森の街
執政庁へ同行する代わりに、ナタレは街へ出るリリンスの警護を命じられた。細々した物を買い足したいとティンニーが主張したからである。
リリンスもティンニーも元気で、喜々として衣料品や雑貨の店を回っている。ナタレはフツと一緒に彼女らの後をついて歩き、品定めをしている間は店舗の外で待った。
日はすっかり暮れていたが、ジメシュの街は賑やかだった。背の高い棕櫚の木が植えられた大通りを、様々な人種の男女がそぞろ歩いている。今到着したばかりらしく、駱駝や馬を引いて今夜の宿を探す者も多かった。皓々と灯りのついた食堂や酒場はどこも客で溢れ、これまた様々な言語の談笑が外まで漏れ聞こえてきた。
長い旅路を終えてこれから王都へ向かう者、あるいは王都を出て広大な砂の海に乗り出す者、二種類の旅人と積荷がこの地で入り混じり、憩っている。そこに漂う砂と水と人間の臭いは、王都の空気とよく似ていた。
「お待たせ! これで全部よ」
にっこり笑って買い込んだ荷物を差し出すリリンスは、小ざっぱりと身なりを整え、さっそく調達した女物の平服に着替えていた。とはいえ、短髪なので遠目には少年に見える。見兼ねたティンニーが鋏を入れ、不揃いだった毛先はどうにか整えられていた。
ナタレは細い首筋から目を逸らして、荷物を受け取った。半分は有無を言わせずフツに押し付ける。並んで歩き出しながら、リリンスはまだきょろきょろとしていた。
「街の感じは王都に似てるけど……よく見るとちょっと違うね。ほらあの壁の模様とか、窓とか……」
無邪気に指差す彼女は呑気な観光客そのもので、誰にも内緒で旅支度を調え、十三日間も単身で王軍を追跡した豪胆さは微塵も感じられなかった。聞けば、強制送還できないほど王都から遠ざかってから姿を現すつもりだったのだという。
盗賊の類はずいぶん減っているし、軍隊の近くにいれば襲われる心配はない。そういう理由で、わざと王軍の後をついて砂漠を渡る旅人や商人もいるくらいだ。とはいえ、女の一人旅が危険なことに変わりはなかった。
第一、旅の途中で賊軍と戦闘状態になったらどうするつもりだったのか――ナタレは今更ながら、リリンスの企みが早めに露見したことを神に感謝した。
「怒ってる?」
黙りこくったまま歩くナタレへ、リリンスは気まずげに尋ねた。
「そんなはずありませんよ。姫様がご一緒なら旅が華やかになります……ぐっ!」
能天気に口を挟んだフツの耳を掴み、ティンニーは思い切り後ろに引っ張った。気が利かないわね、と口の動きだけで罵る。
ナタレは隣のリリンスを見やって、すぐに正面に向き直った。
「怒ってはいません。ただ不安で……あなたをアノルト殿下に奪われるのではないかと」
深い溜息とともにそう呟いて、語弊があったかと急いで補足する。
「王太子としてのあなたを、です。次期国王の座を得るためには、現王太子を亡き者にするのが手っ取り早い方法ですから」
もちろん、アノルトが実際にリリンスを殺すとは思えなかった。彼はリリンスに執着している。勝利を収めた暁には彼女から地位を奪った上で、強制的に婚姻を結ぼうとするだろう。
王太子の位とリリンス自身――アノルトの欲するものを二つとも、わざわざ本人の元へ運ぶ結果になりはすまいかと、ナタレは不安なのだ。
リリンスは浅く微笑んで、ナタレの横顔を見詰めた。
「心配してくれてありがとう、ナタレ。それでも私は兄様に会わなくちゃ」
「リリンス様、それは危険なことです。アノルト殿下はもうあなたの兄とは言えません」
「かもしれない。でも……この街、豊かで活気があるでしょう?」
唐突にそう言って、彼女は周囲を見回した。
大通りは宿屋街を抜け、問屋の密集した地区に入っていた。夜に到着する隊商もあるため、こんな時刻でも麻袋を積んだ駱駝や木箱を乗せた荷車が行き交う。荷降ろしの人足と店先で検品する商人たちが、昼間以上に忙しなげに動き回っていた。
「兄様が本気で非情に徹するならば、迷わずこの街を焼き払ったと思うわ」
さらりと恐ろしい台詞を吐きながら、リリンスは笑顔を崩さなかった。
