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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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運命の女

 アノルトの行方不明が知れたのは、夕刻になってからだった。


 港では接岸した帆船からイーイェンの兵士が続々と上陸して、待ち構えていた総督軍と戦闘になっていた、

 埠頭が封鎖され桟橋が破壊されても、イーイェンの民は船から縄を伝って直接降りてくる。小舟に乗り換えて上がってくる部隊もいて、総督軍は苦戦を強いられていた。

 また陸上では、ドローブに至る街道で別の戦いが繰り広げられていた。

 ウィチクから陸路で攻め入ってくる一団と、総督軍の迎撃隊が衝突したのである。馬を巧みに操るその集団には、イーイェン兵士の他に緋色の装束の男たちが相当数交ざっていた。


 ドローブの命運を分ける戦いが開始されたまさにその時、総督たる第一王子が消えたのである。


「殿下は!? アノルト殿下はどこにおわす!」


 いつになっても指示を出さず、姿さえ現さない主人をさすがに不審に思って、軍団長はアノルトの自室や執務室を探した。しかしどこももぬけの殻である。

 嫌な予感がした。そのことに思い至った自分を恥じながら、また間違いであってほしいと祈りながら、彼は総督府の地下に足を運んだ。そこには万一の際の脱出通路があるのだ。


 薄暗い倉庫の奥、普段厳重に閉じられているはずの小さな鉄扉は、すでに通り抜けた誰かの気配を示して、細く開いていた。


 血相を変えて地下から取って返す軍団長を、一階でひとりの男が迎えた。知事のもと部下である。知事府の文官のほとんどがマージ・オクに残った中、アノルトに同行した数少ない役人だった。

 まだ若いその男は、床に平伏して詫びた。


「黙っていて申し訳ございません! 殿下は半日前に地下の通路から脱出なさいました」

「なぜだ! なぜ殿下は逃げたのだ!?」

「お、王家の正統な血を絶やさぬためと……生き延びることが自分の責任だとおっしゃって……」


 軍団長はがくりと両膝をついた。

 ならばそう命じてほしかった。逃げおおせる間、盾になれと――自分は喜んで従っただろうに。それをせず皆を欺いたのは、命を預けた部下を信用していなかったということだ。


「いったい何のために、俺たちは……」


 呟いた軍団長は、誇りであったはずの鎧と剣を、急に重く感じた。


 たったひとつの戦う理由、魂の拠り所とも言うべき主人を失った総督軍が、士気を失い降伏するまで時間はかからなかった。





 最後に到着した船から、リリンスは夜のドローブ港に降り立った。

 実に半月ぶりに踏みしめた大地である。船上の揺れが肉体に染みついていて、まだ足元がぐらつく妙な感覚を覚える。気持ちが悪かったが、シキの言葉を信じるならばすぐに元に戻るらしい。

 港はすでに味方によって制圧されていた。総督軍の軍服を着た兵士たちは武装を解除され、埠頭の端にまとめて拘束されている。ぐったりと座り込んだ彼らの様子は、疲労困憊を通り越して放心状態に見える。


 あちこちで焚かれた篝火が、戦闘の跡を生々しく照らし出している。桟橋の木板に飛び散った血痕や、布が被せられた多くの遺体から、リリンスは目を逸らさなかった。潮の臭いに慣れた彼女は、それよりももっと濃い血臭を嗅ぎ分けるようになっていた。

