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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
33/80

拉致

 彼女は小さなテーブルを挟んで女と対面していた。

 テーブルの上には葡萄酒で満たされた杯が二つと、つまみの料理が数皿。今、女が運んできたものだ。


「来てくれて嬉しいわ、エムゼさん。私も少し休憩にするから、ご一緒してもいい?」


 騒がしいその場で、女の声は柔らかく通った。何の気取りもない口調に、彼女は安堵して肯く。 

 王都の片隅にある、そこはごく庶民的な酒場だった。女は給仕係である。


 綺麗な人――彼女は眼前の女を見て今さらながらそう思う。仕事中であるため、長い髪は無造作に纏められ、顔にはほとんど化粧っ気がない。だからこそ、大きな目が印象的な清楚な顔立ちは、その造形の美しさを際立たせていた。


 最初はどんな女か確かめるために来た。それなのに――。


「別嬪さんが二人も揃っていいねえ。一緒に飲まねえかい?」


 隣のテーブルの男が鼻の下を伸ばして声をかけてきた。

 従業員である女はともかく、客として来た彼女の姿はいかにも目立つ。質素な装いをしてはいても、容姿も仕草も美しく洗練された彼女に、酔客たちは無遠慮な好奇心を向けている。

 明け透けな好色さに慣れない彼女が少し怯むと、男は馴れ馴れしく肩に手を伸ばしてくる。すかさず給仕係の女が、盆でぽこんと男を叩いた。


「この人は私の大事な友達なの。悪さしたら蹴り出すよ」

「わ、分かったよ。酷ぇなあミモネちゃん」 


 男は大袈裟に頭を撫でながら、それでも大人しく自分のテーブルに戻った。この怖いもの知らずが、と仲間に笑われている。

 女――ミモネは苦笑しながら、ごめんねと言って彼女に向き直った。


 気さくな微笑みを向けられるのは、彼女にとって新鮮だった。彼女の周囲の人間は、彼女に対して常に敬意を払う――彼女の夫も含めて。丁重には扱われたが、こうした飾り気のない親しさを感じさせる存在は初めてかもしれなかった。 

 それが不思議なほど心地好くて、胸の中に滞留していた敵愾の気持ちもいつしか薄れた。以来、彼女は月に一度ほどこの店を訪れている。ただミモネに会うために。


「そろそろ来る頃だと思ってたの。今日はお休み?」


 ミモネは葡萄酒をゆっくりと飲みながら尋ねた。某貴族の屋敷に勤める女中頭だと、彼女は自らを称していた。

 彼女は曖昧に微笑んで肯き、それから質問を返す。


「お子さんは? 元気?」

「もうね、お転婆で困っちゃうわ。誰に似たんだか……昼間遊び回ってるから、おかげで夜はぐっすり寝てくれるの。下がこれだけ騒がしくてもね」


 黒曜石のような瞳が、ちらりと上を見た。ミモネは娘と二人で店の二階部分を間借りしている。


「一人で育てるのは……大変でしょうね」

「もう慣れた。確か、エムゼさんのところは男の子だったわよね。うちより三つ上の」


 ミモネの表情がより優しげに和んだ。テーブルに肘をつき、身を乗り出してくる。葡萄酒の一杯で酔う女ではなく、単純に彼女との会話が楽しいのだ。


「ね、訊いていい? ご主人ってどんな人?」

「え……?」

「エムゼさんみたいに綺麗な人は、どんな男を好きになるのかと思って」


 ミモネの問いには嫌味の欠片もなく、純粋な好奇心から出たものだと分かったから、彼女は不快には思わなかった。


「……手の焼ける人よ。身勝手で甘ったれで自信家で……本人にはまったく悪気がなくて、始末が悪いわ」

「それ分かる! あの子の父親もそんな感じ。女は絶対に自分を見捨てないって信じ込んでるのがムカつくのよねえ」


 ミモネは少し苛立たしげに言った後、うふふと笑った。十代の少女のような、無邪気な微笑だった。


「でもあなた、ご主人をとっても愛してるのね。さっき凄く幸せそうな顔してたわ」


 彼女は一瞬呆気に取られて、すぐに頬に血が上るのを感じた。心中を他人に指摘されるのは初めての経験だった。

 夫を愛しているかどうかなど、考えたこともなかった。『正妻』は自らの役割にすぎないのだから、考えるべきではないと思っていたのだ。


 明るく微笑んで杯を傾けるミモネに、あなたはどうなの、と彼女は尋ねたかったが、どうしてもできなかった。子供の父親を愛しているのか――その問いの答えを得たくて、しかし、未だに訊けずにいる。


