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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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引き返せない場所

 この奇襲によって百名以上の総督軍兵士が死亡したが、第一王子の捕縛は叶わなかった。代わりに、王太子がドローブ近郊に潜伏していること、またイーイェン連合が彼女の側についたことが、賊軍の知るところとなってしまった。

 作戦は完全に失敗と言えた。


 アノルトは騎馬団の大多数とともにマージ・オクへ戻ったが、街道をドローブへと引き返した兵士たちも相当数いる。ドローブに駐留している残りの総督軍が、ほどなくリリンスの捜索を始めるだろう。

 といって、再び山を越えて王軍本隊に合流するのは危険すぎた。山中のあちこちで賊軍が網を張っているに違いない。


 数は少ないが、ロタセイの側にも死傷者が出ていた。そのうちの一人はナタレである。


「この程度、何でもありません」


 蒼白になるリリンスをよそにナタレは落ち着いていたが、左腕の切創からの出血が緋色の袖をさらに赤く染めた。互角に見えた戦いにおいて、アノルトの剣先は彼の身体を傷つけていたのだ。

 幸いにも傷は浅く、腱や筋肉に異常はなかったが、縫合の必要があった。

 ウィチク村に戻って負傷者の手当てをする彼らに、


「俺たち、匿う、王女サマを」


 たどたどしいオドナス語でニーザがそう申し出た。カサカが苦笑しつつ補足を入れる。


「しばらく我々の船へおいで下さい、リリンス殿下。こうなった以上、イーイェンも知らぬ顔はできません。せいぜい恩を売らせていただきますよ」

「殿下を頼む。俺はいったん戻らなければ」


 迅速に秘密裏に山向こうへ戻り、基地に留まるシャルナグに状況を伝えねばならない。往路以上の強行軍になるのは必至で、ウーゴは王軍兵士のみを随行に選んだ。ロタセイの部隊は、全員リリンスとともに残ることになる。


「ようやく俺たちを信用したのか」


 内心喜んではいるのだろうが、気難しげな表情を崩さぬハザンに、


「君たちの流した血に感謝する。もうしばらく頑張ってくれないか。王軍が向こう側から道を開くまで、リリンス様をお守りしてほしい」


 ウーゴは珍しく真剣な口調で告げた。





 栴檀せんだんの木でできた広いテーブルには、数枚の地図が広げられていた。

 最も大きな地図はこの大陸全体が描かれたものだった。ほぼテーブルと同じだけの大きさがあり、数カ所に赤い印がつけられている。その上に重ねられた何枚もの紙は、印の地域を拡大した詳細な地図だった。

 明々とした燭台の光の下、テーブルを挟んで地図を見下ろしているのはフェクダとサリエルである。


「君の言った通り、谷底の洞窟に扉があったそうだ」


 フェクダは地図の一枚を指で押さえて、そう言った。輪郭の細い顔立ちに満足げな笑みが浮かんでいる。どこか酷薄な空気を纏った笑顔だった。

 サリエルはじっと彼の指先を見詰めた。顔の右半面は天上の美を艶やかに保ち、左半面は惨たらしく焼き潰されている。その両方が物憂げな表情を浮かべていた。


「壁のような金属の扉が固く閉ざされていて、開けることも壊すこともできなかったとか。中には何がある?」

「アルサイ湖にあるのと同じようなものです。規模は少し小さいですが」

「ではまずそこだな。残りも今、探させている」


 フェクダは地図上の赤い印を順番になぞった。

 サリエルが伝えた『遺跡』の場所を示す印だった。大陸中に散らばっていて、その数は二十を超える。オドナス国内にも十以上の印がつけられていて、ここマージ・オクから最も近いのはオク山中にあった。フェクダはまずそこへ人を遣って調べさせた。

 報告によると、地元の猟師でも滅多に足を踏み入れない深い谷に、それはあったという。

 崖壁に穿たれた人工的な洞窟、そしてその奥の分厚い鉄扉――サリエルの言葉を信じるならば『遺跡』への入口だった。


「扉を開くのは君の役目だ、サリエル」


 フェクダは穏やかに言った。もしも彼の地に何の痕跡もなかったならば、彼は偽りを伝えたサリエルをどう扱っただろうか。


「私も同行する。ここでの仕事はもうすぐ一段落するだろうからね」

「一段落、ですか」


 サリエルは細い吐息とともに目を上げた。


「戦線は膠着状態のようですね。地の利を差し引いても、王軍の二個師団を相手にお見事な戦いです。しかも、いずれの戦局でも決定打は与えず、まるでわざと長引かせているような」

「よく知っているな。誰かをたぶらかして情報源にしたのかい?」

「この先、どうなさりたいのですか? 私が持ち込んだ『遺跡』のことは別にして、あなたには最初から勝算があったのでしょう?」


 本当に興味があるのかどうか、サリエルの問いは素っ気ないほど自然な口調だった。

 フェクダは笑みを含んだまま目を逸らす。立ち入った質問を咎める気配もない。楽師のことを生きた人間と思っていないのかもしれなかった。


「君こそ最近、頻繁に兵士どもの前で演奏していると聞く。どんな風の吹き回しだね?」

「望まれればどなたの前でも弾きますよ、それが仕事ですから」

「この指で?」


 フェクダの右手がサリエルの左手を捉える。水のように冷たい指先はようやく新しい爪を備え始めていたものの、まだ赤い肉を露出させた状態で血を滲ませている。先端だけが爆ぜた、繊手と称するに相応しい楽師の手――凄まじい陰性の美を感じさせた。

