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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
28/80

求婚

 午後の太陽は傾きながらもまだ十分に明るかった。

 湖面は鏡のように青く輝き、本日最後の漁をしているらしい小舟が数艘、遥か沖合に点在していた。濃く力強い緑が湖の周囲に生い茂っていて、微風に乗って水と森の香りが運ばれてくる。

 平穏そのものの、いつものオドナスの風景――満々と水を湛えたアルサイ湖は、今日も穏やかに凪いでいた。


 リリンスは膝を抱えてぼんやりと長閑な景色を見下ろしている。隣に腰を下ろしたキルケもまた無言である。お互いに相手が話し出すのを待っているようだった。


 二人が座っているのは王宮裏庭の堤防の上だった。外の空気を吸いましょうとキルケに誘われ、リリンスはここを選んだ。かつてナタレと並んで建国祭の花火を眺め、また王宮を抜け出した際に乗り越えた場所でもあった。

 さすがに今日は堤防の下でキーエと衛兵が見守っている。脱走の実績がある王女はともかく、歌姫までもが人の背丈よりも高い石造りの堤防を登ったことに、彼らはいささか驚いていた。


「王都に来て初めてこの湖を見た時、目を疑いましたわ。砂漠の真ん中にこんなたくさんの水……神様は本当にいるんだと思いました」


 キルケは眩げに目を細め、頬にかかる後れ毛を払った。


「それと同時に、この国の人たちの大らかさや明るさの理由が分かった気がしました。こんなに大きな支えがあるから、オドナスの民は強いのですね」


 リリンスは黙って歌姫の言葉を聞いている。顔色は悪く目の下に隈もできているが、日の光を浴びて体温が少し上がったようだっだ。新鮮な酸素が血の巡りを正常に戻している。


「愛されて育った人間は強いんですよ。姫様もそうでしょう?」

「私は……」


 リリンスはようやく口を開いた。半日ぶりにまともな声が出た。


「私は全然強くないわ。どうしたらいいのか……ちょっと分からなくなってる」

「何かあったんですね」

「ずっと大切に思ってた人から好きだって言われて……私も大好きなんだけど、その人の好きは私の好きと違ってて……」


 独り言のように喋りながら、自らの両肩を擦る。兄に掴まれた痛みが生々しく思い出された。肌の上を這う指の感触や、耳元にかかる吐息の熱さや、口を塞いだ唇の湿り気が、すべて五感に残留している。それらを、彼女は悍ましいとしか感じられなかった。

 信頼していた兄はこんなことがしたかったのかと――ずっと自分を女として見ていたのかと思うと、ただ怖かった。そして、それに気付かず無神経に甘えていた自分自身の鈍感さに虫唾が走った。

 だが兄の想いは恐ろしくとも、どうしても彼を嫌いにはなれない。兄として慕う気持ちに変わりはない。その相反する感情が、身体が二つに引き裂かれる痛みを彼女にもたらしている。


「……たぶんもう元には戻れない。それが悲しいの」


 湖を見詰めたままそう呟くリリンスの横顔に、キルケは微笑みかけた。


「顔も知らない相手と結婚するのは平気でも、ご自分に想いを寄せる男を振るのはお辛いんですね」


 口調こそ優しいが、皮肉の混じった物言いだった。美しい顔を歪めて振り向く彼女に、キルケは肩を竦める。


「それが普通ですよ。でもね、悩んで答えの出ることじゃないでしょう? 嫌なものは嫌――拒絶すべきです。相手がどんなに大切な人でも」


 鋭い針で刺し貫かれるような痛みを、リリンスは感じた。昨夜アノルトに抵抗できなかったのは、豹変した彼に対する恐怖心のためだけではなかった。自分が拒めば永遠に兄を失ってしまうのではないかと、何よりリリンスはそれを恐れたのだ。

 二度と味わいたくはない、あの孤独感。彼女はつくづく自分の弱さが嫌になった。

 キルケは笑みを深くした。何やら含みがあるようにも見える。歌姫は決して詮索好きではないはずなのだが。


「もちろん姫様は悲しいし苦しいでしょう。それは誰かの心を奪った責任という奴です。受け止めるしかない。けれど同情する必要はないのですわ」

「キルケはさっぱりしているのね」

「そう見えますか? 私もね、昔あなたのお父様に振られたんですよ」


 初めて聞く告白に、リリンスはびっくりした。キルケは恥じ入る様子もない。


「俺か歌かどちらかを選べ、なんて狡いことを言われて、諦めました。でも私はずっと陛下が好きなんです。自分じゃどうしようもありません」

「そう……そうだったの……全然知らなかった」


 国王に対するキルケの態度は確かに親しげだったが、そこに恋愛感情があったとはリリンスには想像できなかった。あくまで歌の才能を評価したらしい父のけじめには安心したものの、その男に仕えなければならないキルケの気持ちを考えると胸が痛んだ。