 それから葡萄酒を二杯空けるだけの時間、彼女はミモネと他愛ない話をして過ごした。いつも長居はしない。ミモネはまた来てねと言って彼女を送り出した。


 店から出ると、人通りの少なくなった薄暗い路地の先で二人の人間が待っていた。

 深々と頭を下げて彼女を迎えたのは、彼女に名前と衣服を貸した女である。彼女の腹心ともいえる、古い付き合いの侍女だった。

 もう一人、鋭い視線を辺りに投げている男は、長い上着の内側に長剣を携えている。


「エムゼ、ノジフ、ご苦労でした」

「では戻りましょう――正妃様」


 エムゼは素早く彼女に外套を着せた。その姿を人目から隠すように。ノジフは彼女らを先導して大通りの方へ向かう。


「正妃様、何度も申し上げてはおりますが、もうこのようなことは……」

「ええ、分かっています。迷惑をかけてごめんなさい」


 エムゼの言葉に、彼女は素直に詫びた。自分の我儘で彼らを振り回していることは承知していた。

 それから、今出てきた店の方を振り返り、ごく小さな声で呟く。


「大事な友達、ね……」


 エムゼが怪訝な顔をしたが、彼女は少し笑って首を振った。





 最初にそれを目にした時、カイは何かの間違いだと思った。


 壁も床も白い部屋の中である。

 家具も調度品もほとんどない室内はひどく殺風景で、大人が十人も入れば窮屈に感じるほどの面積しかないのに、白々とした照明が実際よりもそこを広く見せていた。人工的な灯りの光源は定かではなく、天井全体が輝いているようでもあった。

 この部屋にある唯一の家具は、中央に置かれた四角い机だった。その上には薄い板のようなものが三枚、斜めに立てかけられている。何の素材でできているのか板はごくごく薄く、カイがそれらを覗き込んでいることから、鏡のようにも見えた。だが、板の表面に映し出されているのは彼の顔ではない。


「おいおい……嘘だろ……」


 カイは板の表面を指でなぞり、手元に抱えた紙の資料と何度も見比べた。焦りの混じった呟きは、一族だけに通じる言語である。


 これは彼に課せられた業務のひとつであった。毎日朝と夜の二回、この部屋へ来てあるものを確認する。

 彼がこの作業をするようになってから五年、一度も異常はなかった。今夜も変化はないはずだった。


 カイは手が震えるのを感じた。この現象がすぐさま異常とは言い切れない――彼は自分を落ち着かせるために何度か深呼吸をした。

 とにかくユージュに知らせるべきだ。より詳細な調査が必要になるだろうし、結果によっては早急に対策を考えねばならない。

 カイはもう一度板の表面に触れ、何やら資料に書き込みをしてから、小走りに部屋を出て行った。





 白い石像は、薄闇の中で発光しているように見えた。

 人間よりもひと回り大きく作られたそれは、水を掬うように両手を胸の前に掲げている。豊かな髪を波打たせ、長い衣装を肢体に纏いつかせたその姿は、静謐でありながら生命感に溢れていた。色彩の排除された冷たい石の顔は、物憂げに優しげに笑みを含んで、自らの手を見下ろしていた。


 オドナスに存在する、唯一のアルハ神像であった。


 天窓から見える空に月の姿はない。それは人の姿を取って台座の上に降臨している――見る者にそう信じ込ませることができるほど、石像の造形は精巧だった。


 ユージュは石像の無機質な美貌を見上げ、ふうと溜息をついた。手に持った燭台の柔らかな灯りが彼女の顔を照らしている。

 円形の『月神の間』にいるのは、アルハ神の像と彼女だけだった。中央神殿の礼拝堂に続くこの特別な部屋には、王族と神官以外は立ち入れないことになっている。

 彼女は長いこと石像を眺めていた。薄暗い室内は静かで、蝋燭の芯の燃える音と自分自身の呼吸がひどく大きく感じられる。独りで思索に耽るにはうってつけの場所だった。


 王国を継ぐ者が決定した。あの末の王女――リリンスが選ばれたのは、さほど突飛な展開ではないように思える。彼女の目から見ても、リリンスは十分に聡明で責任感のある少女だった。何より人好きがする。

