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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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決意の証

 王都を発って十三日後、討伐軍は最初の中継地ジメシュに到着した。

 移動する軍団の規模を考えると行程は順調である。補給せずに進むこともできたが、属国各軍との合流の都合があり、急ぎすぎは禁物だった。

 また、この都市にはアノルトの一団が立ち寄っている。情報収集も寄留の目的のひとつであった。


 遠征の際いつもそうするように、二万を超える人数を全員街に入れることは自粛して、シャルナグは郊外に野営を命じた。


「ようやく風呂に入れる!」


 フツは茶色い髪をバリバリと掻き毟りながら歓声を上げた。沐浴は交代で街の公衆浴場を利用してよいことになっている。オアシス都市近郊であるため小さな水場が多く、そこで身体を洗うこともできるが、彼は温かい湯が恋しかった。

 天幕の張り具合を確認していたナタレは、


「浮かれるなよ。遊びに来てるんじゃないんだからな」


 とたしなめながら荷物を片づけて、自分の寝場所を確保した。

 数人で一緒に寝泊まりするため、ぼやぼやしていると立ったまま夜明かしをする羽目になる。気の置けない同年代の仲間たちと長旅をするのは、彼にとって初めての経験だった。

 敗戦国から王都へ送られる人質ではなく、故郷の反乱を平定する旗印でもなく、あくまで一兵卒としての旅である。気は張っていたが、息苦しくはなかった。


 身軽になって外へ出ると、太陽はだいぶ傾いていた。当番の班が夕食の準備を始めており、野営地のあちこちから白い煙が立ち昇っている。物資の買い付けに街へ向かう班もいて、忙しない雰囲気だった。


「おうナタレ、探していたんだ」


 立ち並んだ天幕の間を通り抜けてきたのは、シャルナグだった。

 彼が大股で歩み寄って来ると、風呂だ風呂だと天幕から出てきたフツが慌てて隠れた。教師に出くわした悪童の気分なのだろう。


「街へ行くぞ。ジメシュ執政官から話を聞く」

「承知しました」


 ナタレは即答した。アノルトらに関する情報は可能な限り仕入れておきたかったし、サリエルの行方についても何か分かるかと思ったのだ。

 途端にフツが飛び出してくる。


「はい俺も! 俺もお供します」

「言っておくが、酒場には寄らんぞ」

「おまえは風呂に行けよ。将軍、すぐに駱駝を……」


 ナタレが走り出そうとした時――遠くで怒号が湧いた。

 彼は思わず辺りを見回す。上官が部下を叱りつける声ならば珍しくもないが、聞こえてきたのは大勢が一斉に上げた叫びだったのだ。

 続けてすぐに、


「逃がすな!」

「ほらそっちに行ったぞ! 捕まえろ!」


 という犬でも追い立てるような大声と慌ただしい足音が近づいて来て、天幕の間を行き交う他の兵士たちも怪訝そうに足を止めた。


「何や何や?」


 フツが思い切り背伸びをする。

 と同時に、周囲の兵士たちの隙間を縫って、いきなり小柄な人物が飛び出してきた。分厚い外套のフードを目深に被っているため顔は分からず、本人も前がよく見えていないようだった。

 その人物は正面からフツに衝突した。

 音と火花が出そうな勢いで胸元にその頭がぶつかり、ちょうど爪先立ちになっていたフツはなす術もなくすっ転んだ。


「こっ、こいつ……逃がさへんぞっ」


 重なって倒れた相手の腕を、フツはすかさず握り止めた。

 わずかに遅れて追っ手の兵士が四名ほど現れ、尻餅をついたフツごとその『逃走者』を押さえつけた。


「もう逃がさんぞ。ちょこまか走りやがって」

「いたたたた! ちょ、何すんねん!」


 彼らは力任せに『逃走者』を地面に押しつける。巻き添えを食ったフツが悲鳴を上げた。

 騒ぎを聞きつけて人が集まってくる中、シャルナグは天を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。ナタレが耳を塞ぐ。


「騒ぐな! 何事か!」


 将軍の野太い一喝で、喧騒はぴたりと収まった。

 兵士の一人が気まずげに立ち上がって頭を垂れる。残りの三人は、それでもまだ『逃亡者』とフツの身体を押さえ込んだままだ。


「申し訳ございません、閣下、お見苦しいところを……不審者が紛れ込んでおりまして」

「不審者?」

「この小僧め、いつの間にやら隊の最後尾について野営地に入り込み、天幕を物色していたのです。どこの浮浪児かは知りませんが、オドナス軍から盗みを働こうとは不届千万!」

「いや、このすばしっこさ、刺客の類かもしれません」


 別の兵士が『逃亡者』の腕をぎりぎりと捻り上げる。屈強な男たちに捕らわれたその小柄な姿はまるで子供のようで、とても暗殺者や間者には見えなかった。


「貴様どこから来た!? 子供とて容赦せんぞ!」

「痛い痛いっ……離して! も、腕折れるってば!」


 男の恫喝に重なったのは、甲高い悲鳴――遠征中の野営地には縁のない、それは若い女の声だった。


 最初に反応したのはナタレだった。彼はこめかみを引き攣らせ、無言で周囲の野次馬たちを押しのけた。

 俯せの状態で男たちにのし掛かられている『逃走者』の前にしゃがむと、そのフードを、ナタレは掴んだ。『逃走者』は顔を背けたが遅かった――布の下の素顔が、日の下に晒される。


