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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
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ある文官の憂鬱

 王宮に勤める文官のクートは、文書管理を担当する役人だった。

 文書といっても毎日王宮の中を流れていく事務書類ではない。彼が扱っているのは、担当部署での保管期限が切れた書類である。王宮中から集まってくる古い書類や覚書の内容をひとつひとつ確認して、あるものは廃棄し、あるものは綴り直して倉庫に保管するのが仕事だった。


 黴の生えた書類をひたすら読んで、仕分けて整理するだけの地味な役職――『穴倉の番人』などと陰口を叩かれることはあっても、クート自身はこの仕事が気に入っていた。天職とすら思える。

 もともと古い文献を漁るのが好きで、学生時代には古文書の解読を専攻した。本当はそのまま研究者になりたかったのだが、なまじ出身がよかっただけに宮仕えを余儀なくされた。出世欲は皆無に等しく、だから勤め始めてすぐにこの閑職に回された時、内心大喜びをしたのだ。


 それから約十年間、クートは古い書類だけを相手に仕事をしてきた。

 無味乾燥な書面とはいえ、オドナスが建国された四百年前からの記録が王宮には保管されている。彼は探究心を刺激され、仕事の傍ら片っ端から文書を読み耽った。

 読み込めば読み込むほど、古い事務書類の端々から当時の人々の思惑が透けて見えてくる。直後に失脚したらしい大臣の大きな決裁や、明らかに責任のなすり合いをしている曖昧な覚書や、書き取った役人の神経質さが滲み出るような細かな文字の名簿など、クートにとってそれらは生きた人間の記録なのだった。いったいどんな状況でこの書類が作成されたのか、想像し始めると時間が経つのも忘れた。

 いつかそれらの記録を纏めて王国の歴史書を編纂する――それが彼の密かな野望だった。


 そんなクートの元に、突然彼の雇い主がやって来たのは半年前のことだ。


「四百年分の記録を読み尽くしたというのは、おまえか」


 薄暗く埃っぽくカラカラに乾燥した文書倉庫に、国王は何の前触れもなく入って来た。

 直接言葉を交わしたことなどなく、ごくたまに遠目に見るだけではあったが、さすがにクートにも相手が誰であるかは分かった。

 あまりに驚いて頭が真っ白になったクートは、書類が山積みになった机の前に座ったまま、はあ、と答えた。それからやっと状況を把握して、勢いよく立ち上がり、机の角に思い切り足をぶつけてしまった。


「ももも申し訳ございません! まさかこのような場所に陛下がおいでになるとは……」

「まあ、楽にしなさい」


 バサバサと床に散らばる紙片を前に、セファイドは気分を害した様子もなく笑った。

 部屋の入口にエンバス侍従長が控えているものの、それ以外の随行者の姿はない。国王がほとんど単身で自分のような下級役人に何の用があるのか――クートは口の中が渇いていくのを感じた。

 奥行きのある倉庫いっぱいに並べられた書棚と、そこに詰め込まれた変色した紙束を、セファイドは興味深げに眺める。彼がここに来たのは初めてだった。

 クートが嫌な汗を掻いていると、


「おまえに頼みがあって来た。過去の記録を調べてほしい。どんな些細な記述でも」


 と、声を潜める。


「とおっしゃいますと……どのような?」


 困惑するクートに、セファイドはあることを命じた。それを聞いて、クートは緊張も忘れてぽかんと口を開けた。あまりに意外な内容だったのだ。


「まさか陛下、それは、あの……」

「一切他言は無用だ。おまえ一人でやれ」


 セファイドは正面からクートを見据えた。


「他の者に喋ったら、殺す」


 その言葉の意味よりも、鋭く明るい眼差しにクートは震え上がった。





 長い時間をかけて報告書の束に目を通していたユージュは、顔を上げると大きく息をついた。

 精巧な人形のような面差しに、薄い疲労が宿っている。昨夜は満月で、彼女は一晩中アルサイ湖畔で祈りの鐘を叩いていた。仮眠を取っただけの睡眠不足の目で細かい字に集中していたせいもあるが、その内容とそれを読ませた者の意図が、彼女を消耗させたのだ。

 

「本気ですか?」


 投げ捨てるように言って、書類を机の上に返す。黒檀製の大きな執務机の向こうでは、セファイドが頬杖をついていた。


「ああ」

「よく拾い集めましたね、こんな細かい記述」

「担当者が優秀なんだ」


 彼がチラリと見やった先、部屋の片隅で、文官風の小太りの男が所在無げに立っていた。セファイドの命令に従って、半年をかけてオドナス王国建国以来の記録を調べ上げ、命令通りの報告書に纏めた役人である。