「キルケ、それって辛いこと?」

「幸せなことですわ。人を愛するのはとても幸せなことです。例え想いが遂げられなくても」


 キルケはしみじみとした口調で言う。まるで自らに言い聞かせるように。


「ですから姫様に想いを寄せているお相手も……きっと幸せなはずです。同情をかける必要なんてありません」

「うん……」


 リリンスは初めてしっかりと背筋を伸ばして、肯いた。気持ちを口に出したことでほんの少し楽になっていたが、それでも、まだ心は小さく縮こまったままだった。


 兄は今頃父に会い、異母妹を妻に迎えたいと訴えているはずだ。父はきっと許さない――自分はすでにアートディアス皇太子との婚約が内定している。

 だが万一、父がそれを望んだら――。


 リリンスは何よりもそれを恐れていた。

 いくら父に命じられても、兄との結婚など到底受け入れられそうになかった。遠い国への輿入れには納得できたのに。

 キルケの言う通り、兄は幸せなのかもしれない。でも自分の中のどうしようもない嫌悪感はどこからくるのか、そして今後兄にどう対応すればよいのか、リリンスは途方に暮れていた。





 もっと早く決断すべきだった――国王の執務室へ続く廊下を歩きながら、アノルトは考えていた。

 兄だからとか、他国へ嫁がせるからとか、理由をつけて今まで気持ちを押し殺してきたのが馬鹿らしく思えた。何のことはない、自分は臆病だっただけなのだ。

 彼にとって、リリンスは幼い頃からかけがえのない存在だった。

 最初は、父から託された末妹を守るのは長兄の務めだと思っていた。王宮に馴染めない彼女を守り、彼女を傷付ける者を排除し、彼女の居場所を作ってやったつもりだった。


 それがいつからだろう――アノルトもまた、自分の居場所をリリンスの元に見出すようになっていた。

 リリンスが涙を拭いて、自分だけに微笑みかける。柔らかな指で自分の手を握る。兄様、と甘えたように呼びかける。

 その度にアノルトは、何とも言えない幸福感に包まれた。麗らかな日差しの下で背伸びをしたような、優しく温かな気持ちになれた。

 肉親に対する自然な情愛だと思っていた。それなのに。


 ある日突然、あの少年が現れた。砂漠の東方から差し出された人質の王子は、暗く燃えるような目をしていた。周囲に媚びもへつらいもしない彼にリリンスが心を寄せていると、アノルトはすぐに気付いた。

 それまでアノルトだけに向けられていた微笑みを得たばかりでなく、あの少年は、彼女の切なく甘やかな眼差しまで引き寄せていた。自分の居場所が幸福感が、根こそぎ奪われたのだとアノルトは感じた。


 逆に考えれば踏ん切りがついたのはあいつのおかげか――彼は薄く苦笑した。

 擦れ違う王宮の役人たちは、みな足を止め頭を垂れて彼に道を開ける。歩を緩める必要はなかった。


 彼女への感情を封印し、諦めようともした。

 ドローブ総督であるアノルトの元へは、身の回りの世話をさせてほしいと、地元の多くの権力者から血縁の娘たちが送り込まれていた。正妃は無理でも、娘を将来の国王の側室にできれば中央権力に加われる――彼らの魂胆には疑う余地もなかったが、アノルトはあえて拒まなかった。

 彼女らにはそれぞれ美点があり、計算尽くと分かっていても言い寄られて悪い気はしなかった。肉体的には満たされたし、寂しさを癒すこともできた。王都に滞在中も、同じようなものを求めて花街を彷徨った。

 しかし、やはりリリンスが与えるような温もりや幸福感は得られなかったのだ。


 リリンスは特別なのだと、アノルトは思い知った。

 その唯一の女は、西方の大国へ送られようとしていた。父の決定には異を唱えられず、忸怩たる思いを抱えていたところへ、リリンスとあの王子との密会の情報が入って来た――これで兄としての理性が切れた。


