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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
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水音

 東の空の低い位置に、欠けた月が昇る。

 満月の夜よりその力を弱めた神の姿は、暗い湖面に銀色の光を薄く投げていた。裁きを下すとされる厳しい言い伝えに似つかわしくない、優しく穏やかな光だった。弱い風はあるものの、アルサイ湖も鏡のように凪いでいる。


 冷たい湿度と、遥か彼方から運ばれてくる森の匂いに、ナタレは大きく息を吸いこんだ。

 投げ出した両足のすぐ下で、小波が規則的な音を立てている。たまに飛沫が靴先を濡らしたが、彼は気にしなかった。


 王宮の埠頭である。堤防をくりぬいた門から屋根のついた船着場まで、木でできた桟橋が繋がっている。ナタレはその端に腰を下ろして、ぼんやりと月を眺めていた。

 水に映る月の姿を、ナタレは王都に来て初めて見た。草原と砂漠しか知らない彼の目には、その風景は恐ろしいほど幻想的に映った。三年近く経った今でもそれは変わらない。アルハ信徒ではない彼にも、月は等しく同じ光を投げかけていた。


 いずれは女王を支える一人になってほしい――思ってもみなかった国王からの言葉を受け、ナタレは混乱していた。

 自分の使命はロタセイの王となり同胞を守ることだと、彼は信じてきた。そのために今まで人質の身分に甘んじてきたのだ。なのにここへきて王都へ残留する道を示されるとは。

 有り得ない、と一蹴できなかったのが自分でも不思議だった。それどころかひどく気持ちが揺れている。有り体に言えば、彼は国王の申し出に惹きつけられているのだった。


 このまま王宮に留まり、いずれ王位を継承するリリンスの傍で一生――そう、一生。


 妙な熱気が心臓に籠ってくるような気がして、ナタレは髪を掻き毟った。それは明らかに快感で、同時に強烈な罪悪感を抱かせる。

 ロタセイを継ぐべき王太子がオドナスの中枢に取り込まれるなど、ナタレにとっては祖国に対する裏切りにしか思えなかった。彼の代わりに故郷を守っている兄ハザンがこのことを知れば、何と言って罵るだろうか。

 いくら考えても答えは出ず、ナタレは長いことその場から動かなかった。弱いとはいえ夜風に当たり続けて、すっかり身体が冷え切ってしまった。


 ゆるゆると昇ってゆく月を目で追っていたナタレが、ふと瞬きをし、振り向いた。木製の桟橋に小さな足音が響いたからだ。

 十歩ほど岸よりの所に、ほっそりした人影が佇んでいた。向こうも彼に気づいて歩みを止めたようだった。


「ナタレ?」


 聞き慣れた声が彼の名を呼び、その声の主はさっきよりも速足で近づいてきた――リリンスである。

 一瞬ぽかんとしてしまったナタレは、我に返って立ち上がった。


「姫さ……いえ、殿下、なぜこのような場所に……?」

「落ち着かなくて……月が見たくなって」


 深夜になっても寝つけずにここへ来たナタレと同じような心境を、リリンスは吐露する。彼女は夜着の上に外套を引っかけた格好だった。夜着の薄い裾から白い足首が透けて見えて、ナタレは慌てて目を逸らす。


「座ってくれない? 私も座るから。ここ、凄く綺麗に月が見えるね」


 リリンスは桟橋の端に腰を下ろし、月光を全身に浴びた。それから両手を胸の前で組み合わせて、祈るように頭を垂れる。銀色の天体は、彼女にとって神の姿に他ならない。

 ナタレは戸惑って周囲を見渡す。桟橋を戻った先、堤防に繋がる鉄扉の前に、数人の男女が立っているのが見えた。遠目だが女の一人はキーエらしかった。残りは衛兵なのだろう。


