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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
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激震

 セファイドは険しい表情で報告を聞いている。

 深夜の執務室には、非常招集されたシャルナグ将軍と衛兵隊長、憲兵隊長、内務大臣と数人の官吏が詰めていた。第一報をもたらしたナタレとリリンスも同席している。


 ただの犯罪ではない。被害者は中央神殿の神官長で、嫌疑がかかっているのは王兄である。

 国王が直々に指揮を取り、すぐに衛兵隊を神殿に向かわせた。同時に湖岸を捜索させたところ、泳ぎ着いた残り三名の神官が無事に発見された。

 当然のことながらフェクダの姿はすでに王宮にはなく、随行していた知事直轄の兵団約千名も宿舎を発った後だった。彼は計画的に神殿を急襲し、配下の者たちと落ち合って王都を離れるつもりなのだろう。


「近隣の街へ告達を出せ。南部知事の一行を通してはならん。それからすぐに追撃隊の編成を」

「承知いたしました」


 セファイドの指示を受け、シャルナグは足早に執務室を出ていく。だが時刻はすでに夜半近く、神殿が襲われてから相当な時間が経っている。フェクダたちはかなり遠くまで逃げ延びていると考えられた。

 セファイドは続けて市中の探索を憲兵隊長に命じる。裏をかいて、彼らがまだ王都に潜んでいる可能性を考慮したためだ。国務大臣に対しては、内通者の洗い出しを進めるよう指示した。


 慌ただしく退出していく各々を見送って、リリンスは不安げな眼差しを父に向けた。


「どうして伯父様が……意図が分かりません」

「あのまま収まるはずはないと思っていたが、見通しが甘かったな」

「私が王太子となることに反対を? でも神官長を誘拐したって……」

「最高位の聖職者を同行させることで、アルハ神の加護を受けていると無理やりにでも示したいのだろう。あとは……神官長から何か聞き出したいのか」

「聞き出したい?」


 セファイドは答えずに、机の向こうの椅子に腰を下ろした。深い皺の刻まれた眉間に手を当て、疲れた目を休ませるように瞼を閉じる。


「兄の単独行動なら、まだいいのだが……」


 呟きに応じるように、しばらくして衛兵隊長のノジフが新たな報告を携えてやって来た。

 神殿に渡った衛兵隊が神官たちを保護したこと、警護の兵は八割方が殺害され、残りの者も重傷を負っていること、生存者の証言から犯人はフェクダに間違いないこと。


 リリンスは唇を引き結んで、衣服の裾を握り締めている。予想通りとはいえ、王族の一員が同胞を殺したという事実は衝撃的だった。

 ナタレはそんな彼女を気遣う。


「殿下、少しお休みになられては」

「いえ、大丈夫よ。ここにいます」


 気丈に答える彼女に対し、


「座っていなさい。今夜は長くなりそうだ」


 と、セファイドは机の脇の椅子を指した。


 言葉通り、長い夜になった。


 その後シャルナグが戻ってきて、追撃隊の人選と作戦について説明をした。その間にもフェクダの行方を推測する情報が次々と入ってくる。

 深夜にも係わらず、王宮はにわかに慌ただしくなっていた。


 やがて夜明けが近づき、追撃隊の準備が調う頃になって、国務大臣付きの官吏が入室した。彼がもたらした情報は、セファイドの懸念を決定的にするものだった。

 王都の南西にあるティダ村の住人が、付近を通過する第一王子の行啓団に、別の兵士の集団が合流するのを見たというのである。


「この時期に正規王軍の移動はありません。人数の規模から考えても、おそらくフェクダ殿下の一団に間違いないかと」

「そうか……やはりな」


 セファイドは沈痛な表情で口元を押さえ、リリンスは息を飲んだ。


「兄様と伯父様が……」

「共謀している、と考えてよかろう」


 謀反、の二文字が脳裏に浮かんだが、それを口にすることは彼女にはできなかった。兄は父の決定を力尽くで翻そうとしているのだ――理性ではそう確信したが、感情が認めようとしない。

