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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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二つの密談

 部屋に入って来た二人の兄を、リリンスは微笑んで迎えた。

 円卓を囲んだ椅子を勧め、背後に控えた侍女に目配せする。ティンニーをはじめとする王女付きの侍女たちは、果実酒の瓶と硝子ガラスの杯を運んで来た。

 卓の中央に据えられた燭台を中心に、三つの杯が並べられる。


「お忙しいところをお呼び立てして申し訳ありません、セラム兄様、サーク兄様」

「おまえこそ多忙なんだろ? 避難民の救済にずいぶん力を尽くしていると聞いたよ」


 セラムは杯を取りながら言った。中では林檎酒が泡立っている。北方から輸入された高級品である。


「民からの評判も上々とか――さすがだな」

「人気取りと思われても、私は別に気にしません。兄様たちだって――セラム兄様は瓦礫撤去から道路の修復まで王軍の技術部を指揮なさいましたし、サーク兄様は貴族や商人に交渉して費用を捻出させたと伺っております。名声のための行為ではないでしょう?」


 妹に指摘されて、よく似た顔立ちに力の抜けたような苦笑が浮かぶ。


 風紋殿にある談話室のひとつでの面会だった。

 王女の私室ではなくこの部屋を選んだのは、深夜であることに配慮してだ。平素ならば就寝している時刻だが、日中多忙な彼らが集まれるのはこのような時間帯しかなかった。


 リリンスは落ち着いた様子で林檎酒を喉に流し込んだ。年若い彼女に飲酒の習慣はないが、飲めば飲める。両親どちらに似ても下戸であるはずはなかった。

 サークは気まずげに顔をしかめた。


「いや、皮肉を言ってすまない、リリンス。俺たちも……混乱している。何か動いていないとおかしくなりそうで」

「正直、兄上の取った行動がまだ信じられない」


 セラムは腕組みをして天井を仰ぎ、サークは円卓に肘をついて項垂れた。

 慕っていた長兄の裏切りを、二人ともまだ受け止めきれていないのだ。その動揺を抑えるために精力的に活動していたのは、リリンスと同じだった。


「子供の頃から兄上は優秀で、次期国王として相応しいと思ってた。当然、王太子に指名されるものと信じてたんだが」

「ええ……私もそう」


 リリンスが沈んだ声で相槌を打ったので、サークは慌てて首を振った。


「おまえが選ばれたことに異議を唱えるつもりはないよ。だが兄上が承服し兼ねた気持ちは、分かるんだ」

「兄上がリリンスを妃にすると、父上も認めているのかと思ってたんだがなあ」


 セラムの呟きに、今度はリリンスが息を飲む。ほの明るい蝋燭の灯りで、白い頬が赤らんでいるのが分かる。兄たちは、そんな妹を優しい眼差しで見た。


「アノルト兄上は昔からリリンスのことが好きだったよ。口には出さなかったけど」


 どんな時でも末妹をかばい、頑ななまでに守り続けてきた長兄を、彼らは幼い頃から近くで見てきた。秘めたその気持ちも、自然と伝わっていたのだろう。


「そうなれば……平和裏に世代交代ができたのでしょうね」


 リリンスは口をつぐんで俯いた。だが、兄が声をかける前に勢いよく顔を上げ、


「でもそれは実現しませんでした。私が伺いたいのは兄様方のご意志です」


 と、二人の顔を順番に見た。


「アノルト兄様は、今やオドナスと国王陛下に仇なす逆賊です。数日中にも追撃の一個師団が南部へ向けて出立するでしょう。多くの属国から援軍も送られてくるはず――一方、兄様の側でも南方の国々を中心に参戦を呼びかけているそうです。国内を二分する大きないくさになるかもしれません」


