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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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夜明けを待ちながら

 その後フツが一人で野営地に知らせに走り、ほどなくして二十名ほどの王軍兵士が泉にやって来て、岩場は物々しい空気に包まれた。


「軍の中に刺客がいたとは……」


 部下とともに直々に足を運んだシャルナグは、死体を調べながら苦々しく呟いた。

 四人の暗殺者の着用していた軍服は本物で、胸の隊章はそれぞれ異なっていた。身元確認はまだ済んでいないが、遠征の直前に紛れ込んだとは考えにくい。彼らはかなり以前から王軍の別々の隊に入隊し、他の兵とともに訓練を重ね、真のあるじからの命令を待っていたのだろう。


 ナタレは深々と頭を下げた。


「申し訳ございません。外部からの侵入にばかり気を取られていました」

「いや、仕方がなかろう。おまえはよくやった。私がもっと護衛を増やすべきだった」


 兵士たちによって暗殺者の侵入経路が調べられている。ナタレの守っていた場所とは反対側、つまり野営地に至る道からやってきたのは確実だった。


「他にもまだ、間者が潜んでいるかもしれません」


 ナタレは押し殺した声で懸念を告げる。シャルナグも同じことを心配していた。敵の手の者が交ざっているのはもちろんのこと、それを知った兵士たちが疑心暗鬼に陥るのも避けたかった。


「今度から皆殺しにはするな。情報を取るために、必ず一人は生かしておけ」


 将軍がそうたしなめたのは、三人を仕留めた彼を一人前の戦士と認めた証拠だったが、ナタレは硬い表情で肯いた。


「それから……身体を洗ってきなさい。血だらけだぞ」


 指摘通り、彼の全身は返り血で朱に塗れていた。湿度のせいでいつまでも乾かず、鉄臭い異臭を放っている。

 ナタレは足早にその場を辞した。


 すでに身なりを整えたリリンスは、岩に腰掛けて俯いていた。ティンニーが不安げに寄り添っている。調査を担当する兵士の質問には落ち着いて答えられたが、疲弊した様子は誰の目にも明らかだ。


「この人たちの行動は、伯父様の命令でしょうか?」


 ひとしきり受け答えが終わると、リリンスはシャルナグに近寄って訊いた。苦しげにこめかみを震わせているのは、惨たらしい死体を正視したせいではなく、もうひとつの可能性を考えているからだった。


「あるいは兄様の……」

「それはまだ分からん。だが、あくまで私見だが……アノルトではないと思う。あいつは、実の妹を殺められる男ではない」


 シャルナグは厳めしい顔立ちに温かな色を滲ませた。そのごくわずかな変化から、リリンスは自分に対する気遣いを感じた。彼個人の希望的観測であったにせよ、少しだけ気が楽になる。


「兄様と伯父様は、一枚岩ではないのかしら」

「可能性は高いな。だとすれば、こちらにとって付け入る隙になるかもしれない」


 死体を搬出するよう部下に命じてから、彼はリリンスの背中をぽんと叩いた。


「もう帰ってお休みなさい、殿下。そんな暗い顔をしていては、皆が不安がる。そこの侍女殿も」

「は、はい、そうします。ティンニー」


 呼ばれたティンニーは、まだ緊張の抜けない様子だ。身体を張って王女をかばおうとした勇ましい侍女は、少し震えていた。

 努力しなくても、リリンスは自然に笑うことができた。


「守ってくれてありがとう。怖い思いをさせてごめんね」

「姫様……私、な、何もできなくて……」


 張りつめた糸が切れるように、ティンニーの顔が歪んだ。うわあん、と声を上げて泣き始めた彼女を、リリンスは両腕で抱き締めた。


 周囲の兵士たちは、見ぬふりをしながら仕事を続けている。ひしと抱き合った少女二人を前に、どう対応してよいのか分からないのだろう。シャルナグもまた居心地が悪そうに顎を掻いた。





 寝苦しさを感じて、リリンスはふと目を覚ました。

 天幕の床で寝るのには慣れたはずなのに、今夜は妙に眠りが浅かった。やはり神経が昂ぶっているのだろう。

 分厚い帆布の天幕を透かして、外がうっすらと明るいのが分かった。夜明けが近いのだ。起床時刻にはまだだいぶ早い。

 しばらく瞼を閉じていたが、一向に眠気が湧いてこなかった。

 のろのろと身体を起こすと、隣ではティンニーが寝息を立てていた。昼間の出来事で気を尖らせていた彼女が寝つけたのは、葡萄酒を飲んだ夜半過ぎのことである。


 ティンニーを起こさないように気をつけながら、リリンスは寝床を抜け出した。





 明け方の野営地は青い静けさに包まれていた。

 リリンスの天幕が設営された場所は将軍や師団長の天幕のある一角で、比較的面積に余裕がある。これが下級兵士たちの寝泊まりする天幕の密集地帯だと、夜中でも鼾や歯ぎしりが漏れ聞こえてくるのだが、ここではその心配はなかった。