 ナタレは彼女を痛々しげに眺めた。二年前、故郷の反乱を知らされた時の衝撃が、否応なしに蘇ってきた。


 机の上に広げられた地図を、セファイドは指でなぞる。その横顔から苦しげな色は瞬く間に消え失せ、冷静さが戻ってきていた。決して取り乱してはならない立場なのだ。


「となると相手は三千人規模か……追撃隊の増員が必要だな。シャルナグ」

「かしこまりました」

「日の出とともに出発し、ティダまでの最短経路を行け。何よりも神官長の身の安全を優先して……」


 すらすらと出ていた彼の指示が、急に途切れた。

 地図に落ちていた視線が上がり、彼は天井を見る――ミシ、と軋むような音がした。

 ほぼ同時に、机の上にある文具や水差しがカタカタと細かな音を立て始めた。


「……揺れてる?」


 父と同じく異変に気づいたリリンスが、訝しげに呟いたその時。


 それは起こった。


 床の下から何かが突き上げてくるような衝撃に、室内にいた全員が足を取られてよろめく。同時に、家具や調度が跳ねた。

 書架から本が飛び出してきて床に落ちる。背の高い書架自体も踊るように揺れている。


 ナタレは咄嗟にリリンスの腕を取り、その身体を胸に庇って床にしゃがんだ。次の瞬間、今まで彼女が腰掛けていた椅子の上に書架が倒れてきた。


「大丈夫か、リリンス!?」

「セファイド! おまえも動くな!」


 娘へ駆け寄ろうとするセファイドをシャルナグが押さえつけて、落ちてくる燭台から守った。

 蝋燭が床で跳ね、散らばった紙片に炎が飛んだが、それを消しに行く者はいない。あまりの揺れに歩くことができないのだ。灯りがすべて消えて、室内は闇に包まれる。


 真下から突き上げる揺れは、次第に横方向への波に変わった。低い地鳴りのような音が響いている。


 次々と書架や棚が倒れた。重量のある執務机までが動き始めて、その抽斗の中身をぶちまける。天井から細かな埃が降ってくる。


 巨人が建物を揺さぶっているに違いない――ナタレの胸にしがみつきながら、リリンスはそう思った。他に部屋が揺れる原因など、彼女には考えつかなかった。逃げようにも足が竦んでしまって、ただただ身を伏せて、彼女は揺れが収まるのを待った。


 横揺れはずいぶん長い時間続いた。その場にいる者にとっては、夜が明けるのではないかと思えるほどの時間だった。

 やがて徐々に揺れが小さくなり、倒れた家具が音を立てなくなった頃、ようやく彼らは身を起こすことができた。


 床のそこかしこで、燭台から落ちた蝋燭の炎が書類に燃え移っている。侍従や衛兵が慌てて駆け寄り、足で踏みつけて消し止めた。


「皆……無事か?」


 セファイドは立ち上がって周囲を見回した。

 彼の上に覆い被さっていたシャルナグは、首筋に手を当てて顔をしかめている。机から飛び出してきた抽斗の角で打ちつけたらしい。


「リリンス」

「だ……大丈夫です」


 リリンスはナタレの手を借りて立ち上がった。全身がぶるぶると震え、足に力が入らない。ナタレに支えられないと倒れてしまいそうだった。

 セファイドは娘の無事を確認して安堵の表情を浮かべる。他の者にも大きな怪我はないようだった。


 散乱した書類や家具を避けて、彼が執務室の出口へ向かおうとすると、別室で待機していたエンバスと役人たちが、息せき切って駆け込んできた。彼らも揺れが収まるまで動けなかったらしい。この国の民の誰も体験したことのない揺れだったのだ。

 彼らの持ち込んだ新しい蝋燭で、ようやく室内は明るくなった。


「王妃と王子たちの無事を確認してくれ。他にも負傷者がいれば手当てを」

「かしこまりました。実はリリンス殿下付きの女官がひとり、怪我を――」

「誰!?」


 エンバスの報告に、リリンスが血相を変えた。


「筆頭侍女のキーエ殿です。私たちと同じ部屋でいたのですが、倒れた棚の下敷きに。今、衛兵が助け出したところです」


 お助けできずに申し訳ございません、とエンバスは白髪混じりの頭を下げ、リリンスは強張った表情のまま勢いよく身を翻した。キーエの様子を見に行こうとしたのだ。

 ナタレがそれを引き止める。


「いけません。外の安全が確保できるまでここにいて下さい」

「でも……」

「ここにいなさい、リリンス。さっきのあれがまた起きるかもしれん」


 セファイドは厳しく告げて、王宮の被害状況を調べるようエンバスらに命じた。

 役人と衛兵が散り散りに立ち去る。その間に侍従たちが転倒した家具を元に戻し、砕けた燭台を片づけ、本や書類を拾い集めた。

 ナタレもそれを手伝おうとしたのだが、できなかった。リリンスが彼の腕をぎゅっと握って離そうとしなかったのだ。


 リリンスは混乱しきっていた。兄の反逆に動揺していたところへこの大きな揺れを体験して、しかもキーエが負傷したと聞いて、もう何が何だか分からなくなっていた。侍従が二人がかりで重そうに書架を持ち上げているのを見て、心底ゾッとした。ナタレが庇わなければ、彼女は今頃あの下敷きになっていたかもしれないのだ。


「ナタレ……あんなふうに部屋が……地面が揺れるなんて、経験ある?」

「いえ……俺も初めてです。床の下に何かがいるみたいだった。まだ足元が揺れているように思えます」

「私もよ。気持ちが悪いわ。あれはいったい……」

「地震、ですよ」


 静かな声が部屋に入って来た。入口に吊り下げられた麻布の前に、いつの間にかサリエルが立っていた。三日月を思わせる麗姿は、あれほどの揺れに襲われた直後にも拘らず、乱れというものを知らない。


「お声もかけずに無礼をいたしました。さきほどの揺れは地震――大地が震動する現象です」


 サリエルは慎ましく頭を垂れ、しかし物怖じしない足取りで入室してきた。彼の後ろには神官のカイが続く。アルサイ湖の埠頭で救助された彼は、借り物の上着に袖を通していた。