 瞳の大きな宝石のような両目に、強い光が宿っていた。可憐な容貌には似つかわしくない、冷え冷えとした光である。セラムもサークも、一瞬気を飲まれて沈黙した。


「そこで訊いておきたいのです――セラム兄様、サーク兄様、お二方は今後、私の味方をして下さいますね?」

「リリンス……」

「私は兄様方を頼りにしております。すべてにおいて経験不足の私が、兄様方の支えなしに国王職を務められるとは思っていません。力を貸して頂きたいのです」


 揺らめく蝋燭の炎が、リリンスの顔に深い陰影をつける。そこにはすでに少女の甘さはなく、匂い立つような艶を感じて、二人の兄は背筋に冷たい震えを得た。

 そんな相手の反応が分かっているのか、彼女の声は心なしか低かった。ゆっくりと聞く者の心に踏み込んでゆく話し方は、父親と同じだった。


「お父様は長兄を弑して王位に就きましたが、次兄に裏切られました。私はその轍を踏むことは避けたいのです。兄妹間の争いは、これで最後にしたい。ですからアノルト兄様には同調せぬよう、また今後も肉親の和を乱さぬよう、お願いいたします」

「おまえに力を貸すのはやぶさかではないが、リリンス、おまえは女だ。兄を頼るよりも、まずは有能な夫を選ぶべきじゃないか? こう言っては何だが、女としての幸せを捨てるには早すぎるぞ」


 セラムの言葉にリリンスは思わず微笑む。女王の片腕として自らが出しゃばることなく、王配にその地位を譲ろうというのだ。邪推なしに受け取れば、妹の幸せを願っている兄の姿そのものだ。


「ありがとうございます。でも、私は夫を持つつもりはないの」

「何?」

「女王の配偶者選びとなると、いらぬいさかいのもとになるでしょ? 妙な力関係ができてしまうと後々面倒だわ。私は一生独り身を通すと決めました」 


 実に軽やかな宣言――それだけに妹の固い決心が伝わってきて、セラムもサークも言葉に詰まった。まだそこまで考えなくてよいのでは、とたしなめたかったが、彼女の隙のない物腰がそれを拒んでいた。

 泣いてばかりいた少女の、これは正体なのか、もうひとつの顔なのか――彼らは完全に飲まれていた。


「俺はもともと、次男として長兄を支えるよう教育されてきた。その対象が代わっても、補佐に徹することに異存はない」

「俺もだよ。まあ、おまえが王太子に指名された時は不安を感じたが……天真爛漫なだけのお姫様育ちだと思っていたからな。でも、しばらく会わないうちにそうでもなくなったようだね」


 そう肯定の答えを出すことは、決して屈辱的ではなかった。彼女の知恵となり力となる未来は、むしろ心地よかったのだ。


「では、ここで誓って下さい。私たち三人、力を合わせて次代のオドナスを治めてゆくと」


 侍女たちがさりげなく近づいて、だいぶ中身の減った硝子ガラスの杯へ新しい林檎酒を注ぎ足した。透き通った金色の酒は華やかに泡を立てている。


「誓おう」

「オドナスの次期国王に」


 兄妹は杯を掲げて、一息に飲み干した。

 リリンスは最後まで穏やかな笑みを崩さなかった。





 呼び出された談話室の前で、二人の王子たちと擦れ違った。

 ナタレが道を譲り頭を下げると、彼らは足を止めた。灯台の炎があるとはいえ、夜の廊下は暗い。ナタレの顔をまじまじと眺めているようだった。

 ナタレが戸惑っていると、


「こいつだな」

「ああ、こいつだ」


 と、二人で肯き合い、


「半分はおまえのせいだからな。腹括って責任取れよ」


 そうやけに棘のある声で言い放って、去って行った。


 ナタレは呆気に取られて彼らの後ろ姿を見送っていたが、気を取り直して談話室へと入った。


 侍女に案内されて部屋の奥へ進むと、円卓の向こうに座ったリリンスが彼を迎えた。

 卓の中央に置かれた燭台で、短くなった蝋燭が燃えている。橙色の炎が、彼女の美貌を柔らかく照らしていた。

 リリンスは淡い笑顔をナタレに向けた。同じ表情をナタレは最近目にした覚えがあった――避難民の宿営地で演奏していたサリエルをセファイドの元へ案内した時だ。セファイドはサリエルを見て、疲労と安堵の混じった微笑を浮かべたのだ。


