選択肢
王宮の門を潜って出て行く第一王子の行啓団を、セファイドは広場奥のテラスに立って見送った。
二千騎の人と駱駝は、整然と歩調を合わせて暮れなずむ街並みの方へと消えてゆく。松明に照らされた広場には、土埃と人間の気配だけが残った。
セファイドの傍らで同じく旅立ちを見守っていたタルーシアは、息子の姿が見えなくなるとすぐに建物の中へと戻っていった。夫には一言もかけない。艶麗な美貌は、夕闇の中でもそうと分かるほど蒼褪めていた。
タルーシアが立ち去った後も、セファイドはしばしその場に佇んでいたが、やがてゆっくりと踵を返した。背後に控えていた侍従たちも彼に付き従う。
それを合図のように門兵が門を閉じ、係の役人たちが駱駝の足跡の残った広場を掃き清め始めた。アノルトの滞在した痕跡は、瞬く間に消されてしまう。
息子を送り出し、自室へ戻るセファイドの斜め後ろから、ナタレはその横顔を窺った。
淡々とした表情だが、疲労の陰が滲んでいる。この二日間、謁見者が増加したせいで肉体的に疲れているのだろう。しかし――。
この男でも自分の下した決断に煩悶することがあるのか――ナタレは意外だった。予定調和を覆した王太子の指名は、ナタレの想像の範疇を超えていたが、国王にとっては絶対の自信に基づく決定だと思っていたのだ。
その事実はそのまま、リリンスが今後もオドナスに留まることを意味する。ナタレの胸中は複雑だった。
これからあの少女に伸し掛かるであろう重圧を思うと痛々しくて堪らなかった。また、兄を退けた罪悪感を抱いているのではと心配でもある。あの時のアノルトではないが、よくもそんなものを彼女に背負わせてくれたなと、セファイドを恨めしくさえ思った。
風紋殿へと続く回廊の半ばまで差しかかった頃、セファイドは歩きながら背後を見やった。
「……残りの仕事は明日の朝にしてくれ。少し疲れた」
苦笑の混じった声だった。謁見に時間を取られたせいで、本来ならば深夜までかかるほどの業務が残っている。
エンバスは焦ったふうもなく首肯する。
「かしこまりました。ではすぐに夕餉のご用意を」
「ああ、頼む。他の皆はもう下がっていい」
侍従たちの間にほっとした空気が流れた。彼らもまた疲弊していたのだ。ようやく帰って休めるぞと、口には出さないがそんな安堵感が伝わってきて、ナタレは息をついた。
風紋殿の入口に着くと、エンバスは食事の用意を指示するために厨房へ向かい、他の侍従たちは解散となった。ナタレも一礼して引き返そうとすると、
「おまえは一緒に来い。用がある」
と、セファイドに呼び止められてしまった。
断るわけにもいかず、ナタレはやや緊張しながら彼の後について行った。
無人の執務室には半数ほどの燭台に灯りが点いており、薄明るかった。すべての蝋燭を灯せば、深夜の業務にも支障が出ないくらいの明るさが保たれる。
セファイドは黒檀の机に置かれた文箱を開けて、中から数枚の紙片を取り出した。びっしりと書かれた文字の最後に大きな印影が見えて、それが手紙だとナタレにも分かった。
「東部知事からの上申書だ。ロタセイの状況についての」
予想もしていなかった国王の言葉に、ナタレの鼓動が跳ね上がった。背中の筋肉が強張り、喉の奥に唾が溜まる。
「故郷に……ロタセイに何かあったのですか……?」
彼の郷里であるロタセイは、二年前にオドナスに対して反乱を起こした。それは当時の東部知事の圧政に対する抗議行動であったが、失敗に終わり、王権の停止と自治権の剥奪の処分が下された。
誇り高いロタセイの民にとっては屈辱的な扱いであっただろう。だが、これがもし大逆罪で裁かれていたなら、当然にナタレをはじめ王族の命はなかったのだ。ロタセイと知事との私怨による諍いと見なされ、より軽い騒乱罪で済んだのは、ナタレの必死の訴えが通じたからだった。
彼の地を統治する東部知事からの上申書――まさか処遇に不満を持つロタセイの民が暴発したのではと、ナタレの背が冷たくなった。
「まあそんな怖い顔をするな。いい知らせだ」
セファイドは苦笑して、手紙を机上に戻す
「ロタセイはこの二年間、実に忠実に従順に東方の守備に務めていると――ついては、彼らの行動にもっと自由度を与え、さらに広く活用したいとのことだ。俺も、そろそろ制限を解除する頃合いだと思っている」
ナタレは一瞬言葉が出なかった。今か今かと待ち侘びた国王の決定なのに、にわかには信じられなかった。
「で、では、王権を……」
「近々返還するつもりだ。併せて自治権も回復させる」
「あ、ありがとうございます!」
彼は勢いよく頭を下げ、そのまま床に膝をついた。