 空気は冷たく澄んでいて、鼻がつんと痛む。外套で身を覆ったリリンスは、ついでに羊毛の肩掛けを頭から被った。

 あちこちで篝火が焚かれ、夜警の兵士が交代で巡回している。独り歩きが危険なことは分かっていたものの、彼女は見張りの目を避けながら天幕の間を通り抜けた。大声を出せば届く範囲にいるつもりだった。


 向かったのは、数日前に『月の虹』を見た丘の上である。日の出が見てみたかった。


 遮るもののない滑らかな坂道からは、遥か彼方へ続く荒れ野と紺色の空が見えた。南天の高い位置には下弦の月が貼りついているが、東の空はすでに紅色を帯びている。じきに昇る朝の太陽が、弱まった白い月を放逐してしまうだろう。

 吹きつけてくる冷たい風に、リリンスは外套の襟を立てた。寒くとも、意識が冴えてくる感覚は快い。


 坂を上り切った先に、見慣れた後ろ姿があった。

 風に吹かれるまま立ち尽くしているのは、彼女の護衛であり友人でもある少年だった。

 清澄な大気の中で凛と背筋を伸ばしたその姿から、近寄りがたい厳しさを感じて、リリンスは声をかけるのをためらう。歩みを止めた彼女に、相手の方が気づいた。


「……殿下」

「おはよう、ナタレ。日の出を待ってるの?」


 ナタレは曖昧に肯いた。薄明かりの中でもその頬が青白いのが分かって、彼はずいぶん前からここにいたのではないかとリリンスは思った。


「私も目が冴えちゃって……寒いね」


 リリンスは彼の隣に並んだ。肩と肩との間に半歩ほど距離が開いている。


「昨日はありがとう。あなたとフツが来てくれなければ、私もティンニーも殺されてた」

「いえ、もっと早く気づいていれば、危険な目に遭わせずに済みました。それに……一人でも生け捕りにできていれば」


 ナタレは口惜しそうに唇を噛みしめる。その場で全員の息の根を止めてしまったことで、彼らの雇い主の名も仲間の存在も不明なままだ。


「あの状況では仕方なかったよ。人を斬ったのは……初めてだったのよね?」

「はい」

「怖かった?」


 リリンスが訊くと、ナタレは地平に目をやったまま首を振った。強がりではない、悟ったような無表情である。


「怖いと思う前に、自然に身体が動きました。その時には何の感情も湧かなかったけれど、後になって……爽快な気分になったんです。このために幼い頃から鍛錬を重ねてきたのだと……やっと自分が何者なのか分かった気がします」 


 『緋色の勇兵』ロタセイの王子は、自らの両手を見た。敵の血は洗い落とされていたが、奪った命の重みは残った。そして彼は、それを少しも負担に感じなかったのである。

 躊躇も罪悪感もなく、彼は自分の本質を知った。

 その発見は彼を安らかにし、同時に自らの心の最奥に向き合わせた。


「もしまた殿下を傷つけようとする奴が表れたら、俺は迷わず殺します。むしろ、もっと痛めつけて苦しめてやりたいとすら思う」


 激しい言葉を穏やかな口調で紡ぎながら、ナタレはリリンスの方を向いた。その顔に浮かんだ笑みは少し苦しげだった。


「殿下は俺にとって誰よりも大切な人だから――俺が怖いですか?」


 リリンスは大きく首を振った。目の前にいる少年の告白は、確かに苛烈だった。彼女は戦慄を覚え――同じだけ喜びを感じたのだ。そんな自分の気持ちが身勝手で残酷だとは思う。だが、抑えることはできなかった。


「嬉しい……」


 彼女は半歩の距離を踏み込み、ナタレの胸に凭れた。被っていた肩掛けが滑り落ちて、短い髪と細い首が露わになる。ひんやりと冷たい風に晒されたそこは、すぐに暖かいもので覆われた。ナタレの両腕が彼女の身体を抱き締めたのである。

 自分から近づいておきながら、リリンスは驚いた。鼓動が急に速まる。


「あなたが俺を好きだと言ってくれた時、本当はとても嬉しかった」


 ナタレは彼女を包むように抱いて、言う。


「でもリリンス様には大事な役目があります。だから……駄目なんですよ」

「駄目って、どうして?」


 リリンスは顔を上げようとしたが、ナタレは彼女の頭を胸に押しつけた。目を合せるのを恐れるように。


「俺は、本当は、あなたを自分だけのものにしたいんです。誰にも触らせたくないし、俺だけを見ていてほしいと、そんな愚かなことを考えてしまう。殿下の立場を考えれば、許されない望みなのに」


