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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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夜空に架かる兆し

「あと五日ほどで、南部と呼ばれる地域に入る」


 夜、野営地で行われる軍議の席で、シャルナグはリリンスに説明した。


「昼間、ずっと南に山脈が見えたでしょう。あれがオク山脈、砂漠の南の果てだ。その手前に南部知事府が置かれている」

「ドローブは、山を越えてさらに南ね」

「ああ、だが、賊軍は知事府の街に留まっているはずだ。ドローブの先は海――逃げ場がない」


 広い天幕の中央に大きな地図が広げられ、将軍と師団長、各大隊長がそれを取り囲んで座っている。

 彼ら王軍の首脳陣に加えて、今夜は他に十数人の参加者が混じっていた。オドナスの軍服とは異なる衣服に身を包んだその男たちは、みな属国からの援軍の指揮官だった。


 国王からの派兵要請に応じた属国から援軍が送り込まれ、ここ数日でぞくぞくと合流し始めた。

 急激に膨れ上がった兵士の数を把握し、組織に組み込むための調整にシャルナグら幹部は腐心していた。今後本格的な戦闘に入る前に、属国の軍と十分に意思疎通を図って指揮系統を整えておかねばならない。


 初めて一堂に会した援軍の指揮官は、そのほとんどが属国の王族であった。オドナスの新体制に支持を表明した者たちは、興味深げに王国の後継者の姿を観察していた。

 女だとは聞いていたが、まだ小娘ではないか――そんな揶揄の眼差しを露骨に注ぐ者もいた。リリンスは特に気にしたふうもなく、将軍の説明に耳を傾けている。


 軍議は今後の行程の確認と、組織再編の説明に移った。

 各属国の軍隊は、その規模に拘わらず大隊として師団に組み込まれ、各師団長の下知を受けることになった。他の隊と円滑に連携が取れるよう、早急に訓練を始めねばならない。

 その準備を調えるため、この地に数日留まる旨の決定には、誰も異を唱えなかった。先行させた斥候部隊の報告を待って作戦を練る必要もある。


 だがシャルナグが会議を切り上げようとした時、手を挙げた者がいた。


「畏れながら将軍閣下、そちらにおわす王太子殿下から、直接お言葉を賜ることは可能でしょうか」


 口髭を生やした男は、南部にほど近い属国の人間だった。今回の招集に最後まで迷って、国王側についた国である。いかにも姫君然としたリリンスを値踏みするように睨めつけている。


「我々はオドナス王家に国の命運を預けております。せめて一言なりと、殿下のご意志を伺いたい」


 そうだそうだ、と他の者からも賛同が上がる。


「控えよ! 無礼であろうが!」


 師団長の一人が声を荒げるのを、リリンスは仕草で制した。全員の視線が集中する中、静かに立ち上がる。


「その意見はもっともです。ご挨拶が遅れました。オドナス王国第三王女、リリンスと申します。この度、父から指名を受け王太子の位を授かりました」


 大きく深い黒瞳の美少女は、穏やかに男たちを見渡した。無造作に短く切った髪をしていても、その愛らしさには少しも衰えがなかった。むしろ余計な装飾が排除されて神秘的にすら見える。


「今回の遠征は、元を辿ればオドナス王家の後継者争い――いわば家族の内輪揉めです。本来ならば身内で解決すべきいさかいに、皆様の命と各国の運命を巻き込んでしまい、誠に心苦しく思います。しかも私には経験も実績もなく、討伐に参加してもお飾りにしかなりません。皆様のご懸念、お察しいたします」


 実に気弱な発言に、属国の指揮官ばかりか王軍の隊長たちも怪訝な顔をした。シャルナグは腕を組んで目を閉じている。

 リリンスは、ここで笑みを浮かべた。


「だからこそ、私にお力をお貸し下さい。私は未熟であるがゆえに先入観を持ちません。どれだけオドナスのために尽力して下さるか、直接見せて頂きたいのです。父から国を継いだ後には、必ずやその働きに報いるつもりです」


