かりそめの平穏
黒一色の空には細かな星々が瞬いていた。月神が天の座に昇らぬ今夜、銀色の砂礫が空中にちりばめられ、静かな囁きを交わし合う。
星の光は月よりもずっと遠くから届いているのだと、中央神殿の神官たちは言う。だがセファイドには、それらが不在の月神アルハに代わって地上を監視しているように思えた。数え切れぬ小さな煌めきのひとつひとつは、冷酷で高潔な眼光である。
寝台に寝そべったセファイドは、窓を覆う遮光布の隙間から炯々とした星空を眺めていた。アルサイ湖の湿度を纏った風に、肌寒さは感じなかった。
彼の胸元に頬を押し当てて、タルーシアが目を閉じている。規則正しい呼吸が安らかな眠りを示していた。
逆賊を追って王軍が出立してから三ヶ月半、王都はようやく落ち着きを取り戻していた。
あの大地震の後、相変わらず小さな余震は続いているが、都市の復興の目途は立った。いち早く水路と道路を復旧させた判断が功を奏して、それに続く家屋や商店の再築作業も円滑に進んでいる。王宮を仮住まいにしていた避難民たちは、そのほとんどが急ごしらえの自宅へ戻った。
需要の増えた建築資材は国が一括買い上げを始めたため、懸念された物価高騰は今のところ起きていない。治安の悪化は多少見られたものの、王都の民はひとまず生活の再建に専念できた。
そして今、民の関心は内乱の動向に向かっている。
遠い南の地からの情報は、往来する隊商によって市中にももたらされる。アルハの神罰を招いたという二人の王族――第一王子と王兄が討伐される日を、王都の民は待ち望んでいるのだった。
実の息子が逆賊に堕ちて、タルーシアは心労による体調不良が続き、しばらくは床を離れられない状態だった。
一時は医師から王宮を離れての静養を勧められたが、それでも何とか回復した。一ヶ月前からは公務に復帰している。国内が動乱しているこの時期、他国に付け入られないためにも外交は重要で、国賓の応接など正妃の役目は多かった。
少なくとも表面上、タルーシアは平静を保っていた。
日中の多忙のせいか、彼女はぐっすりと眠っている。
セファイドはその寝顔をしばし見詰めて、やがてそっと身を起こした。
三ヶ月近く、彼が他の女の元へ足を運んでいないと聞けば、彼を知る者は驚嘆するだろう。
アノルトを追って王軍が出立した日から、セファイドは可能な限りタルーシアの傍で過ごすようにしていた。混乱した王都を治めるため、こなさなければならない業務は殺人的に多かったが、わずかな隙間を見つけてはタルーシアを見舞った。彼女の体調がようよう回復してからは、毎回食事を共にし、夜は同じ寝台で眠っている。
「妾妃たちが退屈していますわよ。たまには別の所へお渡りにならなくてよろしいの?」
「いいんだ。ここがいちばん落ち着いて寝られる」
「ま、殊勝なことを。二十年前に聞きたかったわ」
他愛のない会話、自然に触れ合う手と指、挨拶のように繰り返される軽い口づけ――結婚して二十二年、初めて過ごす夫婦らしい時間である。このような非常時に自分でも可笑しかったが、セファイドは確かに安らいでいた。
とはいえ、二人の間にアノルトに関する話題は出なかった。
セファイドが南部の動向を伝えることはなく、タルーシアも問い詰めはしない。それを話せば最後の絆が壊れてしまう――そう分かり切っていたからだ。
最も重い課題を避けることで互いを思いやる生活は、砂像のように脆い穏やかさに満ちていた。終焉が決定づけられた日常だからこそ、その平穏は彼らにとってこの上なく貴重なのである。
セファイドは妻を起こさぬよう注意しながら寝台を下りた。彼女が目覚める気配はない。直接身体を繋げる行為がない時でも、彼は毎晩、彼女が寝付くまで身を寄り添わせている。
夜着のまま寝室を出ると、隣室の居間でエムゼ総女官長が控えていた。
「夜明けには戻る。それまで妻を頼むよ」
「かしこまりました。お部屋まで誰かをお供させます」
「いや、不要だ」
セファイドは上着を引っかけて、エムゼから燭台を受け取った。彼はこのところ、正妃の部屋を訪れる際に侍従を随行させないことが多い。
蝋燭の覚束ない灯りを手に、彼は後宮の廊下に出た。自室に戻って、妻の眠っている間に昼間の残務を片付けねばならなかった。
月のない夜は深く、大気は濃く静かで、中庭の木々も静まり返っている。廊下の柱に等間隔に灯された明かりが、闇をささやかに薄めていた。セファイドは自らの足音だけを聞きながら、ひとり歩いた。
規則正しい足音に、ふと、違う音が混じった。柔らかな曲線を思わせるその音は、人の声――歌声である。