 それは最初から分かっていたことだった。ナタレの気持ちを、自分を見る眼差しに籠った感情を、リリンスはとっくに知っていた。想いを告げたところで、彼には拒むしか選択肢がないのも理解していた。

 分かっていて、それでも彼女は一歩踏み出したのだ。


「ね……今は正直に答えて。ナタレ、私が好き?」

「好きです。俺もずっと前から好きでした」


 リリンスは顔を上げた。今度はナタレも逆らわなかった。


 いつの間にか東の空に眩い太陽が姿を現していて、凶暴なほど鮮烈な朝日が彼らの間に差し込んでいた。二人の冷え切った頬がにわかに熱を帯び、目の中に光が宿る。

 何か喋ろうとしたが言葉は出て来なかった。どちらからともなく顔を寄せ、彼らは唇を重ね合わせた。


 最初はごく軽く触れ合って、お互いに驚いたように瞬きをし――それからもう一度口づけた。今度はもっと激しく、相手の唇を求める。

 上下の唇を交互に重ね合って、熱と柔らかさを丁寧に味わう。その感触に慣れたら、さらに奥に進みたくなる。少し恥ずかしげに舌が触れ合った。両の手はお互いの身体を強く引き寄せ合っている。


 唇と舌先で体温を交換するような行為に、リリンスの身体の芯が鈍く痺れた。初めての感覚だったが、それは心地よいものだった。

 かつて王宮の礼拝堂で、兄に同じことをされた時には嫌悪感しか湧かなかった。気持ちが拒む前に、まず身体が受けつけなかった。それなのに――。

 好きな人との口づけは何と快いのだろうと、リリンスは幸福感で満たされた。あの時とは反対で、気持ちはまだ戸惑っているのに身体が夢中になっている。遅れて心も解れてくる。おそらく肉体と精神は不可分なのだ。あるいは、それらは同一なのかもしれない。


 息継ぎが必要なほど長い口づけを、彼らは飽きずに何度も繰り返した。

 立っているのがもどかしく、唇を重ねたまま膝を折り、地面に腰を下ろす。ナタレはリリンスを膝の上に抱いた姿勢で、ひたすらその唇を貪った。気持ちを満たす方法を他に知らないように。


 朝の空は徐々に明らみ、白から青へ色を変えつつある。熱に浮かされたお互いの表情がはっきりと見え、同じ欲動が分かった。

 リリンスは頬に触れるナタレの手を取り、自らの胸元へと導いた。


「ナタレ……もっと私に触って」


 ひたむきな求めに、ナタレの手が震える。リリンスは優しく微笑んだ。


「ここにいる私はただの人間よ。何も特別じゃないし、恐れる必要もない。それを確かめて」


 分厚く着込まれた衣服の前を緩めながら、彼女は身体を寄り添わせた。

 おずおずと入り込んできた掌が、滑らかな肌に触れる。熱く吸いつく手触りと、その下で力強く脈打つ心臓の動き――彼女の命そのもの。


「リリンス」


 堪えられない衝動に突き動かされて、ナタレはリリンスを強く抱き寄せ、そのまま地面に横たえた。

 眩しい空の輝きに、リリンスは恍惚と目を細める。背中が冷たかったが、覆い被さってくる彼の体温がただ嬉しかった。


 だが、ナタレはすぐに身を離した。


「……まだ……駄目です」

「私は……あなたが欲しいわ。あなたは、違うの?」


 紅潮した顔を曇らせるリリンスを抱き起して、ナタレは彼女の背中についた土を払った。傍に落ちていた肩掛けでその上半身を覆ってやる。


「俺も同じです。リリンス、あなたのすべてが欲しい。あなたが得られるならば、何を犠牲にしたっていい」


 彼はリリンスに短く口づけた。


「でもあなたは違う。あなたの払う犠牲は、あなたひとりのものじゃない。そんな選択はさせられません。だから――一緒に考えましょう」

「一緒に?」

「そう。何も犠牲にせずに済む方法がきっとある。リリンス、この戦争が終わって王都へ帰って、二人で答えを出そう。それまで……待てるね?」


 リリンスはナタレの頬を両手で挟んで、また唇を塞いだ。彼の葛藤が、欲望と自制心が、痛いほど伝わってくる。何より彼女自身を思いやってくれていることも。


「……分かったわ。二人で考えよう」


 彼女が答えると、ナタレは安堵したように笑って、額を彼女のそれに押し当てた。


「それに、ここは寒すぎるよ。風邪を引く前に、もう戻ろう」

「うん」


 リリンスもまた笑って、彼の手を借りて立ち上がった。


 朝日がゆっくりと大気を暖め、岩と砂の風景は鮮やかに輝いた。風からも夜の鋭さが消えて、二人の髪を優しく揺らした。

 彼らは繋いだ手をそのままに、しっかりとした足取りで坂道を下りて行った。


次回より第六章に入ります。

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