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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
34/80

残照

 第三王女リリンスが王太子に指名されたことは、翌日には王宮および王都に周知された。


 彼女の抜擢を承服し兼ねる者たちは、やはり少なからず現れた。

 アノルトが後継者になると目論んでいた廷臣たちは、すでに彼を頂点に据えた権力の枠組みを画策していた。現国王が退くのはまだ先の話だとしても、次世代の組織中枢へ入り込む布石は早めに打っておいた方がいい。特に若い貴族たちの中でその動きは顕著で、抜け目のない者たちは第一王子へと繋がる人脈を着々と構築していたのである。

 それが――すべて白紙に戻った。動揺が広がったのも無理からぬことだった。


 セファイドは、目論見の外れた者たちからの抗議じみた陳情をひとつ残らず受けた。大臣級の重臣であれ、実務を統括する高官であれ、その立場に関わらず直接の謁見を許したのである。

 謁見に怯んでしまう程度の者であれば、その意見は聞くに値しないと判断した。代わりに、希望者に対しては丁寧に対応した。通常業務に優先して謁見時間を増やし、セファイドはじっくりと自分の考えを伝えた。国王に対して異議を唱えられる人間がいることに、むしろ彼は喜んでいるようだった。


 一方、王都の市中では、リリンスの王太子拝命は好意的に受け入れられた。

 第三王女の生母が平民の女であると、正式には発表されていなくても、以前から噂として知れ渡っている。そのこともあって彼女の人気はもともと高かった。

 しかも最近は、お忍びで市中を歩いて悪者を退治したというではないか――そんな最新の噂も加わって、王都の住民は王女を歓迎していた。


 もちろん、アルハ神の意思を懸念する信心深い者たちは、王宮の内にも外にも数多くいた。中央神殿の神官たちは市中に出て、月神の許しを得たことを人々に説いて聞かせねばならなかった。


 ともあれ、国王の下した決定に対する混乱は、今のところ想定内のものと言えた。

 国内外の諸部族と国交のある国々への発表もなされているが、その反応が返ってくるまでしばらくかかるだろう。今後どのような反発があろうとも、隙のない体制を確立せねばならない――王宮の人間はそんなふうに腹を括り始めていた。


 たった一人、あまりにも王女に近しいある男を除いては。

 




 王太子の指名が下った三日後に、アノルトはドローブに向けて出立した。

 総督職に就いている彼は長く領地を空けるわけにはいかず、王都での会議が終わった以上留まる理由はなかったからだ。

 不自然ではない――だが少々性急だと誰もが思った。二人の弟王子を含め、一月後の立太式まで王都に残留を決めている王族も多い。やはり自らが選ばれなかったことにわだかまりを持っているのだと、周囲はある意味納得したのだった。


 夕刻の旅立ちとなった。 

 王宮正門前の広場には、アノルトとともにドローブへ出立する随行者と兵たち、総勢約二千名が集まっていた。総督府に仕える役人と、総督直属の軍団兵である。片道二ヶ月以上かけて砂の大地を渡ってきた精鋭揃いだった。

 すでに駱駝に跨り、アノルトの登場を待つばかりの男たちは、一様にどことなく沈んだ雰囲気だった。

 彼らの主人が王太子に指名されなかった事実は、すでに全員の知るところとなっている。砂除けのフードを被った屈強な兵士たちは、みな落胆の表情を浮かべていた。広場は奇妙な静けさに包まれている。 