喜びよりも驚きが先に立つ。セファイドが王座にいる限りロタセイの状況は変わらないのではないのかと、ナタレはそんな絶望的な気持ちさえ抱いていたのだ。
「心から感謝いたします、陛下。故郷の民がどれほど喜ぶか……」
「それでナタレ、おまえの処遇についても考えねばならんな」
「私の、ですか?」
顔を上げたナタレを、セファイドは腕を組んで見下ろした。
「ロタセイに王権を戻す以上、成人した王太子をいつまでも王都に留め置くわけにはいかない。おまえは故郷に戻り、正式にロタセイ王として即位せねば」
それはまったくの正論で、ナタレは恐縮して肯くしかなかった。
人質として王都に送られてから約三年――夢にまで見た故郷へ帰る日が来たのだ。父亡き後異母兄が守ってきた祖国へ、新王として、ようやく。
「どうした、あまり嬉しそうではないな?」
訊かれて、彼は自分の身体から力が抜けていることに気付いた。本来ならば、喜びのあまり跳び上がってしまってもおかしくないはずなのに。
「いえ、あの、あまりに急なお話で、驚いてしまって」
「ならいいが――おまえが望めば、他の選択肢もあるのだぞ」
「他の……とは、どういう意味でしょうか?」
「このまま王都に留まり、中央の廷臣として勤める道だ」
ナタレはまたもや言葉を失った。国王の意向は予想すらしていなかったもので、彼は自分の耳を疑った。
セファイドは顎をなぞりながら、視線を宙に彷徨わせた。その様子は、彼自身まだ少し迷っているふうでもある。
「ナタレ、おまえ、リリンスの即位についてどう考える?」
いきなり問われて、ナタレは戸惑う。
「私などが意見を申し上げるべきことでは……」
「いや、正直に言ってみなさい。勤務時間外の非公式な場だ」
「……最初はとても驚きました。これから姫様が……いえ、リリンス殿下がどれほどご苦労されるかと思うと、心が痛みます」
訥々と、だが率直に語る彼を、セファイドは黙って見詰めている。その眼差しは決して冷ややかではなく、ナタレは覚悟を決めた。
「けれど一方で、不思議なほど納得ができるのです。殿下のお傍でそのお振る舞いを拝見して、次代の国王になるべきお方だと、ごく自然にそう思えます」
「……ほう」
「以前に私がお供をして王都の街に出た際、市場で窃盗犯に遭遇して、殿下は何の迷いもなく立ち向かってゆかれました。暴漢に囲まれた時でさえ、恐れることはなかった。私が至らぬばかりにお怪我を負わせてしまったのは、本当にお詫びのしようもないのですが……」
ナタレの言葉は国王へのへつらいではなく、素直な思いだった。
あの時、コソ泥どもを叱りつけた堂々とした態度、窮地に立っても恐れない心の強さ――リリンスはアノルト以上に父親の血を濃く引いていると感じる。
それに何よりも、二年前のあの出来事――故郷の反乱で自害を決意したナタレを、彼女は力尽くで奮い立たせた。その毅然とした態度と現実的な考え方に、彼は畏怖の念すら抱いている。
「あの会合の場で陛下が仰せになった通り、畏れながら、リリンス殿下は大国オドナスに相応しく、ご聡明さとお優しさを併せ持つ女王になられるものと確信しております」
敢然と言い切ったナタレは、頬をわずかに紅潮させていた。故郷への帰還許可を告げられた時よりも、ずっと生き生きとした表情だった。
セファイドはそんな少年を眺め、立ちなさい、と言った。
「おまえはあの子の良き理解者になれそうだ。俺自身も……優秀な側近候補を手放すのは少々惜しい」
ナタレはためらいがちに立ち上がった。
セファイドは彼に歩み寄り、その二の腕の辺りを軽く叩く――励ますように。
「王宮に残りたいのであれば、ここで学ばせてやる。そしていずれは女王を支える一人になってほしい」
「わ、私に……故郷を捨てよと?」
「帰りたいのならば、もちろんそれもよいだろう。自分で考えて決めなさい」
ごく静かな語りかけではあったが、ナタレは首筋に鳥肌が立つのを感じた。
思いもよらないセファイドからの勧誘は彼を混乱させ、そして誘惑したのだ。自分の将来にそのような道があるとは、彼はこれまで考えたこともなかった。
「あまり長くは待てないぞ」
ナタレの心中を察したのかどうか、セファイドは残酷なほど優しく微笑んだ。
「妻を泣かせてしまったよ」
溜息のような声に、弦を押さえていた白い指の動きが、ふと止まった。
平素ならば話しかけられても演奏は止めない。だがいつもとは違う響きを聞きつけて、サリエルは右手の弓を弦から離した。
顔を上げる楽師の前で、セファイドはその長身を幅の広い長椅子に投げ出していた。手にした煙管の先から、細い煙がゆっくりと立ち上っている。彼はそれが薄闇の中に消えてゆくのを眺めていた。
