緋色の覚醒
ナタレとフツはずいぶん離れた場所で待機していた。
野営地へ繋がる通路は安全と判断して、泉を挟んで反対側の岩陰に腰を下ろしている。外側から曲者が忍んで来るとしたら、必ずこちらを通るはずだ。
大きな岩が壁になって、沐浴を楽しむ彼女らの姿は見えない。だが、水音と話し声は途切れ途切れに聞こえてきた。
「あー、あかん、俺もう鼻血が出そうや」
フツは地面に投げ出した両足をバタバタさせた。
「こんな所でおったら、想像が膨らんでしゃあないわ。生殺しや。な、ちょっとだけ覗きに行こ!」
「行くか。誘うな」
ナタレは不機嫌そうに言って、襟元を緩めた。熱気と湯気と臭気で息苦しいのだ。額に汗が滲んでいる。
「美女のオッパイが四つも並んでんのに、拝みに行けへんて、おまえどんだけ真面目やねん。それでも男か」
「馬鹿、バレたら殺されるぞ」
「ほほう、バレへんかったらええっちゅうことやな。このむっつり助平」
「何だと!」
不敬な軽口を叩く友人に向けて、さすがにナタレがいきり立つ。フツはにんまりした。普段冷静な優等生をからかうのが楽しくて仕方ないらしい。
さて次は何を言って怒らせてやろうか――彼が退屈凌ぎにそう考えた時、怒りの表情で睨みつけていたナタレが、ふと周囲を見回した。
次の瞬間、彼は立ち上がって腰の剣に手を掛けた。
その男たちが泉に辿り着いた時、王女と侍女はきゃあきゃあと嬌声を上げてふざけ合っていた。
すぐそこまで接近を許してから、彼女らはようやく湯気の向こうの不穏な気配に気づく。
「誰!?」
リリンスは両腕で身体を覆って、湯の中にしゃがんだ。
立ち込める湯気の中、目を凝らすと、徐々に人の輪郭が明瞭になる。岩に足を掛けて身を乗り出すその若い男は、王軍の軍服を着ていた。
「ぶ、無礼者! 即刻立ち去りなさい!」
ティンニーが声を張り上げたが、男に動じる気配はない。平凡な顔立ちの中で眼光だけが異様に鋭かった。
ただの覗きとは思えず、リリンスはティンニーと身を寄り添わせた。
周囲を見回すと、あと三人、同じような風体の男が泉を囲んでいた。どれも見覚えのない顔だ。
「聞こえないの? とっとと……」
「静かにしろ」
最初に現れた男が低く命じ、ティンニーの言葉尻は途切れた。左側に立った男が弩を構えているのを見たからだ。鋭い鏃は、あろうことか、彼女らに向けられている。
「……誰の命令?」
緊張のせいで、温まったはずの肌に粟が立つ。リリンスはなるべくゆっくりと訊いた。
男はそれには答えず、
「口を利くな――立て」
と、顎をしゃくった。
こちらを狙う射手を意識しつつ、リリンスは大人しく立ち上がった。一糸纏わぬ無防備な裸体が晒される。
胸の膨らみも腰の括れもほっそりと滑らかで、ようやく熟れ始めた果実を思わせる。その処女らしい清純さは侵入者たちの目を奪うのに十分だった。湯の滴が柔らかな曲線に沿って幾筋も流れ落ち、少女の全身は奇妙に艶めいていた。
背後に立つ男が、ごくりと唾を飲み込んだ。
「小娘のくせに、色っぽいもんだな」
「始末する前にヤッちまおうぜ。そのくらいの褒美があってもいいだろ」
下卑た笑いを浮かべる右側の男の提案を、正面の男はぴしゃりと撥ねつけた。
「そんな時間はない。さっさと仕事を済ますぞ」
この男が首領か――リリンスは相手を睨みつけた。あえて胸も下腹部も隠さなかった。ここで怯えを見せたら負けだと思ったからだ。
「私を殺しに来たのね」
射手をちらりと見て、また首領に視線を戻す。視界に湯気が立ち込めていなければ、彼らは姿を現さずに彼女を射抜いていたのだろう。熱い湯を満たした泉に、リリンスは感謝した。
「弓で射殺すなんて卑怯だわ。ここへ来て自分の手で斬りなさいよ」
堂々とした物言いだったが、声の震えは隠し切れなかった。首領の男はふっと笑った。
