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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
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道程

 翌日の朝、六騎の人と駱駝がひっそりと王都の大門を抜けた。

 サリエルと五名の兵士である。いずれも簡素な旅装束に身を包み、他の旅人に紛れるようにして王都を出た。

 地震以降、街の復旧作業のために近隣の村から労働者が訪れ、また物資の調達に商人の出入りも増えていて、彼らはまったく目立たずに去ることができた。


「見送りはできない。すまないな」


 出発前、シャルナグはそう謝った。それでも手ずから駱駝を引いてきたのは、律義な彼のせめてもの心遣いである。

 サリエルは笑って首を振り、荷物をまとめて駱駝の背に乗せた。ヴィオルだけは丁寧に木綿布で巻いて、自分の背に結んでいる。

 国王の密使である彼が大々的な見送りを受けられるはずがなかった。同じ理由で、出発も王宮の正門ではなく通用口を使う。


「いえ、護衛までつけて頂いて……私ひとりで構いませんのに」

「サリエル殿に何かあれば王都中の民が悲しむ。皆――頼んだぞ」

「了解いたしました!」


 シャルナグに叱咤され、五人の衛兵は姿勢を正した。返事には気迫が籠っている。小隊長格の上官を含め全員まだ若いが、選りすぐりの精鋭揃いであった。

 部下に信頼を寄せながらも、シャルナグは厳つい顔を曇らせた。


「貴殿には本当に迷惑をかける。これはあいつの私用だ。身の危険を感じたら、義理立てをせずにさっさと逃げろ」

「そうおっしゃって頂けると気が楽ですよ。殿下が耳を傾けて下さるとよいのですが」

「意地っ張りだからな、父親に似て」


 彼の言葉には古傷が痛み出した時のような苦々しさが滲んでいた。

 なぜ気づいてやれなかったのか――あの日、歌姫とともにアノルトを見送った彼は、余計に悔やまれてならなかった。死なせたくないという本音は、しかし、部下たちの前で口にすることはできなかった。


「止められなかったと思います、誰にも」


 サリエルはシャルナグの胸の内を見透かしたように、そう呟いた。





「最初にお願いがあります、タミクさん」


 大門を潜ってすぐにサリエルは駱駝を止めて、護衛隊の隊長に向かって話しかけた。命懸けで楽師を守るよう将軍直々の命令を受けた隊長タミクは、緊張の面持ちである。


「先ほど将軍のおっしゃっていた通り、これはあくまで国王陛下の私用――正規の王軍兵士であるあなた方が犠牲を払う必要はありません。私に構わず、王都に帰還することを第一に考えて行動して下さい」

「な、何をおっしゃいますか! 我々の任務はサリエル様をお送りし、また無事にここへ連れ帰ることです。この命を賭してお守りするのは当然の義務です」

「お気持ちはありがたいのですが、そのご心配は不要です。私は……何があっても大丈夫ですから」


 楽天的すぎるサリエルの言葉は現実感に乏しかったが、その口調はあながち気休めとも思えないほど真面目だった。


「むしろ、あなた方が危険に晒されることの方が、私にとっては辛い」


 少し憂いを滲ませた彼の美貌をまともに見てしまって、タミクは反射的に視線を逸らした。ごく平凡な旅人の出で立ちだからこそ、彼の美しさは普段より際立って見えた。


 タミクら王軍の兵士がサリエルに付き添う理由は、もちろん護衛が主務ではあるが、サリエルが役目を放棄して逃亡するのを防ぐためでもあった。直接そのような命令を受けなくとも、彼らは暗に心得ている。

 それなのに――タミクは軽く咳払いをして、


「そのご意向には従いかねます、サリエル様。非公式とはいえ、任務は任務。我々は常に覚悟を持って臨んでおります」


 わざと事務的に答えたが内心では、この楽師に傷のひとつもつけさせてたまるか、と決意を固めた。国王への忠誠心でも職務への責任でもなく、自らの望みとして。それでいておかしな邪心を抱かせないのがサリエルの不思議なところだった。

 サリエルは諦めたように苦笑して、駱駝の首を巡らせた。


「では、急ぎましょう。どれだけ飛ばして下さっても結構ですよ」





 一歩王都を出ると、辺りの風景は一変する。

 砂混じりの大地に駱駝と人が踏み固めた道がつけられ、背の低い灌木がそこだけ避けるように生い茂っている。湿度は急に低くなり、かわりに気温が上昇する。

 それでもまだ王都の周辺はアルサイ湖の恵みが行き渡っていて、小さな池なども点在するので野営をする隊商は多い。畜産で生計を立てる村もいくつかあった。


 だが王都から、アルサイ湖から離れるにつれ緑は徐々に減ってゆく。地面はその黄味を増し、道の輪郭が曖昧になる。吹きつけてくる熱い風が砂を運んできて、無防備な旅人の目や鼻を傷める。

