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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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急襲

 先頭付近から悲鳴と馬のいななきが聞こえ、行進が止まった。

 兵士たちの激しい動揺の気配が伝わってきて、アノルトは身を乗り出す。広い街道とはいえ五百人の隊列の先頭は遠く、何が起こったのか瞬時に把握するのは難しかった。


「何があった!?」

「ご報告いたします! 街道に罠が!」


 一騎が前方から駆けて来て、大声で告げた。


陥穽かんせいです。最前列から十騎ほどが転落しました」


 アノルトは表情を強張らせる。同時に周囲の兵士たちが剣を抜き、四方に視線を巡らせた。総督直属の軍団兵はよく訓練されている。


 ドローブからマージ・オクに至る街道は、知事に従う属国の領土を通っており、まだ国王軍の侵入を許してはいないはずだった。だから、アノルトも兵士たちも敵襲の可能性はほとんど考えていなかった。武器を携帯していたのも、内乱に乗じて跋扈する野盗を警戒したためである。

 そこに陥穽かんせい――落とし穴が仕掛けられているとは。アノルトの身体に緊張が走った。誰の仕業にしても、当然、それだけで終わるはずがないからだ。


「急ぎ隊列を立て直せ。周囲に警戒を!」


 アノルトの命令を受けた伝令役が先頭へ引き返そうとした時、空気を斬り裂く鋭い音がした。次の瞬間、伝令役の胸には深々と矢が突き刺さっていた。

 その男が低く呻いて落馬したのが合図のように、隊列に向かって次々と矢が撃ち込まれる。

 兵士たちは鞍につけていた盾を構え、アノルトの周囲を固める。


「くそ、どこから……?」

「上です、殿下! 樹の上に!」


 盾の隙間から頭上を仰ぐと、道に張り出した太い木枝に人影が見えた。立ち並んだブナの大木の上に多くの射手が潜んでいたのだ。葉の中に紛れる深緑色の外套で身を覆った男たちは、手に手にいしゆみを構えている。

 容赦なく矢が撃ち込まれて、射抜かれた兵士があちこちで落馬した。矢が刺さって暴れた馬から放り出される者も続出した。


「引き返せ! 森から出るんだ!」


 アノルトは矢を防ぎながら馬の首を巡らせた。兵士たちは混乱しつつも俊敏に動き、狭い足場で方向転換をする。こんな状況にも拘わらず実に統制の取れた動きではあったが、敵はそれを待ち構えていた。


 森の入口でときの声が上がる。木々の中から躍り出てきた数十騎が、引き返そうとしていた隊列の先頭集団に襲いかかった。

 最初から森の中に身を隠して待ち伏せをしていたらしい。兵団の退路を塞いだ騎手たちは、みな鮮やかな緋色の装束を纏っていた。


 静かだった昼下がりの森は、にわかに激しい戦闘状態に陥った。


 数の上では圧倒的に有利なアノルトたちであったが、長い列になっているため、側面からの奇襲には迅速に対応できない。後方から加勢に向かおうにも道幅一杯に味方が並んでいて動きが取れず、しかも頭上からは弓による攻撃が続いている。

 森の中へ退避するか――アノルトは飛来する矢を剣で打ち払いつつ、冷静に考えを巡らせる。

 しかし街道を外れた原生林は巨木の根や下草で足場が悪く、軍馬が進むのは困難だった。さらなる罠が仕掛けられているかもしれない。


 痛手を覚悟で正面突破を決断した時、彼の視界の端で赤い色が動いた。

 伏兵は三手に分かれていたらしい。隊列の中盤を狙って、樹の陰から新たな騎馬団が現れたのだった。


「総督を狙え! 他は構うな!」


 先頭の騎手は仲間たちにそう命じて、真っ直ぐにアノルトへ向かってくる。赤い服を着たその男の容貌は、彼が憎悪する若者に酷似していた。





 木々の向こうからかすかに聞こえてくる怒号と馬のいななきに、鋭い金属音が混じった。

 剣を打ち合わせる音だと分かって、馬上のリリンスは強く手綱を握り締めた。動悸が速まり、額に冷たい汗が滲む。深呼吸すると、落ち着いた表情のナタレがこちらを見詰めているのに気づいて、いくらか楽になった。

