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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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白亜の街

 船の中にある食堂は、三十人も入れば満杯になってしまう程度の部屋であった。動かないよう固定されたテーブルと椅子が並ぶだけの素っ気ない食堂で、つい先刻までは騒々しい昼食風景が繰り広げられていた。

 食事時間の過ぎた今、テーブルのひとつで、リリンスはシキ総長と対面していた。ナタレとハザンも同席している。

 隣のテーブルでは、フェクダの死の顛末を語り終えたサリエルがヴィオルの弦を弾いていた。旋律のない気紛れな音色はかえって心地よく、兄の所業を知ったリリンスの動揺が収まったのはそのおかげだったかもしれない。


 ハザンはリリンスの方を気にしながら、遠慮がちに口を開いた。


「我々にとっては朗報だな。知事が死亡したばかりか、手を下したのが王子だと露見すれば、連合軍は分裂するだろう」

「どう理由をこじつけたって、楽師が短時間に三人も殺したなんて不自然すぎますからね。アノルト殿下もそれは承知のはずだと思うのですが」


 ナタレの言に、リリンスは肯いた。兄は時間を稼いで何をしようとしているのか気掛かりだった。

 平静を保っているリリンスを好もしげに眺め、シキは膝を組み変えた。短い裾から覗く脚はなまめかしくも野性的だった。


「こちらも朗報だぞ。王太子殿下に味方することについて、族長会の正式な承認が得られた」


 島での協議を終え、十日ぶりに船に戻った総長は好戦的な笑みを浮かべる。


「この機に乗じてドローブを攻めるというのならば、我々は協力を惜しまない」


 願ってもない申し出ではあったが、リリンスは答えに窮した。

 海上から見たドローブはとても美しかった。兄が治めるその街を攻撃し、兄を討つ――胃の腑を鷲掴みにされるような痛みを感じた。

 彼女の心痛を察したように、サリエルが口を挟む。だがその内容は厳しいものだった。


「数日の間に、王軍はマージ・オクに迫るでしょう。アノルト殿下はドローブまで撤退せざるを得なくなります。先に街を制圧してしまえば、確実に挟撃できます」

「でも……山向こうの戦線は膠着していただろ? 知事が死んだとはいえ、そう簡単に崩れるだろうか」


 ナタレの疑問に、サリエルは事もなげに肯いた。


「知事府内部の結束はすでに乱れていて、一部の兵士が組織的に機密を王軍へ流出させています。知事の死亡でその動きは加速するはず。情報を元に王軍が優勢になれば、マージ・オクでも造反が起こると思われます」

「どうしてあなたがそんなことを……」


 問おうとして、リリンスはやめた。白皙の美貌の半分を失った事情すら、サリエルは詳しく語らない。未だ治癒していない左手の指のことも含め、彼が何をして何をされたのか、問い質すのはなぜかためらわれた。


「ますます好機じゃないか。いっきにカタがつくぞ」

「どうなさる、殿下? あなたが号令を掛けるのならば、もちろんロタセイも参戦する」


 シキとハザン、二つの同盟国の長は返答を迫った。リリンスはテーブルの下で拳を握り締める。

 誰も代わりに決めてはくれない。これは自分で決断しなければならないことなのだと分かっていた。


「……現時点での市街戦は避けたい。無辜むこの市民が犠牲になります」


 彼女は低い声ながらきっぱりと言って、彼らを順番に眺めた。


「第一王子が総督府に戻るのを待ってから包囲し、投降させましょう。時間がかかっても、街への被害は最小限にとどめたいんです」

「殿下……」


 ハザンの表情に明らかな失望が浮かび、シキは溜息をついて背凭れに凭れた。

 自分の甘さは十分自覚していたが、リリンスにはどうしてもその選択しかできなかった。兄の作った街を破壊する以上に、同じオドナスの国民を苦しませることはしたくなかったのだ。

 後に禍根を残さぬための方略ではなく、単純にそれは彼女の性格だった。


「お父上ならばそうはなさいませんよ、リリンス様。迷うことなくドローブと総督府を攻めて陥落させ、アノルト殿下を迎え撃ったことでしょう」


 サリエルの言葉が、その場の空気の温度を下げた。

 リリンスは強張った顔で彼を見詰める。鏡、と称された銀の瞳が、無感情に彼女を映している。


「でも、サリエル、私は……」

「国王陛下と同じである必要はないはずだ」


 彼女より先に、ナタレが言い放った。国王侍従であり王女の護衛でもある若者は、濁りのない黒瞳で楽師を見据え、それからリリンスに向き直った。


「だからこそ、お父上はあなたを選ばれたんです。リリンス様にしか成し得ないことをなさればいい。あなたがお考えになって出した答えならば、何であろうと俺は従います。他の者も同様でしょう」