 見惚れているのか、フェクダはしばしその手を凝視した。


「傷を負ってから、君はますます……」


 視線を顔の火傷に移し、うわ言のように言いかけて、彼は軽く首を振った。


「今後は、みだりに他の人間に接触しないように。厄介事を招く予感がする」

「かしこまりました。自重いたします」


 ようやく解放された手首を押さえ、サリエルは従順に肯いた。

 支配する者と従属する者、関係性は疑いようもないのに、奇妙な違和感が用心深い王兄の神経を過敏にする。いったいどちらがどちらに捕らわれているのか――。


 張り詰めた部屋の空気は、扉が叩かれる慎ましやかな音で剥がれ落ちた。

 姿を現したのは、フェクダの側近のひとりであるマグナスだった。彼は楽師を一瞥した後、銀色の目を避けるように主人に向かって一礼した。

 彼がもたらしたのは、アノルト帰還の知らせであった。





 マージ・オクに辿り着いたその夜、アノルトはフェクダとの面会が叶わなかった。

 イーイェンとの交渉が決裂したこと、帰路で王軍の奇襲を受けたことは、すでにフェクダの耳に届いている。アノルトはすぐにでも伯父に会いたかったのだが、まずは休養するようにと伝えられた。実際、残った兵団を率いて山中の街道を駆け抜けた彼は、知事府の門を潜った時には意識すら朦朧としていた。


 伯父に問い質さなければ――極度の疲労がその意志を凌駕し、彼は自室の寝台に倒れ込むと深い眠りに落ちた。


「化膿はしていないようですね。よかったわ」


 翌朝、アノルトの包帯を取り換えながらマルギナタは胸を撫で下ろした。

 彼女の塗布した軟膏はひどく染みたが、アノルトは眉を寄せただけで堪えた。彼もまた、左腕を負傷していた。ナタレと同様、相手の剣を躱しきれなかったのである。

 応急処置で止血はしたが、移動中ずっと治まらない痛みが、彼をますます消耗させた。


「着替えをくれ。すぐに伯父上の所に……」


 手当てが済むと、半裸の身体に上着を引っかけて、アノルトは寝台から下りようとする。急いた様子の彼を、マルギナタは慌てて止めた。


「駄目です! まず湯浴みをなさって、それからお食事を摂って下さい。昨夜は何も召し上がっていないでしょう」

「そんな時間はないんだ。今すぐに……」

「アノルト様、あなたに倒れられたら皆が困ります。私も……悲しいです」


 マルギナタは優しげな目元を潤ませて、アノルトの上着をぎゅっと掴んだ。


「お願いですから、もっとご自分を大切になさって下さい。せっかくご無事でお戻りになったのに……こんなアノルト様を見ているのは辛い……」


 真摯な想いを隠しもせず、真っ直ぐにぶつけてくる。箱入りの令嬢にとっては決死の訴えだっただろう。それが分かって、アノルトの焦燥がわずかに和らいだ。

 立ち上がりかけた膝を折り、再び寝台に腰を下ろした彼に、マルギナタは安堵の息をついた。


「それに、お父様は午前中いっぱい会議ですよ。南部首長の皆様がお集まりになっていて。ですから、昼までここでお休み下さい」

「会議……」


 アノルトは再び険しい顔で考え込んだ。王軍との交戦が本格的になったこの時期、当然その議上には戦況の報告や今後の見通しが上っているだろう。その場に自分が呼ばれていないことに、怒りより先に違和感を感じた。


「アノルト様?」

「いや……すまない。湯を使わせてもらうよ」


 いそいそと部屋を横切り、箪笥の抽斗ひきだしから着替えを取り出すマルギナタの背中に、彼は続けて声を掛けた。


「君の気持ちは嬉しいが、マルギナタ、俺に何も期待しないでくれ」


 冷然とした声に籠った気遣いは十分に伝わったのだろう。マルギナタは一瞬震えたが、部屋着と浴布を選ぶ手は止めなかった。


「ええ……存じております。心に決めたお方がいらっしゃるのですね」

「ああ、だから、君を妻にする気はない」

「けれど、私を娶らなければ父の助力は得られないのでしょう? でしたら利用なさいませ。形だけの妻でも、私は構いませんわ」


 彼女は衣服を抱えて振り向いた。頬が紅潮しやすいのは体質らしく、薔薇色に染まった優美な顔立ちの中で、黒い瞳だけが強く輝いていた。浮かべた笑みは精一杯の努力を感じさせたが、臆する様子はなかった。


