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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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君去りし後

 最後の船が出た。

 この場所で暮らしていた人間たちは、一人を残して全員が去った。目的地も帰還の保証も胡乱な、希望のない旅路である。それでも、捨てた故郷をここで眺めているだけの日々に、彼らは耐えられなかったらしい。


 広大な施設はほぼ無人になり、使用されなくなった区画は順次閉鎖された。居住可能な空間はごくわずかになったが、たった一人残留した人間が生活してゆくには、それで十分だった。

 むしろこれからのメンテナンスを考えると、無駄な設備は切り捨てた方が楽だろう。水と食糧は一人なら五十年はもつほど備蓄されていたし、植物の製造プラントは問題なく稼働を続けている。


 出航を見送り、最後の住人となった彼女は隔壁を閉め終えた。操作盤から離れ、窓から見慣れた風景を眺める。分厚い壁と石英ガラスで密閉されたこの場所が、彼女にとってこの先唯一の世界となる。


 本当にこれでいいのか――つい数時間前に別れた仲間が彼女に掛けた言葉だ。彼女と同じ仕事をし、役目を終えて船に乗り込んだ仲間たちは、一人残ることを決めた彼女を最後まで説得しようとした。

 ここに残っても何もない。我々と行けば、少しは望みがある。わずかな可能性に賭けてみる気はないか。


「それは違う。可能性は地上にこそある。私はそれを見届けたいのよ」


 仲間に向けて返した答えを、彼女はもう一度呟いた。

 態のいい言い訳かもしれないとは思う。自分には結局、地上で生き抜く覚悟も、皆と去る諦観もないのだから――黄みがかった東洋系の顔立ちの中で、黒い目が苦しげに伏せられる。


「あなたの選択は正しいと思われます」


 彼女の傍らには、ここの住人として数えられない存在が佇んでいた。成人男性の血肉を備えていはいるが、質的には自分たちと大きな隔たりがあることを、彼女は誰よりもよく知っていた。

 彼もまた、最後に残った一人であった。彼の眷属と呼ぶべき者たちは、ある目的を持ってすでに地上に降ろされている。


「生存のためにはそれが最良です」

「……あなたにはまだ学ぶべきことが多そうね」


 彼女は小さく首を振って、頬にかかる短い髪を耳の後ろに流した。


「私がここに留まったのは、あなたを……あなたたちを生み出した者の一人としての責任があるからよ。あなたの役目は地上の可能性を守ること――それには理性と知識だけでは足りません」


 怪訝そうな表情になる彼に、彼女は少し安心した。自分の言葉の意味が分からないのだろうが、それを表現する術を身に着けたと知ったからだ。


「あなたは実際に地上を見て、人間を知って、自分で何をすべきか判断しなければならないの。擦り込まれた価値観なんて、すぐに上書きされるわ」

「私はいつ降りられるのしょう?」

「私が知っていることをすべて伝え終えたら。あなたはあそこへ降りて、あなたを必要とする者に寄り添いなさい」


 彼女は彼の冷たい顔に触れた――愛おしげに、誇らしげに。自らの魂を籠めた作品に満足する芸術家のごとく。


 窓の外には白い荒野と黒い空が静止画のように貼りついている。空に浮かんだ青い天体だけが、鮮烈な生命感に溢れていた。





 赤みがかった満月は、西の空の海に近い場所へ傾いていた。

 投げかけられた光は、不吉な月の色に拘わらず冷たい。銀色の糸を織り込んだ絨毯のように、海上に長く伸びている。沖合にいくほど海は従順に見えて、静かに月光を映していた。だがその実、荒々しいうねりは途絶えることがない。浜辺に押し寄せ砕ける白い波は、月の引力から解放された奔放な海の生命力そのものだった。


 遥かな過去から変わらず繰り返されてきたであろう波の動きを、リリンスは眺めてはいなかった。

 ドローブ港近くの小さな砂浜で、彼女はうずくまっている。立てた両膝の上に顔を伏せ、月光に怯えるように身体を丸めていた。


 つい数刻前、兄を看取ったところだった。服についた赤黒い染みはアノルトの血である。両腕はまだ彼の重みと温もりを覚えていて、鼓膜には徐々に弱くなっていった呼吸音が留まっている。

