弔鐘
腰から剣を外して机に置くと、気分が楽になった。
肘掛椅子に浅く腰掛けたアノルトは、上体を背凭れに傾けようとした。しかしその姿勢では脇腹が痛んで、結局机上に突っ伏してしまった。
情けない格好だな、と自分で可笑しくなった。
さすがに粗末な見張り部屋を死に場所にする気にはなれなくて、どうにかこの執務室まで辿り着いたものの、こんな背中を丸めた焼死体で発見されるなど無様なことこの上ない。
だがもう移動する体力は残っていなかった。腹の刺し傷を押さえた手の間から生温かい血が溢れ、止めどなく足を流れ落ちてゆく。不思議と痛みは薄れつつあって、引き換えに身体は冷えていった。
マグナスは指示通りにやり遂げたらしく、すでに三階にあるこの部屋まで煙が入り込んでいた。木材が爆ぜる音がぱちぱちと響く。じき、炎はここまで到達するだろう。
出血多量で息絶えるのが先か、煙で窒息するか、それとも火に焼かれるか――死の足音は緩慢である。
「どちらにしても……もう自分で始末をつける必要はないか……」
アノルトは剣を押しやり、大きく息を吐いた。
彼にとっては不本意な末路にも、妹の罪悪感が多少なりとも軽減されるのなら諦めがついた。部下とともに投降せずに自害の道を選んだのは、妹に兄殺しの重荷を背負わせないためだった。
リリンス――最愛の妹。たったひとりの運命の女。
彼女の笑顔を脳裏に浮かべると、アノルトはとても幸せな気分になった。
ずいぶん傷つけて泣かせてしまったにも拘わらず、今思い出せるのは笑っている顔だけだった。自分の身勝手さに苦笑しつつ、彼は眠気に誘われる。
後悔はしていない。もう一度やり直せるとしても、やはりリリンスの兄に生まれたいと思う。そしてまた同じように彼女を愛し、父に逆らうだろう。
兄様、と、耳の奥で幼い声が彼を呼んだ。
深い淵に落ちてゆくような不安を、その懐かしい声は和らげる。扉の隙間から炎が侵入して絨毯を燃やし始めたが、彼に恐れはなかった。
ただ、ひどく寒かった。表皮だけが熱に炙られて、身体の芯は冷え切っている。王都を出てからずっと抱いていたその感覚は『孤独』だったのだとようやく気づいた。
――リリンス、おまえに会いたい。
完全に瞼が落ちた次の瞬間、強い力に肩を掴まれた。
シャルナグ率いる王軍本隊がドローブに到着した時、街はすでに王太子によって制圧されていた。
マージ・オクが陥ちてから連絡を取り合っていたとはいえ、シャルナグはイーイェンの行動の素早さに舌を巻いた。そしてウーゴの言っていた通り、彼らを味方に引き入れたリリンスの器量に敬服した。
静かだがほとんど傷ついていない市街地を進み、港近くでシキ総長の部隊と合流した。南洋の女傑はその地位に相応しく明朗に笑って、オドナスの大将軍と握手を交わした。
「挨拶は後回しにして、シャルナグ殿、今は急ぎ総督府へ行こう」
「ああ……炎が見えるな」
「リリンス殿下は先に向かわれた」
シキは馬で、シャルナグは駱駝で、揃って通りを駆けた。イーイェン兵と王軍兵士がそれぞれの主人に続く。
彼らが着いた時、燃え盛る総督府の前庭では、リリンスとナタレが激しく言い争っていた。
「どうして!? どうして助けに行っちゃいけないの!? 兄様はまだ中にいるのよ!」
「この火勢では間に合いません! 入って行くのは自殺行為です!」
「誰も行かないんだったら私が行くわ!」
シャルナグらの登場にも気づかぬほど我を忘れて、リリンスは炎を吐き出す建物に向かって駆け出そうとした。ナタレがその身体を後ろから羽交い絞めにする。
「いけません! 殿下!」
「離して! 兄様が……私の兄様が死んでしまう! 離せっ!」
「落ち着いて下さい!」
