ――アノルトが死んだよ」


 セファイドは彼女の右手を両手で握り締めた。皮膚の厚いその手は少し震えている。


「ドローブの総督府で自害したそうだ。あの子は、死んだ」


 タルーシアは掌に渡されたものを見る。白い紙に包まれた、それは短い毛髪の房だった。

 我が子の髪だと、タルーシアはすぐに理解した。

 乾燥して艶を失った髪の毛の数筋は、どんな言葉よりもアノルトの死を生々しく伝える。嘘だ、と反発する気力は失せて、彼女はその場に崩れ落ちた。

 セファイドは素早く彼女を抱き留めて床に膝をついた。


「あ……あの子が産まれた時……」


 タルーシアはセファイドの腕にしがみついて、おこりを起こしたように震えながら呟いた。


「酷い難産で、私は丸二日苦しんだわ。あの時はただ……無事に産まれてさえくれればいいとだけ思って……」

「ああ、そうだった」

「身体が小さくて……一歳になるまでは病気ばかりで……熱を出す度に徹夜で看病したわ。あの子が無事に大人になれるように、毎晩アルハ様に祈っていたのよ」


 包み紙が皺くちゃになるほど強く、彼女は息子の遺髪を胸に押し当てた。


「だから、あの子が初めて歩いた時……私は嬉しくて嬉しくて……仕事中のあなたの所へ連れて行ったわね」

「覚えてるよ。執務室で転んで、机の脚に頭をぶつけて大泣きしたな。俺もおまえも動転して……慌てて医師を呼びつけたが、来た頃にはけろっとして笑っていた」

「ええ、でも大きなタンコブができて……」


 口を突いて出るのは思い出ばかりだった。不思議なことに、悲しみも怒りもまだ湧いてこない。彼女が感じているのは深い後悔のみである。

 こんな日が来ることは、ずいぶん前から分かっていた。分かっていて、何もできなかった。自ら渦中に飛び込んでいったリリンスとは違い、タルーシアにできたのはここでじっと悪い知らせを待ち続けることだけだった。


「ごめんなさい……アノルト……ごめんなさい……」


 タルーシアは涙声で何度も詫びた。


「間に合わなかったわ……許して……おまえを助けてやれなかった……!」


 うわ言のように謝罪の言葉を繰り返す。語尾は震えてすすり泣きに変わり、やがて血を吐くような号泣になった。

 間に合わなかった――その意味に気づいているのかどうか、セファイドは妻を抱き締めて動かなかった。

  




 往路に比べて復路の進みは速い。一度通った道であることに加え、敵軍の待ち伏せを警戒する必要がないため、旅は円滑だった。

 砂の海を渡る旅はやはり過酷だったが、リリンスはさほど苦痛を覚えずに耐えることができた。

 一滴の水分も含まぬ大気に、容赦なく照りつける乾いた日差しに、むしろ懐かしさが込み上げる。ここが自分の生きる世界なのだと改めて思い知った。


 王軍の雰囲気はおおむね良好であった。勝ち戦の高揚はすでに収束して、代わりに帰郷の安堵感が兵士たちを陽気にしていた。内乱とはいえ実質の敵は南部の属国であり、同胞との本格的な殺し合いが回避できたことも、彼らの気持ちを軽くしていたのかもしれない。

 往路では禁じられていた酒宴が許され、落ち着いて野営できる夜には賑やかな歌声が響いた。

 そんな周囲の明るい空気に、リリンスも自然に馴染んでいた。戦争に勝ってその大将が落ち込んでいては示しがつかないという責任感もあったが、ひとりでいるよりは大勢の中に紛れていた方が楽に呼吸ができた。





 少し無理をしているリリンスの様子に気づきながら、ナタレは思うように彼女を励ますことができなかった。『接近しすぎた』彼らの状態を憂慮したシャルナグが、王太子警護の任を解いたのである。

 野暮だ横暴だと抗議するウーゴを一喝してから、シャルナグはナタレに懇々と説教した。


「いいか、リリンスはただの娘ではないんだぞ。将来この国を背負って立つ大事な人間だ。恋愛なんぞにうつつを抜かしていてはならんのだ」

「はい……重々承知しております」

「本当にあの娘が好きなのなら、まずは父親を説得するのが筋だ。おまえの誠意を示して、セファイドの許しを得ろ。その程度の覚悟もない男に、オドナスの王太子の相手が務まるものか」


