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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
39/80

友人

 王宮の外郭部に近い広場には、居処を失った七千名ほどの避難民が収容されていた。

 普段は兵士の訓練場に使用されているため綺麗に整地されており、面積も十分に広い。今はそこにおびただしい数の小さな天幕が張られ、着の身着のままで逃れてきた王都の民が不安げに身を寄せ合っている

 彼らは、昼の間は街に戻って壊れた住居の修理や瓦礫の片付けに当たっている。破損した水路の修復工事が始まったので、その臨時雇いで当面の糊口をしのぐ者もいた。やるべき仕事が増えたことで、誰もが少しずつ落ち着きを取り戻していた。


 日が暮れて、彼らの多くが広場に引き上げてくると、いきなり人口密度が高くなったそこは人いきれに包まれる。

 炊き出しを担当する女官たちや、怪我人の具合を見て回る医師たち、また警備にあたる衛兵も混ざり合って、状況さえ忘れればまるで祭りのような喧騒に満ちていた。もちろん、祭りにしては人々の顔に疲労の色が濃いが。


 ナタレは炊き出しの列に並ぶ人々の間を擦り抜けて、広場の中央に向かっていた。

 天幕ごとに照明代わりの小さな焚火が燃えているが、辺りはもう薄暗く、注意しないと危なかった。天幕の外に並べてある家財道具を蹴飛ばしてしまって文句を言われ、走り回る子供とぶつかって宥めるのに苦労しつつ、彼は目的の場所を目指した。


 広場の中央では一際大きな焚火が燃えている。防犯のために一晩中絶えることのないその炎の前に腰を下ろし、王国随一の楽師は楽の音を奏でていた。

 無花果を縦に割った形のヴィオルは、子守歌のような優しい旋律を歌っている。多くの人々が彼の前に集まり、その音色に耳を傾けていた。ある者は家族と肩を寄せ合いながら、ある者は一人でわずかな酒の入った杯を傾けながら――誰もが寛いだ表情で楽師の演奏に聴き入っているのだった。

 すぐに声をかけることができす、ナタレは聴衆に混じってその場に腰を下ろした。


 サリエルは日が落ちると毎日ここを訪れて、ヴィオルを奏でているのだという。たかが音楽といえども、彼の演奏が疲弊した人々をどれだけ癒しているか、皆の表情を見ればナタレにもよく分かった。