 堂々とそう言い放つ。集った属国の王族たちに向けて、自分とオドナスに恩を売っておけと示唆しているのである。


「畏れながら……王太子になられたとはいえ、殿下が即位なさるのは何年も先のことでしょう。その時に約束を反故になさらぬという保証はおありか?」


 案の定、虫の良すぎる申し出に不信感を抱いたらしく、一人が質問を投げた。

 リリンスは焦る様子もなく、それどころか笑顔を明るくした。


「ご心配なく。私、記憶力はいいんです。それに、王族の中でいちばん頑固なんですよ。お父様ですら手を焼くって」


 あっけらかんとした物言いに、ふわりと空気が緩んだ。厳つい男ばかりが集まった天幕の中に、可憐な花弁が舞ったようだった。

 毒気を抜かれて気まずげに頭を掻く男たちを眺めて、シャルナグは小さく笑った。


「王太子のご意志は聞いての通りだ。各々の忠誠を示すよい機会と心得よ。皆の働きに、オドナスは相応しい恩賞を以て報いるだろう」


 将軍の宣言に異を唱える者も、疑いを差し挟む者もいなかった。

 太陽のように明るく美しい王太子に向けて、全員が深く頭を垂れた。





 軍議が終わり、リリンスが天幕を出ると、外でナタレが待っていた。


「ご立派でした、殿下」


 飾り気のない、だが心からの賛辞を述べる彼の前で、リリンスは照れ臭げに鼻の頭を掻いた。


「大したこと言ってないわ。みんな納得してないと思うし」

「今はまだ仕方がないです。彼らにはそれぞれ守る国や民がある。新しい王太子が信頼に足るかどうか、見極めている段階でしょう」

「結局は行動で示すしかないってことね」


 苦笑いを浮かべてはいたが、彼女の口調は決して悲観的ではなかった。むしろこの困難な局面を楽しんでいるふうですらある。

 自信があるのか、ただの怖いもの知らずか、ナタレには判断がつきかねたが、重要なのは周囲にどう見えるかということだ。今のリリンスには気負いがなく、周囲に妙な安心感を与えている。

 少なくとも自分には真似できない――ナタレは改めて彼女を尊敬し、同時に彼女のために何ができるか、真剣に考えていた。


 夜はだいぶ更けていて、リリンスを彼女の天幕まで送って行こうとしたナタレの耳に、賑やかな声が届いた。


「姫様ぁ! よかった間に合って!」


 遠くまで響く高い声はティンニーのもので、彼女は周囲を行き交う兵士を掻き分けながら小走りに近づいて来た。


「さあ早く! ぐずぐずしてると消えてしまいますわ!」

「消えてって……何が?」

「早く早く! ナタレ様も!」


 ティンニーはリリンスの腕をぐいぐい引っ張って、やって来た方へ戻って行く。ナタレも慌てて後を追った。





 いささか強引な侍女に連行されて行くリリンスを、シャルナグは天幕の戸口から眺めていた。


「何と言いますか、不思議なお方ですなあ、王太子殿下は」


 先ほど激高しかけた師団長が、しみじみとした口調で話しかけた。

 三十代半ばのその男はウーゴといい、シャルナグにとっては古参の部下の一人だった。シャルナグが瀕死の重傷を負った時、敵陣に斬り込んで引き摺って帰ったこともある猛者である。


「頼りなげな姫君に見えて、芯は図太い。正直、早々に音を上げて王都に帰ると思ってたんですが、大した根性です。なのに、ああしているとまるでそこら辺の娘だ」

「似てるだろう? 父親に」


 シャルナグは顎を撫でながら言う。


「国王陛下が戦場に現れると、どんなに旗色が悪い局面でも、途端に味方の雰囲気が明るくなった。あの娘の持つ空気は、それにとてもよく似ている」

「ああ確かに……あの天性の明るさは遺伝ですかね」

「上が朗らかに歌えば、下はよく踊る。この先おまえたちがお仕えする方は、そういう才能をお持ちの方だ。よく見ておけ」


 将軍のその物言いが引っ掛かって、ウーゴは眉根を寄せた。

 我々でなくおまえたちという言葉に、後を託すような意図を感じ取ったのだ。まるで遺言のような。

 ウーゴが再び口を開く前に、シャルナグは天幕を出て行った。





 リリンスは侍女に手を引かれて、野営地の外れまでやって来た。夜の砂漠から冷え切った風が直接吹きつけてきて、彼女はぶるりと身を震わせた。

 緩やかな丘になったそこには、すでに大勢の人間が集まっていた。大半が王軍の兵士だが、軍議で同席していた属国の王族も混じっている。

 その全員が視線を空に上げていた。


「こっちこっち!」


 人々の頭の向こうに、大きく手招きをする腕とフツの顔が垣間見えた。

 彼が場所を確保するまでもなく、素早く兵士たちが王太子に道を開ける。リリンスはすんなりと人垣の前へ出られた。

 ここへ来る途中、すでにリリンスはそれに気づいていた。とはいえ、遮るもののない視界の中にそれが広がると、彼女は思わず声を上げた。


「わあ……綺麗!」


 北向きの丘の上からは、果てなく続く岩混じりの荒れ地しか見えない。彼らが昼間渡ってきた大地である。

 そこに覆い被さる夜の天空に、不思議な光の半円が架かっていた。ぼんやりと七色に輝く光の帯――北の空の端から端を結んで、天球に沿うようなアーチ型を描いている。


 何とも不思議なその光は、確かに虹であった。


 年間を通してほとんど雨の降らない王都で生まれ育ったリリンスは、昼間の虹すら見た覚えがない。眼前の光景に、彼女はただただ見蕩れた。


「あれ、虹? 普通は昼に出るはずよね。どうして?」


 問われたナタレは、同じく空を眺めながら、


「『月の虹』ですね。この辺りはだいぶ湿度がありますから、大気中の水分が夜になって冷やされて、月の光を映すんだそうです。俺も初めて見ました」

「本当だ。月の反対側に映るんだね」


 ほぼ円形に満ちた金色の月は、南の空に昇っていた。冷え冷えと硬質な光が夜空に受け止められて、柔らかな虹に形を変えているのだった。

 これほど優しい月光を、リリンスは初めて見た。彼女にとって月は常に厳格な監視者であったから、幻想的な眺めそのものよりも、むしろその穏やかな変容に驚いた。紺色の空に、アルハ神が祝福を指し示したようではないか。