 昨夜、腕の中でリリンスはひどく怯えていた。無理もない、と彼の胸が痛む。罪悪感を覚えなくもなかったが、彼女の体温や匂いや肌の滑らかさを思い起こすと、それに数倍する恍惚感が彼を包んだ。

 あまりにも高揚してしまって、反動だったのかすぐに気持ちが荒れた。

 半ば自棄になって繰り出した花街で、歌姫と関係を持ったのは成り行きである。彼女には心を見透かされたような気がしたが、心配はしていなかった。そういったことを誇らしげに吹聴する女ではない。


 もっと早く決断すればよかったのだ。正式に父に申し込んで、公明正大に彼女を自分のものにする――。


 執務室の手前に、神官長の姿があった。

 聖職者の証である純白の衣装に身を包んだ彼女は、いつもながら清廉で美しかった。おそらく父と内密な話をしていたのだろうとアノルトは推し量る。中央神殿と国王の間には秘密が多い。いずれはそれらすべてを継がねばならないと、彼の中でもう覚悟は決まっていた。

 神官長に挨拶をし、父の所在を確かめ、彼は執務室に入っていった。





 ユージュが退出した後、午後の業務を持って侍従たちがやって来るはずだったが、彼らより先に入室したのはアノルトだった。

 セファイドは仕事の前に一服しようと煙管に火を入れていて、突然姿を現した息子に軽く眉を上げた。


「突然申し訳ありません、父上。可能な限り早くお話ししたい件があって参りました」

「それは構わんが、珍しいな」 


 抑えてはいるが明らかに緊張したアノルトを、セファイドはやや意外そうに迎える。総督職に就いた彼は多忙で、王都にいる間も仕事に追われているはずだった。

 アノルトは背筋を伸ばして執務机の正面に立ち、椅子で足を組んだセファイドを見詰めた。


「お尋ねします。リリンスとアートディアス皇太子との婚約については、もう承諾のお返事をなさったのでしょうか?」

「なぜそんなことを訊く?」

「俺はリリンスを妻に迎えたいと思っています」


 堂々と、アノルトはそう告げた。

 セファイドは肺の中の空気とともに煙を吐き出した――ゆっくりと。


「……何だと?」

「リリンスとの結婚をお許し頂きたいのです」


 紫煙の向こうの父親は沈黙した。アノルトは目を逸らさない。


「このような時期になって遅すぎるお願いだとは分かっております。我が国の外交政策に甚大な影響を与えることも承知しております。それでも俺はリリンスと結婚したい。リリンス以外の女を娶るなど考えられません。俺は……彼女を愛しているんです」


 彼は深く頭を垂れた。


「お願い致します、父上、リリンスを俺に下さい」


 その態度は真摯で、少しも臆するところがなかった。自らの決断を何ら後ろめたく思っていないのだ。

 そんな彼をセファイドは無言で眺めた。驚きも戸惑いも感じていないように見える。ただ、煙管をもう一口吸い上げ、その間だけ目を閉じた。

 煙を纏った返答は、短かった。


「駄目だ」

「父上!」


 勢いよく顔を上げたアノルトの前で、セファイドは厳しく口元を引き締めていた。


「それだけは認められん。絶対にだ」

「なぜです!? それほどあの子を外交の道具にしたいのですか? アートディアスに遣られるよりも、将来のオドナス国王正妃になった方がリリンスも幸せなはずです。俺は一生リリンスを守りたい。あの子と初めて会った日に、父上がそうお命じになりました」

「確かに守ってやれとは言ったが、それは兄としてだ。分かりきったことだろう」


 セファイドは淡々と言って、煙管の灰を盆に落とした。


「おまえは俺の若い頃に少し似ている。リリンスはあれの母親に生き写しだ。だからおまえがあの子に惹かれるのは……当然と言えば当然なのかもしれんが」


 口調に少し感傷的な響きが混じった。そこをアノルトは見逃さなかった。取りつく島もない父の拒否を打ち崩そうと、


「存じております。父上はあの子の母親を心から愛していらっしゃいました。おそらく母上を含め、他の誰よりも。本当は父上もリリンスを手放したくないのでしょう? 大事な娘が正妃としてこの国を治める姿を、俺は父上に見せて差し上げます」


 と机に手をついて身を乗り出す。


「お許し頂ければ、俺は生涯リリンスだけを愛し続けると誓います。他の女はいりません」


 アノルトの日に焼けた頬は紅潮し、黒い瞳は潤んで輝いていた。

 セファイドはじっと息子を見返す。そこに偽りや濁りがないか、決意のほどを見極めているようだった。

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