 白く透き通る頬に焔の色を落とし、三日月の孤を描く眉をわずかに寄せて、サリエルは演奏に没頭している。

 その姿は穏やかでありながら、見る者の胸に妖しい波を立てた。ナタレも例外ではなく、息苦しいのに目が離せない。若い彼がまだ消化できない、奇妙な感情だった。

 曲の切れ間に湧き起こる拍手は、回を重ねるごとに大きくなった。

 当初の倍ほどに膨れ上がった聴衆の前で五曲を演奏して、サリエルはようやく弦を押さえる手を止めた。口々に賛辞を述べる人々に頭を下げ、彼は静かに立ち上がった。


 本当はもっと聴いていたかったのだが、ナタレは急いでサリエルに駆け寄った。呼び止めると、楽師は驚いた様子もなく振り返った。


「お疲れのところを失礼――一緒に来てくれ。国王陛下がお呼びだ」

「よくここが分かったね」

「あなたがここで弾いていることは噂になってるよ。陛下もご存じだ。演奏が終わってからでいいと言われたけれど」


 隠していたわけでもあるまいが、サリエルは苦笑した。何事につけ人目を引く男である。

 二人が並んで歩き出すと、集まった人々は名残惜しげに道を空けた。短い慰めの時間は終わって、もうそれぞれの天幕へ戻る頃合いなのだ。

 明日も来てください、あんたの演奏を聴いてると気持ちが楽になるんだ――そんな言葉を四方からかけられるサリエルを見て、ナタレは改めて感嘆の息をつく。


「やっぱり凄いな、サリエルは。こんなに……必要とされてる。不安な人間を癒すことができる。あなたはどんな時でも変わらないから、みんな安心するんだろうね」

「でも、そんなものはまやかしにすぎない。楽師にできるのはここまでさ。本当の意味でこの国の民を癒し、導くべき人間は他にいる」


 サリエルは淡々と口にした。自嘲や卑下の気配がないぶん、彼の言葉には説得力があった。


「君も、そちらの側にいるはずだよ」


 自分の迷いを見透かされたようで、ナタレは唇を噛み締めた。この状況下で果たして自分にできることがあるのか、と焦りが募る。


「が、楽師様」


 立ち並んだ天幕の間を抜けた所で呼び止められた。

 粗末な服に身を包んだ若い男が、腕に赤子を抱いて立っている。その腰の辺りにはもうひとり、二、三歳と思われる幼子が纏わりついていた。

 その男の顔に、ナタレは見覚えがあった。誰だったか記憶を手繰っていると、男は深々と頭を下げた。


「あの……毎日ほんとにありがとうございます。楽師様の演奏を聴かせると、チビが落ち着いて眠るんですよ。地震で家が焼けてから、夜を怖がるようになっちまってたのに」


 空いた手で頭を撫でられた幼児は、興味津々な眼差しをサリエルに向けている。サリエルは微笑んだ。子供もつられて笑顔になる。


「そうですか。お役に立てて何よりでした」

「あの地震は……神官様のおっしゃる通り、ほんとに神罰なんですかね?」


 男は表情をふと暗いものに変えて、腕の赤子を抱き直した。抱き慣れていないのか、小さなおくるみはむず痒そうに身を捩った。


「俺ら、貧しいけど真面目に暮らしてきました。アルハ様に恥ずかしい真似なんてした覚えがありません。それなのに……女房は、この子らの母親は、家と一緒に燃えちまった」


 日に焼けて黒ずんだ頬には、いつ気持ちがぷつんと切れてしまってもおかしくない危うさが滲んでいる。

 ナタレはようやく思い出した。この男とは市場で会った――綿織物を売っていた露天商だ。妻は隣の露店の店主ではなかったか。あの柘榴石の首飾りを買った小間物屋の。

 あなたたちお似合いよ、うまくいくといいわね――リリンスのために再び市場を訪れたナタレを、女はそうからかいながら首飾りを手渡したのだ。ナタレは言葉を失った。


「王様の兄貴が悪さしたからって、何で俺らがこんな目に遭うんですかね、楽師様? 王女様が跡継ぎに選ばれたのがマズかったんだって噂もあるけど、よく分からねえ……王族の不始末の罰が下々に当たるって、何かおかしくないですか、ねえ!?」


 男の語調は徐々に強まって、最後は詰問する勢いになった。子供が不安げに父親を見上げている。

 ナタレが止める前に、男の抱いた赤子が泣き出した。それで我に返ったらしく、男は慌てて後退した。


「すっ、すいません……あんたにこんなこと言ったってしょうがないのに……」

「どうか、国王陛下を信じて下さい」


 サリエルは平素の通りの穏やかな声音でそう言った。鏡のような銀色の両眼が、恐れも憐れみもなく相手を映している。


「オドナスを大国に育て上げ、繁栄をもたらしたのはあのお方です。また必ずあなた方を導いて下さるはずですよ。それに……」


 彼は手を伸ばして、男の腕で泣き喚く赤子の額に触れた。ほんの一呼吸の間に赤子は泣き止み、すぐにすやすやと寝息を立て始める。

 まるで魔法を目にしたようで、ナタレはサリエルと赤子を何度も見比べた。同じく驚きを隠せない男へ、サリエルは、


「ご自分のなさったことに対して、あの方はきちんと責任をお取りになるはずですから」


 と告げて、王宮中央に目を向けた。





 命じられた通り、ナタレは国王の執務室へサリエルを案内した。

 入口で声をかけてから入室すると、燭台の灯りに照らされた室内には、国王本人の他に三人の人間しかいなかった。ここのところ役人や軍関係者の出入りが多かっただけに、ナタレは意外だった。しかもその三人は神官である。


「……では、また参ります」


 いちばんの年長者である白髪の神官が、そう言って頭を下げる。机の向こうに座ったセファイドは手元の書類を見ながら肯いた。


「ああ、逐一報告を入れてくれ」

「そのかわり、神官長のことはお任せいたします。一刻も早い奪還を」


 脇にいた男性神官が、精悍な眼差しをさらに鋭くして付け加える。

 その不躾な物言いに年配の神官が仕草で彼を諌めたが、セファイドは書類から顔を上げて真摯に見返した。


「努力しよう」


 それを合図のように、神官たちは揃って頭を垂れ、書類の束を手に踵を返した。

 擦れ違う時、彼らとサリエルは互いに目礼を交わす。もう一人の若い神官――カイはナタレにも丁寧にお辞儀をして二人の後に続いた。彼にとってナタレは、アルサイ湖畔で溺れかかっていたところを救ってくれた恩人なのである。