 出発の時を告げるべき男は、謁見室で父と対面していた。

 夕映えの茜色が室内に溢れ、それに照らされたアノルトとセファイドはどちらも穏やかな表情をしていた。少し疲れているようでもある。


「しっかりやれと、リリンスにお伝え下さい」


 儀礼的な別れの挨拶を述べた後、アノルトはそう付け加えた。長い外套で身体を覆い、分厚い襟巻を巻いて、すでに旅の支度は整っている。


「父上のおっしゃった通り、俺は俺にしかできないことを成して参ります」

「アノルト、おまえ……本当にこれでよいのですか?」


 縋るような口調で言ったのは、セファイドの隣に座ったタルーシアであった。彼女は椅子から立ち上がり、息子の元へ歩み寄った。


「よもやこのようなことになろうとは……私は……おまえが不憫で」


 いつも通り綺麗に化粧を施してはいるが、その目元には黒い翳がこびりついている。この数日で、彼女は憔悴したように見えた。

 アノルトは母の手を取って首を振った。


「母上、ご心配を掛けて申し訳ございません。俺は大丈夫です。自分のいるべき場所で役目を果たすだけです」

「しかし、こんなに早く発たずとも……」

「あまり長く滞在すると、王都を去りがたくなってしまいますから。どうか我儘をお許し下さい」


 それは心から出た謝罪のようだった。アノルトがタルーシアの華奢な手を強く握り締めると、彼女はそれ以上言葉が出せず、項垂れた。

 お身体を大切に、と優しく言ってから、アノルトはセファイドに向き直った。


「では、これで失礼いたします、父上」

「おまえもしっかりやれ。アノルト、おまえは俺の大事な――自慢の息子だ」


 セファイドの返事もまた、平素と変わらなかった。温かく力強い、父の声。彼を後継者に選ばなかった父の。

 彼は立ち上がり、アノルトに近寄った。何の後ろめたさもない仕草で、息子の肩に手を乗せる。


「道中気をつけてな。また会おう」

「はい、必ず戻って来ます」


 アノルトは明るい眼差しで父を見上げて、はっきりと答えた。


 そのまま頭を下げ、数歩後ずさる。

 セファイドの掌は肩の形に曲げられたまま宙に残った。タルーシアは繋いだ手を最後まで離そうとしなかったが、アノルトはそれをそっと振り解いた。


 朱に染められた謁見室を、アノルトは静かに退出していった。長い外套の裾が名残りのように閃く。彼は一度も振り返らなかった。


 しんと静まり返った室内では、夫婦二人だけが立ち尽くしている。


「……あの子に何かあれば、私はあなたを決して許しません」


 息子の消えて行った出口をしばらく眺めていたタルーシアが、ぽつりと、そう言った。冷たく整った彼女の横顔は、隠し切れない怒りに震えていた。目尻にうっすらと涙が溜まっている。

 セファイドが何か言いかける前に、彼女は足早にその場から立ち去っていった。





 昼間の熱気を残した夕方の空気は気怠く生暖かった。西の地平から中天にかけては血のように赤く、東の空はすでに紺色に沈みかけていた。

 正門前広場に続く小道は、白い石壁に囲まれている。キルケはその石壁を背にして一人佇んでいた。光沢のある黒い絹の衣服を身にまとった歌姫は、長い睫毛に縁取られた両目を伏せ、じっと何かを待っているようだった。