仕事を早めに切り上げたセファイドは、夕食の後、自室にサリエルを呼び寄せた。久方ぶりの対面である。予算会議から王太子の指名が終わるまで彼は多忙だったので、このところ演奏を聴くことはおろか、言葉を交わすことすらできなかった。
サリエルの方でも、王都に集まった王族から連日連夜招待を受けて忙しい日々が続いていた。それなのに今夜に限っては、まるで国王から呼ばれるのを予測していたかのごとく、彼は身体を空けていたのだった。
「……正妃様はずいぶんお気落ちをなさったご様子でした」
「愚痴を垂れずに見舞いに行けとでも言いたそうだな」
「後悔しておいでですか?」
再び、弦の緩い音色が流れ始めた。冴やかな月の光を思わせる、静かで物寂しい旋律である。
セファイドはくすりと笑って、煙管の吸口に口をつけた。
「皮肉なものだな。俺は結局、父と同じことをしてしまった」
才気と野心に溢れたセファイドではなく、凡庸な長兄を後継に選んだ先代のオドナス国王――小国の安寧を守るか、大国の内部を固めるか、目的の差こそあれ、最も王位を望んだ子を排除した意味では同じだ。
呼気とともに新たな煙が立ち上っていく。長椅子の傍らに腰を下ろしたサリエルは、彼の方を見ようとはせず、よくできた彫刻のように表情を変えなかった。
しばしの間沈黙が下りて、ヴィオルの艶めいた音だけが空気を震わせた。
「リリンスのことはほとんど心配していないんだ」
やがて、セファイドが天井を見詰めたまま呟いた。
「きっとよい国王になる。本人も努力するだろうが、周囲が放っておかない。あの子には他人の好意を惹きつける才能があるようだ」
「では、ご懸念なさっているのはアノルト殿下の方なのですね」
「アノルトには……少し無理をさせすぎたかもしれん」
彼の声には、国王としての洞察と、父親としての労りが入り混じっていた。
「あいつは子供たちの中でずば抜けて優秀で、際限のない親の期待に見事に応えてくれた。それができるから、今手の中にあるものだけでは物足りなく思えるんだろう。あいつの背中を先へ先へと押し続けたのは、他でもない俺なんだがな」
彼は自分の右手をじっと見た。王都を発つ息子の肩は硬く強張り、震えていたのだ。
自らに言い聞かせるように、続ける。
「……頭のいい子だ、時間はかかっても理解してくれるとは思う」
「理解と受容は違います。陛下は、ご家族の平穏よりも国家の安定を望まれたのですね」
ごく淡々とサリエルは言う。必要以上に同情的でも批判的でもない態度は、彼が信用される理由のひとつだ。
セファイドは億劫そうに長椅子から身を乗り出して、煙草盆に煙管の灰を落とした。煙管を置き、頭の後ろで両腕を組む。
「国も時代も変わる。当然、頂点に立つ人間の質も変わるべきだ」
「仰せの通りです。変わらないものはない――それはアノルト殿下についても言えることですが」
サリエルは手元に落としていた視線を初めて上げた。他のどの人間も持ち得ない、不思議な銀細工の瞳がセファイドを捕えた。
「オドナスが求める国王の姿へ、いずれご子息が変わってゆく可能性もあると、そうはお考えにならなかったのですか?」
月夜のアルサイ湖面のような、冷ややかに凪いだ眼差しだった。そこに宿っているのは怒りではなく、むしろ薄い悲しみに似たものをセファイドは感じた。
若さゆえの挑戦的な野心が、経験を積むことで軟化し、寛容さと慎重さに変わる日がくるかもしれない。国の変化をやむなしと考えるセファイドがアノルトの変容を想像できないのは、すなわち、息子に絶対の信頼を寄せていないからだとも取れる。
自らによく似たアノルトを信頼できない――父の無意識の思いを、息子は敏感に感じ取っているかもしれない。
「アノルトを信じてやれば、家族の平穏も国家の安定も守れたか?」
「分かりません。ただ……陛下がアノルト殿下ならば、この先どうなさるでしょうか?」
セファイドは黙ってサリエルを見詰めた。引き締めた口元に明らかな苦悶が刻まれる。
さらに言葉を繋ごうとして――サリエルは突然演奏を止めた。
何かに注意を惹かれたように、その首をゆっくりと部屋の奥へ向ける。絹張りの広い寝台が設えてあって、その向こうは広く取った窓だった。夜風が寝台の天蓋をふわりと揺らしている。
白々とした美貌が曇っているのに気づいて、セファイドは眉根を寄せた。
「どうした?」
「いえ……」
慎ましくそう答える楽師の瞳は、窓の外の湖に、その先にあるはずの中島に向けられているようだった。
その地で起こった異変を感知したかのごとく。