「来てくれてありがとう、ナタレ」


 静かに礼を述べる彼女に、用は何かと急かすような言葉はかけられなかった。少しでも緊張の解れる時間なら、できるだけ延ばしてやりたかった。


「どうぞ、かけて」

「いいえ、ここで」


 ナタレはリリンスの傍らに、圧迫感を与えない程度の距離を保って立った。


「南部への派兵に参加すると聞きました。本当?」


 彼女は椅子ごとナタレに向き直って訊く。上目遣いの眼差しが黒曜石のように煌めいて、彼を映した。


「はい。向こうでロタセイからの軍と合流する予定です。俺だけではなく、学舎にいる他の者たちも従軍するでしょう」

「派兵要請に応じて、国中から軍隊が南へ向かっているらしいわね」

「国王と、国王の選んだ後継者に忠誠を示すためです」


 何のためらいもなく、ナタレは言った。


「俺たち属国の王族がここに集められたのは、まさにこの時のためだったのだと分かりました。俺はオドナスとロタセイ双方の未来のために、自分の責任を果たします」


 リリンスは彼を眺め、悲しげに長い睫毛を振るわせた。


「兄様を討つことは避けられないのね……私、兄様の本当の気持ちをとうとう聞けなかった」

「アノルト殿下に会いたいですか?」

「ごめんなさい、くだらないことを。私たち家族の問題に、命を懸けてくれる人たちがいるのに」

「本当の気持ちをおっしゃって下さい、リリンス様、俺にだけは」


 ナタレは優しく言った。自分にだけは、彼女が本心を吐露するはずだという自信があった。二年間積み上げてきた信頼関係がそうさせている。

 リリンスは立ち上がって、彼と正面から向かい合った。細い眉根が苦しそうに寄せられている。


「……私、兄様に会いたい。会って、話がしたいわ」


 吐息のような声だった。ナタレは安堵して、微笑んだ。


「分かりました。殿下の身柄については俺の口出しできる範疇ではありませんが、あなたに代わって必ず話をしてきます。お約束いたします」


 ――反逆者として討たれる前に。


「ですからリリンス様は、ご自分の未来だけを考えて下さい。この混乱が収拾した後、国王陛下を支えて砂漠に平和を――今度こそ真の平和をもたらして下さい」


 ナタレはリリンスを見詰めた。リリンスも真っ直ぐに見返してきた。

 窓からかすかな夜風が入ってきて蝋燭の炎を揺らし、影が動く。


「ナタレ、私はあなたが好きです」


 リリンスはそう告げた。


「ずっと前から……あの肉桂の樹の上で初めて会った時から、好きだったの。あなたは故郷に帰らなくてはいけない人だと分かっているけど、言うわ。これからも私の傍にいてほしい」


 初めて聞いた告白だったが、ナタレは何も驚かなかった。彼の中で、その物語はすでに完結している。しかし結末が分かっていても、読み返す度に彼の心は甘く震えるのだった。

 その素直な微動を気取られぬよう、彼は一瞬目を閉じて息を詰め、大きく吐き出した。


「……国王陛下が、中央の廷臣として王都に残る道を示して下さいました。戻ってきたら、正式にお返事を申し上げます」

「え……」

「お傍にいますよ、ずっと」

「ナタレ」


 頬を紅潮させ、笑顔になったリリンスに、


「オドナス王家の臣僕として、リリンス殿下を敬愛し、一生お仕えする所存です」


 と、はっきり言った。真摯で礼儀正しいその口調は、主君に礼を尽くす忠臣そのものだった。

 リリンスの前に膝をつき、頭を垂れる。

 壁を作ったのではない、彼は立ち位置を定めたのだ。こう答えることでしか、女王となるべき女の傍にはいられないと己を縛ったのである。


 リリンスは失望の様子を隠そうともしなかった。肌はみるみる血の色を失い、筋肉が強張る。呼吸どころか鼓動まで止まったようなその立ち姿は、冷たい硝子ガラスの像を思わせた。