 サクサクと静かな足音を響かせ、小道の奥から一頭の駱駝が近付いてきた。

 綺麗に手入れされた駱駝で、背には青いふさのついた鞍が取り付けられている。そしてその鞍にはアノルトが跨っていた。

 彼はキルケに気づいてふと駱駝を止めた。小道の向こうには王族のうまやがあるのだ。

 キルケは壁から離れて、深々とお辞儀をした――けじめをつけるように。豊かな髪を纏めた黒瑪瑙くろめのうの飾りが、きらりと西日跳ね返す。


「どうぞお気をつけて、殿下。道中、よい風と水に恵まれますよう」

「……見送りに来てくれたのか」


 自らと特別な関係を有する女を、アノルトは優しい目で見下ろした。異性に対する愛情とはやや違う、柔らかな親和感情の籠った眼差しだった。

 キルケは穏やかな微笑みを湛えて彼を見詰めていたが、


「一緒に来るか?」


 そう問われて、凛とした眉の辺りを曇らせた。


「私をドローブにお招き下さるのですか?」

「あなたは父上の傍では幸せにはなれない。自分でも分かっているだろう」

「殿下のお傍ならば幸せになれると?」

「ここにいるよりはマシだ。ドローブであなたが歌おうが歌うまいが、俺はどちらでも気にしないよ」


 キルケは笑みを消して、かすかに頬を震わせた。


「本気でおっしゃっているのならば、あまりにも私を見縊りすぎですわ」

「キルケ」


 アノルトは左手で駱駝の手綱を握ったまま、右手を彼女に差し出した。

 その腕に宿るのは彼の憐れみだっただろうか、それとも彼自身のすがるような渇望だっただろうか。


「馬鹿に……しないで」


 声に明かな怒気が籠ったが、彼は手を引かなかった。彼女の選択を見透かしているとでも言わんばかりに、ただ待っている。


 あまりにも赤い夕映えを見すぎたのか、キルケは目が眩むような気がした。手を差し延べる男の顔は陰になって、その輪郭しか分からない。

 傲慢で愚かしい――自分と同じ渇きを抱えた男。決して満たし合えない相手。本当の望みとは違うものだと分かり切っていた。

 すっと、キルケの手が上がる。自分でも意識しない動作で、彼女は足を踏み出していた。


「キルケ殿!」


 名を呼ばれて、キルケは動きを止めた。細められていた目が大きく開く。

 広場の方から足早に小道をやって来た偉丈夫は、シャルナグだった。王軍の最高責任者たる彼は、その身分に相応しい重たげな剣を腰に携えている。

 キルケは夢から覚めたように瞬きをし、伸ばした手を引っ込めた。

 シャルナグは髯に覆われた顔をしかめ、二人を交互に眺める。


「アノルト、勝手をしてもらっては困るな。キルケ殿は王都の宝だ」

「確かに……『オドナスの黒い歌姫』を独占するわけにはいきませんね」

「私に別れも告げずに出発するとは、水臭いじゃないか」


 彼の不機嫌そうな声はわざとらしく、アノルトよりもむしろキルケを気にしているのは明白だった。アノルトはそれに勘づき、苦笑を浮かべる。

 彼が駱駝から下りようとすると、シャルナグは表情を緩めてそれを押し止めた。上着の袖に覆われていても分かる逞しい腕を、武術の弟子へと差し出す。


「帰ってきたら、また飲もう」

「ありがとうございます」


 アノルトは身を乗り出してその手をしっかりと握った。皮膚の硬い大きな掌はとても温かく、情に厚い師の人柄が滲み出ていた。


「将軍は今回の……王太子の決定についてどうお考えですか?」


 いきなり問われても、シャルナグは動揺しなかった。

 彼もあの会合に出席し、国王と正妃、第一王子とのやり取りの一部始終を見守った人間である。当然、アノルトの異母妹に対する気持ちも。


「正直、リリンスには荷が重かろうとは思う。だが量の問題であって質ではない。あの子がその量に耐えられるようになるまで、微力ながら支えてやるつもりだ」


 シャルナグは真摯にそう答え、太い眉を寄せてアノルトを見上げた。


「おまえもそうだろう?」

「安心しました。リリンスには味方が大勢いる」


 アノルトは心底安堵したように息をつき、シャルナグの手を離した。


「では、俺はこれで――どうぞお幸せに」


 少し寂しげな言葉は、決してあてつけではなさそうだった。シャルナグは思わず隣のキルケに目をやったが、彼女は黙ってアノルトを見詰めているだけだった。


 アノルトはゆっくりと駱駝の首を巡らせ、それきり振り返ることもなく広場の方へ向かって行く。赤黒く陰り始めた空を背景に、その孤影は鮮やかに潔く見えた。

 キルケが目を閉じて祈るように俯いたのは、不吉な赤色と生ぬるい空気に胸騒ぎを感じたからかもしれない。そんな彼女の肩に手を添えようとして――シャルナグは躊躇した。

 彼の手が力なく垂れると同時に、キルケは呟いた。


「私はあの方と共に行ってもよかったんです。ここで歌うのに……少し疲れました」

「疲れたら休めばいい。キルケ殿、あなたはもっと自分を大事にすべきだ」

「あなたのそういうところ、嫌いです」


 キルケはこめかみに指を当て、顔を上げた。目つきには苛立ちが滲んでいる。


「あなたは優しい方だわ。私が何をしようが……誰と寝ようが、怒るどころかそうやって気遣って下さるのね。お人好しにも程があります。それとも臆病なだけ?」

「私には……あなたの行為に口出しする権利はない」

「だったらもう放っておいて下さい。半端な優しさは迷惑です」


 きっぱりと言い放って、キルケは勢いよく横を向いた。峻烈な拒絶の気配を感じて、シャルナグは言葉を失う。ただ、彼女の細いうなじが小刻みに震えているのに気付いて――。

 衝動的に、彼女の背中を抱き寄せていた。


「では……私はどうすればいい?」


 苦しげな呻きを聞き、こんな時でも自分を傷つけぬ程度の力で肩を包み込む腕の温かさを感じ、キルケは一瞬泣きそうに顔を歪めた。しかしすぐに首を振って、いつものように艶やかに笑う。


「今まで通り歌を聴いて下さいませ。これ以上踏み込まないで。私はこういう女なんです――シドニア様とは違う」

「キルケ殿はいつも『役割』を演じているだけだ。自分でも分からなくなってしまったのか? 私はあなたの本当の声が聞きたい」

「『役割』の放棄が許されるのならば、私は今すぐ国王陛下のねやに参りますわ」


 キルケは一歩前進した。シャルナグの両腕は簡単に彼女を解放する。強引に抱き留めることはどうしてもできなかった。

 肉体だけであれば、ただそれだけの繋がりであれば、自分が求めれば彼女は応えると分かっていてなお、彼にその選択肢は選べなかった。


「本当に優しい方」


 キルケは振り返り、衣服の襟元を直した。もう震えてはいない。口元に刻んだ完璧な微笑みは王国一の歌姫のものだったが、シャルナグを見詰める瞳の揺らぎには本心からの労りが感じられた。


「そのお優しさに相応しいお相手がきっといらっしゃいます。いつまでもこんな性悪女に引っ掛かっていては駄目ですよ」


 自嘲混じりにそう言い残して、彼女は身を翻した。立ち尽くすシャルナグの脇をすり抜け、広場とは反対方向へ小道を去ってゆく。かすかな香水の香りが暖かな空気に残った。


 いったい何度この後ろ姿を見送ったことか――シャルナグの胸を怒りに似た苦さが満たし、彼は歯を食い縛った。それは他でもない、自分自身に向けられたものだ。

 今日もまた引き止められない自分に対しての。

あとひと押しなのにね……。

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