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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
32/80

遠ざかる背中

 タルーシアは朱唇をわなわなと振るわせ、それでも気丈にセファイドに食い下がる。


「これは何の茶番ですか! 先王がご存命ならば決してお許しにならないでしょう。あなたはこんな子に……正統な王子を差し置いて酒場女の産んだ子に……」

「そこまでにしろ、タルーシア。聞き分けてくれ」

「こんな……」


 彼女が義理の娘に向けているのは、今や殺意に近い憎悪だった。決して大声で喚き散らすわけではなく、声は低く地を這うようだ。それだけにリリンスは全身の血が下がってゆくのを感じた。


「姉上、お気をお鎮め下さい」


 彼らの間に割り込んだのは、いつの間にか席を立っていたフェクダだった。彼は蒼白になったタルーシアの身体を支え、セファイドとリリンスから引き離した。


「は……離しなさい」

「少しお休みになった方がいい。どうぞこちらへ。セファイド」


 フェクダは半ば強引にタルーシアをその場から遠ざけながら、セファイドへ顔を向けた。


「王太子指名は国王の権限だ。おまえの好きにするがいい。私はそれに従う――これまでそうしてきたようにな」

「感謝します、兄上」

「アノルト」


 彼は黙したままの甥にも声を掛けた。


「言いたいことがあるなら、今ここで言っておいた方がいいぞ」


 この場に似つかわしくない、気軽な口調だった。背中をごく軽く押すような。

 ささやかなそのきっかけこそが必要だったのかもしれない。アノルトはすいと顔を上げ、滑らかな所作で立ち上がった。


「父上のご判断ならば、俺に異存はありません」


 彼は噛み締めるような口調で父に告げた。低い声ではあるが、何の憤りも恨みも籠っていない。状況を考えると不気味なほど平穏な風情である。


「異存はありませんが……本当に……そんなものをリリンスに背負わせるおつもりなのですか?」

「何を背負わせると?」

「父上の背にあるものすべてをです!」


 やにわにアノルトの声音が跳ね上がった。

 父に向かって一歩踏み出した彼の表情は荒々しく、戦場で見せるそれに似ていた。

 百人近くの人間が、息を飲んで見守っている。


「国王が背負うのは期待や尊敬だけではないはず。征服してきた者たちからの怨嗟や敵意や憎悪や――そんな負の重圧をすべてリリンスに投げ渡すおつもりですか? この子の細い肩に重荷を乗せて、一生この国の王座に縛りつけるのですか?」


 彼は問いかけを重ね、充血した目でリリンスを見やった。リリンスの皮膚がビリビリと痺れる。兄の様子に恐れを抱き、同時にその言葉の内容が真実だと思い至ったのだ。


「それがリリンスにとって幸せだとでも?」


 血を吐くような、だが挑戦的なアノルトの詰問に、セファイドは静かに答えた。


「だから支えてやれと言っている」


 王の資質のひとつは声の力なのではないか――リリンスがそう感じてしまうほど胸に響く声で、彼はアノルトに、そして他の息子たちに語りかけた。


「アノルト、おまえを選ばなかったのは決しておまえが劣っているからではない。ただ、時代が違ってしまっただけだ。だがおまえにしかできぬことは多いはず。セラム、サーク、おまえたちも兄としてリリンスを支えろ。これまで培った経験を生かして妹を助けてやれ」


 セラムとサークは神妙な顔で父の言葉に聞き入っている。戸惑いつつも、事態を受け入れようと努力しているように見えた。

 アノルトは奥歯を強く噛み締めて、セファイドの前に立ち尽くした。


「俺とリリンスの二人で統治することはできませんか? 夫婦となって」


 タルーシアが両手で口を押えた。息子の望みを初めて知ったのだ。

 リリンスはいたたまれなくなって顔を背ける。義母の方をまともに見られなかった。

 凍りつく空気の中で、セファイドははっきりと答えた。


「それはできない。言ったはずだ」

「やはり……無理ですか。つまり俺は、欲しい物を二つとも諦めねばならぬというわけですね」


 アノルトの全身から力が抜け、表情から険しさが消えた。気力が萎えたわけでも捨て鉢になったわけでもなく、ただ本来の彼に戻っただけのような穏やかさが表れる。

 兄は今、何かを手放したのだ――リリンスにはそう感じられた。彼の喪失感が痛いほど伝わってくるのは、半分だけ繋がった血のなせる業か。


「よく分かりました――御意のままに、陛下」


 彼は礼儀正しく、一部の隙もない仕草で、丁寧に頭を垂れた。

  




