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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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割れ落ちる鏡像

 その朝、マルギナタは小さな薬瓶を手に、知事府二階の廊下を歩いていた。

 茶色い小瓶の中で揺れる液体は、フェクダの常備薬だった。頭痛持ちの彼のために、妻のカシマが手ずから薬草を煮出してこしらえているものだ。

 今日からしばらく知事府を離れる父に、母がそれを渡し忘れたと知り、マルギナタは急いで後を追いかけているのだった。ついさっき玄関で見送ったばかりの父は、まだ敷地内にいるのではないか。

 

 お嬢様どちらへ、と声をかけてくる使用人たちへ曖昧に肯いて、マルギナタは先を急いだ。正門の外へ出てしまっていたら、もう追いつけない。


 フェクダが何の用件で外出するのか、マルギナタは詳しく知らない。オク山中での調査に立ち会うということだけは聞いたが、もともと仕事について多くを語らぬ父のこと、不自然には感じなかった。

 ただ、今回ほとんど随行者を連れない極秘の外出だというのに、あの楽師が同行するのが意外だった。

 王都からやって来た銀色の瞳の楽師――顔の半面を覆う傷を負いながら、その姿かたちは恐ろしく魅惑的である。だからこそなのか、若い娘特有の鋭敏な感覚は、恍惚よりも不吉を嗅ぎ取った。

 あの青年は危険だ。できることならば近づいてほしくない。父にも、アノルトにも。


 国王に敵対した父が相当に危険な橋を渡っているのは分かっていた。

 利権のために自分とアノルトを結婚させようとしていることも重々承知していたが、素直に嬉しかった。彼女にとっては惜しみなく愛情を注いでくれる大切な父親である。その役に立てて、しかも本当に好きな男の元へ嫁げるのならば、何の不満もなかった。


 歩みは自然と速まり、彼女は一階へ続く階段を勢いよく駆け下りた。衣服の裾が跳ね、波打つ黒髪がふわりと揺れる。

 急いでいたので、マルギナタは裏口の潜り戸を抜けて屋外に出た。遠回りになるが、玄関傍に常駐する取り次ぎ役に行き先を尋ねられるのも煩わしかったからだ。


 分厚い雲が空を押し下げていて、早朝にも拘わらず爽やかな日差しはない。気温も低いようで、マルギナタは身を竦ませて屋敷の正面へと回った。

 父はすぐに見つかった。玄関と正門の間の前庭で、馬丁が引いて来た馬の手綱を受け取っている。供の者が二人と、楽師の姿もあった。正門脇の通用門口が開かれており、彼らが本当に目立たぬように出立するつもりなのだと分かった。

 よかった間に合った、と、マルギナタは弾む息を整えながら彼らの方へ向かった。





 馬を引いて通用口を出てすぐ、頑丈な石垣に凭れて佇む人影に気づいてフェクダは目を細めた。

 人気のない早朝、知事府前の通りで待っていたのは、彼の甥であった。曇天に溶け込むような灰色の長い外套を纏い、門の前へと歩いてくる。

 その顔色の青白さを見て取って、フェクダは小さく息をついた。

 昨夜遅くまで、彼はアノルトと激しい議論を交わしていた。王都侵攻ではなく南部の独立を選んだことについて、アノルトは毛ほども納得していない。当然、話は物別れに終わった。


「……続きは帰ってからといったはずだ。昨夜は寝てないな?」


 こちらもあまり眠っていないフェクダが言うと、アノルトは唇を引き締めた。怒りというよりは悲しみの表情に似ている。


「やはり考え直しては頂けませんか、伯父上」

「くどいな。何度も言わせるんじゃない。国にとっても我々家族にとっても、これが最良の選択だ。南オドナスが強い国に育てば、セファイドも認めざるを得なくなる。そうすれば潰し合うのではなく、共存できる」

