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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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扉の向こう

 黄みを帯びた薄い皮膚が褐色に日焼けしていること以外は、ユージュの姿は王都を出る前と変わらなかった。傷んだ髪も綺麗に切り揃えられている。


「無事でよかった」


 セファイドが安堵したように言うと、ユージュは無表情に頭を下げた。


「すぐにご挨拶に伺えず、申し訳ありませんでした」

「いや……身体の方は?」

「回復いたしました」


 彼女が四名の護衛とともに王都に帰着したのは一昨日の午後だったが、発熱と脱水症状のためすぐに神殿に運び込まれたのだ。気丈に振る舞ってはいても、肉体は衰弱していたのだろう。

 セファイドが今日になって神殿を訪れたのは、彼女の見舞いのためだけではなかった。


「おまえなら何か知っているな。サリエルはどうやって兄を言いくるめたんだ?」


 彼の声は低かったが、高い天井によく響いた。

 中央神殿の礼拝堂は昼間でも涼しい。何本もの荘重な円柱に支えられた空間に、石の建造物独特の冷気が満ちている。それを神の気配と感じる者もいるだろうが、今この場にいる二人はそういう類の人間ではなかった。

 高い窓から紗のように降り注ぐ陽光の下、ユージュは神官服の胸元に手をやった。いつも左手の中指に嵌っていた指輪はなく、日焼け跡が白く残されている。


「おそらく、ここの秘密を教えたものと思われます。あるいは、我々も知らない別の遺跡の存在を示唆して、興味を逸らしたのかもしれません」


 セファイドは眉間に皺を刻んで、苦々しく顔をしかめた。


「兄がおまえをさらったのは、やはりそれが目的か――で、なぜサリエルがそんなことを知っている?」


 ユージュは口をつぐんで俯いた。率直で物怖じしない神官長が、珍しく躊躇している。葛藤を映してか、荒れた頬がわずかに震えた。


「ユージュ」


 セファイドは一歩彼女に近づいて、手を伸ばした。髪に触れる――優しく。


「言いなさい。あれは、いったい何者だ?」

「墓守……もしくは管理者」

「管理者?」

「あなたにとっては災いかもしれません。彼がその気になれば、この国は何もかも失う」


 ユージュはキラリと光るまなこで見返した。さしものセファイドが一瞬気を飲まれるほど、それは鋭利な輝きだった。


「そのお覚悟があるのならば、どうぞ」


 彼女はセファイドの脇を擦り抜けて堂の出口に向かった。染みひとつない神官服の裾が清廉に閃く。逡巡は断ち切られたのだ。

 その潔さを清々しく思いながら、セファイドは彼女の後に続いた。





 神殿の地下には、頑丈な柱で支えられたひと続きの空間が広がっている。その空間のほとんどを、積み重ねられた四角い箱が占めていた。


「いつ来ても妙な所だな」


 セファイドは四角い箱の間の通路を進みながら呟く。まるで深い渓谷の道のようだった。


 この倉庫のような地下室が発見されたのは、ユージュたちの一族が中央神殿に入ってすぐのことだった。彼らはまるで最初から心得ていたかのごとく、神殿の床を調べ、そこに辿り着いた。

 数えきれない四角い箱は貨物で、部屋が見つかった時にはすでにその場に収められていた。

 人の背丈以上に積み上げられたそれらの箱は、木とも金属ともつかない素材で作られている。いつからここに保管されていたか定かではないが、箱そのものに劣化は見られなかった。恐ろしく気密性が高くて、内部は真空に近い状態に保たれていたらしい。


 二十余年をかけて、先代神官長の指揮のもと、神官たちは貨物の中身――オドナスの民には使用方法がまったく分からない様々な機材を使える状態にした。

 遠い土地からやって来た流浪の民は、この地で掘り起こしたものの使い方を熟知していて、劣化したそれらを復旧したのである。屋上に設置された天体望遠鏡もそのひとつだった。


 これらすべてが、旧時代の遺産なのだという。


 地下にも拘わらず光量は十分にあるので、さほど閉塞感はなかった。天井全体が淡く発光する仕掛けもまた、神官たちが蘇らせた技術である。

 ユージュは迷うことなくセファイドを先導する。先代神官長から知識のすべてを引き継いだ女の背中は、責任の重さに反してひどく華奢だった。


 広い地下室の最奥には、巨大な黒い壁が立ちはだかっていた。その前で数人の神官が待っている。最年長のゼンや神官長副官であるカイの姿もあって、ここに国王を案内したのがユージュの独断ではないと分かった。

 ユージュは壁を背に振り返った。


「これは扉です」

「まだ先があるということか」

「ええ、この先に、遺跡の中枢が眠っているはずです。私たちはこの扉の開け方を知りません。知っているのは――」


 サリエルだけです、と彼女は言った。

 セファイドは扉だとされる壁を眺める。金属製らしいその表面は黒く滑らかで、取っ手や鍵穴は確認できない。


「おまえたちを受け入れた時に、俺はシズヤからここは旧い文明の跡だと聞いた。放棄された技術を復元してオドナスの役に立てるから、自分たちの身の安全を保障してくれと。だがまだ解放できていない領域があったとは……」