 入れ替わりに部屋の奥へと歩を進めたナタレとサリエルを、セファイドは幾分ほっとした表情で迎えた。地震以降、彼はほとんど寝る間もなく働いていた。


「お疲れのご様子ですね」


 サリエルは見たままの印象をあっさりと口にする。ナタレもまったく同感だったが、ここまで気軽に指摘はできない。


「さすがにな」

「私にご用とは?」

「ナタレ、おまえは外せ」


 ナタレは軽い落胆を感じた。この多忙で緊張した時期に、国王が楽師に何の用があるのか――興味と言うより心配していたのだ。まさかこの場で楽器を弾かせるわけでもあるまい。

 それに今日のセファイドの様子は少し妙だった。疲れているだけでなく、どこか思い詰めたような気配を感じてナタレは不安を覚える。

 躊躇したのは一瞬で、彼は素直に従った。結局他に選択肢はなかった。


 ナタレが出て行くと、セファイドは深い溜息をついた。全身に溜まった疲れを露わにするように――蝋燭の炎が揺れて彼の顔に翳が落ちる。それがいっそう深くなった。


「市中に撒かれた文書は、もう見たか?」

「はい」

「おまえに頼みたいことがある」


 セファイドは机に肘をついて、身を乗り出した。鋭く怜悧な両眼はわずかに充血している。


「アノルトに会ってきてはもらえないだろうか――俺の代わりに」


 サリエルは澄み切った銀の瞳に彼を映す。


「殿下を説得せよと?」

「今なら赦すと伝えてほしい。王族としての特権はすべて剥奪するが、今投降すればそれで赦す」

「なぜ一介の楽師にそのようなご命令を?」

「命令ではない。友人として、頼んでいる」


 セファイドはもう一度息を吐いた。


「肉親とはいえ、いや肉親だからこそ、大逆の罪を犯した者に国王の側から公の使者を立てるわけにはいかない。見せしめのためにも逆賊は正面から討伐せねばならん。だからおまえに頼みたいのだ、サリエル。おまえの言葉ならば、あるいはあいつも……」


 彼が初めて見せる、痛々しく歪んだ表情だった。

 父の死を冷徹に見送り、兄を手に掛け、息子の望みを摘み取った男が、異邦の楽師に向けて縋りつくような願いの言葉を発している。

 サリエルは微動だにせず、じっとセファイドを見詰めている。冷たいほど揺らぎのないその姿は、裁きを言い渡す月神を思わせた。

 銀色の眼差しは満ちた月の光のようで、全身の皮膚がヒリヒリと痛むのをセファイドは感じた。その痛みをもたらすのは罪悪感か畏怖か――いずれにせよ、国王が抱いてはならない類の感情だった。


「……甘いか、俺は?」

「いえ……むしろ残酷です。ご子息に神罰の罪をすべて被せたうえで、命乞いをせよと求めていらっしゃるのですから。アノルト様がそれを飲むとは思えません。アノルト様は……陛下にとてもよく似ておいでです」

「そうだ、よく似ている。俺はアノルトがこういう行動に出るとどこかで分かっていて、それでもあいつを退けた。他ならぬ俺の咎だ。たとえ無駄でも……できるだけのことはしたい」

「確かに、殿下の謀反はあなた様が招いたこと――ですが、それを罪と思われる必要はありません。あるのは原因と結果だけ、そこに善も悪もない。善意の行為がとてつもない災禍を呼ぶことも、悪の種から清らかな幸福の花が咲くこともあります」


 少し悲しげに言ったサリエルの瞳に、蝋燭の炎が映り込んだのか、一瞬だけ赤い色が揺らめいた。

 自分よりも遥かに年若い容姿の青年が、突然ひどく禍々しい存在に思えて、セファイドはしばし口をつぐんだ。彼の美貌はあまりにも清澄すぎて、見る者の気持ちでいかようにも印象が変わる。