「共存……」

「おまえの才覚をもってすれば可能だ。私も肉親相手に無意味な殺し合いがしたいわけじゃないんだよ」


 フェクダは幼子に説いて聞かせるように話して、細い顔の輪郭に笑みを刷いた。

 彼の背後で、同じく馬の手綱を引いたサリエルが眺めている。銀の瞳は弱々しい日光を反射させて、朱色に近い輝きを宿していた。

 アノルトは項垂れた。深い疲労が頬に貼りつき、彼から生気を奪っている。その様子はむしろ穏やかで、月神の前で頭を垂れる敬虔な信徒のように見えた。

 返答がないのを肯定の意に解釈したのか、フェクダは、


「数日で戻る。その間、ここを頼むぞ」


 と、馬のあぶみに足を掛けた。

 アノルトの唇が小さく動いた。


「……では、なぜリリンスを殺そうとした?」

「何だって?」

「あなたの言葉は嘘ばかりだ!」


 灰色の外套が勢いよく跳ね上がる。腰の革帯に据えていた長剣を、アノルトは引き抜いた。


「殿下、何を……!?」


 二人の随行者が素早くフェクダの前に出た。旅の護衛であるが、思いがけない状況に戸惑っている。相手は新王国の元首に立った男である。

 対して、アノルトに一切の躊躇はなかった。剣を抜く時間を与えず、身を屈めていっきに間合いを詰める。


 鈍色にびいろの大気に、鮮やかな赤が散った。


 一人は喉元を真横に裂かれ、もう一人は翻った刃に脇腹から左肩を斬られて、同時にくずおれた。隙を突いたとはいえ、アノルトの剣捌きは恐ろしく峻烈で正確だった。

 剣先から滴る血潮を振り払いつつ、彼は身体の向きを変える――伯父の方へ。


「ここであなたの王様ごっこに付き合う気はないんですよ」

「アノルト」


 フェクダは低く呟いた。疲労と失望の泥が分厚く塗布された声であった。

 アノルトは彼に向かって滑らかに歩を進める。顔色の悪さを除けば平素と同じ所作で、それがかえって押し殺した強い感情を臭わせた。


「伯父上、あなたは王都の力を削ぎ、いずれは全国土を奪取するつもりなんでしょう? 真に共存を望むのならば、穏健な女王が即位するのは好都合――リリンスの暗殺など企てる道理がありません」

「だから私に刃向うのか? 甘いな。そもそもおまえが望んだことではないか」

「ええ……その通りです」


 アノルトの眉間に初めて苦悶の影が浮かんだ。フェクダの指摘通り、彼の目的は父王を追い落とし王国を手中に収めることだった。だからこそ利用されるのが分かっていて、伯父の誘いに乗ったのだ。


「だが、リリンスだけは殺させない!」


 堪えていた激情が爆発したように、彼は大きく踏み込んで剣を振り下ろした。

 真っ向から脳天を狙ってくる白刃を、フェクダは一歩後ずさって躱した。大きく揺れた長髪が数筋、切断されて宙に舞う。


「愚かな奴め!」


 フェクダも腰から護身用の剣を抜いて、再び閃く次の攻撃を受け止めた。


「おまえは父親と同じだ。たかが女ひとりに惑わされおって……!」

「俺にとっては国と同じ価値がある女だ」


 息継ぐ間もなくアノルトは斬り込んでゆく。腕力でも速度でも殺意でも、彼の方が勝っていた。いかなる時でも先頭に立って戦えるよう、総督の地位に就いてからも鍛錬を怠らなかった。王国と最愛の女を両の手に抱えるための、それは自らを律する枷であった。

 対してフェクダは、相手の剣筋を見切って止めてはいるものの防戦一方である。実力差は明らかだった。

 耳をつんざく金属音が、冷たい朝の空気を何度も引き裂く。


「傀儡になどなってたまるか!」


 一際強く打ちこまれた剣身が、フェクダの剣を弾き飛ばした。

 勝負は一瞬で決した――アノルトの剣先は素早くその向きを変え、がら空きになったフェクダの胸元に叩き込まれる。肉と骨の重量を刃に感じながら、アノルトは渾身の力で横薙ぎに振り抜いた。


 飛散した血飛沫はわずかなものだった。だが胸を押さえたフェクダが膝をつくと同時に、その指の間から凄まじい量の赤い奔流が地面へとぶちまけられた。


「本当に……愚かな……」


 掠れ声の謗言を、アノルトは冷ややかに聞き流した。止めの一撃を入れないのは、致命傷を与えた確信があるからか。

 自らの作り出した血溜まりの上に、フェクダは倒れ伏した。深い眠りに誘われたような、緩慢な動きだった。


 血と弱々しい息を吐き出す彼の傍らに、サリエルが膝をついた。すべてを眺めていたはずの楽師にはいささかの動揺もなく、その存在感は希薄だった。

 フェクダは目だけを上げて、美醜の双貌を視界に捕えた。


「やはり……君は災いだった……」


 みるみる色を失ってゆく唇が、アノルトに向けた以上の怨嗟を込めて呟く。だがそれはすぐに、笑みに似た形を刻んだ。


「いや……ただの……鏡……か……」


 金属めいた銀色の瞳は、死にゆく男を静かに映している。


 フェクダは裂けた肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。そして――二度と吸うことはなかった。

 志半ばで倒れた自らを嘲笑うかのような、皮肉な微笑を浮かべた死に顔は彼らしいと言えた。


 サリエルは手を伸ばして彼の首筋に触れた。脈動がないのを確かめ、薄く開いたままの瞼を閉じさせる。ヴィオルを奏でる時と同じ、物柔らかで優雅な仕草だった。

 その眼前に白い煌めきが突きつけられる。血の滴る剣先が彼の顎にあてがわれ、ぐいと持ち上げた。


 返り血の飛んだアノルトの頬は、内側からも朱の色を取り戻していた。肩で息をしているのは、激しい運動のせいというよりも、高ぶった感情がもたらす身体反応なのかもしれない。