 ともに下船したナタレが、痛々しげに眉根を寄せる。かつてロタセイの反乱が鎮圧された時に、彼も同じ光景を見たのだ。


「犠牲は少なく済んだよ」


 蒼褪めながらも気丈に背筋を伸ばすリリンスに、シキが声をかける。


「港の守備隊を全滅させなければ先に進めぬだろうと覚悟していたからな。ハザン殿の部隊も、もう街の入口へ到着しているだろう」


 ハザンの率いるロタセイ兵は、ニーザたちと合同でウィチクから陸路を進んでいる。途中で総督軍と衝突するも、それを打ち破ったという報告はすでに届いていた。

 ほぼ思惑通りに事が進んでいるにも拘わらず、リリンスは胸騒ぎがした。


「どうして総督軍はこんな簡単に降伏したんでしょうか?」

「総督が行方不明になったらしいのです」


 先に上陸していたカサカが、言いにくそうに告げる。


「戦いを放り出してひとり逃亡したと……敵の士気が下がったのはそのせいでしょう。総督府からの隠し通路の先を、今捜索しているところです」

「そんなことあり得ないわ!」


 リリンスは叫んだ。

 その場にいたイーイェン兵も拘束されている総督軍兵士も、驚いて彼女を見るほどの大声だった。ナタレもまた驚いた。彼が初めて目にする険しい表情を、リリンスは浮かべている。


「兄様が逃げるはずない! あなたたち、何年兄様に仕えてるのよ!?」


 彼女は総督軍兵士の方へそう怒鳴って、いきなり駆け出した。ナタレが後を追う。向かう先は分かっていた。

 暗い空には、丸い月が昇りかけていた。





 今夜は満月だったのか――東の空の低い位置に浮かんだ円形の月を見て、アノルトは初めて気づいた。

 もうずいぶん長いこと月を見ていなかった。神を意識していなかった。

 自分の不信心さに、少し呆れた。これでは神罰が下って当然だ。彼は曇った窓硝子を手で拭って、外の景色に目を凝らした。


 総督軍が抵抗を諦めたことにより、市街の防御は解かれ、大通りをイーイェンの兵士たちが悠々と進んで来ていた。いずれそこに王軍本隊も合流するのだろう。

 夜の市内に火の手や煙が上がっていないことに、アノルトはほっとした。今のところ略奪や破壊は行われていないようだ。イーイェンがオドナス王太子の意向を尊重している証拠だった。


「よいのですか? 皆あなたを、部下を見捨てて逃げた腰抜けだと思っています」


 咎めるような口調で声をかけられ、アノルトは窓から離れて振り向いた。

 背後に佇んでいるのはマグナスであった。かつてはフェクダの間諜を務めていた男である。彼にとって軍団長を騙すことなど造作もなかった。


 彼らがいるのは総督府の三階、廊下の端の物見台だった。漆喰壁に柱や梁が剥き出しになった、狭く簡素な部屋である。港と街全体が見下ろせるこの場所に、アノルトは身を隠していた。


「いいんだ。これで味方の犠牲を最小限に抑えられる」

「王族の名誉よりも重要なことですか?」

「俺の名誉など、王都を出た時に地に落ちたさ。それより、おまえはいいのか? 知事府の他の役人ともにマージ・オクに残って、王軍へ投降すればよかったのに」


 アノルトは薄く笑った。見張りの兵士が使う小さな円卓の上に、蝋燭が一本だけ灯されている。弱々しい炎が端整な顔を下から照らしていた。


「俺には、王都に帰る場所はありません。職務のためとはいえ、ひどく傷つけてしまった人がいます。それに耐えきれなくて……」

「そうか、情報漏洩の首謀者はおまえだったんだな。いや……首謀者はあの楽師か。おまえが協力して、組織的な造反を煽った」

「ええ……極めて個人的な罪悪感を拭うために、俺は知事を裏切りました。不毛な自己満足に過ぎませんが」


 マグナスは足元に視線を落とした。苦しげではあるが、もと主人である知事や内通を教唆した楽師を呪うような様子はなかった。あるのは、自らの引き起こした事象に対する諦観の念だけだ。