ナタレはリリンスの両肩を掴んで、強引に自分の方へ向かせた。焦燥に揺れる黒い瞳が、火の色とナタレを同時に映した。
「俺が行きます。あなたはここで待っていて下さい」
「だ……駄目よ、私も行く! 私が行かなくちゃいけないの!」
彼女はナタレの腕を振り払おうとしたが、ナタレはさらに強く肩を掴んで怒鳴った。
「リリンス! たまには俺の言うことを聞け!」
その場の人間の視線が全部集まるほどの大声に、リリンスはびくりと身を竦ませた。ナタレは怒りにも似た感情を露わにして、睨みつけるように彼女を見詰めている。
「あなたにもしものことがあれば、全部が無駄になるんだぞ! オドナスのために命を懸けた者たちを、あなたは踏み躙るつもりか! 軽々しく行動するな!」
「わ、分かってるけど……でも……」
「兄君は俺が必ず連れて来る。約束するから……リリンスはここにいてくれ」
語尾は優しかった。ナタレは表情を緩め、安心させるようにリリンスの頬を撫でた。そして、言葉の出て来ない彼女の唇に強く口づけた。
衆人環視の中での大胆な行為に、リリンスもさすがに驚いて動きを止める。
その隙にナタレは素早く身を翻した。
手放しかけた意識を引き戻されて、アノルトは不愉快な気分になった。しかも目の前にあるのは、世界でいちばん見たくない男の顔だ。
「貴様……何しに来た?」
火と煙が蔓延した視界の中で、ナタレもまた不愉快そうに彼を見返している。身に纏った赤い服が、火を映してますます鮮やかだった。
「俺の首が欲しいのならくれてやる。さっさと取って、手柄にしろ」
「寝言を言うな。ほら、行くぞ」
ナタレはアノルトの腕を掴み、不遠慮に引っ張った。消えていた痛覚が戻ってきて、アノルトは思わず呻きを上げる。
「ゆするなっ……痛いんだよ!」
「だったら、まだ大丈夫だ。そう簡単に楽になれると思ったら大間違いだからな」
乱暴に腕を引いて立たせようとするナタレの手を、アノルトは振り払った。
「とどめを刺す気がないのなら放っておけ……! 俺はおまえが大嫌いだ」
「俺だって大嫌いだ! でもリリンスがあんたを待ってる。連れ帰ると約束した」
ナタレは再びアノルトの腕を掴んで、その下に自分の肩を入れた。全身を使って彼を椅子から立たせようとする。
「リリンスが……俺を待ってる……?」
「ああ、彼女はあんたに会うために、わざわざこんな地の果てまでやって来たんだ。だから死ぬ前にきちんと謝れ。愛してるんなら、けじめをつけろ」
吐き捨てるように言うナタレの横顔には、怒りはあっても殺意はなかった。焼け焦げてぼろぼろになった外套が、掻い潜って来た火勢の凄まじさを物語っている。
命の危険を顧みずに自分を探しに来た――感謝する気など起きなかったが、気迫に押された。アノルトは彼の肩に寄りかかり、何とか立ち上がった。
途端に脇腹に激痛が走る。流れ出した血の量は多く、足に力が入らなかった。
「言っとくけど、途中で死体になったら、あんたの足首を引き摺って戻るからな」
ナタレは肩にのしかかるアノルトの体重に歯を食い縛りながら、毒づいた。
「それが嫌ならしっかり歩け。この根性なし!」
「偉そうに……言うな……田舎者が……」
アノルトもまた歯を食い縛って、大嫌いな相手に抱えられながら、一歩を踏み出した。
廊下はすでに火の海だった。入って来た時よりも格段に火の勢いが増していて、息をするのも苦しいほどの熱気が渦巻いている。
突入する前に、あのマグナスという男から建物内部の間取りを聞いて、アノルトが執務室か自室にいるだろうと見当をつけて来た。帰り道も把握できている、大丈夫だ、とナタレは自分を奮い立たせる。
ナタレはアノルトを支えながら壁沿いに階段へ向かった。