「……嘘だろ……」


 ナタレが驚愕したのも無理はない。背後でシャルナグが目を剥いた。


 汚れた外套を頭からすっぽり被ったその人物の顔は、同じく砂と埃に汚れてはいたが、紛れもなくオドナス王国王太子のものであった。


「……とりあえず、痛いんだけど」


 リリンスは苦しげに呻く。

 なぜ彼女がここにいるのか、一人でついて来たのか、国王の指示なのか、どうやって紛れ込んだのか――様々な疑問が頭を渦巻いて、ナタレは咄嗟に言葉が出て来なかった。


 兵士たちはまだ気づかない。王宮の衛兵はともかく、一介の下級兵士が王女と接する機会など、これまで皆無に等しかった。


「女か! 何者だ?」

「おまえたちが押さえつけているのは、オドナスの次期国王だ」


 シャルナグが心底疲れ切った口調で言った。髯に覆われた顔が、笑いとも怒りともつかない形に歪んでいる。


「首から上が惜しければ、解放して差し上げろ」


 冗談などまず口にしない将軍の忠告に、兵士たちは呆気に取られ、それから一斉に飛びのいた。残されたのは尻餅をついたままのフツと、首筋を撫でながら身を起こすリリンスのみだ。


「お姫様? ほんまにお姫様ですか? 何でまたそんなかっこ……」


 呆然とするフツに、リリンスは肩を竦めた。


「ああ、死ぬかと思ったわ」


 そう言って立ち上がり、身体の砂を払う。フードが半分ほどずれ落ちた外套は汚れ、その下に着ているのはどう見ても粗末な男物の衣服だった。袖口と裾の長さが余って、何重にも折り返されている。

 取り押さえた兵士たちだけでなく、周囲の野次馬もみな一歩下がって、その場にひざまずいた。靴底が擦れ剣が地面に当たる音が、波のように広がっていった。


「も、も、申し訳ございません! 王太子殿下! かような場所にいらっしゃるとは夢にも思わず……!」

「えー、みんな頭を上げて下さい。苦しゅうないわよ」


 苦笑いを浮かべて手を上げるリリンスの前に、険しい表情のナタレが立ち塞がった。引き結んだ唇がふるふると震えている。


「ちょっと来なさい!」


 彼はリリンスの手首を握って、有無を言わせずその場から連れ出した。膝をついた兵士たちが思わず道を開けたほど、その全身から殺気が迸っていた。





「どういうつもりなんですかあなたは!?」


 野営地の中心にあるシャルナグの天幕にリリンスを連れ込んで、開口一番、ナタレはそう怒鳴った。


「王太子が単身で王軍に忍び込むなど、何考えてるんです! ご自分の立場が分かっていないんですか! 無茶にも程がある!」


 手首を握ったまま怒りを露わにするナタレから、リリンスは顔を背けた。身を竦ませてはいるが、恐れるふうはない。


「そんな大声出さないで。分かってるわよ」

「いいえ、分かってません。どうせまた王宮を抜け出したんでしょう。どこまで身勝手なんですか!? 周りの人間がどれだけ……」

「今回はちゃんと手を打ってきた。侍女たちの責任は回避できると思う」

「そういう問題じゃない。あなたの身に何かあったらどうするんですか!?」


 軍が出発してすぐに後を追いかけたとして、実に十三日間、彼女は一人でついて来ていたのだ。

 王都を出たことすらない王女が、駱駝に乗って、過酷な砂の大地を通って――不審者に間違われたとはいえ、無事に保護されたのが奇跡だとナタレには思えた。

 当初の驚きは過ぎて、とにかく何もなくてよかったという安堵は生まれたものの、軽率すぎる行動への憤りが湧き上がってくる。

 二人を追ってシャルナグが入って来た。将軍の前でも、ナタレはその感情を抑えようとはしなかった。


「リリンス殿下、王太子の責任をもっと自覚して下さい。あなたはこんな行動が許される立場ではありません!」


 厳しく言い放ったナタレの手を、リリンスは振り払った。悪戯を叱られた子供のそれではない、ひどく冷静な表情を浮かべている。


「自分の立場は理解してる。だから私は、ナタレが故郷に帰った時だって、我慢してじっと待ってた。あなたがお兄さんを殺すかもしれない、もしかしたらあなた自身が死ぬかもしれないって毎日毎日心配しながらね」