 意外な取り合わせに、そして聞き慣れない単語に、セファイドがわずかに眉を上げる。


「地震? そういえば文献で読んだことがある。時として激しい揺れが地形の変化をもたらすことすらあるとか。さっきのがそれだと言うのか?」

「はい。私は旅の途中に何度か経験があります。この国では珍しい現象のようですが」

「珍しいも何も、建国以来記録がない。なぜ突然それが起きたんだ?」

「陛下、畏れながら――」


 黙ったままのカイが、やにわに口を挟んだ。身体を温めて休んだはずなのに、病人のように蒼褪めた顔をしている。その顔色と細かく震える唇が、今から彼が告げる内容の重大さを予想させた。


「神罰にございます」

「何だと?」

「この地震は月神のご意志。オドナス王国に、アルハ神の神罰が下ったのです」


 掠れる声ながらはっきりとカイは言い切り、サリエルを除く全員が――セファイドまでもが、一瞬意味を図り兼ねて言葉を失った。

 そしてすぐに、空気が凍りついた。





 この日未明に起きた地震により、王宮では十数名の負傷者が発生した。

 倒れた家具の下敷きになった者、割れた硝子で手足を切った者、ボヤを消し止めようとして火傷を負った者――初めて経験する強い揺れに避難が遅れたのが原因である。死者が出なかったのが不幸中の幸いではあった。キーエも右足首を骨折したが、命に係わるほどの怪我ではなかった。


 建物への影響は少なかった。

 家具の転倒や落下した調度品の破損はあったものの、建造物そのものの損壊はほとんどなかった。現国王が即位後すぐに行った改修工事が功を奏したのかもしれない。古い石壁の一部が崩れた程度で済んだのだった。 


 一方、王都全体に目を移すと、やはりその被害は大きかった。

 街の北部にある貴族たちの堅牢な邸宅や、大通りに面した大規模な商店は比較的無事だったが、街の南部、一般市民の居住地区は相当な被害を受けた。気候柄、家屋の多くが柱や壁の少ない造りで、強く長い揺れに耐えられなかったのだ。

 また地震とほぼ同時に火災も発生して、住居の密集した区域だけに延焼が激しかった。午前の内にすべて鎮火したのは、街中に張り巡らされた水路と、消火活動に特化した王軍の専門組織が見事に機能したからだが、多くの家屋が焼失してしまった。 


 後の報告によると、二千六百十五棟が全壊または全焼し、負傷者の数は三千人を超えた。死者も二百二十人に上り、その多くは逃げ遅れて圧死した者たちだった。そして実に一万人が住む場所を失って、王都は被災者で溢れた。

 彼らの当面の居処に充てるため、国王はその日のうちに公共施設と王宮の一部を解放した。また、貴族や豪商の中にも使用していない屋敷を提供する者がいて、最初の混乱は徐々に収まる気配を見せた。 


 だが、救出作業や消火活動、被災者の誘導や物資の配給などのために多数の人員を割かれた王軍では、出奔した南部知事の追撃を延期せざるを得なくなった。

 今後王都の治安が悪化することも予想され、憲兵隊への応援も必要になってくるだろう。まさに最悪の時期に起こった天災であった。

 




 この度の地震は月神アルハの神罰である――翌日、中央神殿から早々に正式発表が出された。

 さらに神殿の見解によると、その原因は、王兄にして南部知事のフェクダが中央神殿を蹂躙し、神官長ユージュを誘拐したことにある。一刻も早くフェクダを捕縛して神官長を奪還せねば、今後も神罰は続くであろう。

 建国以来初めて下ったアルハの神罰――オドナスの民が初めて体験する激しい揺れは、まさにそれに相応しい災いだった。しかも最初の大きな揺れの後も、断続的に小規模な揺れが発生していた。余震である。


 動揺の広がる王都に向けて、国王は、王兄は国家転覆を企てる逆賊であると声明を出した。王軍の総力を挙げて討ち取り、謀反人に月神の裁きを受けさせねばならない。


 内乱か、と誰もが暗澹たる思いを抱いた。現国王の元でようやく築かれた平和は盤石であったはずなのに、まさか王族の中からそれを乱す者が現れるとは。だが王兄の暴挙が神罰を招いた以上、解決策はひとつしかなかった。

 誰よりも敬虔な信徒であるべき王族のフェクダが神殿を荒したから、アルハが罰を下した。ゆえにフェクダを弑さねばならない。その理屈はひどく明快で説得力があり、王都の民はすんなりと納得したようだった。


 だから――伝統を無視して王女が王太子に選ばれたことが神罰を招いたのだと、そう考える者は現れずにすんだ。


 地震の後、間髪を入れずに神殿が神罰を認めたことで、民の間に余計な噂や憶測が流布するのを防いだ。そしてその原因を個人の行為に帰結させ、逆賊の討伐に大義名分を持たせると同時に、番狂わせの後継者選出劇への批判を逸らせる。

 最悪の時期に起きた天災を、国王は逆に利用したのであった。


 だが、王兄の側も黙ってはいなかった。

 地震から三日の後に、ある文書が王都にばら撒かれたのである。


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