 アノルトらが奇襲を受けている時、リリンスは同じ森のさらに奥にいた。街道が整備されてからは滅多に使われなくなった旧道である。今では地元の人間しか知らない狭い道だ。


 あなた方で第一王子を討ち取ってしまえばいい――軍関係者同士の会談において、イーイェンのニーザはウーゴにそう提案したらしい。


 マージ・オクに駐留する南部の本隊と合流する前にアノルトを押さえてしまえば、旗印を失くした敵は大義名分を失う。幸いにも、リリンスらがドローブ近郊に辿り着いていると相手には知られていない。絶好の機会だった。


「この人数でドローブの総督府を襲うのは無理ですが、移動中ならば可能です。アノルト殿下がいつ動くかは、イーイェンが調べます。連中、直接の戦闘には加わらないが援助はするなんて調子のいいこと言ってまして」


 ウーゴはリリンスにこの作戦を推した。ロタセイの機動力をもってすれば十分に成功すると判断したからだ。実際、彼らには二年前に東部知事府を征圧した実績がある。

 ずいぶん迷ったが、リリンスは結局ウーゴの進言を受け入れた。


「ご心配なさらなくても、アノルト殿下はそう簡単にやられたりしませんよ」


 緊張に身を硬くしているリリンスに対し、ウーゴは努めて気楽な声をかけた。


「それに、できるだけ無傷で捕えよと命じております。できるだけ……ね」

「やっぱり卑怯じゃないかしら、師団長、こんなやり方」

「全然卑怯じゃないですよ。どれだけ人数差があるとお思いです? むしろ、他に方法がありません」

「アノルト殿下を捕縛できれば、この戦争は終わります。向こうに味方していた属国も離脱するでしょう」


 ナタレも冷静に告げた。

 リリンスは苦い唾を飲み込む。頭で理解できてはいても、兄を騙し討ちしているようで、やはり後ろめたい。


「王女サマ、甘っちょろい」


 同行していたニーザが、片言のオドナス語でぼそりと呟いた。即座にウーゴとナタレに睨まれ、隣にいたカサカに側頭部を叩かれた。

 急襲の場所を選定し、罠を仕掛けたのはイーイェンの部隊である。彼らは首尾を見届けに来たのだが、煮え切らないリリンスの態度を多少頼りなく思っているようだった。


 手筈では、隊列を急襲したハザンらが混乱に乗じてアノルトを拉致し、この隠れた道を経由してウィチク村まで連れ帰る予定だ。リリンスは、ウーゴをはじめとする数名の王軍兵士とともに、成功の知らせを待っていた。

 喧騒は徐々に拡散しているようだった。生い茂った木々のあちこちから、音に驚いた小鳥の集団が飛び出している。森の中に追い込めば、馬の扱いに長けたロタセイの兵士から逃れられぬはずだった。


「少々時間がかかっているようですな……」


 ウーゴが傾き始めた太陽を見上げた時、ふいに、けたたましい蹄の音が湧いた。


 ハザンたちか、と目を凝らしたリリンスの前に、大木の間を擦り抜けるようにして騎馬の一団が現れた。木の根を避け下草を蹴散らして現れた彼らは、赤い服を着てはいなかった。