 ナタレは神妙に聞いていた。本当に国王に真っ向から交際を申し込むつもりか、とウーゴはその真面目さが心配になってしまう。下手を打つと首から上がなくなってしまうかもしれないのに。


「夜這いかけるんやったら協力したるで」

 

 そうけしかけるフツを無視して、ナタレは旅の間リリンスと距離を置くようになった。非常事態の中で急激に親密になったことを多少後ろめたく感じていたし、何より、このままリリンスの傍にいれば自分がとんでもないことをしでかす気がしたからだ。

 彼は悶々とする頭を抱えて、雑魚寝の天幕で眠れない夜を過ごしていた。





 その夜、王宮は奇妙な客を迎え入れた。突拍子のない人物というわけではない。ただ、現れ方が突然すぎた。


 渡し舟から降り立ったユージュは、漕ぎ手である神官にここで待つよう告げ、暗い桟橋を歩き出した。

 松明を掲げた衛兵が慌てて飛んで来る。神官の来訪は頻繁だが、今日このような時刻に神官長がやって来るとは彼らは聞かされていなかった。

 しかし、衛兵たちに彼女の歩みを妨げることは不可能だった。


 鉄扉を潜り、堤防沿いの小道から回廊へ上がると、風紋殿はすぐである。

 無表情のままスタスタと進んで行くユージュの前に、エンバスが現れた。古株の侍従長は白髪頭を深々と下げて、


「いらっしゃいませ、神官長猊下。今夜はどのようなご用件でしょうか?」


 と穏やかに問う。国王にいきなり呼び出されることはあっても、彼女の方から予約なしに押しかけたためしはこれまでなかった。

 ユージュは淡々と答える。


「急ぎ、国王陛下にお会いしたいのです。お取り次ぎを」

「申し訳ありませんが、陛下はもうお休みです。明朝、再度ご足労願えますか?」

「いいえ、今すぐに」


 彼女にしては珍しい強引な物言いに、エンバスは眉をひそめる。火急の用件だということは伝わったらしいが、彼は職務に忠実だった。


「困ります、猊下」

「侍従長殿、これは中央神殿の長としての命令です」


 ユージュはいつになく厳しく言い放った。


「私は、いついかなる時でもオドナスの国家元首と面会する権利を有しています。国王が寝ていようが風呂に入っていようが女と戯れていようが、その行使を妨げるものではありません」

「……かしこまりました」


 いわば最後の切り札を出されて、エンバスは潔く道を開けた。





 エンバスの言葉通り、セファイドはすでに就寝していた。

 最小限の照明しかない薄暗い部屋の中、声をかけようとするエンバスを追い越して、ユージュは無遠慮に寝台に歩み寄った。セファイドは薄手の布団を被って寝ていたが、すでに気配を感じて目を覚ましている。


「体調が悪いというのは本当だったのですね」


 うっすらと目を開けたセファイドに、ユージュは恐れ気なく話しかけた。セファイドはだるそうに額を掻いて、


「少し疲れただけだ。誰に聞いた?」

「あなたが袖にした歌姫に。彼女、こっそりと相談に来ましたよ。後でカイをよこします」

「必要ない。何だ、わざわざ小言を言いに来たのか?」

「それほど暇ではありません」


 ユージュは頬に触れる髪を耳の後ろに引っかけて、ちらりと背後を見やった。その意図に気づいて、セファイドはエンバスに向かって手を挙げる。

 少々不安げに侍従長が部屋を出て行くと、人がいなくなったのを確認して、ユージュは両腕を組んだ。少女めいた美貌に苦しげな影が浮かぶ。

 無表情が常である女のただならぬ様子に、セファイドは身を起こした。


「『遺跡』に何か?」

「アルサイ湖の水位が低下し始めました。このままいくと、半年後には湖は空になります」


 それが事実であれば、彼女の焦りも無理からぬことであった。

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