「勝手に抜け出したりしてません。私だって学習したわよ」


 彼の心中を察したのか、リリンスは苦笑混じりにそう言った。ナタレは観念して彼女の隣に座った。ここで王女を放り出して帰るわけにはいかない。


「ここのところ忙しかったでしょ? 私のせいで面倒かけちゃうわね」


 座ったはいいが言葉の出てこないナタレに、リリンスは気軽な調子で話しかけた。その瞳は穏やかな水面を眺めている。


「殿下のせいではありませんよ。殿下こそ……お忙しいでしょう?」

「もうね、何が何だか……お父様はとにかく人に会えっておっしゃって、お客様が次々やってくるのよ。この二日で何人と会っただろう」


 リリンスは指を折りながら、ぶつぶつと面会した客人の名前を呟く。

 王太子に決まった第三王女の元へは次々に謁見希望者が訪れ、セファイドもそれを許していた。なるべくたくさんの人間を彼女に引き合わせ、王国の中枢にいる者たちの人となりを直接教えようとしている。そうすることで、若い王女にまずは国政の構図を覚え込ませるつもりらしい。


「明後日からは、会議にも同席するようにって。頭の中が満杯で熱が出そうよ」

「ついて行けそうにないですか?」

「それがそうでもなくてね……意外と彼らの話していることは理解できるの。考えてみれば今まで私、結構勉強してたから」


 あっけらかんとした答えに、ナタレは思わず微笑んだ。リリンスは知識欲が旺盛で、服装や美容の流行から、最新の自然科学、経済学、政治学まで等しく興味を持った。父に頼み込んで専門家の講義を受けることもしばしばだった。

 ちゃんと基礎はできてるのか――そう思って少し安心したナタレの隣で、


「でもね、兄様ならもっとうまくやれるはず」


 と、リリンスは呟いた。

 少女の細い肩がますます頼りなげに見えた。あんな酷いことをされても兄を慕っているのだと、ナタレの胸が痛んだ、その痛みが嫉妬だとは思いたくなかった。

 彼はそっとリリンスの横顔を窺う。


「王位を継ぐのは嫌ですか?」


 ずばりと訊かれて、リリンスはナタレを見た。


「嫌も何も……そう決まったんだから、やる他ないでしょ」

「俺が伺いたいのは、あなた自身がどうしたいのかです」


 あなた自身はどうかって訊いてるのよ――かつて王都の路地裏でリリンスに投げられた問いを、今度は逆に投げ返している。あの時のナタレは建前の返答しかできなかった。


「国王陛下にお仕えして分かったことがあります。あの方は国王職を心から楽しんでいらっしゃる。どんなに大変な時でも、なりたくてなったのだからと腹を括っておいでです。だから軸がぶれない。陛下が名君と謳われるのはそのせいなんでしょう」


 ナタレがセファイドに関して批評めいたことを口にするのは初めてだった。リリンスが神妙に聞いているのは、娘の立場からも同様に見えているからか。


「姫様は、ご自分のしたいことよりすべきことを優先する強い方です。でも一生が決まる決断だからこそ、今それをしたいのかどうか、ご自身によく問いかけてほしいんです」


 語りながら彼は気づいた。自分も同じだ――すべきことではなくしたいことを、本当はとっくに知っている。

 リリンスは視線を水面に戻した。ほの白い頬に小波が揺れている。


「じゃあ、もし私が……王位を継ぎたくないって言ったら……」


 そう言って勢いよく顔を上げた。


「ナタレ、私を連れて逃げてくれる?」


 絶句してしまったナタレを彼女は見据えた。怖いほどに真剣で挑戦的な瞳である。

 射竦められて、ナタレは動けなくなる。背筋を駆け上ってきたのは戦慄と高揚だった。


 リリンスはふっと微笑んだ。別人のように無邪気な笑み。


「冗談よ」

「リリンス様……」

「ナタレの言う通りだわ。すべきことだからって理由付けは、自分に対して卑怯よね。私――本当はやってみたいのよ」


 彼女は肩にかかる髪を払った。花の香りが仄かに漂う。


「昔からアノルト兄様が羨ましかった。自分のしたいことを堂々と口に出せて、みんなから期待されて……私も男だったらああなれたのにって思ってた。他国に嫁ぐことでしかオドナスの役に立てないなんて、本当は凄く悔しかったの」


 ナタレは思わず自分の右手を見た。隣に座ったリリンスの左手がそこに重ねられたからだ。柔らかな掌は温かく、少し震えていた。


「私、オドナス国王になるわ。誰よりも私自身が望んだことだから、頑張れる」

「きっと大丈夫ですよ……あなたなら」


 ナタレは彼女の手を握り返した。

 同じ体温と鼓動が伝わってくる。十六歳の少女の凛とした決意が伝わってくる。それは静かでありながらとてつもない熱量を持っていて、彼は自分が巻き込まれそうになるのを感じた。その感覚はひどく心地よい。