 熱を纏った誠実さでそう畳み掛けられ、リリンスは驚いたが、嬉しくなった。決して口達者とは言い難い彼が、力強く弁護してくれたのだ。


「まったく……あなたの弟君は王太子殿下のよき理解者だな、ハザン殿」


 シキは呆れたように笑ってハザンの肩を叩き、ハザンはこめかみを掻いた。弟と王太子の間に想像以上の信頼関係があると知って、安堵と寂しさを同時に覚えてしまったらしい。

 サリエルは微笑んで、また弦を弾いた。笑みは穏やかなものだったが、そこに漂う喜びの感情をリリンスは敏感に感じ取る。


 自分は試されていたのではないか――何となく、そう思った。





 サリエルの進言通り、三日後には戦況が完全に変わった。

 王軍は南部連合軍を打ち破り、マージ・オクに向けて本格的に進軍を開始した。


 知事府の造反者からもたらされる情報の中にはフェクダ死亡の報もあって、そのことが王軍を活気づかせた。もともと数で優勢だった彼らが、動揺した南部軍を蹴散らすのは容易だった。

 前線へ出てきたシャルナグの指揮のもと、正規軍兵士も援軍の兵士もその立場に拘わらず全力で戦った。逆賊討伐だけではなく、王太子の救出という新たな目的が掲げられている。リリンスの人気を利用して兵士たちの義侠心を鼓舞したのは、ウーゴの手柄であった。


 オク山脈の裾野に抱かれた森の都、知事府のあるマージ・オクに王軍本隊が辿り着いた時、街は向こうから彼らを迎え入れた。





 アノルトは早々にマージ・オクからの撤退を決めた。

 フェクダの死により南部諸国の結束が乱れ、戦場でも総崩れになっていると聞いても彼に動揺の気配はなかった。予測はついていたらしい。


 属国の首長たちの対応は様々だった。

 約束を反故にして王軍に降伏する者、反対に全滅するまで徹底抗戦を決める者、知事府へ戻ってアノルトと行動を共にする者――知事の権威が消えた今、それぞれの打算と本心が剥き出しになっていた。

 アノルトは冷めた目でそんな混乱を観察していた。どこか他人事を眺めるような風情である。


 彼は知事府に駐留していた総督軍とともにドローブへ引くことを決め、フェクダ直属の知事府軍に対してはこの地への残留を命じた。王軍の侵攻からマージ・オクを守るのが建前だったが、彼らの一部が敵側に通じていると承知しての判断であった。離反者が続出する前に、全体を切り捨てたのである。

 王都を出た時と同じ二千名の兵を率いて、アノルトは再びオク山脈を越える街道を南下した。

 

 カシマとその娘たちもまた、彼に同行してドローブへ向かった。他に選択肢がないとはいえ、住み慣れた土地を離れることに母子は不安を隠し切れない。

 そんな中、マルギナタだけは落ち着いているようだった。馬の背に揺られながらアノルトの背中を見詰める彼女は、幸せそうですらあった。





 イーイェンと結んだ王太子によって、ドローブが占拠されている可能性は十分に考えられたが、おそらくリリンスはそれをしないだろうとアノルトは確信していた。主人のいない間に街を制圧するのは手っ取り早いが、市街戦になれば多量の血が流れる。どんなに周囲が焚きつけても、妹は承諾すまい。

 事実、敵襲を受けずに彼らは帰還できた。


 十万人あまりの住民が暮らすドローブは、白亜の家並みが美しい街であった。

 古くから海上貿易で栄えたこの街は、山地から繋がるなだらかな丘陵地から海の間際まで、白い漆喰壁の家屋に埋め尽くされていた。坂道には小ぶりな民家が行儀よく立ち並び、海辺に開けた平地には大規模な商店や問屋、隊商宿がひしめいていた。すべての建物の壁は白く、黒い瓦葺きの屋根を乗せている。

 白い街並みと鮮烈な対比を見せる青い海は、広い湾になっていた。二つの岬に挟まれているため波が穏やかで、水深は深い。オドナスの統治下に置かれてからはさらに港湾整備が進められ、毎日何十隻もの船が出入りしていた。

 砂漠を越えてもたらされる陸の富と、南洋の島々とその先の大陸から運ばれる財が、この街で交差し結ばれているのだ。


 だがオドナスの内乱が本格化した今、入港する船はなく、到着する隊商はいなかった。

 王軍が迫っているとの情報は自然と広まっていて、街から避難する者も多かった。残った住人は住居に閉じ籠って息を潜めている。通りにも広場にも人影はない。

 人間の活動が消えた街は、真新しく整備されているだけに余計に閑散として見えた。朽ちるのを待つだけの、巨大な白い遺骸のようだ。


 アノルトたちが入城した総督府は、港にほど近い海沿いにあった。港湾と街並みを見晴らせる三階建ての建物は、アノルトの総督就任時に新しく建設されたものだ。やはり白亜の壁に黒い屋根だったが、施された鮮やかな青い彩色が王都の建築を思わせる。