「それでも十分だったでしょう? 手にした遺産で、この国は強く豊かになりました――地上のどこよりも。もちろん半分は陛下の才覚です。我々の技術の使用に際し、節度を持って頂けたことにも感謝しております」


 ユージュの言葉はおためごかしではなさそうだった。実際、ここで蘇った技術を軍事面のみに注ぎ込めば、オドナスの国土は現在の倍にはなっていただろう。西方アートディアスに攻め込むことすら可能だったかもしれない。

 ともすれば際限のなくなる野心をセファイドが抑えられたのは、アルサイ湖を基盤にした王都の限界を知っていたからだ。国が肥大すれば今の王都の機能では統治しきれず、いずれ分裂すると悟っていた。


 複雑な表情をする彼を前に、ユージュは扉の表面を手でなぞった。 


「とはいえ、このまま放置できない事情になりました。今回の地震の原因は、おそらくこの向こうにあります」

「つまり、神罰の原因だな」


 セファイドに驚く様子はなかった。最初にそう報告したカイは、思わず俯く。

 ユージュが拉致される直前、彼は湖底を観測した様々な数値に異常を見つけていた。湖に急激な異変が表れた場合、それを神罰として国王に伝える約束だった。

 ユージュは小さく溜息をつく。


「地震は未だに収束しません。外側から中枢を操れないか我々も手を尽くしますが、それが不可能な場合はこの扉を開けなければ……」

「中枢が動き出せば、どうなる?」

「今は分かりません。遺跡の上にあるアルサイ湖がどうなるかも」


 他の神官たちは緊張の面持ちで唾を飲み込んた。彼らにとってもこの場所を失うことは生きる術を奪われるのと同じなのだ。


「そしてこれを開けるにはサリエルが必要……」


 セファイドも扉に触れた。ひんやりとした硬質な感触は、楽師の手を思い出させる。


「その気になれば、彼はいつでも帰って来られます。あちらに留まっているのは彼の意志なのでしょう」


 淡い悲しみの気配を漂わせるユージュに向き直って、彼はもう一度問いを繰り返した。


「あの男は何者だ?」


 そして、ユージュはそれに答えた。





 王都の南の地区、庶民の町にキルケの住まいはあった。

 街を南北に貫く大通り沿いにこそ大店が並んでいるが、少し奥に入れば安い商店や大衆食堂が多い。そんな雑然とした繁華街の一角で、キルケは一人で暮らしていた。


 もとは行商人向けの簡易宿泊所だったという一軒家を改築したため、周囲の他の家々よりは多少間口が広く、白い漆喰壁もまだ新しい。だが、王国一の歌姫の自宅とは思えぬ、質素な住まいである。