 夜明け前の冷たい潮風に晒されながら、リリンスは全身に残る命の残像を抱き締めていた。


 肩の近くで空気が動いた。風の中でも分かる人の気配だったが、体温や体臭は感じられない。だからそれが誰なのかすぐに察しがついた。


「……サリエル」


 リリンスは顔を伏せたまま話しかけた。彼女の左隣に腰を下ろしたサリエルは、はい、と返事をする。


「兄様は……どんなふうだった?」


 国王の使者としてジメシュでアノルトに追いついて以来、サリエルは間近で彼の行動を見てきたはずだった。逆賊と呼ばれた兄が何を考え何を望んだのか、リリンスは知りたかった。

 言葉足らずの質問の意図を、サリエルは正確に理解したようだった。


「強いご意志をお持ちでした。伯父君との軋轢に苦しまれつつも、決してご自分を偽らず、望む未来のために突き進まれました」

「兄様の望んだ未来……オドナスの国王になること? 私が……譲ればよかったのかな……」

「それは違います。アノルト様が何よりも望まれていたのは、あなたとともに歩む人生です。国を継ぐことよりもずっと強く、命を懸けても惜しくないほどに願っていらっしゃいましたよ」


 リリンスは顔を上げた。腫れた瞼は重く、目も鼻も充血してズキズキと痛んでいる。しかし、肺が押し潰されるような胸の痛みがそれらを凌駕していた。


「だから、アノルト様は後悔なさっていないはずです」


 サリエルは海上の赤い月を見詰めていた。リリンスに向けた右の横顔には傷ひとつなく、月光に照らされてますます白く輝いている。その物腰に過度の憐憫はなくて、言葉は真実なのだと信じられた。彼は決して嘘を吐かない。


「兄君はご自分の心に正直に向き合われました。リリンス様も、そうなさればいい」

「うん、そうね……その通りだ……」


 黒い瞳が揺れて、再び涙が溢れ出した。兄の遺体の前で泣いて泣いて、もう涙は涸れ果てたと思っていたのに――リリンスは必死で目元を拭うが、止められなかった。

 サリエルは静かに立ち上がった。服についた砂も払わずに踵を返す。何か期待していたわけではないが、リリンスは軽く落胆した。


 再び膝に顔を乗せる彼女の右隣に、別の気配が湧いた。それは温かい体温と、血と煤と薬草の臭いを纏っていた。

 その人物は何も言わなかった。ただ黙ってそこにいる。おそらくかける言葉が思いつかないのだろう。それでも、それが自分の役目だと言わんばかりに、不器用に彼女に寄り添っていた。

 炎と煙の中を潜り抜けてきた彼は、軽くない火傷を負っているはずだった。本来なら痛みと疲労ですぐにでも休みたいに違いない。にも拘らず、彼はリリンスの傍にいる。泣きじゃくる彼女を慰めることもできないのに。


「これで最後にするから……」


 リリンスは嗚咽交じりにそう言って、身体を傾けた。包帯が巻かれた腕が、おずおずと彼女の肩を抱いた。


「もう二度と泣かないと約束するから……今は許して。ここにいて……お願い」

「ずっといるよ。君の傍にいる」


 返事はぎこちなかったが、リリンスの胸の痛みがほんの少し和らいだ。最後のたがが外れたように、彼女は声を上げて泣き始めた。


 赤い月が照らし出す悲しみは風にさらわれ、泣き声は波音が掻き消していゆく。

 この冷たく荒々しい場所ですべて吐き出してしまおうと、リリンスはひたすら泣き続けた。





 砂浜で寄り添う二つの背中から目を逸らして、サリエルは同じく彼らを見守るシャルナグとウーゴの傍に近づいた。


「あの二人が接近しすぎぬように見張っておけと言っただろう」


 シャルナグに睨まれて、ウーゴは肩を竦める。


「おかげで助かったじゃないですか。ナタレがいれば、殿下はちゃんと立ち直りますよ。いつまでも敵のためにメソメソされていては困りますからね」

「実の兄だ。仕方あるまい」

「上に立つお方には、そういったしがらみは捨てて頂かないと」

「正論だな。それが世代交代というものなのかもしれん」


 シャルナグは部下との議論を諦めて、身を翻した。彼にとってもまたアノルトは大事な人間だった。剣の弟子であり、息子同然に成長を見守ってきた若者なのだ。

 総督府の方へ戻る、と言い残して彼はその場を離れる。サリエルに目礼する表情は痛々しげなものだった。美貌の半分を失った彼に対して、実直な将軍は心を痛めているようだった。