「どうか、お傍に置いて下さい。それだけで私は満足なのです」


 あまりにも純粋な愛情と献身を向けられて、アノルトは戸惑った。伯父の思惑や自身の疑念の及ばぬところに、彼女の想いはあると知ったのだ。


 ただ傍にいたい――それは自らがリリンスに抱いた望みと同じではなかったか。


 たったひとつの願望が、多くの人間の想いを巻き込み、気づくと引き返せない場所まで来てしまった。出発点が見えなくなるほどに遠くへ。

 翳りのない従妹の笑顔に、なぜだかいたたまれない気持ちになって、アノルトは何も答えられなかった。





 知事府一階には、知事の執務室の他、会議や会食に使用される大小の広間がいくつかある。

 南部属国の代表者が一堂に会するとなると、その人数は三十名を超える。使われているのは、建物の北端にある大広間に違いなかった。


 身なりを整えたアノルトは、一階の長い廊下を歩いていた。

 左腕の傷は未だに疼き続けている。が、気にはならなかった。それよりも、足元で軋む板張りの床の感触が不快だった。王宮の石床に馴染んだ彼にとって、木の床の弾力は、自分の存在をひどく不安定なものに感じさせるのだ。

 壁で仕切られた城内は昼間でも薄暗かった。山脈に近いこの土地では、窓から差し込む日光も柔らかく、砂漠の民には寒々しい。


 陰鬱な気分を奮い立たせて、アノルトは先を急ぐ。首長を集めた会議の場に割り込むつもりだった。自分には当然にその権利があり、フェクダの独断を阻止せねばならないと思っていた。


「ずいぶん顔色がお悪いようですが」


 突然、本当に突然、背後から話しかけられてアノルトは振り返った。反射的に腰の剣に手が伸びる。

 数歩後ろの壁際に佇んでいたのは、サリエルだった。等間隔で並んだ窓からの薄日を浴びて、白い衣服を纏った彼は陽炎のようだった。


「いつから……そこに?」


 楽師には殺気の欠片もないのに、アノルトは総毛立った。

 赤黒く変色した皮膚の中で、そこだけ鮮烈な銀の目が細められる。


「ずっといましたよ。どちらへおいでですか?」

「広間だ。伯父の招集で皆が集まっているはず」

「ではお急ぎになった方がよろしいですね。あなたの望まぬ方へ、事態は動いているかもしれません」

「どういう意味だ? 何か知っているのか?」


 彼の言葉通り、広間へ急いだ方がよいと分かっていながら、アノルトはサリエルを捨て置けなかった。石像に似た静謐な表情が、今はひどく挑戦的に感じられる。精神の最奥まで映し出されるような銀色の双眸も。

 この男に関わるな――本能はそう察知しているのに、激しい苛立ちと焦燥がアノルトを突き動かす。

 彼はサリエルの肩を掴んで壁に押し付けた。


「知っていることを言え、サリエル! 伯父は何を企んでいる?」


 低く押し殺した声で言う。強い力で押さえられながら、サリエルは苦痛の表情も抵抗の素振りも見せなかった。まるで死体を締め上げているような感覚に、アノルトはぞっとした。激高が嘘のように引いてゆく。

 壮絶な火傷痕から目を逸らし、彼は片側の美貌だけを見詰めた。


「俺には理解できない。こんな傷を負わされて……あなたはなぜ伯父に従っているんだ?」

「いいのですよ、私のことはどうでも」


 サリエルはわずかに微笑んだようだった。それからほぼ同じ高さにあるアノルトの耳元で、


「フェクダ殿下は、リリンス様を排除しようとなさっています――早く行って下さい」


 と、囁いた。





 最後の一人が署名した時、閉ざされていた両開きの扉が強引に開かれた。


 止めようとするフェクダの部下を押し切って、アノルトが広間に足を踏み入れる。円卓を囲って集った三十人余りの視線が、一斉に彼に向けられた。

 上座で書面を手にしたフェクダが、ゆっくりと顔を上げる。


「アノルトか。休んでいなくていいのかね?」

「休養は十二分に取れました、伯父上」


 アノルトは皮肉の籠った口調で答え、広々とした議場を睥睨する。ここで何が行われていたか検分するように。


「帰還のご報告が遅れました。残念ながら、イーイェンを味方につけることは叶いませんでした。俺の力不足です」

「聞いている。南洋の動向はさほど心配あるまい。奴らも国王への義理を示したいだけで、自らの血肉を削ぐつもりはないだろう。王太子をけしかけて、おまえに奇襲を掛けさせたのがいい証拠だ」

「最初から交渉に期待はしていなかったと?」

「アノルト、来なさい」


 フェクダは手招きをする。警戒の様子を見せながらも近寄ってきた甥に、手元の書面を示した。


「たった今、全員の同意が得られたところだ」

「何のことです?」


 アノルトが内容を確認する前に、フェクダは彼の肩に手を乗せ、議場の首長たちに向き直った。


「本日をもって、南部諸国はオドナス王国からの離脱を決めた。ここに南オドナス王国の独立を宣言する。初代国王は――アノルト、おまえだ」


 その声音は、彼の弟が王太子の指名を告げた時と同様に、明朗であった。

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