 いたたまれなくて、ナタレは顔を伏せた。


「ありがとう……そう言ってもらえて心強いわ」


 彼女が反応するまでの時間は、ナタレにとってとてつもなく長かった。

 顔を上げた彼の前で、リリンスは朗らかに微笑んでいた。いつもと同じ、真昼の陽光に似た笑みである。


「あなたが王都に残ってくれて嬉しい。これからも頼りにしています」

「誠心誠意、お力添えをいたします、殿下」


 ナタレもまた、いつもの生真面目さで答える。今の彼が口にできる精一杯の言葉だった。


「疲れているのに遅くまでごめんなさい。もう下がって、休んで下さい」


 リリンスは椅子に座り直して、円卓に肘をついた。気まずさなど微塵もない、自然な素振りだった。


 ひどく傷つけてしまった――ナタレには痛いほど分かっていた。ここで自分が言い訳を重ねたとして、さらに傷を深める結果になることも、また分かっていた。

 その気遣いが、実は逃げだということすら。


 ナタレは立ち上がって一礼し、静かにその場を辞した。





 ナタレが入室した時点で控えの間に移動した侍女たちだったが、ティンニーだけは気になって談話室に戻ってきた。

 会話は聞こえていた。王女付きの侍女たちは皆口が堅く、決して外に漏らさない代わりに王女本人に問い質すこともしない。しかし礼拝堂での一件を知るティンニーはいても立ってもいられなかった。


「ティンニー」


 ふいに名前を呼ばれてびっくりする。円卓に頬杖をついたリリンスは、視界の隅に彼女を捉えていた。


「……フラれた」

「あ、あの、姫様、何と申し上げてよいか……」


 王女の気だるげな声に、同い年の侍女はうろたえる。部屋に入ったはよいものの、励ますのか慰めるのか、方針を決めていなかった。ただ、きっと姫様は泣くんだろうと思った。

 しかし、リリンスは意外とさばさばした表情で前髪を掻き上げた。


「でも一生傍にいてくれるって。それで満足すべきよね」


 大人びた諦めの混じった微笑みを見て、ティンニーは反射的に首を振っていた。勿体ない――彼女の脳裏に浮かんだのは、なぜかこの一言だった。


「何をお婆さんのようなことを! 姫様はまだお若いんですよ。これからいくらだって機会はございます」

「機会って」

「ですから! ナタレ様をモノにする機会です!」


 ティンニーは拳を握り締めた。唖然とするリリンスの前で、


「一生傍にいらっしゃるのなら時間はたっぷりあるじゃないですか。姫様ほどの美人に迫られて落ちない殿方はいませんわ! ナタレ様だって、私の見立てではあともう一押しか二押しで陥落します。ええ必ず!」


 と、力説する。


「そ、そうかな……」

「そうです! でも時間がかかるようなら、さっさと次にいけばいいんですよ。男は砂の数ほどいますもの。ですから、一生独り身だなんてそんな寂しいこと……おっしゃらないで下さい……」


 最後の方は涙声になって、真っ赤になった鼻を啜り上げた。感受性の豊かすぎる侍女を前に、逆にリリンスの方が戸惑う。


「うん、分かったから……泣かないで、ティンニー」


 ティンニーの背中を撫でてなだめながら、リリンスは肩の力を抜いた。

 人の体温に触れると、身体から徐々に強張りが消えてゆくようだった。

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