国王密使
神官服は旅の間に汚れてしまったので、ユージュはここで調達した平服を身に着けていた。飾り気のない若葉色の衣装は貴族の娘の旅装束といったところだが、その物腰はやはり神殿の一族の長であった。
氷のような眼差しが、入って来たアノルトとフェクダを順番に捕える。
「旅はお気に召しましたかな? 神官長猊下」
フェクダが慇懃に尋ねると、ユージュは立ち上がりもせず、無感情に答えた。
「お気に召しません。入浴ができませんし、食事も不味い」
長椅子の脇の円卓に空の食器が積み重ねてあるのを見て、アノルトは溜息をついた。この若い神官長は見かけによらず神経が太くて、旅の間もよく食べよく眠っている。
「そうですか。しかしまだ先は長い。慣れて頂かなくてはね」
「南部知事とドローブ総督が、お揃いで何のご用ですか? 私はもう休みたいのですが」
ユージュは頬にかかる切り髪を払いながら言う。その毛先は日差しに晒されて傷み、肌も日焼けで色を深くしていた。それでも、物怖じしない態度は神殿の最奥に籠っていた時と同じだった。
フェクダは彼女の正面に立って腕を組む。見下ろす表情は穏やかだったが、独特な威圧感を感じさせた。
「猊下は聡明なお方だ。なぜ我々があなたをお連れしたか、お分かりになるでしょう?」
「あなた方が同じオドナスの衛兵を殺し、聖域に土足で踏み込んだ上、神官たちを拘束して私を拉致した理由ですか? そこにいらっしゃる後継者選抜に漏れた第一王子を王太子にせよと、神官長の口から宣言させることくらいしか思いつきませんね。私にできるのはその程度です。国王が翻意すれば、この上なく平和的な解決ですね」
淡々と辛辣な台詞を繋ぐユージュに、アノルトは再び出そうになる溜息を飲み込んだ。冷静沈着で恐れを知らぬこの女には謎が多く、何を考えているのか掴み辛い。伯父はすいぶん面倒な人間を攫ってきたものだと思った。
フェクダは軽く肩を竦めて彼女の皮肉を聞き流した。
「まあ確かにそれもありますが、猊下には伺いたいことがあるのですよ」
「アルハ神のお言葉ならば、毎月の礼拝ですべてお話ししていますよ」
「私もね、弟と同じく不信心なもので、神の言葉も人間の言葉も信じてはおりません」
「でしょうね。でなければ、このような暴挙に出られるはずがありませんから」
「ユージュ様」
彼の柔らかな口調は、かえって不気味だった。
「単刀直入に伺います。アルサイ湖には何が沈んでいるのです?」
ユージュは動じる気配を見せない。
「質問の意味を理解しかねます」
「あそこにはもともと何かがあった。それをあなた方一族が掘り起こし、セファイドの命の元で使役している――違いますか? オドナスの発展の原動力となったそれが何なのか、お答えいただきたい」
しばし、沈黙が落ちた。
アノルトは動きを止めたフェクダとユージュを交互に見る。
彼も薄々は気づいていた神殿の秘密を、フェクダは暴こうとしているのだ。それはおそらくオドナスの最高機密、セファイドが実の息子にすら口を閉ざしている重大な秘密だった。
やがて、ユージュはふっと微笑んだ。笑うと年齢よりもずっと幼く見える。
「私が存じていたとして、それをあなたに教えるとお思いですか?」
笑顔で実に挑戦的な言葉を吐く神官長を前に、フェクダもまた笑った。子供をあやすような笑みである。
彼はユージュの前を横切って、長椅子の後ろに回った。壁の柱に据えつけられた燭台のひとつに手を伸ばし、火のついた蝋燭を抜き取る。
「ど忘れは誰にでもあることです。しかし、なるべくなら早く思い出して頂きたい」
彼はユージュの真後ろに立った。背凭れに両手を乗せると、右手に持った蝋燭の炎が彼女の頬の間近で揺れたが、彼女は振り返らなかった。