「卑怯でも、確実に仕留めるのが俺たちの任務だ。望み通り、止めは直接刺してやる」
「いけません!」
蹲ったままだったティンニーが、弾かれたように立ち上がってリリンスの前に出た。射手に向かって大きく両腕を広げて、盾になる。
「姫様に手出しはさせない! 撃つんなら私を撃ちなさい!」
リリンスよりも凹凸のはっきりした女らしい体躯は、怯えてはいなかった。大切な姫君を守りたい一心で、羞恥も恐怖も脳裏から吹き飛んでいた。
駄目よ下がって――リリンスが止める前に、横から伸びてきた太い腕がティンニーの背を押しのけた。
よろけた身体に、続けて容赦ない蹴りが入る。
「威勢のいい姐ちゃんだな!」
水飛沫を上げて倒れた彼女の上にのし掛かったのは、右側にいた男であった。射手に気を取られていた隙に、彼女らに迫っていたのだ。
「なあ、こいつは連れてこうぜ。殺す前に楽しんでもいいだろ」
笑いながらティンニーの頭を押さえつけ、湯の中に沈める。か細い手足がばたついて激しく抵抗したが、男は力を緩めなかった。
白い湯の水面が、彼女の吐き出した大量の気泡で激しく波立った。失神して大人しくなるまで続けるつもりなのだ。
リリンスは我を忘れて男に掴みかかった。
「やめて! その子は関係な……」
バン、と何かが弾ける音がした。
弩の弦が解放された音だ、と瞬時に気づき、リリンスは胸を貫く痛みを覚悟した。
しかし――身を屈めつつ振り返った先で、射手は弓を取り落としていた――自らの右腕ごと。
切断された肘から、血の霧が勢いよく噴き出す。その傍らには、長剣を振り抜いた姿勢のナタレがいた。
獣の咆哮のような悲鳴は長く続かなかった。屈めた上半身を上げるや否や、ナタレは返す刃を射手の喉元に叩き込んだのである。
全員が唖然とした。物音ひとつ立てず濃密な湯気の向こうから現れた彼は、誰にも接近を気取られなかったのだ。斬られた本人ですら、何が起こったのか分からなかっただろう。
血飛沫を上げて地面に崩れる射手には一瞥もくれずに、ナタレは首領の男へと走った。
気を飲まれたのは一瞬で、首領も腰の鞘から剣を引き抜いた。泉の反対側にいたもう一人も、足早に駆けてくる。
「くそっ……」
舌打ちとともに、泉の中でティンニーを押さえつけていた男が立ち上がった。抜刀して加勢に向かおうとすると、背後から大柄な身体がぶつかってきた。
「女の子に何しとんねん、このハゲ!」
ナタレと逆方向から乱入してきたのはフツだった。
体当たりされた男はつんのめったが、機敏に体勢を立て直して、振り向きざまに剣を薙ぐ。訓練された兵士の動きだ。
フツは自分の剣でそれを受けた。続けて一撃、二撃――王軍支給の同質な剣が、火花の散りそうな勢いでぶつかった。
解放されたティンニーは、湯から顔を上げて激しく咳込んでいる。彼女の肩を抱き抱えて、リリンスは泉の端まで移動した。護衛の登場には安堵したが、まだ危機が去ったわけではない。
彼女が見詰める先で、腕力には自信のあるフツが押されている。いつも稽古をしている同年代とは格段の差があるのだ。油断すれば一瞬でやられる。
「小僧! 粋がるなよ!」
視界の下から膝が突き上げられた。剣に気を取られていたフツは、まともに鳩尾に食らって、よろめきながら後退した。すかさず男が踏み込み、彼の頭上に剣を振り被る。
激痛を堪え、フツは大きく右足を蹴り上げた。大量の湯が跳ね上げられて、男の顔面にかかる。
一瞬だけ視界を奪った隙に男の襟元を掴んで、向かってくる勢いをそのままに、前方へ向けて投げ飛ばした。
くるりと一回転して背中から落下した男の身体が、派手に湯飛沫を上げた。
「俺の勝ちや、オッサン」
フツは呻くように言って、男の肩を踏みつけ、その胸に力いっぱい剣を突き立てた。
泉の外では、ナタレが首領を相手に立ち回っていた。