 ユージュはその男に向かってにこりと微笑みかけた。


「無茶な命令で大変だったでしょう。上司が暴君だと苦労なさいますね」

「は……いやそんな、滅相もない」


 クートはしきりに額の汗を拭った。普段は侍従か高級官僚しか入れない国王執務室に召喚されただけでも大ごとなのに、国王と神官長の会見に同席する羽目になって、彼は卒倒しそうなほど緊張していた。

 報告書を作ったのは確かに自分だが、内容に関する質問に答える責任もあるのだが、とにかく場違いすぎていたたまれなかった。


 午後の執務室には、彼ら三人以外の姿はない。セファイドが人払いをしたのである。唯一事情を知っているらしいエンバスも、黙って退出していた。

 御前会議で三十人余りが集まることも珍しくないため、室内は広い。今は会議用の円卓が片付けられており、執務机と書棚しかない空間はガランとしていた。麗らかな日の光が窓から差し込んでいる。

 磨かれた床の上に椅子が一脚だけ置かれ、ユージュはそこに座っている。机を挟んでセファイドと向かい合う格好だ。彼女もまた、今日は随行者を連れてはいなかった。

 

「神殿の意見は?」

「そういった建前だけのご質問は結構です。陛下のご意向を尊重いたしますよ。資料も揃っていることですし」

「ではその線で準備を進めてくれ。クート、ご苦労だった。何か望みはあるか?」


 クートは恐縮して縮こまった。とんでもない勅命のために、この半年間生きた心地がしなかった。地位や金を望んで、これ以上ややこしい立場に立たされたくはなかった。


「おっ、畏れ多いことでございます……今の仕事を続けさせて頂ければ、私はもうそれだけで」

「欲のない男だ。まあいい、『穴倉』へ戻って仕事をしなさい。いつか王国史を纏める時には、おまえを責任者に任命しよう」


 セファイドは笑みを浮かべながらも真摯な口調で言った。


「俺のこともちゃんと書くように。『聡明にして寛大な王、しかも美男子』とな」

「かしこまりましたっ!」


 何度も大きく頭を下げて、クートは部屋を出て行った。今は緊張で訳が分からなくなっているが、後になって喜びが込み上げてくることになる。


 地味だが研究者としては優秀な男を見送ると、室内には二人きりになった。

 ユージュは目を伏せてこめかみに手を当てた。


「十分ご承知のこととは思いますが――揉めますよ?」


 セファイドは神妙な面持ちになって肯く。


「分かっている」

「国内にいらぬ争いの種を蒔くかもしれませんよ?」

「それを阻止するために、神殿の権威が必要だ」

「巻き込まれるのはごめんです」

「おまえたちの将来にも関わる事案だろう。知らん顔をしようとしたって、そうはいくか」


 ユージュの小さな溜息が聞こえ、セファイドは頬を緩めた。この冷淡な神官長が、最終的には自分に逆らえないと看破している。


「……承知しました。最大限の協力を」


 彼女は殊勝に肯きながらも、いくぶん怨嗟の混じった眼差しでセファイドを見詰めた。


「陛下のことは、王国史に何と記されるのでしょうね。若い頃は有能、だが晩年に失策多し――」

「失策かどうかはこれからにかかっている。よろしく頼む」


 物音を立てずに、ユージュは立ち上がった。常に身に纏っている純白の神官服は、胸元も袖口も詰まっていて、およそ女性らしさを感じさせるものではない。美しくはあっても、彼女からは生身の女の媚びや虚飾が一切排除されていた。