「我々はつい数年前まで戦争をしていた国の人間です。捕虜から情報を聞き出す手段は、いくらでも心得ております」
蝋燭とは反対側のユージュの左耳に背後から顔を近づけて、彼は囁いた。
「それに、ご自身でもお忘れのようだが、猊下は女性です。もっと簡単で効果的な方法もあるんですよ」
ジジ、と小さな音がした。炎に炙られたユージュの髪の毛先が焦げて、細い煙を上げている。燃えたのはほんの数本なのに、鼻を突く嫌な臭いが漂った。
熱さに顔をしかめることもなく、ユージュはひとつ瞬きをしただけだった。
「不遜ですね、フェクダ殿下。同胞を殺めたばかりか、アルハ神官を捕虜扱いなさるとは、まさに神罰に値します。予言いたしましょう――あなたは国王には絶対に勝てません。神殿の秘密を知ったところで、あなたには到底使いこなせない」
凛と涼やかな、アルサイ湖を渡る風を思わせる声音だった。
彼女は恐れてはいない――少なくとも、恐れを露わにしてはいない。
フェクダは、ふうっと息をついた。
「……あえて挑発に乗りましょうか。久々に、やり甲斐のある仕事になりそうだ」
「伯父上、聖職者に危害を加えるのは得策ではありません」
アノルトは口を挟んだ。フェクダの言葉がただの脅しではないと知り、さすがにまずいと思ったのだ。
オドナスの正統な継承権を主張する自分たちが、中央神殿の長を拷問にかけたと明るみに出れば、たちまち人心は離れてゆくだろう。
「それにその方は、すでに捨て駒になることを覚悟したようだ。命を賭して秘密とやらを守るつもりなのでしょう。口を割るとは思えませんし、表沙汰になれば非難されるのは我々の方です」
「では、どうする?」
しばし考え込んだ彼がどのような判断を下すか、フェクダは興味深げだ。
「我々に必要なことだけを喋らせ、後は一生口を閉ざして頂きましょう。南に戻れば、そういった薬物には事欠かなかったはずです。自害などされぬよう、見張りを厳重に」
「まあ、それが無難だな」
「オドナス王家の男には加虐趣味者しかいないのね。しかも、伯父も甥も救いようのない馬鹿だわ」
ユージュの呟きは聞き慣れない異国の言語ではあったが、それが罵倒であると直感的に理解し、アノルトは彼女を睨んだ。
「言動にはお気をつけ下さい、神官長猊下。あなたの身の安全は保証するが、目が潰れたり腕がなくなったりする程度の事故は、旅の間にはよくありますよ」
冷たい怒りに燃える視線を、さらに温度の低い双眸が迎える。
砂漠のただ中にある夜の気温が、急激に下がりつつあった。
その時、部屋の外で人の足音が響いた。
「アノルト殿下、報告いたします」
旅に同行している、総督側近の一人の声であった。
「王宮からの使者を名乗る者が参っております」
「使者?」
「は……それが……宮廷楽師のサリエル殿なのですが」
意外すぎる人物の名が上がり、アノルトはすぐに返事ができなかった。
宿の玄関脇にある広間で、アノルトはサリエルと対面した。
分厚い織物を敷き詰めた上座には数脚の椅子が並べられていて、アノルトはその真ん中に座した。少し離れてフェクダも同席している。入口は十名ほどの兵士が固めて、物々しい雰囲気だ。
サリエルは部屋の中央の床に膝をついていた。外套と襟巻を取っただけの旅装束で、服の裾から金色の砂粒が零れている。それでいて白皙の美貌にわずかな汚れも疲れもないのが不自然であった。
彼を警護してきた五人の兵士が後ろに控えているが、当然武器はすべて没収されていた。
「よく来てくれた、サリエル。家族間の問題に巻き込んで申し訳ない」
アノルトは気軽な調子で話しかけた。表情もごく平静だが、緊張の陰が落ちているのは無理からぬことであった。
「父はあなたに何と? ああ、人払いは必要ない」