 まるで自分を見ているようで、アノルトは苦笑した。自分の掘った穴に落ちて、それでも格好をつけている愚か者だ。彼の笑みは自嘲のそれに変わる。


「傷つけたのなら、素直に謝ればいいだろうに」

「殿下にだけは言われたくありませんね。あなたこそ、マージ・オクで降伏するべきだったのではありませんか」

「それでは掃除ができない」


 素っ気ない答えに、マグナスは一瞬怪訝な顔をし、そしてすぐに気づいた。

 アノルトが不利を承知で戦争を続けた意図――それは国王と王太子の敵を明確にし、勢力を纏めて引き寄せることだったのではないか。国内に燻る争いの火種をいっきに燃え上がらせて、王軍にその火消しをさせるつもりだったのではないか。


「俺と伯父になびいた南部諸国は、この戦争がなかったとしても、いずれ行動を起こしたことだろう。妹の不安要素は、なるべく取り除いておいてやりたい」


 再び窓の外の月を見て、アノルトは呟いた。フェクダの思惑と自分の望みにずれを感じた頃から、うっすらと考えていたことだった。

 彼が戦う意味は、最愛の妹にしかない――敗れたとしても、国を継ぐ彼女に悲しみ以外のものを残したかった。


 マグナスが次の言葉を発する前に。部屋の入口の扉が乱暴に開いた。


「アノルト様!」


 駆け込んで来たのはマルギナタだった。

 とっくに去ったはずの従妹の姿に、振り返ったアノルトは我が目を疑った。


「何をやっている!? 逃げろと言っただろう!」

「嫌だと申し上げました!」


 マルギナタはマグナスを押しのけて部屋を横切り、アノルトに縋りついた。彼の逃亡が信じられず、総督府に戻ってすべての部屋を探してきたのだろう。ひとつに結った髪は乱れ、赤らんだ頬には汗が流れていた。

 当惑するアノルトを涙ぐんで見上げ、捲し立てるように訴えかける。


「私は幼い頃からアノルト様をお慕いしておりました。父に連れられて初めて王宮に参向した日、迷子になった私の手を引いて客間に連れて行って下さったこと、覚えてはいらっしゃいませんか?」

「お、覚えてない……そんな昔の……」

「ドローブ総督に就任されたあなたと南部で再会できて、アルハ様に感謝しましたわ。私は一生お仕えすると決めたのです」


 控えめで慎ましいこの娘のどこに、これほどの情熱が秘められていたのか――痛々しいほどの想いをぶつけられて、アノルトはたじろいだ。だがその衝撃は不快なものではなかった。


 自分が妹を愛したように、自分もまた愛されていた。ひどく単純で分かりやすい状況を、彼はようやく受け入れた。

 従妹だけではない。父からも母からも妹からも、愛されていると分かっていたはずだった。


「ありがとう、マルギナタ。君の気持ちは本当に嬉しい」


 アノルトはマルギナタの乱れた髪を撫でつけ、それからその肩を押し戻した。


「だが、君では駄目なんだ。俺の愛する女はこの世でたった一人、リリンスしかいない」

「アノルト様」

「他の誰も代わりにはならない。だから、もう行ってくれ」


 優しいからこそ、それ以上の踏み込みを許さない拒絶だった。マルギナタの顔から表情が消え失せ、涙だけが流れ落ちた。

 彼女は呆然と後ずさり、俯いた。アノルトは視線を逸らして彼女が出てゆくのを待っている。マグナスが気まずげに場所を空けた。

 もう自分に選択肢はないと悟ったように、マルギナタは身を翻す。ゆるゆると数歩進んで――そして勢いよく振り向いた。


 再び胸に飛び込んできた細い身体を、アノルトは戸惑いながらも抱き留めた。彼女は、さっきよりも強く彼にしがみついた。

 抱き合ったまま、二人は彫像のように動きを止める。何かが床に落ちて、硬い音が響いた。


「マルギナタ、君は」


 アノルトは溜息とともに囁いた。


「やはり、見ていたのか」

「……父の仇……!」


 返事は押し殺した声の呟きだった。足元に転がっているのは金属製の鞘である。

 マルギナタの震える手に握られた短剣は、アノルトの左脇腹に深々と突き刺さっていた。





 異変を察知したマグナスが駆け寄る前に、アノルトはマルギナタを押しのけた。

 引き抜かれた剣先から血潮が滴り、床で弾ける。アノルトの脇腹にもじわじわと赤い染みが広がっていった。

 