 だからこそ、セファイドは彼女を気に入っているのかもしれなかった。多少口が悪くとも、彼女は率直で偽りを語らない。


「そういえば、今日はリリンスと接見する予定ではなかったか?」


 報告書を机の抽斗にしまいながら、セファイドは尋ねた。講義と称して王女はよく神官長を招いており、彼もそれを認めていた。


「ええ、ですが、姫様は何やらご気分が優れないとのことで、今日は取りやめに」


 ユージュの答えに、セファイドは眉をひそめた。


「病気なのか?」

「さあ、それは……まあお年頃ですからね、いろいろとおありなのでしょう」

「いろいろ……とは何だ?」

「存じませんが、父親には話したくないことなんじゃないですか」


 わざと意地悪く、不安を煽り立てるような言い方をして、ユージュは薄く微笑んだ。セファイドが憮然とするのを眺めて、少しは気が晴れたらしい。

 もう少し毒を吐いてやりたかったが、それ以上そこに留まる理由もなく、彼女はさっさと執務室を退出した。


 この程度の嫌味は、国王は甘受するべきだと思った。

 これから起こるであろう騒動を思えば、何のことはない――。


 いつも無表情な美貌に、今日は疲労に似たものが貼りついていた。それでもユージュは務めて平静に、風紋殿の出口の方へと廊下を歩き出した。

 少し行ったところで、アノルトと擦れ違った。


「国王陛下はいらっしゃいますか? 神官長殿」


 彼は礼儀正しくユージュに道を譲って尋ねた。第一王子といえども神官長には最大の敬意を払わねばならない。


「ええ、今お一人で執務室にいらっしゃいますよ」

「ありがとうございます」


 軽く頭を下げて、アノルトは足早に去っていく。

 その様子におかしなところはなかったが、焦りと高揚のようなものを感じ取って、ユージュはしばし彼の後ろ姿を見送った。





 朝から長椅子で寝転んだままのリリンスを、キーエは重苦しい気持ちで眺めていた。


 予定されていた語学と経済学の教師の講義も、楽しみにしていた神官長との面会もすべて取りやめて、一日中ぼうっとしている。侍女たちに話しかけることすらしない。

 長い髪が乱れるのも構わずに、部屋着姿のまま肢体を投げ出している。眠っているのかと思ったが、時々目を開けて天井を凝視していた。その黒い瞳は何も映していない。


 彼女がナタレを呼び出した事実は、他の侍女たちも何となく察知しているらしく、だから色よい返事をもらえなかったのだろうという憶測が囁かれていた。

 キーエはあえて訂正しなかった。真実を話せるはずもなかった。


 実の兄に犯されかけた、などと――。


 昨夜、茫然自失のリリンスを抱えるようにして部屋に連れ帰り、キーエはすぐに事情を尋ねた。リリンスは少しずつ顔色を取り戻して、ぽつりぽつりと話し始めた。隠し事をしないという約束を守ったらしい。

 ただ、少しも感情的にならず他人事のように語る彼女の態度に、キーエは嫌な胸騒ぎを覚えた。

 本当に未遂だったのか――着替えを手伝いながらさり気なく観察した限りでは、リリンスの肌に痣や傷はなかった。その後脱いだ衣服を調べたが、いかがわしい汚れは付着しておらず、キーエはようやく胸を撫で下ろしたのだった。


 しかし未遂であっても、十六歳の少女が心にどれほどの痛手を負ったか想像に余りある。一夜明けても自らの内に閉じ籠っている状態だ。リリンスが取り乱さないのは起こった出来事をどう捉えてよいのか分からないからだと、キーエは感じていた。


「あなただけを責めるつもりはないわ、ティンニー」


 事情を薄々察しているティンニーに、キーエは告げた。自分の行動がとんでもない結果を招いたと、新入りの侍女は萎れていた。


「よく説明しないで任せた私の責任でもあるから。でも、あなたには姫様付きを外れてもらいます。正式に沙汰が出るまで、出仕しなくていいわ」

「えっ……そんな……」

「この仕事はね、命を懸けて主人に尽くす覚悟がないと務まらないの。自分が叱責されても罰を受けても主人を守る覚悟がね。あなたには向いていない」


 昨夜見たこと聞いたことは忘れなさいと厳しく命じると、ティンニーはしょんぼりと肩を落として部屋を出て行った。後輩が哀れにも思えたが、今後他国へ随行する可能性も考えて、彼女にとってもよい結論だろうとキーエは判断した。


 ティンニーと入れ替わりにやって来たのは、キルケだった。

 歌姫が約束なしで来訪するのは珍しくはなかったが、キーエはさすがに断らざるを得なかった。


「申し訳ございません、キルケ様。姫様はご体調が優れませんので、今日は……」

「ええ、だから私が来て差し上げたのよ」


 キルケは眩い外界の日光と同じように笑った。舞台で目にする妖艶さは消え失せ、きりりとした目元が中性的である。


「姫様! こんな暗い部屋に閉じ籠って何かお悩み事ですか!?」

「キルケ様!」


 慌てて押し止めようとするキーエの肩をぽんと叩き、キルケは華やかに響く声で呼びかけた。


「恋煩いでもしてらっしゃるの? それともどなたかに告白をされて困っておいでかしら? 恋愛相談になら乗りますわよ!」


 あまりにも無遠慮な、そして図星を突いた言葉にキーエはぎょっとした。昨夜の出来事が漏れたのでは、と背筋が冷える。

 彼女がキルケの真意を探る前に、部屋の奥からリリンスが姿を現した。

キーエとキルケ……しまった、名前が似ててややこしい。

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