一刻も早く脱出しなければならなかったが、重傷を負ったアノルトの歩みは緩慢だった。彼は端整な顔を苦痛に歪め、懸命に前へ進もうとしている。髪から汗が滴っているのに、身体は冷え切っていた。
長くはもたない――察したナタレは焦りを募らせた。
もどかしい足取りで進んで行くが、すぐに行く手を阻まれた。廊下の窓が割れ、そこへ向かって内部から炎の風が吹き出している。とても通り抜けられそうになかった。
「別の階段がある……こっちだ……」
アノルトは俯いたまま指示した。逆方向へ向かって歩き出しながら、
「俺を捨てて逃げても……いいんだぞ?」
「余計な口を利くな。体力が勿体ない」
「まったく……リリンスは……おまえなんかのどこがいいのか……」
紫色に変わった唇から、吐息とともに苦笑が漏れた。
「いいか、王都へ帰っても油断をするな。リリンスを……守れ……」
「言われなくても一生守るよ」
「馬鹿、おまえに託すとか……そういう意味じゃない」
アノルトの腕が、一際強くナタレの肩を拘束した。
「伯父は……南の独立と同時に、本国の弱体化を狙っていた。あの腹黒い男が、王太子の暗殺だけで満足するはずがない……おそらく王都でも何らかの企てを……奴が死んだ今となっては……分からないが……その仕掛けはまだ有効かもしれん……」
「分かった。シャルナグ将軍に伝えて、王都にも知らせる。だからもう喋るな」
ナタレがアノルトの背中を叩くと、彼は肯いた。
肩に掛かる重みは徐々に増していて、ナタレはとにかく早くリリンスの元へ帰りつくことに集中した。
熱に喘ぎ煙にむせながら、二人はどうにかこうにか階段に辿り着いて、一階まで降りることができた。
火元となった一階はさらなる灼熱地獄である。マグナスが万遍なく撒き散らした燈台用油の臭いが、煙に混じって鼻孔を刺激した。
正面玄関よりも裏口の方が近いと判断し、彼らはそちらへ向かった。
広々とした廊下はすべて火に沈んでいて、足を踏み出せる場所はごくわずかだ、逸る気持ちを抑えて、ナタレは慎重に歩を進める。アノルトはもはや憎まれ口を叩く余裕もなく、気力だけでついてきているようだった。
建物の端が見え、そこを曲がれば出口という所まで来て、
「止まれ!」
アノルトが声を上げてナタレの身体を引いた。
同時に目の前に何か大きな質量が落ちてくる。吹き飛ばされて彼らは転倒した。焼け崩れた天井板が広範囲に渡って落下したのだ。
「くっそ……」
行く手を完全に塞がれ、振り返ってもすでに道はなく、ナタレは呻いた。
息をする度に肺が焼けそうなほど熱い。方法を考えようとするが、薄い酸素のせいで理性が蝕まれ、今にも恐慌を来してしまいそうだった。
「行け……一人で……逃げろ……」
仰向けに倒れたアノルトは、細い声で呟いた。もう立ち上がる力が残されていないのは一目瞭然であった。
「うるさい! あんたの命令なんか聞くか!」
跳ねつけて無理やり彼を抱き起したものの、もう手立てがない。ナタレは何とか脱出口を見つけようと目を凝らした。
その時、バリバリと凄まじい音が響き割った。
また崩落かと身構える彼らの背後で、壁が崩れた。穿たれた穴から数人の兵士が飛び込んでくる。みな総督軍の軍服を着ていた。
「殿下! ご無事ですか!?」
先頭で入って来た男は軍団長だった。壁を壊して突入してきたのだろう。彼は手にした木槌を打ち振るって穴を広げ、邪魔な瓦礫は素手で押しのけて道を確保した。
「こっちだ! 見つけたぞ!」
合図に呼応して、次々と救援が駆けつける。総督軍兵士も、イーイェン兵も、王軍兵士もいた。
「ナタレ! 生きてるかぁ!?」
やや間の抜けた呼び声はフツのものだ。
