水の砂丘
「まさか王女が我々に護衛を依頼するとはな」
小さな焚火の前で、ハザンは可笑しそうに呟いた。兄のこんな口調は珍しかったが、ナタレも同じ気持ちだった。
昼に峠を越え、下りに差しかかった山中での野宿である。天幕を設営する場所もないので、兵士たちは樹の根元に凭れて眠っていた。ロタセイから選び抜かれた屈強な男たちとはいえ、厳しい旅路である。
王軍の基地を出てからすでに八日が経過していた。
戦場を大きく迂回し、オク山脈の端を通って南海に出る旅程もあとわずかで終わりだ。
「殿下は……誰が信用に足るか、本能的に見極める目をお持ちなんです」
「王女が信用しているのは俺たちではなく、おまえなのではないか、ナタレ?」
ハザンは弟の横顔に目をやった。
定住集落を中心に遊牧生活を送るロタセイの民は、その全員が旅慣れている。また彼らの広大な土地には山岳地帯もあって、山道にも詳しい。『緋色の勇兵』の戦闘能力と旅の経験を見込んで、リリンスはイーイェンまでの警護を任せたのだった。
渋ったシャルナグも、彼ら以上の適任者を挙げることができず、責任を持って警護するというハザンとナタレの言葉を最終的には信じた。反対意見は多かったが、この二年間のロタセイの動向を熟知しているシャルナグは、腹を括ったのである。
ハザンは百名ほどの精鋭を選び、残りの指揮は副官に任せて、ナタレとともに自らもイーイェンに同行することにした。そこにシャルナグの代理でウーゴ師団長が加わったが、王軍の兵士はごく数名である。
駱駝から馬に乗り換えた彼らの道案内は、使者カサカが務めた。
俺も行きたい、とごねまくったフツは、故郷ヒンディーナの軍が合流したことで基地に留まらざるを得なくなった。鉄の産地として名高いヒンディーナは大量の鉄製武器を持ち込んでおり、その仕分けと前線への運搬作業に彼も駆り出されたのである。
「兄上……すべて終わった後でお話ししようと思っていたのですが……」
ナタレは火で暖まった頬を擦って、彼らの傍で眠る当の王女を眺めた。
毛布にくるまったリリンスは熟睡している。連日の強行軍で疲弊しきっているのだ。過酷な旅になるのが分かっていたため、ティンニーは連れて来なかった。
「俺は、今後も王都に留まりたいと思っています。ロタセイには戻りません」
そう言って、兄に顔を向ける。覚悟を決めた以上、曖昧に濁す気はなかった。
「国王は近々自治権と王権を戻す心づもりのようです。今やロタセイの指導者は兄上だ。すべて兄上にお任せいたします。俺のことは、追放扱いにして下さい」
「……それは王女のためか?」
静かな問いかけは厳しくも、怒りや驚きを含んではいなかった。ナタレを見詰め返すハザンは冷静である。弟の選択を、ある程度予想していたのかもしれない。
「はい。俺はリリンス殿下の傍で、彼女の力になりたい。自分の居場所がようやく分かった気がするんです」
薪がパチパチと音を立てて爆ぜる。山の夜は寒く、火に当たった皮膚だけが痛いほどに熱かった。ナタレの真摯な言葉も眼差しも、同じ熱を持っていた。
緋色の衣服に袖を通すのは、これが最後と決めていた。たとえ故郷から裏切り者の誹りを受けても、決心は変わらない。
「よく考えて出した結論なんだな」
「はい。身勝手をお許し下さい」
「そうか、分かった――おまえがはっきりと望みを口にするのを、初めて聞いたよ」
ハザンは穏やかに言って、ナタレは拍子抜けした。故郷を捨てると宣言した以上、罵倒されるだけでは済むまいと覚悟していたのだ。
「兄上……」
「これが父上のおっしゃっていた『変化』ならば、受け入れるしかないのかもな。ナタレ、おまえにしかできぬことをやれ。ロタセイの誇りは失わぬように」
彼はナタレの頭を小突くように撫ぜて、立ち上がった。オドナスへ寝返ったとも言える弟を前に、どことなく嬉しげだった。
「安心しろ、どこにいようとおまえは俺の弟だよ――もう休め」
そう言い残して、毛布を片手に火の傍を離れる。見張り当番の時刻まで、少しでも眠らねばならない。
ナタレは居住まいを正して、深々と頭を下げた。胸から喉に何かが込み上げて、言葉が出てこなかった。
柔らかな光に瞼を撫でられて目を開けると、鼻先の触れ合う位置に愛らしい寝顔があった。頬まで毛布に埋もれてはいるが、安らかに目を閉じたその顔はリリンスのものである。
ナタレは一瞬驚いたが、すぐに小さく息をついた。毎朝のことで、もう慣れっこだ。