「これは吉兆ですぞ、殿下」


 周囲の一人が声をかけてきた。会議の席でリリンスに話すよう迫った、属国の男である。


「『月の虹』は良きしるし――アルハ信仰には関係なく、砂漠全域でそう言い伝えられております」

「月神のご加護は我々にあります。必ずや勝利を収められましょう」


 他の者たちも口々にそう言い始め、辺りはにわかに熱気を帯び始めた。

 オドナス王太子万歳、とフツがすかさず盛り上げた。つられて、万歳の声があちこちから上がる。

 もともと人気の高かった王女のこと、アルハ神が祝福したと信じるのは簡単で、その思いは興奮を呼んだ。


 いくら美しくとも自然現象と吉凶は関係ない――現実的なリリンスはそう考えていたが、彼らに水を差すことはしなかった。大事なのは吉兆だと解釈されることで、多くの人間がそう信じれば、きっと物事はその通りに動くのだ。


 声援の中、ふとナタレを見ると、彼は優しいが理知的な眼差しをリリンスに向けていた。

 周囲の興奮に巻き込まれない彼の佇まいに、リリンスはなぜか安心した。





 討伐軍が南部へ迫る頃になっても、南洋から王都へ至る交易の道は途絶えることなく続いていた。

 王都の国王も南部の知事も商人たちの往来を認めており、物流の停滞は今のところ起きていなかった。交易路がオドナス国外へ迂回すると、利益と物資が他国へ流出する。それを防ぐための措置ではあったが、今後本格的に戦闘が始まれば、否応なしに影響が出てくるだろう。


 アノルトは多忙な日々を送っていた。

 味方についた属国の人間と連日面会し、目下の急務である連合軍の組織と作戦の精査を進める。港が動いている以上ドローブを放っておくわけにもいかないので、現地と連絡を取りつつ総督の業務も続けていた。

 戦争に勝って終わりではないのだ。次期統治者の座を望むアノルトは、国内の荒廃は最少限に止めたかった。


 深夜、自室に戻ってからも机で書類に目を通すアノルトを、茶を運んで来たマルギナタは心配そうに眺めていた。


「根を詰めすぎですわ、殿下。ここ数日、まともにお休みになっていないではありませんか」


 そう言いながら茶器を机に置くマルギナタに、アノルトは手元を見たまま軽く肯いた。


「ああ……これだけ読んだら寝るよ」

「そんなことをおっしゃって、昨夜も朝方まで起きていらしたでしょう。本当にお身体を壊してしまいます」

「いいから、放っておいてくれ」


 つい口調がぞんざいになったことに遅れて気づいて、アノルトはわずかな罪悪感とともにマルギナタの方を見た。傷ついたかと思ったが、唇を引き結んだ彼女に怯んだ様子はなかった。


 アノルトが知事府に来てから、マルギナタは献身的にその世話を続けていた。料理や掃除は使用人の仕事だが、食事を運んだり着替えを調えたりするのは彼女が務めた。

 それについてはアノルトも感謝している。また万一の暗殺を防ぐ意味でも、信頼のおける身内を使うのは納得できた。


「マルギナタ、君の方こそ根を詰めすぎだ。君の厚意は本当にありがたいけれど、こんな夜更けに男の部屋に入っては駄目だよ」


 なるべく丁寧にたしなめると、マルギナタは小さく首を振った。緩く編んだ黒髪がふわふわと揺れる。


「父から申しつけられておりますので……それにもし、殿下がお望みならば、朝までお傍にお仕えせよと……」


 あの腹黒め――真っ赤になる従妹を前に、アノルトは胸の中で伯父を罵った。

 やはりあの男は娘と自分を結婚させようとしているのだ。彼女をけしかければ手を出すと思われているのも気に入らなかった。


「君はいいのか? 父親から命じられて、そんな真似を……」

「違います! わ、私は……父の意志とは関係なく……」


 アノルトはマルギナタの言葉を最後まで聞かずに席を立った。足早に居間を横切って扉に向かう彼に、マルギナタが追い縋る。


「お慕いしております……アノルト様」


 震える声とともに、柔らかな肢体が背中に貼りついた。

 その温かさにアノルトは一瞬足を止めたが、振り返らずに扉を出て行った。

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