艶のある声で歌われているのは、古い子守歌のようだった。囁くように祈るように、空気を震わせては闇に溶けてゆく。心地よくも儚い響きにセファイドは聴き入り、それを歌う人間を探した。
廊下の先、ぼんやりとした燈台の明かりに、翡翠色の衣装が照らし出されている。
夜目にも分かる均整の取れた体躯、緩く編んだ長い癖毛――星を見上げながら歌を口ずさんでいるのは、この国最高の歌姫だった。
十編以上の歌が連なる素朴な子守歌をすべて歌い終えてから、キルケはようやく人の気配に気づいた。
振り向くと、セファイドが立っている。燭台を手にした国王は穏やかな笑みを浮かべていた。彼女の歌う長い歌を、ずっと聴いていたらしい。
キルケは慌てて喉元を押さえる。ここにいれば会えるかもしれないと淡い期待を抱いてはいたものの、本気で予測していたわけではなかった。
「こ……これは陛下、失礼いたしました。お騒がせを」
彼女は頭を下げて、問われてもいないことを言い訳のように付け足した。
「今夜は後宮にお招きを受けまして、お妃様方の前で歌っていました。今、帰るところですわ」
「ご苦労だったな。王宮が少し落ち着いて、女どもは退屈しているようだ」
退屈の原因を作っている男は、悪びれる様子もなく言った。
「それに、何度もタルーシアを見舞ってくれたと聞いた。礼を言う」
「いえ、そんな……正妃様には言葉に尽くせないほどお世話になっておりますもの。ご快癒なさってよかったです」
言葉とは裏腹に、キルケは顔を曇らせた。
正常に見えるタルーシアの振る舞いは表層一枚だけのもので、奥底では惨たらしい傷が口を開けているのではと危惧していた。我が子が逆賊として追い詰められる――出産経験のないキルケには、母親の苦しみを想像はできても実感はできなかった。
「俺は部屋に戻るところだ。仕事が残っていてな」
「では、途中までご一緒させて下さい」
セファイドが歩を進め、キルケはそれに続いた。後宮の出口まで長い距離ではない。
斜め前を行く広い背中と、重なり合う二人分の足音に、キルケの胸が甘く疼いた。正妃の心情を慮っておいて自分は偽善者だ、と後ろめたさを感じる。それでも、静かな薄闇に包まれた廊下が永遠に続けばいいと望まずにはいられなかった。
「遠征中の王軍からは定期的に連絡が来ている」
キルケの想いをよそに、セファイドはごく平坦な声で言った。
「昨日到着した知らせでは、南部に入ったそうだ。今頃はもう戦闘状態だろうな」
「そうですか……リリンス様がご心配ですわね」
「ああ……だがきっと無事に戻って来る。シャルナグは必ず責任を果たすはずだ」
将軍に課せられた責任とは、同行した王太子の守護、そして王兄と第一王子の討伐だ。それを命じたのは王子の実の父親である。
リリンスもナタレも遠い南の地で戦っている。サリエルに至っては楽師の身でありながら今や敵方の繋囚だ。かりそめの平穏に浸かって浮ついた気分を抱いた自分を、キルケは恥じた。
そんな彼女の変化を感じたのか、セファイドは同じ口調で続けた。
「シャルナグが帰還したら、少しは情けをかけてやれ。そうでもなければ奴も報われない」
彼の厳しくも端整な横顔に揶揄の色はなく、そのことがキルケを傷つけた。暗がりの密度が肩にのしかかって、胸の底で何かが外れた。
「ご友人思いでいらっしゃるのね。けれど陛下、ご存じでしたか? 私が愛しているのはあなたなのですよ」
声の震えを隠すために、彼女もまた淡々と返した。
「あなたが私を救って下さった時から、気持ちはずっと変わっていません。今の自由も名声も、すべてあなたが与えて下さったものです。感謝や尊敬ではなく……陛下を愛しているんです、心から」
彼女の視界が潤んで揺れた。
なぜ早くこう言わなかったのだろうと悔やまれた。長く胸の内に封じ込められた自分の気持ちが憐れに思える。許されなくとも不毛であっても、それは自分の一部であったのに。
真摯に向き合っていれば、誰かに身代わりを求めたり、誰かの想いを傷つけたりせずに済んだのに――。
セファイドは無言で聞いている。横顔に翳りはなく、歩みに変化もなかった。
キルケは熱に浮かされたように畳み掛けた。
「昔、陛下は、ご自分か歌かどちらかを選べと私におっしゃいましたね。才能を正当に評価されたいのなら、国王の側女にはなるなと。歌を選んだ結果に後悔はありません。でも、もし今同じ問いを受けたら、私はきっと別の選択をします。歌えなくなっても、再び自由を失っても、あなたが愛してさえ下さったら……」
「おまえが愛しているのは俺ではないだろう」
背中に取り縋ろうとしたキルケの両手を、その一言が止めた。