地面にごろ寝する野宿の旅だから、彼はいつもリリンスのいちばん近くで休んだ。といっても十分に離れて眠っているはずなのに、朝起きると必ず彼女が寄り添っているのだった。温もりを求めて夜中に転がってきているらしい。
すでに日は昇り、水蒸気を多く含んだ朝の空気が草の臭いを濃くしている。起床時刻が近かったが、ナタレはしばらくリリンスを見詰めた。
野外で熟睡できる神経を持った姫君は、微笑むような表情で寝息を立てている。すっかり日焼けしてしまった頬にかかる黒髪は、相変わらず短く跳ねていた。伸びた傍から切っているのだ。こんな男のような髪型も、見慣れると可愛らしいと思えてくるから不思議だった。
毛布越しに密着した身体は柔らかく温かい。ナタレは、すやすやと眠るリリンスの顔にそっと触れた。すると、くぐもった声を上げてリリンスが長い睫毛を震わせた。
ゆっくりと瞼が開き、宝石のような黒い瞳がナタレを映す。
「……おはよう」
「おはよ……寒いね」
リリンスはにっこり笑って、ナタレの胸に顔をくっつけた。固い地べたの寝心地は最悪であろうに、その微笑みは実に幸せそうだ。
もぞもぞと身動きをしたので毛布がずれ、彼女の首元から細い鎖が覗いた。
「あ……これ……」
ナタレは思わずそれに手を伸ばす。
人肌に温まった細い鎖の先には、菱形の台座と赤い小さな石がぶら下がっていた。彼にとっては忘れられない品である。
「ずっと持っててくれてたの?」
「うん。服の裏に縫いつけてたんだけど、やっぱり首にかけることにしたの」
照れもせずに答えるリリンスは、大事そうに首飾りの柘榴石を握り締めた。首に戻したのは、あの朝からなのだろう。
ナタレへの気持ちを、もう誰にも隠したくないからだ。
「ありがとう、リリンス」
それしか言えなくて、ナタレは彼女の背中に手を回した。
やはり傍にいたいと思う。どんな形でもいいから、彼女の近くにいたい――その望みは自分の幸せのためかもしれないと考えると、ナタレはわずかな後ろめたさを覚えた。リリンスもまた幸せを感じてくれるだろうか。
ごほん、とわざとらしい咳払いが聞こえて、ナタレは顔を上げた。
ウーゴ師団長の渋い顔が見下ろしている。
「人肌で暖を取るのは構わんが、節度を持ってくれよ、ナタレ。それから殿下も」
物凄い勢いで飛び起きたナタレは、周囲で眠っていた仲間がすでに起床していることにようやく気づいた。赤い服の男たちは、笑いを噛み殺してチラチラと彼らを眺めている。
服と同じ色に顔を染めるナタレをよそに、リリンスは欠伸をしながら起き上がった。
「ああよく寝た。おはよう、みんな」
彼女は寝癖のついた髪の毛を撫でつけて、のんびりと挨拶をする。あまりに屈託がなさすぎて、ウーゴがそれ以上の苦言をやめてしまうほどだった。
下りの道行きはぐっと楽になって、昼近くになると木々の間から麓の平地が見えるようになった。
「下りは上りよりも馬が足を取られやすいんです。気をつけて」
注意深く見守るナタレの前で、リリンスは危なげない手綱捌きで山道を下りてゆく。もともと運動神経が優れた彼女は、だいぶ馬の扱いに慣れてきたのだ。
「あの順応力には舌を巻くね。もう心配はなさそうだな」
列の前方にいるウーゴは、後ろを振り返って心底感心したように呟く。それから斜め前を進むハザンに向かって、
「何より、君の弟が献身的に守っているようだし。今後もずっと、なんだろ?」
と、やや揶揄の混じる口調で話しかけた。
ハザンは不愉快そうに唇を歪める。昨夜のやり取りを聞かれたと気づいたのだ。
「立ち聞きはやめろ。内輪の話だ」
「ま、ナタレは真面目で腕が立つ。殿下が並々ならぬご信頼をお寄せになるのも分かるよ。信頼……以上かな」
いや若さが羨ましいわ、とウーゴは軽やかに笑った。次期将軍に最も近いと噂される男は、軍人には似つかわしくない気安い雰囲気を持っている。
ハザンは軽く息をついて、視線を前方に戻した。坂道は緩やかで、蛇のようにくねりながら長く続いている。
「あんたもそろそろ俺たちを信頼したらどうだ。オドナスを裏切るような真似はしない」
「そう願いたいね」
イーイェンに向けて出発してからずっと、ウーゴはハザンの背後についている。彼らが王太子に危害を加えんとした時には、真っ先に首領を討ち取ると無言の圧力を加えているのだ。
ウーゴは王軍幹部の中ではシャルナグに次ぐ剣の腕の持ち主で、また同行する他の王軍兵士も相当な手練れ揃いであった。
シャルナグは頭からロタセイを信用したわけではない。万一の際にリリンスを救出するため、選り抜きの精鋭を送り出したのだ。師団長の立場にあるウーゴを戦線から離脱させてまで。