「そうすれば追ってくる王軍の補給を妨害できるから。でもジメシュは無傷で、この先の中継都市からも被害の報告はない。少なくとも兄様は、自分の望みのために他人を無差別に傷つけるつもりはないのよ」
星が瞬き始めた空を見上げるリリンスは、嬉しそうだった。
アノルトがジメシュを破壊しなかったのは、必ずしも人道的な理由からとは言い切れないだろう。自らの評判を貶めたくなかったからかもしれぬし、単に思い至らなかった可能性もある。
それでもリリンスは、彼が最後の一線を踏み越えてはいないと信じたいらしい。
実の兄を慕う彼女の想いは健気で、ナタレの胸中は複雑だった。ただ彼女の同行が決まった以上、何があっても護る気持ちは固かった。
以前に王都の路地裏で、ナタレはリリンスに怪我を負わせてしまった。あの時の二の舞は決して踏むまいと、彼は肝に銘じる。
今度こそ命に換えても護る――たとえ、彼女の兄を手に掛けることになっても。
心臓に籠った熱は血潮に混じって全身を巡る。快感にも似たその熱さを鎮めるように、ナタレは夜の空気を思い切り吸い込んだ。
ジメシュでは、結局大した情報が得られなかった。
ただ、アノルトの一団が大量の物資を買い付けた事実が分かり、今後補給を最小限に抑えて先を急ぐのだろうと予想できた。
広大な国土に情報が行き渡るのには時間がかかる。事件が起きて一ヶ月以上経つが、オドナス全域にその知らせが届くまでにはさらなる時が必要だろう。アノルトはその間隙を突き、南部まで逃げおおせるつもりなのだ。
事実、王都から最も近いこのジメシュですら、第一王子と王兄の謀反を知らせる伝令が妨害されたために、彼らが街を発った半日後にようやく第二報が届いたのだという。
賊軍をみすみす素通りさせた失態を平謝りする執政官に対し、シャルナグは、ジメシュの関係者を処分する意図は国王にはないと明言した。
「おそらくアノルトは、王都からの伝令が南部に届く前に、自らの主張を広めて回る腹なのだろう」
野営地に戻ったシャルナグは、リリンスを前にそう言った。
「第三王女が王太子に選ばれたことが神罰を招き、王都は壊滅状態だ。国家を立て直せるのは正統な後継者である自分しかいない――とな」
「伝令より先に、自分から触れ回るつもりなのね……」
リリンスは大きく肯いた。感心しているふうでもある。
謀反が知れ渡ってから正統性を主張するのと、あらかじめ体制を批判しておいてから逆賊と呼ばれるのでは、まるで印象が違う。血統がよく実績もある第一王子に、国王が理不尽な汚名を着せたとすら感じられる。
もちろん王都を襲った災害については誇張して伝えるのだろう。
フェクダの統治は戦略的に寛大で保守的だという。オドナスの傘下に下った属国に対しそれぞれ利権を与え、多少風通しは悪くとも造反の出にくい均衡を作り上げた。よって南部で彼の人気はかなり高い。
どれだけの属国がアノルトとフェクダに同調するか――覚悟していた通り国を二分する戦いになるかもしれないと、リリンスはにわかに寒気を感じた。
南部知事府の置かれたマージ・オクの街は、砂漠の南端に連なるオク山脈の裾野に広がっていた。
二年前にアノルトが山脈を越え、南海へと続く土地を平らげて港町ドローブを落とすまで、ここはオドナス王国の南限であった。南の国境を守護する要所に、知事府は長く置かれていたのである。
海からの湿った風を遮るオクの山々は、その懐に豊かな水と森林を抱えている。マージ・オクは、昔から良質な木材の交易で発展してきた街だった。
さらにドローブまでオドナスの道が繋がってからは、南洋の品々がこの地を通って王都に運ばれ、さらなる潤いと賑わいをもたらしている。
街全体が緩やかな傾斜地にあるため、土地を切り下げたり盛り上げたりして均し、平らな地面を作っている。頑丈な石垣で補強された土台の上に建てられた建造物は、ほとんどが木造だった。オクの山々で育った杉や檜の材木を柱にして、壁も防腐処置を施した板壁が多い。屋根は朱色の瓦葺だ。広くはない土地を有効に利用するために、商店も家々も高く立ち並び、坂になった通りを行く人々の視線は立体的に交差する。
王都の街並みが明るく開放的な草原だとすると、この街は深い森だった。製材所が多く、木の臭いが街中に漂っていることもその印象を強くさせた。