「さすがはあの男の娘……見事だ」


 傷を押さえて苦しげな笑みを浮かべるアノルトを、マルギナタは震えながら見詰めた。


「だ、誰にも言わないつもりでした……あなたが何をしていても! でも愛して下さらないのなら……こ、こうするしかない……」

「そうか……しかし生憎だったな。この程度では人は死なないぞ」


 しっかりとした物言いを聞いて、マルギナタは血に染まった短剣を握り直した。再び向かっていくかと思いきや、その切っ先を自分の喉に向ける。

 マグナスが横から彼女の腕を掴んで、凶器を奪い取った。


「離して! 死なせて……!」


 暴れる少女の鳩尾みぞおちに、マグナスはやむを得ず拳を打ち込む。彼女は低い呻きを上げて気を失った。


「殿下、お怪我は……?」

「この程度では死なないよ」


 アノルトはみるみる蒼褪めてゆく顔を歪めた。


「……すぐにはな。マグナス、彼女を連れて出てくれ」

「しかし!」

「それと頼みたいことがある。本当は自分でやるつもりだったんだが、これではちょっと……無理そうだ」





 暗い街の中で、総督府の周辺だけが不自然に明るい。白亜の巨大な建物が、下から明々と照らされている。

 リリンスは最初、篝火のせいかと思ったが、じきにそうではないと分かった。総督府は一階から出火していたのだ。


 岩山のようにそびえ立つ建物の麓部分、一階の窓硝子がすべて砕け飛び、内部から橙色の炎と黒い煙を噴き出している。炎は白い壁を舐めるように上って、二階部分にまで達しようとしていた。

 前庭では、イーイェン兵と降伏した総督軍兵士が、揃って燃え盛る建物から距離を取っていた。

 駆けつけたリリンスも思わず顔の前に手を翳し、熱風を避けた。全身が炙られるようにヒリヒリとする。ナタレが彼女を後ろから抱えるようにして遠ざけさせた。


「ど、どういうことなの!?」

「油の臭いがします。中の人間は全員外に出てますが、奴ら、火を掛けやがったんですよ」


 先に来ていたニーザが、拘束された総督軍兵士の一団を憎々しげに眺めながら吐き捨てた。傍らではハザンが冷静に部下たちを統制しているが、消火は諦めているようだった。火の勢いはすでに抵抗できる段階を超えている。

 総督軍兵士たちの呆然とした様子から、計画的な放火だとは思えなかった。嫌な予感を覚えるリリンスの耳に、木板と蝶番ちょうつがいが弾ける音が突き刺さった。


 見ると、建物の正面玄関の扉が内側から大きく開き、炎とともに一人の男が飛び出してきたところだった。

 男は何かを肩に担いでいる。それを守るような姿勢で玄関前の階段を転がり落ち、地べたに倒れてイーイェン兵に囲まれた。


「待て! 剣を引け!」


 リリンスは南洋語で叱咤しながらその男に近づいた。

 役人風のその若い男は丸腰で、衣服のあちこちが焼け焦げている。身体の下に庇っているのは、肩に担いできたもの――若い娘だった。


「王太子殿下で……いらっしゃいますか……?」


 彼は激しく咳込みながらも半身を起こして、リリンスの姿を視界に収めた。顔にも身体にも煤がついている。娘の方は、失神しているのかぴくりとも動かない。

 リリンスが肯くと、


「アノルト殿下のご命令で、私が火をつけました。殿下はまだ中にいらっしゃいます」


 そう、掠れた声で告げた。


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