 未だ事態を受け入れられないリリンスをよそに、約一月後の立太式の日取りが決められ、会合は解散となった。

 いったいどれだけの者が納得したかは不明だったが、ともかく表立って異を唱える人間は現れなかった。とはいえ今日の決定が王宮中に周知されれば、いずれ様々な方面から反発が出てくることが予想できた。


 その程度のことは当然心得ているらしく、セファイドに焦りや気負いはない。

 父の落ち着きはかえってリリンスを不安にさせる。この先起こる揉め事をすべて覚悟して、それでも自分を後継者に選んだのだと思うと、あまりの重圧に足が萎えそうだった。


 今後の協議のために執務室へ来るよう父に命じられたが、広間を出てゆくアノルトに気付いて、リリンスは咄嗟にその後を追った。

 呼び止める王族や廷臣たちを無視して、彼女は回廊に出て兄の姿を探した。

 こんな時でも凛と伸びた背中は、すでに風紋殿を出るところだった。


「に……兄様!」


 長い衣服の裾を持ち上げ、追い縋りながら声を掛ける。アノルトは立ち止まって、ゆっくりと振り返った。

 リリンスは彼の数歩先で足を止めた。無表情な兄の前で心臓が跳ねるのは、駆けてきたからだけではなかった。

 他の者たちは別方向へ刷けたらしく、渡り廊下に人影はなかった。麗らかな正午の陽光の下、兄妹は黙って対峙した。


「兄様……あの、ごめんなさい、私……」


 何と言ってよいのか分からず、泣きそうに顔を歪めるリリンスに対し、アノルトは静かに首を振った。


「おまえが謝る必要はない」

「でも私が……兄様から奪って……兄様の邪魔をした」

「リリンス、俺はね、父上のようになりたかったんだよ」


 アノルトはうっすらと微笑んで、中庭の緑に目をやった。そこは彼が初めて妹と対面した場所でもあった。


「だが思い知った。やはり、ああはなれない。俺は父上とは違うんだ。それに気付けなかった俺が悪い」


 彼の口調がひどく自虐的で、リリンスは胸騒ぎを覚えた。彼女の知る彼とはあまりにも違っていて、いつもの快活で自信に溢れた姿は偽りだったのかもしれないと思えたのだ。


「そんな言い方はやめて下さい。私は今でも王太子には兄様が相応しいと思ってる。誰よりも責任と覚悟の意味を知っているのは兄様だから……私は尊敬しているの」

「でも、愛してはいない」

「愛しています!」


 リリンスは腹腔に力を込めてはっきりと言った。


「愛してるに決まってるじゃない。大切な私の兄……血の繋がった家族よ。何があっても一生変わらないわ」

「そうだな……一生変わらない。俺はその血縁が厭わしいのだが」


 気だるげな言葉とともに腕が伸びてきても、リリンスは逃げなかった。広い胸元に引き寄せられたが、この間のような凶暴な腕力は感じられなかった。

 アノルトは体温を確かめるように柔らかく彼女を抱擁した。癖のない黒い髪を撫で、同じ色の澄んだ瞳を覗き込む。

 リリンスも同じように彼を見詰めた。その奥にある深淵を、彼の抱え込んだものを見極めようとした。


 恐れのない妹の眼差しに、アノルトはもう一度微笑んだ。


「リリンス――必ず迎えに来る」


 打って変わった強い声音――リリンスが意味を問う前に、アノルトは彼女の額に唇を押し当てて、すぐに身体を離した。


「俺はもうドローブへ戻るよ。あまり長く留守にできないからな。立太式には出席できそうにない」


 元気でな、と最後にそう言って、彼は身を翻した。


 何か答えようとして、リリンスは自分にはその言葉が残っていないことに気付いた。兄に対する想いはすべて吐き出してしまった。

 素っ気ないほど足早に去ってゆく兄の後ろ姿を、なぜだかもう二度と見られない気がして、リリンスはいつまでもその場に立ち尽くしていた。

 