発言の承認を受け、サリエルは居住まいを正した。勿体をつけず率直に、預かった伝言を告げる。
「国王陛下は殿下の即時投降をお望みです。今、そうなされば、お命は助けると」
「……そうか」
一呼吸の後、アノルトは答えた。他に返事のしようがなかった。
この時期に父が使者を送ってくるとすれば、投降の勧奨以外にない。それは彼も想定していたことで、納得できた。
しかし――自分が落胆していると分かって、アノルトは動揺した。後継者指名の議場で感じた以上の虚脱感だった。ぬるい泥沼に沈んでゆく感覚に似ている。
自分は愛されている、絶望的に。ならばいっそ――全力で叩き潰すと言ってほしかった。
脇から眺めるフェクダの視線が、アノルトの皮膚をぷつぷつと刺した。そこに揶揄を感じるのは、彼の神経が高ぶっているからだろう。
「父上は、俺が命惜しさに降伏を選ぶとでもお思いなのか?」
「いいえ」
「では、答えは分かっているだろう」
失望の後に湧き上がってきた苛立ちを表すまいと、アノルトは努めて冷静に言った。これで用件は終わりのはずで、早々に面会を切り上げるつもりだった。
だが、サリエルはアノルトの悶々とした気持ちを知ってか知らずか、さらに踏み込んだ。
「一刻も早く王都にお戻りになるべきだと、私も思います、殿下」
アノルトの眦がぴくりと震える。
「ご存じの通り、王都は先だっての地震で多大な被害を受けました。国王陛下が殿下へ向けて早急に王軍を送らないのは、混乱の収拾と都の復旧が最優先と判断なさったからです。今、殿下がなさるべきは、国家的危機に対峙されているお父上へのご助力であり、不毛な争いの種を蒔くことではないはずです」
「不毛、と言うか」
「同胞同士が殺し合えば、国は滅びます。一度生じた遺恨は何十年、何百年と残留します。殿下は、この砂漠に血と憎悪を染みこませるおつもりですか?」
彼の声は穏やかで、だからこそ言葉は現実感をもって紡がれた。朱に染まった大地を、反逆と粛清を繰り返しながら滅びに向かった国々を、実際に目の当たりにしてきたのだと思わせる凄味がある。
「僭越を承知で申し上げます。殿下が真実、後継者としてお父上に認められたいのならば、今の選択は絶対に間違っている。あなたのなさっていることは、親の気を引くために駄々を捏ねる幼子と同じです」
凛然と言い放った楽師に対し、アノルトの表情に明らかな怒りが浮かぶ。入口付近に居並ぶ兵士たちにも殺気が走り、それを察知してタミクら護衛が身構えた。
当のサリエルは、平然とアノルトを見返している。空気がぴんと張り詰めた。
「口の達者な楽師殿だな! ますます気に入ったよ」
場違いに明るい声はフェクダのものだった。
彼は口元を押さえて肩を震わせている。笑い出したいのを堪えているのだ。
アノルトは大きく息を吐き出した。サリエルの指摘が真実だと、身に染みて分かっている。だからこそ苛立ちが募り、激高を抑えるのに相当な努力を要した。
「用件がそれだけなら話は終わりだ」
喉元まで込み上げてきた怒りは、腹の中に戻って留まる――もっとたちの悪い何かになって。
「俺の返答は否だ。このままお引き取り願おう。だがその前に、無礼な口を利いた報いは受けてもらうぞ」
「私をどうなさいます?」
「あなたは大事な使者殿で、しかも友人だ、サリエル。丁重に王都へ送り返させて頂くよ。その代わり、そこの護衛たちは――」
彼はサリエルの後ろに並んだ五人に視線を向けた。何ら感情の籠らぬ、白い視線だった。
「耳と鼻を削ぎ落とし、紐で首にぶら下げて帰らせる。これが父上への返答だ」
ごくり、と護衛兵たちが唾を飲み込む音が聞こえた。捕虜の耳削ぎや鼻削ぎは古い習慣のひとつで、セファイドが正式に禁止したものの完全になくなったわけではなかった。