 ウーゴとナタレが剣を抜く。だが圧倒的に数が違った。騎馬は続々と森を抜けて来る。


「細い道があるはずだ! 山の方へ!」


 そう指示を飛ばす声に、リリンスは聞き覚えがあった――忘れるはずがない。


「兄様……」


 彼女は呟いた。十騎ほどの騎馬に続いて道へ出てきたのは、確かにアノルトその人であった。

 彼もまた驚いたように目を見開く。視界を塞ぐ木々が開けて、ようやくそこに他の人間がいることに気づいたのだろう。


「リリンス、どうしてここに……」


 アノルトは呆然とリリンスを見詰める。髪を短く切り、粗末な旅装束で馬に跨ってはいても、彼が妹を見間違うことはなかった。

 実に四ヶ月ぶりの兄妹の再会――時間が止まったように、二人はお互いを凝視し合った。

 だがそれも一瞬で、ウーゴとナタレが割って入った。


「さすがですね、アノルト殿下。この森の中を逃げ延びていらっしゃるとは」

「師団長か。三年前、ここを通って海まで戦い抜いたのは誰だと思っている?」

「ははあ、ごもっともです」


 緊張感のない口調ではあるが、剣先はぴたりとアノルトを捉えている。アノルトも右手に持った剣を構えた。それはすでに赤く濡れている。ここまで多くのロタセイ兵を斬り倒してきたのだ。


「ふん、イーイェンの海賊め、俺をたばかったか」


 彼はニーザとカサカの姿を認め、状況を悟ったようだった。イーイェンが自分との約束を反故にし、王太子にくみしたと。沿岸部に詳しい彼らの助力を得たのならば、急襲の手際のよさも当然だった。


「まあ、いい。形勢逆転だな」

「同感です。おい! おまえたち!」


 ウーゴは大声を張り上げて、周囲の騎馬団に呼びかけた。アノルトに続いて森を抜けてきた総督軍兵士は数百人に上るらしく、すでに取り囲まれてしまっている。


「第一王子を差し出せば、国王軍はおまえたちを受け入れるぞ! 同胞と争うこともあるまい」


 反応は噴き上げるような殺気と、白刃の煌めきだった。誰ひとりとして主人を裏切る素振りのない敵兵たちに、ウーゴは軽く肩を竦める。


「いい部下をお持ちですな」

「リリンス――来い」


 アノルトは再度、リリンスを瞳に捕えた。リリンスはびくりと震える。


「おまえが来れば、残りの奴らは見逃してやる。それとも皆殺しを望むか?」

「どちらもお断りします。私は兄様の所へは参りません」


 答えるリリンスの声は硬かったが、怯えてはいなかった。


「兄様の方こそ、降伏して下さい。内乱は国土の荒廃を招きます。瓦礫の国で死人の王になるつもりなの?」


 毅然と言い返した妹に、アノルトはむしろ誇らしげに笑った。さすがは俺の惚れた女、とでも言いたげである。笑みはすぐに消え、無言で彼女の方へ馬の脚を進める。

 割って入ったのはナタレだった。


「邪魔だ」


 いささかの躊躇もなく振り下ろされた剣を、ナタレは素早く自分の剣で受けた。硬質な金属音が鼓膜に突き刺さる。

 それを合図に周囲の騎馬が彼らに詰め寄り、ウーゴと王軍兵士、それからニーザとカサカも止むを得ず応戦を始めた。


「王太子殿下に何をする気だ」


 馬上でギリギリと剣を押し合いながら、ナタレは低い声で言った。

 アノルトは力で押し切ろうとしたが、できなかった。かつて建国祭の御前試合で剣を交えた相手ではあったが、あの時とは背負っているものが違う。緋色の装束の少年は、腕力も気迫も成長していた。