 その先に待つものは完全なる砂漠であった。


 駱駝を飛ばし、普通ならば二日かかる行程を一日で終えた彼らの眼前に、ついにそれが広がった。

 本物の乾燥、本物の熱風――見渡す限り砂に覆われた風景である。遮るもののない日差しは空全体を強烈な青に輝かせ、大地を金色に焼いていた。その対比は容赦なく鮮やかで、ここが人間を拒む土地だと告げている。

 果てを見せない輝く大地は平坦ではなく、大小のうねりが彼方まで続いていた。遠くから眺めると緩やかに見える砂丘であるが、実はそれぞれが驚くほどに巨大で急峻、ひとつ越えるのに数日かかるものもあった。しかも強風で刻々と姿を変える。


 ここでは誰もが神の加護を祈りたくなる――そんな荒涼とした場所へ、彼らは足を踏み入れた。


「アノルト殿下はすでにクラン砦を過ぎているものと思われます」


 タミクは外套の内側から方位磁石を取り出して、方角を確認した。


「追いつくにはこれまで以上に速足の移動になります。きつくなったら限界になる前におっしゃって下さい。我慢をしていては死んでしまいますから」

「分かりました」


 サリエルは別段恐れるふうもなく、襟巻を口まで引き上げて砂に備えた。


 彼らはそこから先も速度を緩めなかった。

 南部の本拠地ドローブへ向けてアノルトたちが進んだであろう径路を辿って、ほぼぶっ通しで先を急いだ。駱駝を休ませるために時折休憩を入れる以外は足を止めない。夜も仮眠程度で、星明りを頼りに進む。王都と地方を行き来する伝令なみの旅になった。

 護衛隊の五名は長期遠征に何度も従軍しており、その経験を買われて今回の極秘任務に抜擢された兵士たちだった。その旅慣れた彼らでさえ楽ではない強行軍であるのに、どれだけ飛ばしても構わないと豪語しただけあって、サリエルは平然とついてきていた。


 タミクは驚嘆を禁じ得ない。もともとこの砂漠を自力で渡って来た旅人なのだからと頭で理解していても、サリエルの容貌は灼熱の砂を知る者のそれとはどうしても思えないのだった。


「水分を摂って下さい、サリエル様。意識的に飲んでおかないと、知らぬうちに昏倒しますよ」


 休憩の度にタミクは注意した。サリエルは言われると水筒に口をつけるものの、唇を湿らせる程度にしか飲んでいない。タミクは本気で心配になった。


「本当に大丈夫ですか? 見たところ汗をお掻きになっていないようだ。脱水症状を起こされているのでは?」

「あまり発汗しない体質なんです。この乾燥で、掻いてもすぐに乾いてしまいますし」

「……失礼」


 タミクは両手でサリエルの右手を取った。脱水症状の簡単な診断法を試そうとしたのだ。爪を押さえて離し、色が戻るまでの時間で体調が分かるはずだった。

 しかし彼はすぐに手を離した。サリエルの手があまりにも冷たく、病的を通り越して死人のように感じたからだ。

 それでいて――。


「どうしました?」


 至近距離で眺める白い皮膚の瑞々しさはどうだ。日焼けによる赤みも乾きもなく、砂を払えば、たった今まで王宮の木陰で寛いでいたと言われても信じられる滑らかさを保っていた。


「い、いえ何でもありません。とにかく水は飲んで下さいね」


 この男は何者だ、という根源的な疑問が湧いたが、触れてはならぬものに触れてしまったようなおののきがそれを凌駕して、タミクは追及をやめてしまった。


 追跡の旅は、王都を出てから五日間続いた。


 灼熱の昼も極寒の夜も、ひたすら南を目指して進んで行くと、やがて風が少しずつ変化してきた。

 炎そのもののような熱風がわずかな湿り気を帯びるようになり、肌に感じる温度が和らぐ。砂に覆われていた地面が固くなり、ところどころにぼそぼそと茂った草が見え始めると、旅人は一様に胸を撫で下ろす。水が近いのだ。


 砂漠に点在するオアシス都市のひとつ――南部へ向かう経路において最初の補給地となる町ジメシュで、五日先んじて旅立ったアノルト一行に追いつくことができた。





 ジメシュは王都ほど巨大な都市ではないが、南方へ行き来する隊商が必ず立ち寄る場所だけあって、宿泊施設や物資の供給には事欠かない町だった。

 中規模のオアシス湖から水路が張り巡らされ、商店や隊商宿が軒を連ねる風景は王都に似ていた。第一王子と王兄の一行は、町の中心部の宿を一軒借り切って、丸一日休憩を取っていた。王族や貴族が常宿にしている老舗である。