「ナタレ、私……」


 リリンスは唇を震わせた。青白い月光に色を奪われていても、その頬が紅潮しているのは分かった。

 続く言葉を聞くのが空恐ろしくて、ナタレが息を飲んだ時――。


 激しい水音が彼らの足元から聞こえた。

 風による小波ではない。何か質量のある物体が立てる音だ。しんと静まり返った湖面で、それは生々しく響いた。

 ナタレは即座にリリンスの手を引いて立たせ、桟橋の中央へ、水面から離れた場所へ移動させた。


「な、何!?」

「ここを動かないで。衛兵!」


 堤防脇に待機する護衛たちに手を振って合図してから、彼は耳を澄ませた。

 また水音がした。彼らのいる場所より少し船着場寄りの、桟橋の真下である。

 異変に気づいたキーエと衛兵たちが足早にやって来た。木板がギシギシと軋む。


「橋の下に何かいます。殿下を安全な所へ」


 ナタレはリリンスをキーエに任せて、音のした方へ駆け寄った。

 

 桟橋の端にしゃがんで身を乗り出すと、水面が波立っているのが目に入った。人の呻き声のようなものも聞こえる。後を追ってきた衛兵の一人から松明を受け取り、彼はその場に寝そべって桟橋の下を覗き込んだ。

 暗殺者が潜んでいたら、と考えた。剣先が木板を貫いて突き上げられる様を想像してヒヤリとしたが、これだけ物音を立てている以上それは有り得ないと判断した。


「そこに誰かいるのか!?」


 松明の灯りに照らし出されたのは――桟橋の柱にしがみついた若い男だった。首まで水に浸かって、今にも沈んでいきそうな様子である。顔を上に向けて辛うじて呼吸をしている。

 蒼白になったその男の顔に、ナタレは見覚えがあった。


「カイ神官!」


 中央神殿の神官がなぜこんな所で溺れかかっているのか、疑問に思う前に、ナタレは湖へ飛び込んでいた。

 水温は意外なほど低い。草原に育ったナタレはあまり泳ぎは得意でなかったが、ぐったりしたカイの胴を夢中で抱えた。桟橋から衛兵たちが手を伸ばして、彼の服を掴んだ。


 数人がかりで引き上げられたカイは、激しく咳込んで水を吐いた。全身ずぶぬれでガタガタと震えている。衛兵が軍服の上着を脱いで、凍えきった彼の身体を包んだ。


「どうしたんですかカイさん!? いったい何があったんです?」


 続いて上がってきたナタレが膝をついて尋ねると、カイは喘ぎながらも彼の腕を掴んだ。その指も氷のように冷え切っている。

 途切れ途切れの声で懸命に何かを喋るのだが、それはまったく聞き覚えのない言語で、ナタレは当惑した。ただ、ユージュ、とだけは聞き取れた。


「神官長猊下がどうかなさったのですか? 落ち着いて、オドナス語で話して下さい」

「ユ……ユージュが攫われた……」


 紫色をした唇が、ようやくこの国の言葉を発した。

 彼は必死の形相でナタレにしがみついてきた。


「攫われたんだ! 南部知事に……フェクダ殿下に連れて行かれた!」





 フェクダは約百名の手勢を連れて中央神殿に侵入し、神官長ユージュの身柄を略取した。

 ユージュが抵抗を禁じたため神官たちに危害は加えられなかったが、王宮から派遣されていた衛兵のほとんどが奇襲を受けて殺害された。中島の船着場から丘の上の神殿に至る坂道には、兵士の遺骸が累々と横たわっていたという。


 夜明けに交代の衛兵隊がやって来るまで決して動くな、と他の神官たちに言い残して、フェクダの一団は舟で夜の湖へと消えた。神殿の舟はすべて沈められていた。

 どうにか縛めを解いた神官たちは、一刻も早く事態を王宮へ知らせるべく、湖を泳いで渡ることを決断した。火を焚いて合図を送るという手段もあったが、フェクダの目に留まればユージュの身に危険が及ぶかもしれない。


 こうして、カイをはじめ若い男性神官四人が、王宮灯りを目指して真っ暗な水の中を泳ぎ出したのだった。

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