 世話をさせてほしいという贔屓筋ひいきすじからの申し出をすべて断って、キルケは使用人も置かない気楽な生活を選んでいた。


 日中、隊商宿を巡って歌を披露したキルケは、さすがに少し疲れていた。この程度で傷むようなヤワな喉ではないが、あまり人とは話したくない気分だった。

 最後の宿で夕食を摂り、そこを出た頃にはすっかり日が暮れていた。


 キルケの住んでいる辺りは比較的新しい家屋が多かったので、地震の影響はさほど受けずに済んだ。

 部分的に壊れた家の修理がほぼ終わって、住人たちが戻ってきている。しかし、目と鼻の先には甚大な被害を蒙った地域もあって、街灯りも人通りも寂しかった。

 憲兵の巡回は増えているものの、やはり治安が悪化している。空き巣や追い剥ぎが増えていると聞き、キルケは足早に帰路を辿った。


 明るい大通りから路地へ入り、ようやく自宅が見えてきた時――しっかりと閉めた玄関の木戸の前に黒い人影を認めて、彼女はギクリとした。

 空き巣が留守を窺っているのか、と警戒して物陰に身を寄せたが、向こうに気づかれた。


「キルケ殿、遅かったな」


 安堵の声に聞き覚えがあり、キルケは胸を撫で下ろす。近づいて行くと、明るい月明りに照らされた姿はやはりシャルナグだった。


「まあ、どうなさったんですの?」

「あなたをお待ちしていた。このような時勢に、夜の独り歩きは危険だぞ」

「警備を増やして下ったそうですね。おかげで安心して眠れています」


 キルケはにっこりした。地震以降、彼女の自宅付近は他の地区に増して憲兵の巡回が密になっている。真面目な将軍が職務に私情を挟むのは非常に珍しい。

 シャルナグは気まずげに太い首筋を掻いた。


「王都が落ち着くまで私の屋敷に来て頂ければ、何の心配もせすにすむのだが」

「それはご遠慮いたしますと申し上げましたわ。ご多忙な将軍にご迷惑はおかけできませんもの」

「キルケ殿も遊んでいるわけではないだろう。毎日あちこちの舞台に上がって、寄付を募っていると聞いたよ」


 今度はキルケが嘆息する番だった。歌姫はこのところ寄付金集めに忙しい。彼女自身も報酬を受け取ってはいなかった。


「私にできるのはこの程度ですから……あ、立ち話でごめんなさい。中でお茶でも」


 屈託なく誘うキルケに、シャルナグは困惑の表情を浮かべた。何の警戒心もないように見えるその態度は、かえって彼を牽制しているふうでもあった。


「いや、時間も遅いからここでいい。用はすぐ済む」


 もとより長居をするつもりはなかったらしく、彼は潔く答えた。

 首を傾げるキルケを見詰め、


「明後日、南部へ向けて出立する。第一王子と王兄を討伐するためだ。私が指揮を取ることになった」


 と、続ける。

 キルケは切れ長の涼やかな目を一瞬見開いて、それから足元に視線を落とした。


「そうですか……大きないくさになるのですね」


 やるせなさげな口調を隠そうともしなかった。戦争や動乱に幾度も運命を乱されてきた女の、それは当然の反応だった。この豊穣の都すら、争いに無縁ではないのだ。

 それでもまた目を上げて、精一杯の笑顔を作る。


「ご武運をお祈り申し上げます、シャルナグ様」

「私はこの戦争を最後に、将軍職を辞するつもりだ」


 静かに言ったシャルナグは、腰に据えた長剣をゆっくりと撫でた。

 ほぼ円形に満ちた月が、低い位置で金色に光っている。水のような明かりの中、彼の佇まいは静かな諦観に満ちていた。


「負ければ当然戻っては来られぬだろうし、勝っても王族を……友人の息子であり剣術の弟子でもある若者を、この手にかけることになる。勅命とはいえ、そのような大罪を犯した人間が王軍の頂点には留まれない」

「シャルナグ様の罪ではないでしょう。国王陛下のために、王族殺しの烙印を引き受けるおつもりなの?」

「それが私の仕事だ」


 国王が振り下ろした剣の先から噴き出す返り血を、彼に代わってその身に浴びる――シャルナグに異存はないようだった。


「私はただの男になってしまうが、残りの人生は、キルケ殿――あなたと過ごしたいと思う。無事に王都へ戻ることができたら、もう一度だけ結婚を申し込む」


 キルケは薄い外套の合わせ目を握り締めた。ふいに冷気を覚えたように。


「何度もお断りしたはずです」

「これで最後だ――返事は帰ってから聞くよ」


 シャルナグは穏やかに笑った。


「やはり私はキルケ殿を愛している。あなたを他の誰かに奪われると思うと、本当は嫉妬でおかしくなりそうなんだ。もし駄目なら今度こそきっぱりと諦める。ただ少しでも見込みはあると……あなたが待っていてくれると期待を持たせてくれ」

「そうすれば……生きて帰って来て下さいますか?」


 歌姫の声が柔らかくなった。

 どんなに辛い目にあっても、何をなくしても、生きていなければ意味がない――幼い頃から他人に踏みにじられ続けた彼女の、たったひとつの信念だった。

 意地や矜持のために命を投げ出す男たちの行動原理を、彼女は心底馬鹿げていると思う。


 歌姫の壮絶な半生を知るシャルナグは、彼女の生への執着もよく理解している。だから、自分への特別な感情がそう言わせているとは限らないことも分かっていた。

 彼が大きく肯くのを見て、


「分かりました。どうか、お命をお大事に」


 キルケは微笑んだ。舞台で見せる妖艶さもなく、平素の快活さも消え失せ、ただ労わりに満ちた笑みだった。歌姫の素顔なのかもしれない。

 長い旅の前だというのに、まるで故郷に辿り着いたような安らぎが、シャルナグの厳つい顔を緩ませた。


 たおやかな腕が伸びる。キルケは彼に近寄って、自分よりも高い位置にある頬に触れた。荒削りの石像を思わせる武骨な容貌の中で、唯一優しい目が戸惑いに揺れている。

 彼女は背伸びをして、彼の唇にそっと口づけた。


「キ、キルケ殿?」

「これはお守りです」


 みるみる真っ赤になる将軍へ、キルケは囁いた。艶はあるが、誘惑するような響きはなく、ひどく真摯な様子だった。


「返事ができないままお別れなんて、絶対に嫌ですからね。お申し込み、本当にありがとうございます」


 シャルナグはしばらく呆然と突っ立っていたが、我に返り、何度も咳払いをした。


「う、うむ、ではこれで、な。キルケ殿も身辺に十分気をつけられよ」

「はい、行ってらっしゃいませ」


 胸の中に湧いた温かいものを、彼女は心地よく感じていた。それは、自分に対して純朴な愛情を注ぎ続ける男への、素直な感謝の気持ちだった。

 強張った身体を無理やり翻し、不自然な足取りで大通りの方へ去ってゆく広い背中を、キルケは自然な笑みとともに見送る。これが今生の別れにならぬよう、心から祈った。

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