将軍の思惑と懸念を、ハザンは黙って受け入れていた。二年前の騒動を考えると、自分たちに王太子を任せた決断自体が奇跡に思えたからだ。
「向こう見ずな姫君を主人に掲げて、あんたら、これから苦労しそうだな」
「いちばん苦労するのは君の弟だろうがね」
なまじ皮肉とも思えないハザンの言葉を、ウーゴはそれ以上の同情を込めた言葉で返した。
「ああ、ほら、海が見えましたよ」
隊列の先頭にいたカサカが、斜面に張り出した木々の間を指差した。不審な動きがないか常に警戒されていた道案内の男は、ここまであくまで事務的に役目を果たしている。
生い茂った枝の間に垣間見える麓の平野、その緑の大地の先に、青い色がキラリと光っていた。
あれが海、と言われても、リリンスは最初ぴんとこなかった。
ひどく遠くに眺める海は小さく、霞んでもいて、その全体像がまったく分からない。王都でアルサイ湖を見慣れている彼女にとっては、さほど驚く光景ではなかった。
山から下るにつれて、ちらちらと見えていた海はいったん視界から消えた。
翌日、ついにオク山脈の端を越えた彼らは麓で野宿をし、あとは南海に向けてひたすら平坦な道を進むことになった。
「何だか息苦しいわね。汗が乾かなくて気持ち悪い」
リリンスは、しっとりと湿った額を何度も拭う。蒸し暑いという感覚は、王都ではあまり経験できない。
慣れない種類の暑さに、リリンスは辟易しているようだった。砂漠の只中に比べればずっと気温は低いが、肌に纏いつく湿気に体力を奪われる。旅の疲れも溜まった頃で、全身が気怠かった。
兄はこんな土地を戦い進んだのだ――リリンスはアノルトの意志の強さに改めて敬服した。そんな兄と戦っている事実に、今さらながら空恐ろしくなる。
だが、道中の風景は彼女の目を楽しませた。山の麓から続く深い森を抜けると、広々とした丘陵地帯に出る。緩い起伏のある大地は砂漠ではあり得ない黒土で、青々とした草に覆われていた。あちこちに群生する黄色い花は、彼女が初めて目にするものだった。
高い空は透き通る青――王都で見るそれよりも色が淡い。遥か上空にかかる薄い雲のせいだ。南から吹いてくる風は、やはり湿度を含んで重かったが、不思議な香りを運んでくる。
「潮の臭いです。もうすぐウィチクの村に到着します」
カサカがリリンスに告げた。さすがにいくぶん安堵した口調である。
その言葉通り、やがて大地の向こうに青い海が姿を現した。
砂漠の砂が全部水に変わったような――かつて兄がそう表現した意味が、リリンスは初めて分かった。
丘を下りた彼ら一行の眼前に広がった海は、どこまでもどこまでも青かった。視界の隅から隅まで、すべて青に覆われる。アルサイ湖とは比較にならない広さであった。
蒼玉のような濃い青が、沖へゆくにつれて緑がかった深い青、白の混ざった薄い青へと色を変える。そして視線の届く果てで空と溶け合い、天球を支えているように見えた。
水を砂に例えるとすれば、大きな波のうねりは砂丘だろう。だが砂でできたそれとは違い、海は目に見える速さで動き続けていた。青い水の塊は生き物のように蠢いて、後から後から岸へ押し寄せて来る。荒く大きな波が、飽くことなく白い浜辺を洗っていた。
波音は、リリンスが初めて聞く轟音だった。水がこれほどまでに大きな音を響かせるなんて、予想もしていなかった。呆然と眺める彼女の髪を、潮を含んだ熱く重い風が嬲ってゆく。
彼女だけではない。警護するロタセイの兵士たちも海を見るのは初めてだった。あまりに雄大な眺めに、みな言葉を失っている。
「海って……凄い……」
リリンスが呟くと、カサカが隣に来て苦笑した。王女の素直な感想が新鮮だったらしい。
「イーイェン諸島は? もっと近くに島影が見えるのかと思ってた」
「今日は少し霞んでいますから見えにくいですが、この方向に」
「あのぼんやりした影がそうなのかな。海ってほんとに広いのね……」
彼女は呟いて、それから弾けるような笑顔になった。
「ねえ、ちょっと砂浜に下りてもいい!?」
問われたハザンもナタレも同じように海を見詰めていたが、我に返って首を振る。
「だ、駄目です。早く村へ向かわなければ」
残念そうに肩を竦めて馬の首を巡らせ、リリンスは浜辺沿いの道を進み始めた。それでも視線は大海に向けたままだ。
後に続きながら、ナタレはふと、故郷を流れる川を思い出した。草原を潤したあの懐かしい川は、ここに続いているのだろうか。
自分がその流れ着く先を見届けたと知ったら、父は喜んでくれるだろうか――彼は、海面に照り返す真昼の日差しに目を細めた。