 ようやく第二の故郷とも呼べる場所に辿り着いたアノルトは、安堵すると同時に苦い思いを抱いた。

 自分ならば確実にドローブを攻め、相手を待ち構えただろう。やはり、リリンスは何かが違うのだ。


 彼らに休息する時間はあまりなかった。

 総督府に入った翌日、こちらの動向を監視していたかのような素早さで、沖合に停泊していたイーイェンの帆船群がドローブの港へ向かって航行を開始した。

 併せて、陸路でも危機が迫っていた。マージ・オクの知事府軍はほとんど無抵抗で降伏し、無傷の街を素通りした王軍は真っ直ぐにアノルトを追って来ているという。


 フェクダの死がイーイェンを動かし、マージ・オクを陥落させた。自ら手を下した結果とはいえ、たいした影響力だな、とアノルトは皮肉な思いを噛み締める。

 そして、かねてから決めていたことを実行に移した。





 総督府を出ろ、と言い渡されて、マルギナタは愕然とした。

 母とともに呼び出された総督の執務室で、彼女の想い人は冷然と彼女らを眺める。敵軍に包囲されつつある都市のあるじとは思えぬほど、その態度は落ち着いていた。


「いずれイーイェンと手を結んだオドナス王太子がやって来る。その庇護を求めるといい。大丈夫だ、リリンスは必ずあなた方を丁重に扱うだろう」


 執務机の向こうの肘掛椅子に腰掛けたアノルトは、机の抽斗ひきだしを開けた。


「国王に対しても助命の口添えをするはずだ。伯母上、リリンスに会ったらこれを渡して下さい。大事な物だから、決して失くさぬように」


 差し出されたのは、革表紙に綴られた分厚い書類の束だった。カシマはそれを凝視し、両手で受け取った。


「かしこまりました。アノルト殿下、ありがとうございます」

「礼などおっしゃらなくて結構。男の意地の張り合いに女が巻き込まれる必要はない」


 深々と頭を下げたカシマへぶっきら棒に言い捨てて、アノルトは顔を背けた。過剰な冷淡さに隠された罪悪感に反応するように、マルギナタが大きく首を振った。


「私は嫌でございます! 最後までアノルト様のお傍におります」

「マルギナタ、やめなさい。殿下は私たちを守るために……」


 たしなめるカシマの手を振り払って、彼女は身体を乗り出した。


「お願いいたします。どうかここに置いて下さい。どのようなことになっても後悔はしません。私はあなたさえいれば……」

「勘違いするな!」


 ドン、とアノルトは机に拳を打ちつけた。マルギナタは思わず身を竦める。


「君を傍に置いたのは伯父上の後ろ盾を得るためだ。自分でもそう言っていたではないか。伯父上が死んだ今、君には何の利用価値も魅力もない。お荷物なんだよ。さっさと消えてくれ」


 口調は荒いがアノルトの顔つきは平静で、そのことがマルギナタの傷を深めた。膝が震えて何も言い返せなかった。

 呆然とする娘の肩を抱いて、カシマは目だけでアノルトに礼を送る。アノルトは黙りこくって席を立った。


 彼が足早に部屋を出て行き、音を立てて扉が閉められた時、見開かれたマルギナタの目から大粒の涙が零れた。





 気まずい思いのまま執務室から出ると、廊下で総督軍の兵士が数名待っていた。そのうちの一人は軍団長である。


「港に守備隊を配置しました。間もなく、敵の帆船が接岸します」

「そうか。街道の方は?」

「王軍本隊の到着は本日深夜になると思われますが、イーイェンの別働隊がウィチク村に上陸したとの情報があり、陸路でドローブに向かって来る模様。こちらにも迎撃部隊を送ります」


 アノルトは軽く目を閉じた。総督軍は約五千、帆船の数から推測してイーイェンの戦闘員もおそらく同数程度だろう。しかしその後には王軍の二万人が控えている。数では勝ち目がなかった。


「殿下、何があろうと、我々は最後まで戦います」


 彼の気持ちの揺らぎを察したように、軍団長は床に膝をついて恭しく言った。

 分厚い革鎧を身に纏ったその男は、アノルトの初陣からともに戦ってきた部下だった。彼だけではない。現在の総督軍に配属されているのは、二年前の南方戦線でアノルトが指揮した大隊の兵士たちなのである。


「ドローブは殿下がその手で勝ち取り、発展させた街です。我々は全員、殿下とともにこの街を守ります。逆賊の汚名を着ようとも、我々のあるじはアノルト様だけです」


 虚飾のない忠実さは叩き上げの軍人に相応しかった。


「おまえたちの忠誠に感謝する」


 アノルトもまた率直な謝意を示した。


「知事夫人の母子と文官たちを脱出させたら、総員を配置につけろ。俺も支度して前へ出る」


 彼は表情を精悍に引き締めて、廊下を歩き出した。


 しかし、それきりアノルトは部下たちの前から姿を消したのだった。

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