サリエルは銀色の瞳をわずかに光らせた。
「この方たちは私を警護して下さっただけです」
「だから、その身をもってあなたを護るのが仕事だろう? まあ、身代りにするのが忍びないというのならば、そうだな……」
アノルトは背凭れに凭れて足を組んだ。父親によく似た面差しに、皮肉めいた笑みが貼りついていた。
彼は腰の革帯から短剣を引き抜き、勢いよく投擲する。
跪いたサリエルの眼前の床に、それは突き刺さった。よく研がれた白刃が、燈台からの光を集めて跳ね返す。
微動だにしないサリエルへ、アノルトは、
「あなたが自分の指を潰すというのはどうだ。それで左手の爪を全部剥がしてみろ」
と、冷ややかに告げた。
「できるのならば、許してやる。指一本で一人分の耳と鼻――安いものじゃないか」
「殿下! それはあまりに無体な! どうか我々を……」
叫んで立ち上がりかけたタミクを、アノルト側の兵士たちが取り押さえた。アノルトはそちらには一瞥もくれず、ひたすらサリエルの出方を窺った。
本気ではなかった。他人の心中を見透かしていながら堂々と正論を吐く楽師を、アノルトは揺さぶってみたくなったのだ。彼が少しでも怯えた反応を見せれば、嘲笑って許してやるつもりだった。
この美しい男もただの人間だと安堵できて、腹の虫も収まる。
サリエルは俯いて、胸元に左手を引き寄せ、反対の手で覆った。短剣を取る気配はない。
やはり他人のために自らが傷つくのは怖いのだ――自分でも子供っぽいと思える満足感を、アノルトが覚えた時。
カリ、とひどく乾いた音がした。
それはサリエルの手元から聞こえてきた。
アノルトは目を見張る。タミクたちも、彼を押さえている兵士たちも、みなサリエルに注目した。
「確かに、安いものですね」
平坦な声で言ったサリエルは、握り合わせた手の中で何かをしていた。
右手の爪を左親指の爪の間に差し込み、肉から引き剥がしている――その場の全員がやっと理解したのは、彼の足元に薄い欠片が落ちた時だった。
摺り硝子のように白かった形のよい親指の爪は、床で赤く濡れ光っていた。
彼の『作業』はごく淡々と続けられた。
親指が終わると次は人差指。わずかな躊躇も見せなかった。眉ひとつ動かすことなく、悍ましい行為をこなしてゆく。傷ついた左手指はもちろん、右手も血に染まり、手首から流れて床に滴った。
中指、薬指――身体の一部が剥がれる度、嫌な音がする。
アノルトは呆然とその様を眺めていた。彼が南方の戦場に身を置いていた頃、捕虜の尋問に立ち合った経験があった。同じ行為を受けた屈強な敵兵は、身も世もない叫びを上げていたのに。
この楽師は、なぜ平気なんだ?
ついに小指の爪が取れたとき、サリエルの両手はくまなく鮮やかな血に濡れていた。左手は五本の指先の肉がすべて真っ赤に爆ぜ割れ、目を覆いたくなるような有り様だ。
静まり返った広間の中で、サリエルは床に落ちた自らの欠片を拾い集めて、立ち上がった。その美貌には歪みも翳りもない。
アノルトへ歩み寄り、彼の膝元へぱらぱらと爪を落とした動作も自然だった。
「護衛隊の五人は無傷で帰して下さいますね」
「どうして………こんなことができるんだ……?」
「殿下がやれとおっしゃったからです」
絶句するアノルトに、サリエルは微笑んだ。銀の月影を思わせる冷たく澄んだ笑みだった。うっすらと漂い始めた血臭が場違いに思えた。
「上に立つ人間は、一度口にした言葉を取り消せないのですよ。たとえそれが本気でなくとも、命じられた者は信じて従うだけです」
見縊っていた。この楽師の覚悟も、第一王子の立場も。ようやく自らの非を悟って、アノルトは潔く肯いた。
自分の選択の重さを腹の底から思い知り、同時に――サリエルの血の色が赤いことに、なぜか安心した。