ナタレは小さく笑って、アノルトを支えて再び立ち上がった。
兵士たちが協力して開けた脱出口から、ナタレは戻ってきた。軍団長と二人でアノルトを支えている。彼らの服の裾には火がついていて、庭で待機していた兵たちが急いで叩き消した。
生きた心地もせずに待っていたリリンスは、喜びに顔を輝かせて駆け寄る。しかしすぐアノルトの状態に気づいて、大きく目を見開いた。
ナタレと軍団長はアノルトを地面に寝かせた。リリンスはその傍らに膝をつき、恐る恐る脇腹の傷を見る。彼の腰から下は、ほぼ真っ赤に染まっていた。
「兄様……」
「……リリンス」
アノルトはうっすらと目を開き、妹の姿を認めた。リリンスは両腕で彼の身体を抱き起して、その頭を膝に乗せた。
ナタレが静かに兄妹から離れる。気配を察して、他の兵たちもそれに倣った。
轟々と炎を上げて燃え崩れる総督府を背景に、彼らの周囲にだけ静寂が落ちた。
「兄様、会いたかったわ」
それだけしか、リリンスは言葉が出て来なかった。訊きたいことや確かめたいことがたくさんあったはずなのに、全部どうでもよく思える。兄が戻ってきた事実だけで十分だった。
アノルトは手を伸ばして短く切られたリリンスの髪に触れた。その掌も指も自らの血で濡れている。
「酷い……頭だ……」
「似合うでしょう? きっと王都で流行るわよ」
血で汚すのを恐れてか、戻されようとした手を、リリンスは握り止めた。氷のように冷たい手であり、火傷と煤で汚れたその皮膚は紙の色をしている。
「泣くな」
そう言われて、彼女は自分が涙を零していることに気づいた。王太子の指名を受けてから決して泣くまいと決意していた少女は、今ひたすらに落涙している。
戻ってきた兄は再び行ってしまう。兄に触れ、兄の声を聞けるのは最後なのだと思うと、悲しいと感じるよりも先に涙が流れた。胸にわだかまっていた複雑な思いは知らぬうちに溶解し、ただ自分は兄を愛しているのだと分かった。
「俺の……せいだな……おまえを苦しめてしまった……」
すまなかった、とアノルトは詫びた。
「父上と母上にも……伝えてほしい……俺が謝っていたと。とんでもない不孝を働いた……母上はどんなに悲しんでいるか……」
「兄様の口から言うといいわ。家に帰りましょう、一緒に」
アノルトの視線が空へ泳いだ。
欠ける所のない全き月は、高い位置に昇って彼らを見下ろしている。注がれる月光は冷たく澄んでいて、地上の諍いを浄化するようだった。
どこからか、鐘の音が聞こえてくる。高く響き渡るその音は、イーイェンの船が戦勝を告げる合図であったが、二人には王都を思い出させる音だった。
満月の晩に響く、アルハ神への祈りの鐘だ。
「リリンス、笑ってくれ」
アノルトは手の甲でリリンスの頬に触れた。不安定な眼差しの焦点を、懸命に合わせようとしている。最愛の女の姿を、せめて瞳の中に抱こうと。
リリンスは泣き崩れそうになるのを堪えて、笑った。笑えているはずだった。
アノルトは心から安心したように、深く長い息を吐いた。
「ああ……暖かい……」
彼は幸せそうな微笑みを浮かべて、目を閉じ、夜に染み入る鐘の音色に聴き入った。穏やかな午睡にたゆたうような、穏やかな表情であった。
日付が変わる前に、アノルトは息を引き取った。つい一ヶ月前に二十歳になったばかりの若い王子は、反逆者の烙印を背負ったままその人生を終えた。
そして、首謀者たる王兄と第一王子の死をもって、オドナス王国の内乱は幕を閉じたのだった。
次話より最終章に入ります。
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。あともう少し、完結まで楽しんで下さると嬉しいです。