「……なるほどな。あなたは他者の感情を映す鏡か。善意でも、悪意でも」


 呟くアノルトを、サリエルは恐れ気なく見上げた。


「私も殺しますか?」

「その必要はない――安心しろ、俺は正気だよ」


 アノルトはどこか清々とした笑みを浮かべた。剣を引き、外套の裾で血糊を拭ってから鞘に収める。


「今やらなければ、いずれこっちがやられていた。伯父は俺を南の国王に立てたが、マルギナタとの間に子ができればもう用なしだ。さっさと俺を排除しただろう」

「これからどうなさるのです?」

「伯父の仕事を引き継ぐ」


 彼はフェクダの傍にひざまずいた。遺体を仰向けにして、血塗れの上着の内側に手を差し入れる。しばらく探った後、彼は見つけ出したものを差し出した。


「これは神官長のものだったね。返しておくよ」


 黒地に金箔の装飾が施された指輪を、サリエルは受け取った。旧文明の機構が組み込まれた装飾品には傷ひとつなく、慎ましく煌めいていた。


「あなたはすぐにここから立ち去ってくれ、サリエル。北上すれば王軍が基地を構えているし、山を越えればリリンスたちがいる。好きにするといい」

「解放と引き換えに、私は知事殺害の嫌疑を引き受ければよいのですね?」

「察しが早くて助かるよ。申し訳ないがそういうことだ」


 アノルトは三人分の返り血で汚れた外套を脱ぎ、フェクダに被せた。死者を悼む行為ではなく、単に証拠品を廃棄したのである。立ち上がった後は遺体を見ようともしない。

 サリエルはわずかに眉根を寄せたが、異議を唱えずに立ち上がった。国王から王子の説得を依頼された時も、王兄から顔を焼くよう強要された時も、彼は同じ態度で受容したのだ。


 馬に跨った彼はすぐに馬頭を巡らそうとして、思い直したように声をかけた。


「殿下、今からでもご投降を。国王陛下は、本心ではあなたのご帰還を望んでいらっしゃいます」


 アノルトは穏やかに笑った。


「もう遅いよ。あまりにも遠くに来てしまった」

「強情ですね、親子揃って」

「賛辞だと受け取っておく。自分で決めて始めたことだ――始末は自分でつけなければ」


 冷えた鋼のごとく頑なな物言いだった。清廉に冴えた眼差しは天を見据えている。分厚い雲の上に光源を求めているのか、それとも決別しているのか。

 サリエルはそれ以上何も言わずに、馬上から目礼した。


 人気のない通りを駆けてゆく人馬の後ろ姿を、アノルトはその蹄の音が聞こえなくなるまで見送った。父親によく似た黒い瞳の中に寂寞の色が流れたのは一瞬で、踵を返して歩き出す姿は颯爽としていた。


 遺体が発見されるまで時間はかからないだろう。アノルトはなるべく人目を避けて裏門へ回ろうとした。

 正門脇の通用口の前を通り過ぎる時、その扉がわずかに開いているのに気づいた。そっと様子を窺うと、人の気配はなかったが、戸口の内側で茶色い小瓶が割れていた。





 事件が明るみに出たのは、それからわずかばかり後、知事府の開門時刻だった。三人の惨殺遺体を発見したのは門兵である。


 混乱に陥る知事府の中でひとり冷静だったアノルトは、サリエルの姿が消えていることを指摘した。楽師はフェクダの外出に同行していたはずで、他の二人の随行者は殺害されている。

 国王が差し向けた刺客だったのだ、とアノルトは知事府の役人と兵士、それに属国の首長に対して説明した。

 確かに王都から来た楽師はその容姿も含めて得体の知れない存在であったし、フェクダが傍に置いた理由も彼らには不明だった。暗殺する目的で知事に近づいたのだという推測は、ある程度の説得力を持っていた。


 それでも――殺害の手際はあまりに見事だった。

 実戦経験の豊富なフェクダが一撃で致命傷を負い、護衛二人に至っては剣を抜く間もなくやられている。あの楽師にそんな真似ができるだろうかという疑念は、誰の脳裏にもよぎった。


「伯父の遺志は俺が継ぐ。王都の国王に独立を認めさせるまで、我々は戦いをやめてはならない。新王国樹立の礎になる覚悟がある者だけ、俺についてくるがいい」


 アノルトは皆の不安を払拭するように堂々と宣言して、半ば強引に納得させた。今後はアノルトが全軍を指揮し、行方をくらましたサリエルには追っ手がかかった。


 遺体が安置された部屋では、カシマが変わり果てた夫を前に呆然とへたり込んでいた。娘たちも父親に取り縋って声を上げて泣いている。

 アノルトは奥歯を噛みしめて、表情を消した。


「王軍に気取られぬよう、葬儀は極秘に執り行わせて頂く。それが済んだら、あなた方はこれまで通りに暮らすといい。身の安全は俺が保障する」


 マルギナタが立ち上がって、彼を見た。

 彼女は泣いていなかった。赤みがかった頬は強張っているが、眼差しは平静である。


「あなたを信じております、アノルト様」


 彼女は両の手を胸の前で組み合わせた。祈りの形である。


「どうかご自身の望みを叶えられますよう。私は最後まで、あなたのお傍におりますわ」


 華奢な指は関節が白くなるほど固く結ばれ、小さく震えていた。 

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