セファイドは立ち止まり、振り返って静かに彼女を見詰めた。
「おまえの愛情は、もうとっくに別のものへ向けられているはず。おまえの自由と名声と歌を認めた存在――この国そのものではないか? その頂点にいたのが俺だっただけで」
「いいえ、だって私は陛下のおかげで……」
「今の幸福と充実は、全部おまえが実力で手に入れたものだ。俺に恩義を感じるのは勝手だが、縛られる必要はない。おまえは自分自身で背中の焼印に立ち向かったんだ」
彼の声音には、憐れみではなく敬意が含まれていた。それだけに取りつく島もない拒絶を感じて、キルケは立ち尽くす。あと少し手を伸ばせば届く位置に、想い続けた男がいるというのに。
「キルケ、自分の強さを見縊ってはいけない。古惚けた感情の残骸を抱え続けるなど、卑屈な真似をするな。おまえの気持ちは、はっきり言って迷惑だ」
穏やかな表情のまま投げられた言葉は、刃のように鋭くキルケの胸を切り裂いた。本当に血が流れ出すかと思うほど、皮膚と肉が痛んだ。
涼やかな目元から涙が溢れて褐色の頬に滴ったが、セファイドに労りの気配はなかった。ただ真っ直ぐに彼女を見据えるだけだった。手にした燭台の炎が、彼の顔に鮮やかな陰影をつけている。
「もう、いいか?」
「はい……よく、分かりました」
セファイドは途端に興味を失ったように踵を返した。さきほどまでと同じ速度で廊下を歩いて行く。
涙を拭ってその後を追いながら、キルケは胸に手を当てた。
今はそこが痛くて痛くて涙が止まらない。そして痛みが治まった時に、それ以上の悲しみが湧き上がってくるのだろうと、彼女は他人事のように思った。だったら痛みの方がまだマシだった。
だが一方で、とてつもなく重い荷物から解放されたような、ある種の爽快感を覚えたのも事実だった。ずっと閊えていたものを強引に引き摺り出したからこそ、胸は痛むのかもしれない。
やはり、口に出してよかったのだ――キルケは化粧が崩れるのも構わずに強く瞼を擦った。やっと出発点に立てた気がした。
黙ったまま歩いて、やがて後宮の出口に着いた。国王の居処である風紋殿と、王宮の外郭へ至る回廊への分岐点である。
キルケは丁寧に頭を下げた。自分が酷い顔をしていると分かり、夜の闇に感謝をした。
「では、ここで失礼いたします、陛下」
「ああ。気をつけてな」
いつも通りの落ち着いた声で返答して、セファイドは風紋殿の方へ歩き出した。
キルケが初めて出会ってから現在に至るまで、彼はずっと変わらない。鷹揚で快活で率直で、まさに大国の君主に相応しい人格だと思える。肉親同士の争いの真っただ中にいてすら、その姿勢にぶれはなかった。だからこそ、下の者は皆彼に信頼を寄せるのだ。
変わらないためにどれほどの努力をしているのだろうと、キルケは暗闇に消えてゆく背中を眺めなら考えた。時には抱え込んだ苦悩を吐き出したいこともあるだろうに。
弱さを見せる相手に、彼は自分を選ばなかったのだ――また涙が出そうになって、彼女は奥歯を噛み締める。
悲しくはあったが、それよりも、そういう相手が他に存在していてほしいと祈りたくなった。彼がひとりきりではないようにと。
佇んでいたのは短い時間だった。キルケは長い衣装の裾を思い切りよく翻し、セファイドとは逆の方向へ足を踏み出した。
甲高い金属音が彼女の耳朶を打ったのはその時である。
ハッとして振り返り、本能的に何かを察知して、彼女は引き返した。音のした方角、風紋殿の方向へ回廊を急ぐ。
薄暗い回廊の床に、黒い影がわだかまっているのが見えた。見送ったばかりのセファイドであった。膝を折り、片手を床についている。
「陛下!」
キルケは駆け寄って傍らに跪いた。足元に火の消えた蝋燭と真鍮の燭台が転がっている。さっきの金属音は、これが落ちた音だったのだ。
蹲ったセファイドは、右手で腹を押さえていた。きつく瞼を閉じ眉間に皺を刻み、明らかな苦悶の表情を浮かべている。
「いかがなさいました!? だ……誰か! 誰か来て下さい!」
「……騒ぐな」
セファイドは掠れた声でキルケを窘めて、大きく深呼吸を繰り返した。
「大事ない。少し眩暈がしただけだ」
「眩暈ではないでしょう。こんなお苦しそうな……」
「疲れが溜まってきたんだろう。もう若くはないな」
口を利いているうちに苦痛の表情は和らいでいって、彼はゆっくりと立ち上がった。キルケが肩を貸すと、ためらわずに掴まった。
彼の額に汗が滲んでいるのを、キルケは見逃さなかった。どう考えても尋常な様子ではない。
「本当に大丈夫だから……誰にも言うな」
不安に身を強張らせるキルケに、セファイドはいつも通り明るく微笑んだ。