 二度、三度、彼らは剣を叩き合わせた。馬の鞍を両腿で挟んだ不安定な体勢だが、お互いに一歩も引かない。


「リリンス様を殺そうとしただろう。暗殺者を送り込んだな」

「な……んだと?」

「彼女は王軍に潜んでいた刺客に殺されかけた。あんたの仕業だ!」


 ナタレはわざと断定的な言い方をして、アノルトの動揺を誘った。


「本当なのか、リリンス!?」


 問われて、すでに距離を取っていたリリンスは肯く。苦しげな様子に、ナタレの言葉が真実だとアノルトは直感した。

 その隙を見逃さず、ナタレは強く剣を突き出した。アノルトは直前で躱し、手綱を捌く。

 素早く方向転換した馬同士がぶつかって、体勢を崩したナタレは地面に投げ出された。


「ナタレ!」


 思わず叫んだリリンスに、アノルトは詰め寄った。

 次の刹那、馬が狂ったようにいなないた。激しく突き上げられる衝撃にアノルトが足元を見ると、ナタレが馬の腿に剣を突き立てていた。

 咄嗟に手綱を引いたが、激痛に跳ね回る馬の背から、アノルトは放り出された。何とか受け身が取れたのも、剣を手放さなかったのも、日頃の鍛錬の賜物であっただろう。


「貴様……」

「あんたにリリンスは渡さない」


 周囲では兵士と軍馬が入り乱れ、激しく剣がぶつかり合っている。旧道は狭く一斉に襲い掛かられる心配はないが、リリンスたちは窮地に陥っていた。数百騎の総督軍兵士が彼らを取り囲み、じりじりと包囲を狭めてくる。


 そんな状況の中、ナタレとアノルトは睨み合った。二人の間にはお互いに対する殺意しかない。

 ほぼ同時に足を踏み出す――火花が散るほどの斬撃がぶつかった。


 混戦の最中での対決であったので、必然的に接近戦になった。狭い間合いで剣身が振り抜かれ、切っ先が突き出される。それをお互いに紙一枚の差で避け、受け止めた。彼らの技は拮抗していて、流れるような動きは途切れることなく続いた。傍目には見事な演武のように見える。

 ほんの少しでも均衡が崩れたら、どちらかが死ぬ――リリンスは総毛立った。だからこそ止められない。見守るしかない。 


 剥き出しの殺意そのままに、二人の王子が至近距離で白刃を叩き合わせたその刹那、森の中に新たな音と気配が湧いた。

 野太い雄叫びとともに躍り出てきたのは、赤い服の男たちだった。街道からアノルトたちを追撃してきたロタセイ兵である。


「遅い! これだけの人数に撒かれてどうするんだ!」

「俺たちを罵るのではなく、そいつらを褒めてやれ」


 罵倒するウーゴに、ハザンは冷静に答えるも、呼吸は乱れていた。街道からの離脱を即決し、騎馬団を率いて森の中を駆け抜けたアノルトの統率力は、ロタセイの若き指導者をも感嘆させるものだった。

 人数では未だ総督軍に利があるとはいえ、勇猛果敢で知られるロタセイの精鋭部隊の登場に、アノルトは舌打ちをした。しかも相手にはいしゆみがあり、彼らはそれを馬上で扱える。


「殿下! ここはお引き下さい」


 部下の一人が馬上からアノルトに手を差し出した。

 躊躇は一瞬だった。彼はその手を借りて、鞍の後ろに跨る。ナタレが後を追おうとしたが、他の兵士たちが立ち塞がった。


「逃がすな!」


 ハザンの号令でロタセイ兵たちが一斉に斬りかかる。しかし総督軍は厚い壁となって、アノルトの乗った馬を旧道へと押しやった。狭い足場で敵を殲滅することは難しくとも、主人が離脱するまで時間を稼ぐには十分な手勢であった。


 男二人を乗せて力強く走り始めた馬の上で、アノルトは振り返る。身を挺して戦う味方の兵士たちを、苦渋に満ちた表情で眺め――それからリリンスの姿を探した。

 その手に捕えられなかった少女は、可憐な顔を暗く曇らせて彼を見送っていた。怒りも恨みもなく、ただ、悲しげだった。

 嵐の中に舞う花弁のように儚げなその姿は、遠ざかり、すぐに見えなくなった。

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