 南部知事の一行を通してはならない、との告達を携えた伝令は、ここに辿り着く前にフェクダの手勢に捕えられ殺害されていた。だが今後第二報、第三報が届くのは必至で、あまり悠長に休んでいるわけにはいかなかった。

 アノルトは沐浴の後に早めの夕食を摂って、今後の旅程を話し合うためにフェクダの部屋へ向かった。

 生まれて初めて『追われる立場』の焦りや緊張を知って、アノルトは軽い高揚を感じている。負の感情ではなかったが、気は休まらなかった。


 王都で大きな地震があったことはもちろん知っていた。彼自身も、王都近郊で伯父と合流し、砂漠へ向けて進んでいたところで揺れに見舞われた。

 遠く離れた王都の街並みから黒煙が幾筋も立ち上るのが見え、被害の大きさが想像できた。彼は真っ先に妹の安否が気になり、いっそ引き返したいとさえ思ったのだ。

 動揺したアノルトを諌めたのはフェクダである。 


「国王は必ず、この地震を私のせいにする。私が神殿を襲ったのが神の怒りに触れたのだとな。もう後には引けないぞ。こちらもやり返すまでだ」


 もともと、ドローブ到着後に第一王子の名前で声明を出す予定だった。時期は早まったが、リリンスへの指名こそが神罰を招いたのだという主張を加筆して、フェクダは部下に書面をばら撒かせた。王軍本体は当分動けぬだろうから、南部まで逃げ切れると判断したのだ。


 妹の出自を攻撃することについて、アノルトはあえて罪悪感を排除した。

 手段は選ばないと決意している。むしろそれを――リリンスが父の子でないことを既成事実にしたかった。彼女との血縁関係を否定できれば、近親婚の禁忌には触れない。父を退け国王の座に着いた暁には、どんな手を使ってでもリリンスを自分のものにするつもりだった。


 ここで踏み間違えるな――伯父は信用できないが、利用はできる。冷静になれ。

 興奮を自覚しているアノルトは、何度も自らにそう言い聞かせた。


 フェクダの泊っている部屋は南端の棟にある。そこへ向かう途中で、アノルトはフェクダと出くわした。

 とっくに日は落ちており、高級とはいえ宿の廊下に王宮ほどの贅沢な灯りはない。フェクダは二人の護衛を連れており、一人が燭台を手にしていた。


「一人で出歩くのは危険だぞ。宿の中とはいえ、気を緩めるな」

「以後気をつけます。伯父上の所へ行くつもりだったのですが」

「ちょうどよかった。一緒に来なさい」


 彼はアノルトを誘って再び歩き出した。アノルトは少し訝しげに続く。


「物資の補給は完了しました。明日の早朝には発てます。次の中継地まで、この人数なら約二十日といったところでしょうか」

「今後補給は難しくなるかもしれんよ。時間が経てば経つほど国王の手が回る」


 フェクダの指摘をアノルトも承知していて、物資はかなり多めに購入した。荷が増えるぶん移動は鈍くなるが、この先補給が十分に受けられない可能性を考えると致し方ない。砂漠で水と食糧が尽きればどうなるか、子供でも分かる結末だ。

 フェクダは横目でアノルトを見やって、薄い唇に弄うような笑みを浮かべた。


「我々を追ってくる王軍も、いずれこの地に立ち寄る。明日の朝、町に火をかけるか?」


 アノルトは眉をひそめ、伯父を睨みつける。その考えは、彼も思いつかなくはなかった。最初の補給地であるこの町を燃やしてしまえば、王軍の出鼻は挫かれるだろう。これからもオアシス都市に立ち寄る度、そこを破壊してしまえばいい。


「それはしたくありません。この町もオドナスの一部、いずれ俺が治める国です」

「甘いな。まあ、いいだろう」


 きつい口調で否定したアノルトから、フェクダは目を逸らした。恐ろしい言葉を口にしながら、笑みは消さない。


 二人はそれきり黙って歩き、ある部屋の前で立ち止まった。

 涼しげな麻布の吊るされた入口には、二人の兵士が立っている。警護ではなく見張りだ。彼らは深々と頭を下げて道を開け、主人たちを中に通した。


 広く瀟洒な客間だった。居間と寝室がひと続きになった一般的な造りだが、この宿でも上等の部類に入る部屋である。

 織り模様の美しい絨毯が敷き詰められ、籐家具が無駄なく配置されている。灯りもふんだんで、柔らかな橙色の蝋燭の炎があちこちで揺れていた。

 部屋の中央、背の低い長椅子にぽつんと座っているのは、ユージュであった。

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