 他者を惹きつける魅力、それは国王にとって必要絶対条件ではあるまいか。知識と経験の不足など、今後いくらでも挽回できるだろう。

 あとは、新しい女王が自分たち一族の秘密をどう扱うかだ――ユージュはもう一度息を吐いた。

 父親と同じく、リリンスは誘惑に勝てるだろうか。ここで微睡む遺産を、自らの胸の内に沈めておけるだけの自制心を持ち合わせているだろうか。


 あなたは普通の人間です。何もかも背負う必要はない――サリエルの言葉が、ふいにユージュの脳裏に蘇った。

 アルハ神像を見詰めていると、なぜかあの楽師を思い出すのだった。まったく異なる容貌ながら同質の何かを感じさせる。


「いっそ手放してしまおうか」


 ユージュはぽつりと呟いた。

 金属の軋む音が響いたのはその時だった。


 扉の開く音だとすぐに気付いたユージュは、身を翻して出入口の方を見た。

 礼拝堂へと繋がる狭い通路の扉が開け放たれている。鉄扉の向こうの四角い暗がりは、さらに濃い闇色の人型を吐き出した。

 神官ではないと直感して、ユージュは目を細めた。


「誰です?」

「夜分に失礼いたします、神官長猊下」


 ひたひたと薄闇に染み入るような足音を立てて、彼はユージュに近寄ってきた。

 すらりとした痩躯に束ねられた長い髪、鼻の尖った線の細い顔立ち――彼女の前でゆったりと頭を下げたのは、王兄にして南部知事であるフェクダであった。

 意外な人物の入室に、ユージュは眉根を寄せた。


「フェクダ殿下……いかがなさいました? アルハ神への礼拝をご希望ですか?」


 問いながら、彼女の鋭い観察眼は違和感を察知する。彼の身体をすっぽり覆う木綿の外套は、明らかに旅装束だった。神殿の訪問にはいかにも不似合いだ。それに礼拝堂には神官たちがいる。普通なら先に知らせが来るはずで、王族が単身で乗り込んでくる状況は有り得なかった。

 フェクダは微笑んで、石像を見上げる。


「それもいいですね。いつ見ても美しい神像だ。国王に独占させるのは勿体ない。ですが、今夜は少々急いでおりまして」

「急いでおいでとは?」

「ユージュ猊下、あなたをお連れするために参りました。畏れながら、私とともに南部へ来て頂きたい」


 あまりにあっさりした口調での申し出だった。思わず承諾しそうになる気軽さであったが、ユージュは相手のとんでもない意図を悟ってしばし口をつぐんだ。


「……では、この神殿はすでに?」

「さすがはご聡明な神官長ですな。ええ、私の手勢が取り囲んでおります。この場へ引き連れてくるのは自粛しましたが」

「他の者たちは決して傷つけぬとお約束を。そうでなければ、私はたとえ殺されてもここを動きません」

「もちろんです。私もアルハの信徒、冒涜的な真似はしたくありません」


 フェクダは笑みを絶やさず、さり気なく左手を腰に当てた。外套の下に剣が吊るされているのは明白だった。彼の腕前がどの程度であったとしても、女神官一人を強引に拉致するのはたやすいだろう。


「分かりました。行きましょう」


 恐れ気のないユージュの返事に、フェクダは感心したように顎を撫でた。若い神官長の噂は聞いていたものの、しょせんは国王の都合で立てたお飾りと、少々彼女を見縊っていたのだ。

 敬意を表して彼は手を差し出したが、ユージュはそれを取らずに開いた扉へと歩き出した。


 神の形をした白い石像は、ただ黙然と一部始終を眺めている。

 