その足元には、すでに一人が倒れ伏している。彼を討ち取ろうと走って来たその男は、擦れ違いざまに頸部を半ばまで切り裂かれた。
今、ナタレは相手の攻撃を躱しつつ懐へ入る機会を窺っていた。岩だらけの足場でその動きに危なげはなく、攻めているはずの首領の方が追い詰められて見えた。
敵は街のゴロツキではなく、おそらくは手練れの刺客である。その苛烈な攻撃をナタレは恐ろしく冷静に見極めて、ぐいぐいと間合いを詰めていた。怒りも殺気もない硬質な無表情が面貌を覆っている。
首領は――ぞっとした。『緋色の勇兵』と謳われる部族の王子だとは知っていたが、所詮は王宮暮らしに馴染んだ若造、護衛の役には立つまいと高を括っていた。だが彼の身のこなしと動体視力は尋常ではなかった。斬ったと思っても、紙一枚の差ですべて避けているのだ。
「舐めるな……!」
ひときわ強く突き出された剣先を、ナタレは初めて大きく屈んで避けた。視線だけは外さない、その黒い瞳に、いっきに殺意が燃え上がった。
来る、と直感して、首領は引いた剣を斜めに構えた。まともに打ち合えば負ける気はしなかった。
しかし、刃は真下から跳ね上がってきた――ナタレは瞬時に左手で剣を逆手に持ち替え、至近距離から首領の胸元を斬り上げていた。
決着はその一撃で着いた。肺から頸動脈まで斬り裂かれ、首領は仰向けに倒れた。
ティンニーは泉の縁に掴まって、まだ呆けていた。
咳は止まったが、水の浸入を許した鼻の奥が痛くて堪らない。それでいて、力が抜けて身動きが取れなかった。
「大丈夫か?」
「い、嫌あっ!」
肩に触れる手を、本能的に振り払った。堰を切ったように滅茶苦茶に腕を振り回す。相手の身体に何度も拳がぶつかった。
「落ち着け……落ち着けって、ティンニー!」
分厚い掌に頬を挟まれた。恐怖に潤んだ目に、どこか愛嬌のある顔が映る。
「フ……フツ」
「そう、俺や。もう終わったから心配ない。あんた、勇敢やったなあ」
フツは外套を脱いでティンニーに掛けた。それで初めて自分の格好に思い至り、彼女は慌てて外套の前を合せた。
卑猥な冗談を投げられるかと思ったが、フツは意外にも目を逸らした。
「外に出よ。ここは汚い――あ、見ん方がええぞ」
そう言う彼の手に掴まって何とか立ち上がり、無意識に足元を見たティンニーは、小さな悲鳴を上げた。
白かったはずの湯は薄い紅色に変わっていて、人の形をしたものが水底に沈んでいたのだ。湯が濁っていて明瞭ではないが、聞かなくてもそれが何なのかは分かった。
腰を抜かしたティンニーをひょいと抱えて、フツは泉から出た。
岩場はもっと凄まじい状況になっていた。黒い岩に絵具をぶちまけたように血糊が飛び散り、窪みに溜まり、ぬるぬると光っている。そして赤く染まった男が三人、仰向けに寝かされていた。
リリンスは身体に浴布を巻きつけただけの格好で、そのうちの一人の傍らにしゃがんでいた。隣にはナタレが膝を着いている。
「言いなさい、誰に命令されたの?」
彼女は恐れ気なく男の顔を覗き込む。口と鼻から血を流す男は首領で、まだ辛うじて息があるようだった。だがその呼吸は浅く荒く、目は虚ろだ。
「暗殺を命じたのは王兄? それとも……第一王子? どっち?」
リリンスは苛立ったように瀕死の男の胸元を掴んだ。
「どっちが私を殺そうとしたの!? 言いなさい! 死ぬ前に言え!」
「殿下……そいつはもう死んでいます」
ナタレが彼女を止めた。手を離すと、脱力した男の身体は地面でぴくりとも動かなくなった。
きつく眉根を寄せた沈痛な表情で、リリンスは項垂れた。兄が自分を殺そうとしたのかもしれないと、その疑念が激しく彼女を揺さぶっている。
ナタレは彼女の白い肩を支えようとして、自分の手が赤く汚れていることに気づき――何もできなかった。