 リリンスの口調は穏やかだった。それがかえって隠された強い意志を感じさせる。


「もう二度とあんな思いはしたくない。しかも今回は私の家族の問題よ。私も当事者の一人なの。王宮の奥で守られて、兄様が討たれた知らせを待つだけなんて絶対に嫌!」


 ナタレの返答を待たず、彼女はシャルナグに向き直った。


「お願いします、私も同行させて下さい。皆の迷惑にはなりません。賊軍の討伐には、お飾りでも王太子が加わっていた方がいいでしょう?」

「国王陛下は、あなたも二人の王子殿下も、この遠征には参加させなかった。その意味がお分かりか?」


 噛んで含めるようなゆっくりした口調でシャルナグにそう言われ、リリンスは俯く。


「お父様は、血を分けた兄妹同士を争わせたくないのだと思います。ご自分のように」

「なら、そのご意志をないがしろにできぬことも分かるな?」

「分かります――が、お父様は虫がよすぎるわ!」


 眉を吊り上げたリリンスの気迫は、一瞬、シャルナグをたじろがせた。


「代わりに将軍の手を汚させて、娘には何の罪も被せないなんて、過保護もいいところよ。私は上に立つ者として、一人で穢れから逃れる気はありません。だからお願い!」

「危険すぎます。我々は戦争をしに行くのですぞ」

「戦場には近づきません。いつでも離脱できる場所で大人しくしていると約束します」

「いや、しかし! 旅は過酷だ。男の我々には姫君の面倒など見られません」

「身の回りのことは自分でできます。体力はあるし、暑いのは平気だし、生理痛も軽い方なの。脱脂綿もたくさん持ってきた」


 リリンスは際どいことを言い、シャルナグを黙らせた。それからおもむろに、フードを取って外套を脱ぐ。


「お風呂に入れないのも、まあ、我慢できるわ」


 ナタレとシャルナグは――小さく口を開けた。

 王女の可憐な美貌を縁取る長い黒髪は、そこになかったのだ。ひどく短く、まるで男のように、耳の後ろあたりで切り落とされてしまっている。


「殿下! そのか、髪……!」

「切った。旅の間、邪魔だから」


 むしろ清々したように、リリンスは微笑んだ。

 艶やかな長い髪はオドナス女性の美の基準のひとつである。短髪の女など、聖職者のユージュを除いてまず思い浮かばない。リリンスもこれまでその美しい髪を大事に手入れしてきたはずだ。

 それなのに――長さがバラバラの荒っぽい切り方は、自分でやったものだろう。日差しに晒されて、毛先が麻糸のように傷んでいる。露わになった細いうなじが真っ赤に日焼けして、痛々しい。

  

 単なる我儘や思いつきで彼女がここに来たわけではないと、不格好な短い髪が告げている。

 リリンスはナタレを見る。黒い瞳に後悔はなかった。線の細い容貌には不似合な、鋼のように強い光が彼を射ている。


 睨み合った姿勢で固まった二人に、シャルナグが声をかけようとした時、天幕の入口が開いた。

 飛び込んできたのは実に意外な人物だった――王女の侍女、ティンニーではないか。


「姫様! やっとお会いできました!」


 彼女は泣き出す寸前のくしゃくしゃの表情で、リリンスに駆け寄ってくる。その背後ではフツが困り切った表情で立っている。


「ええと……その侍女さん、今到着したところです。護衛の兵士と一緒に、王都から殿下を追っかけてきたそうです」

「あなたどうして……!?」

「こちらの台詞ですわ! 黙って出て行かれるなんて! 姫様が姫様でなければ、ぶっ飛ばしているところです! キーエさんもすっごく怒ってるんですからね! 足が回復してれば一緒に来て……て、何ですかこの酷い頭は!?」


 ティンニーは両手でリリンスの髪を掴んで喚く。リリンスは自室で切り落とした髪を王宮の外で捨てたので、侍女たちは彼女の断髪に気づかなかったのだ。

 響き渡る甲高い声に、シャルナグは渋い顔で眉間を掻いた。少女特有の高音にはあまり慣れていなかった。


「女官殿、殿下を王都へ連れて帰ってくれ。護衛が足りなければ兵を貸す」

「いいえ、将軍様! 私は姫様のお世話をするために追いかけて参ったのです」


 ティンニーは涙で潤んだ瞳でキッと将軍を見据え、またもや彼をたじろがせた。


「このようなむさくるしい殿方だらけの集団に、姫様を一人で置いておくわけにはいきませんもの。旅の間お世話をさせて頂きます!」

「ティンニー、でも……」

「キーエさんからそのように申しつけられました。姫様は頑固で説得は無理だろうから、お気の済むまで付き合って差し上げろと」


 物分かりの良すぎる筆頭侍女の配慮に、リリンスは唇を噛みしめた。怪我で休んでさえいなければ、彼女はキーエにだけは打ち明けていただろう。


「将軍、改めてお願いいたします。同行をお許し下さい」

「姫様のお世話はお任せ下さい! 何のお気遣いもいりませんわ」


 若い娘二人に詰め寄られて、シャルナグは殺人的なほど凶悪に顔を歪め、喉の奥から唸り声を漏らした。大型草食動物の断末魔に似ている。


「わ、分かった! リリンス殿下の身柄はお預かりする。王都へはその旨使いを出そう」


 リリンスとティンニーは同時に飛び上がり、ナタレは大きく溜息をついた。彼の常識では考えられない事態だった。

 しかも、


「殿下の御身はナタレ、おまえがお守りするように」


 と命じられ、頭を抱えてしまった。

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