 暗い通路を通り抜けて礼拝堂へ戻ると、広々とした堂内には数十人の兵士がいた。ユージュの帰りを待っていた二人の神官が彼らに取り囲まれている。

 礼拝堂がこの状態ならば、外にはどれほどの人数の兵士が集まっているのか――ユージュは指で唇をなぞった。さすがに緊張で掌が汗ばんだ。

 同胞の神官たちに向かって抵抗しないようにと告げ、彼女はフェクダについて外へ向かった。


「私を連れ出してどうなさるおつもりです?」

「あなたの――神殿の権威が我々には必要なのです」

「我々、ですか」

 

 礼拝堂の重々しい鉄扉も開け放たれていて、彼女の予想通り、屋外にはさらに多くの兵士が待っていた。みな旅装束で武器を携え、今から遠征にでも出発するような出で立ちだった。

 夜間であるのに灯りを持つ者はごくわずかで、辺りは暗い。対岸の王宮の兵士に発見されるのを警戒しているのだろう。暗闇の中に大勢の人間がひしめいているのは異様な雰囲気だった。

 一人の若い兵士がフェクダに付き従い、その足元を松明で照らした。


「ユージュ! 行ってはいかん!」


 聞き慣れた声に彼女が振り向くと、礼拝堂に隣接する居住棟の前で他の神官たちが拘束されていた。縄を打たれたりはしていないが、全員地面に座らされて兵士に監視されている。

 その中で声を上げたのは最長老のゼンであった。


「おまえが行く必要はない! 代わりに儂が……」

「ゼンさん、みんなのことを頼みます」


 ユージュはゼンに向かって頭を下げた。身代わりなどフェクダが認めるはずもなく、またそんなことを申し出るつもりもなかった。

 口々に彼女の名を呼ぶ神官たちを安心させるように肯いて、ユージュは再び歩き出した。


 その時、バタバタと慌ただしげな足音が湧いた。居住棟とは反対側、資料庫のある棟から三名の神官が連れ出されてきたところだった。


「くっそ……離せっ!」


 そう喚く若い男はリヒトである。彼の隣で手に書類のようなものを持ったままオロオロしているのはカイ、そしてもう一人は女――イオナだった。

 イオナは混乱しつつも周囲を見回し、ユージュの方へ目をやって表情を強張らせた。

 正確には、彼女の隣のフェクダに遂行する若い兵士に気づいて。


「マグナス! あなたがどうしてここにいるの!?」


 イオナは驚愕に満ちた声で問いかけるが、兵士は彼女の方を見ようとしない。聞こえているはずなのに、意識的に顔を伏せている。


「まさか……まさか、このためなの!? 神殿のことを知るために私を……?」


 兵士に駆け寄ろうとするイオナを、周囲の兵士が止めた。いささか乱暴に彼女の肩を掴み、地面に押さえつけようとする。ユージュは思わず叫んだ。


「やめなさい! 彼女に手荒なことはしないで!」

「猊下のお言葉に従え。貞節の禁を破った小娘とはいえ、聖職者だからな」


 フェクダは揶揄するように言った。ユージュは彼を睨み据える。


「あなたは自分の部下を使って私の同胞に……」

「部下の自由恋愛に口を出す趣味はありませんよ」


 彼ははぐらかして、それからユージュの肩に手を添えた。もう邪魔はさせない、とその動作は語っていた。


「ユージュ!」


 声を枯らして叫ぶリヒトは激しく暴れ、兵士によって取り抑えられた。今度はフェクダも制止しない。瞬く間に俯せに押さえつけられてしまう。


「離せ! ユージュ! 行くな!」

「リヒト、私のことは心配しないで。あなたが今服の下に隠しているものを使ってはいけません」


 ユージュは彼に向かって穏やかに語りかけた。一族以外には理解できない言葉で。リヒトは大きく目を見開く。


「私たちの役目は、ここの遺産を外に出さないこと。あなたがそれを見せれば、この人たちの手に渡ってしまう。私を切り捨てろと、国王にはそう伝えて」

「で、でもそれじゃ……」

「カイ、あなたも。いちばん大切なのは何かを考えなさい」

「お話は終わりましたかな?」


 フェクダが割り込んだ。彼は腕に力を込め、ユージュを前に押しやった。

 ユージュはごく平静に肯いて、彼の手を振り払った。そして危なげのない足取りで、丘を下る暗い道へと歩き出した。

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