 やはり原因は自らの内か――セファイドは背凭れに身を預け、頭痛を堪えるように額に手を添えた。


「おまえは達観しているな。それに比べて、俺は未だに情が捨てきれん」

「陛下は誰よりも情け深いお方ですよ。ご依頼の件、承りました。アノルト殿下の後を追い、投降を勧めて参ります――友人として」


 気負いのない、ごく自然な了承の返事だった。今夜演奏を聴かせてくれ、と招待を受けた時と同じである。

 南方へ向けて移動中のアノルトに追いつくだけでも困難なのに、さらに彼に面会して彼を失望させる父の意思を伝えることがどれだけ危険か、すべて理解しているはずのサリエルの反応は、いつもと変わらなかった。


「よろしく頼む」


 セファイドは立ち上がって、楽師へ向けて深々と頭を下げた。

 




 執務室から出て回廊を歩くサリエルは、珍しく物憂げだった。

 月のない夜空から吹いてくる涼風が中庭の木々をざわめかせ、彼の白い首筋を撫でてゆく。そこにふと人の気配を感じ取って、彼は足を止めた。

 黒い石の回廊の先、燭台の灯りの届かない柱の陰に、神官服の男が立っていた。


「……リヒト」


 聖職者らしからぬ、がっしりとした体躯が廊下の真ん中へ出てきた。

 宵闇の中、小声ならば届かぬほどの距離で、自分を正確に認識したサリエルの視覚にリヒトは驚かなかった。


「国王はあんたに何を頼んだ? 密偵か?」


 一重瞼の鋭い視線はひどく剣呑だった。ぞんざいな口調にも不信感が満ちている。

 サリエルは肯定も否定もしなかった。


「それは言えません」

「こんな時に! 今この都に起こってることが何なのか、あんたは分かってるんだろ? 自分が何をしなければならないかも。王子の首を取ったってオドナスは救われない。あれは神罰なんかじゃないんだ。あれは……」


 リヒトは眉間に皺を寄せて捲し立てる。

 その言葉の先を、足から伝わってくる振動が断ち切った。


 回廊の壁に等間隔で設定された燭台がカタカタと音を立て、夜にも拘わらず庭の植栽から小鳥が羽ばたいた。

 リヒトは反射的に身構え、周囲を見渡す。

 揺れはごく弱く、すぐに収まった。このような大小の余震が、王都ではもう百回以上繰り返されている。


「あれはまだ続いてる……俺たちだけでは限界があるんだ。あんたはここを離れるべきじゃない。離れてほしくない……でも」


 リヒトはサリエルに向き直った。苦しげに歪んだ表情は、つい先ほどセファイドが浮かべたそれに似ていた。


「ユージュを助けてやってくれ!」


 血を吐くような、それは懇願だった。


「あんたにこんなこと頼むは筋違いだって分かってるけど……ユージュを無事に連れ帰ってくれ。お願いします!」


 いっきに吐き出してから、リヒトは顔を赤らめて目を逸らした。

 サリエルに対してここでやるべきことがあるはずだと指摘しておきながら、一方で仲間の救出を望んでいる。言っていることが支離滅裂だと自覚していた。

 これだから自分は浅慮だとユージュに窘められるのだ――それでも彼に縋るしかなかった。


「国なんか滅んだっていい……あいつが生きてることの方がずっと価値がある」

「その意見には、後半部分だけ賛成します」


 サリエルは淡い微笑を浮かべた。見慣れたはずのリヒトが、軽い眩暈を覚えるような笑みである。


「一方で、その国を守るために何もかも、肉親の絆さえ犠牲にしている人たちもいる。どちらも間違ってはいません」

「サリエル……あんた自身はどうなんだ?」

「私にはそういった判断はできません。ユージュは必ず君たちのもとへ戻します。君たちはそれまで、ここでできることを精一杯やって下さい」


 彼は左手のヴィオルを抱え直し、再び歩き出した。擦れ違いざま、リヒトの肩を軽く叩いてゆく。

 労働や戦いとは無縁のしなやかな手だったが、その仕草は思いがけず力強かった。

 優しさというよりもっと強固な責任感のようなものを感じて、リヒトは初めて、なぜユージュが彼を信頼しているのか分かった気がした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 柘榴石の首飾りを売っていた女の人が地震で亡くなっていたとは、すっかり忘れていました。 こんな細かい設定まであってストーリーが作り込まれていますね。
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