 リリンスと別れ自ら宿泊する棟へ戻るアノルトは、回廊の先で伯父に呼び止められた。

 フェクダは腕組みをして柱に凭れ掛かっていた。自分を待ち構えていたのか、とアノルトの眉間に警戒の色が浮かぶ。


「……おまえとセファイドの違いを教えてやろう」


 フェクダは緊張の欠片もない滑らかな口調で話しかけた。


「あの男はな、絶対に自分の欲しい物を諦めなかった。どんな手段を使っても手に入れた。そのためなら他人はもちろん身内に対しても容赦がない。おまえは……外向きの野心は旺盛だが、父親だけには従順だな。優等生すぎるんだよ、良くも悪くも」


 わずかに揶揄の響きを感じ取って、アノルトは口元を歪めた。優等生に不良の真似事はできない――歌姫に同じような軽口を叩かれたばかりだ。


「何のご用ですか、伯父上?」


 なるべく感情を出さないように訊くと、フェクダは薄い唇に笑みを浮かべた。


「迷っているな?」

「迷う?」

「このまま大人しく引き下がるか否か。父親の命令通り、王位を諦め妹の補佐に徹するのか? あの娘をいちばん近くで支えながら、指一本触れられなくなるんだぞ。頂点にも立てず惚れた女も抱けない――おまえはそんな一生に耐えられるのか?」

「俺を唆す気ですか?」


 アノルトは目つきを鋭くして、フェクダを睨み据えた。


「伯父上の魂胆は承知しています。あなたには男子の後継者がいない。俺を傀儡にして父上と争わせる腹でしょう。それとも、伯父上ご自身が横から王位をかっ攫うおつもりですか?」


 南部知事の彼と親交を持ちながらも、アノルトは隙を見せぬよう常に気を配っていたのだった。

 相手は父のせいで王位に就けず、王都からも追われた男だ。第一王子の自分を抱き込み、国王に対して謀を巡らすのではないかと油断はしなかった。セファイドに忠告されるまでもなく、アノルトは自然とそんな警戒心を身に着けていた。


 敵意に近い眼差しを向けられても、フェクダは動じなかった。ますます笑みを深くして、白髪の数筋混じった前髪を払う。


「二十年前なら、あるいはな。残念ながらもう私はそれほど若くはない。だが、せっかく大きく育ったこの国が弱体化してゆくのは見たくない。おまえの指摘通り、リリンスではオドナスは背負い切れないだろう」

「父上はできると信じておいでです」

「結局、あいつは最愛の女の遺した娘を手放したくないだけだよ、もっともらしい理由をつけたところでな。リリンスも――可哀想に」


 アノルトの気持ちが揺れた。

 フェクダの言葉を頭から信用したわけではない。だがアノルト自身、リリンスが哀れだと思ったのだ。父の一存でいきなり王太子に指名され、訳も分からぬまま国政を背負わされた。その過酷さを、おそらく彼女はまだ理解していないだろう。


 代わってやらなければ――妬みでも権力欲でもなく、アノルトは純粋にそう願った。

 茨の道を歩ませて、リリンスに血を流させたくはなかった。想像するだけで、彼の全身がキリキリと痛んだ。


「欲しいものがあるのなら、おまえも手段は選ぶな」


 フェクダは畳みかけた。

 アノルトは期待とも恐れとも取れる表情で伯父を見返した。蒼褪めた頬がゆっくりと血の色を取り戻している。


「正しいかどうかは、後の人間が決める」


 暖かな日差しが凍りつく。時間が澱のように滞留する。

 そのひと時は、アノルトにとって不思議と心地よかった。生まれて初めて、本当の意味で自分で決断できる――胸の中心が激しく強く脈打っていた。

 もう心は決まっていたのだ。必要だったのは、ほんのわずかなきっかけだけ。

 




 第一王子が王兄の助力を得て、国王に反旗を翻したのはそのわずか六日後のことであった。

波乱の第三章終了しました。

次回から怒涛の第四章に入ります。

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