 疲れの溜まった後ろ姿を眺めながら、


「何にでも責任を感じるのはあの人の悪い癖だ。ああいう性格で、よく今まで将軍職が務められたもんだよな」


 ウーゴは呟いた。古参の部下らしく遠慮のない言い草だったが、悪意ではなく労りを含んだものだった。


「あの方が皆に慕われる由縁でしょう」

「あなたもそういう類の人間だと思っていたんですけどね、楽師殿」


 サリエルの焼け爛れた左半面を、ウーゴはしげしげと眺める。


「どうやらそうでもないようだ。知事府軍を内側からぶっ潰したの、あなたなんでしょ?」

「私は事実を告げただけ。知事を裏切ったのは、結局彼ら自身の意志です」

「ははあ、将軍閣下とは逆で、何に対しても責任を感じない方ですね。怖いなあ」


 楽師の浮かべた清澄な微笑みに、半ば本心からの恐れを彼は感じた。





 総督府は一晩中火と煙を噴き上げ続け、土台を残してほとんどが燃え落ちた。

 行政機関が機能を果たさなくなったため、進駐した王軍は街の中心部にある隊商宿の一軒に仮の総司令本部を置いた。総督府の重要書類の多くが、アノルトの命令であらかじめ持ち出されていたことは幸いだった。


 泣き疲れたリリンスも夜明けにその宿に入り、久々に安定した寝台に身を横たえた。

 ティンニーが細々と世話を焼いてくれるのがありがたく、自分では何もせぬまま意識を失い、夢も見ずに眠り込んだ。


 昼過ぎに目覚めたリリンスは、瞼の腫れも引かぬうちにまずはシャルナグを訪ねた。

 執務室となった宿の一室では、王軍幹部と総督府の役人が慌ただしく行き来している。少し気後れしたが、どうしても押し通したい意見があった。 


「兄様を荼毘だびに伏したい。許可してもらえますか?」


 討伐された犯罪者の遺体はそのまま王都へ運ばれるのが習わしだった。防腐処理は施されるが、二ヶ月にも渡る旅には耐えられまい。大罪の報いとはいえ、愛する兄の無残な姿をリリンスは見たくなかった。

 他の人間が聞かぬふりをして業務に集中する中、シャルナグに驚いた様子はなかった。予想はしていたらしい。


「お願いします。責任は私が取るから」

「殿下にはまだ責任など取れない――私の判断で、明日にも葬儀を行おう」


 リリンスは深々と頭を下げた。


「感謝します。それから……兄様のために泣いてくれてありがとう、シャルナグ小父様」


 その呼称で呼ばれるのは数年ぶりで、彼は気まずげに宙を仰いだ。強面の将軍の瞼もまた、赤みを帯びて腫れていた。


「ま、まあ私のことなどどうでもよいのだ。それより、知事夫人が持ち込んだ書類なのだがな」


 シャルナグは机の端に置いてある書類束を引き寄せた。革表紙に綴じられた分厚いそれは、アノルトがカシマに託したものである。昨夜のうちにリリンスの手元に渡ったのだが、彼女には中身を確かめる余裕がなかった。


「調べて下さったんですね。帳簿のようでしたが……」

「献金記録だったよ。ドローブ商工組合からアノルトに対しての、金銭的な援助の履歴だ。あいつが総督に就任して以降、つい最近まで継続している」


 なぜ兄がそんなものを自分に遺したのか、リリンスはその意図を瞬時に理解した。





 兄を追う旅に出てからずっと、リリンスは重苦しいつかえが胸から離れなかった。

 毎朝目覚める度に、今兄は何をしているのか考え、いずれ訪れる衝突に不安を抱いた。ナタレと話していてもティンニーとふざけ合っていても、その気持ちは身体と同化したように彼女から離れなかった。


 だから、悩む必要がなくなった今も、身体はそれを覚えている。


 本部で来客の相手をしながら、書類に目を通しながら、活気を取り戻す街並みを見て回りながら、ふとリリンスは、兄は今頃どうしているだろう、などと考えた。そしてすぐに、この世界に彼はいないのだと気づいた。


 涙を流さずに済んだのは、いつでもナタレが視界にいたからだ。

 彼は何も励ましの言葉はかけない。ただ約束通りリリンスの傍にいて、彼女が崩れた時には支えようと手を差し延べていた。だから、リリンスは自分で立っていられた。


 兄を失った喪失感に、もう彼の行く末に思い悩まなくてよいのだという安堵が混じり始めた頃、兄は小さな壷に収められた灰になって彼女の腕に戻ってきた。

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