山から切り出された丸太と加工された木材、そして南洋からの隊商と海の臭いのする交易品が入り混じるのがマージ・オクという街であった。
街の南端、つまり最も山側に位置する知事府もまた、重厚な木造建築である。
もともとはこの地の王城であったが、オドナスの属国となった際に明け渡された。三階建ての巨大な建物は小山のようで、見事に組まれた石垣の上に、街並みを睥睨するように佇んでいる。平屋の棟を回廊で繋いだオドナス王宮の造りとは対照的であった。
その城に、一ヶ月以上の長旅を終えた一団が辿り着こうとしていた。
知事府の分厚い扉は、帰還した主人を迎え入れるためにゆっくりと開いた。
玄関を入ると広い吹き抜けになっている。太い梁が剥き出しになった天井は高く、三階の窓から差し込む真昼の日光が、白い壁を照らした。壁にはオドナス国旗が掲げられている。床は壁とは対照的な黒い板張りで、歩くと柔らかく軋んだ。
五十人ほどが集まれる広間の先に、木製の階段がある。緩い曲線を描いて上階に繋がるその階段の前で、主人の帰りを待つ者たちがいた。
「お帰りなさいませ」
優雅に頭を下げる女と、その傍らに並んだ四人の少女――フェクダの妻と娘たちであった。
いくぶん優しい表情になって、フェクダは肯いた。
「心配をかけたな」
「いえ、あなたのお決めになったことに間違いはありませんわ」
夫人のカシマは品よく整った顔に慎ましい笑みを浮かべた。夫が王都で何をして今どういう立場なのか、すでに知らせを受けている、それでも不安な表情は見せなかった。
娘たちにも動揺の気配はない。とはいえ、事情を正確に理解しているのは長女と次女のみで、まだ幼い三女と四女はただ純粋に父親との再会を喜んでいるだけのようだった。
フェクダは四女の頭を撫でて、それから妻に向き直った。
「アノルト殿下をお連れした。しばらくこちらに滞在していただく」
「かしこまりました。お久しゅうございます、殿下。狭い所ですが、どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい」
礼儀正しく挨拶するカシマに、アノルトもまた目礼を返した。
王都の名門貴族出身の女である。知事夫人の地位こそあれ、中央から隔絶された辺境の地での暮らしに愚痴ひとつ零したことがなかった。フェクダが側室を持たなかったのは、そんな彼女に敬意を表したからかもしれない。
「あなた、こちらの方は?」
少し戸惑ったようなカシマの問いかけに、フェクダは自分の背後を見やった。そこに影のごとく付き従う男がいる。
フェクダが目配せすると、彼は外套を取った。
カシマと娘たちは大きく目を見開き――すぐに眉をひそめた。何かとんでもなく禍々しいものを目撃してしまったかのように。
「王都の宮廷楽師殿だ。私の客人――戦利品かな」
「初めまして。サリエルと申します」
サリエルはごく自然に微笑んで、丁寧にお辞儀をした。その顔から、彼女らは視線を外せない。王都を沸かす楽師の噂は知っていたが、その容貌はあまりに衝撃的だった。
銀色の瞳を象嵌した顔立ちは、奇跡のように美しい。まさに月神の手による彫像を思わせる。
しかし――その左半面は醜く潰れていた。
左目の下から顎にかけて、惨たらしく焼け爛れているのだ。
白く滑らかであったはずの皮膚は赤黒く変色し、広範囲に渡って松毬を貼りつけたように引き攣れている。表面はすでに乾燥しているものの、皮下組織まで壊死しているのが一目瞭然だ。
何か高温の物体を長時間押し当てるか、あるいは直接炎で炙るかしなければ、このような酷い火傷にはならないだろう。右半面が染みひとつない美しさを保っているだけに、その無残さが余計に際立つ。
カシマはすぐに我に返り、冷静を装っていらっしゃいませとお辞儀を返したが、娘たちは目が離せなかった。美と醜の入り混じった不吉な――だが圧倒的に魅惑的なその姿から。
フェクダはそれ以上何も言及しない。サリエルも気に留める様子はない。
ただアノルトだけが、苛立ちの籠った視線で二人を眺めていた。




