誰かの面影
オドナス随一の歌姫は、その夜『サフラン亭』の舞台に立っていた。
詰めれば百人は入る酒場はほぼ満席だった。立ち見客の間を縫って、給仕係が酒瓶や料理を運んでいる。とはいえ、観衆の約半数は正確には客ではなかった。客はみな男で、彼らに寄り添う女たちは娼婦である。煌びやかな衣装を身に着けてはいるが、その布地は肌が透けるほどに薄い。
大勢の人間が集う土地の常として歓楽施設の需要は多く、王都では大小数知れぬ娼館や遊郭が営業していた。
もともとそういった商売には寛容な国柄である。一流の隊商宿の立ち並ぶ大通りの裏には色町が形成され、王都の住民はもちろん、商用で訪れる異国人たちにも一時の高揚と慰めを与えていた。
夜ともなれば客引きの声の喧しい色町の一角で、『サフラン亭』はそれほど目立つ店構えの宿ではなかったが、王都で最も繁盛している花宿のひとつであった。
宿と契約した娼婦たちが一階の酒場で客をもてなし、『商談』が纏まれば個室に区切られた二階へ上がる。もちろん酒を楽しむだけでもいいが、大抵の客が早々に好みの相手を見付けて消えていくのが普通だった。女たちの質の高さが、この宿の人気の秘密である。
しかし今夜は、誰もが歌姫の歌に聴き入って、なかなか腰を上げなかった。
長い髪を緩く結い上げ、翡翠色の衣装に身を包んだキルケは、王都で流行っている恋歌をゆったりと歌っている。弦楽器一本を伴奏につけて、気だるげに物憂げに――王宮で朗々と響く声とはまた違った雰囲気だった。華やかだが不毛な、この場所に相応しい妖艶さを感じさせる。
時折この小さな舞台では、歌手や踊り子が芸を披露する。客寄せの余興であったが、キルケの場合は寄ってきた客が離れない。それどころか宿の客以外も押しかける始末で、酒場の給仕たちは、歌を聴くのならば酒を注文するようにと無粋な注意をして回らねばならなかった。
客と娼婦と野次馬たちと、その場にいるあらゆる人間を魅了するキルケの歌声は、満ちた月が中天近くに昇るまで続いた。
拍手と心付けの銀貨を惜しみなく受けて、彼女は深々とお辞儀をした。褐色の額にはさすがに汗が滲んでいたが、艶やかな笑みは崩れていなかった。
舞台を下りると宿の女将が待っていて、隣接する小部屋に彼女を素早く連れて行った。歌姫の姿が見えている限り客が席を立ちそうになかったからだ。
「はいお疲れ様。これ今夜の分ね」
楽屋代わりに使われるその部屋で、女将は報酬の詰まった布袋をキルケに渡した。
まだ若い女将はキルケの古い知人で、彼女と一緒に王都へやってきたもと女奴隷であった。解放された後もこの宿で娼婦として働いていたのだが、商才を発揮し、数年で女将にまで上り詰めた女だ。
満月の今宵、オドナスの民は色町で遊ぶのを控えるのが普通だった。アルハ神が王国全土を広く見渡す夜に、不実を働いてはならぬという戒めが根付いているからだ。異国人の客には関係ないとはいえ、満月の晩は花宿も暇になる。だからこそ、抜け目のない女将は今夜キルケに出演を依頼したのだった。
「昔のよしみで頼んでおいて何なんだけどさ、王宮付き歌手のあんたがいつまでもこんな所に出入りしてていいの?」
女将は手を腰に当てて、少し呆れたふうに言う。辛い体験と過酷な旅をともに潜り抜けてきたもと同僚を、キルケは笑って見返した。
「気にしなくていいのよ。別にどこで歌おうと私の勝手だし、私、こういう所好きなの」
「でも、いろいろ言われるでしょ? やんごとなき方々にさ」
「言いたい奴には言わせとくわ。悔しかったら私より上手く歌ってみろってのよ。それに」
テーブルの上に用意されていた冷たい水を、キルケはいっきに飲み干した。満足げに息をついて、舞台用の衣装を解き始める。
「そのやんごとなき方々もたまに来てるって聞いたわよ? お忍びで」
「どうだろね。客の身元をいちいち確認するほど、うちは野暮な店じゃないから」
女将ははぐらかすが、身分を隠した貴族たちが遊ぶことは実際に珍しくない。特にこの『サフラン亭』は、そういったお忍び組にも人気なのだと専らの噂だ。娼婦たちを磨きに磨き上げ、その代わり安売りは決してしない。女将の徹底した『品質管理』の賜物だった。
キルケは派手な装飾品を取って、麻の普段着に袖を通した。豊かな胸や引き締まった腰や、均整の取れた体躯は質素な衣装に着替えても十分に美しい。現役を退いてから少しふくよかになった女将は、羨望の混じった視線を彼女に向けている。
「じゃ、帰るわね」
同じ苦難を共有し、長い旅の末にこの王都へ辿り着いた仲間と過ごす時間は、キルケにとって気持ちの和らぐものだった。しかし女将の仕事が朝まで立て込んでいることはよく分かっていた。
「お言葉に甘えて、また呼ばせてもらうよ」
「もちろんよ。今後ともご贔屓に」
キルケは薄い外套を引っかけて、部屋の奥へ向かった。そこにある扉は裏口に繋がっている。客でごった返す酒場の真ん中を通り抜けて行くわけにはいかないので、目立たぬよう宿を出るつもりだった。
その時、酒場の方で女の歓声が上がった。
耳のいいキルケは反射的に振り返った。自分の舞台が終わってから、今夜はもう演目はなかったはすだ。
「ああ、あの人が来たんだわ」
「あの人?」
「ほら」
女将は小さく手招いてキルケを呼び寄せ、酒場へと続く扉を細く開けて見せた。
歌姫が去って、すでに多くの客が女とともに階上へ消えた酒場は、ようやく落ち着きを取り戻していた。後は人の出入りが夜明けまで緩やかに続くだけに思われたその場に、新たな登場人物が現れていた。
身なりのいい若者だった。青い絹製の衣服に、護身用らしい小ぶりな剣を帯に携えて、明らかに庶民とは違った佇まいである。彼が店の入口に姿を現すと同時に、女たちが――他の客の接待をしていた女たちまでもが一斉に立ち上がった。
「ここのところよく来てくれてるお客さん。金払いがよくってね」
女将は扉の陰でいそいそと髪を直した。
「それにいい男でしょ。女の子たちが群がる前に仕切ってこなくっちゃ」
「そうね……」
上の空の相槌を打つキルケは、その若者をじっと眺めていた。女将は彼女の様子に気付いて怪訝な表情をした。
酒場では、その場にいた十名ほどの娼婦が客の若者を取り囲んでいた。
我先に腕を取ってテーブルにつかせ、給仕に酒を注文し、この好機を逃すまいと瞳を輝かせている。適当な客で妥協しなくてよかった、最後にこんな上客がやってくるなんて――とでも言いたげに。
おい俺らは無視かよ、と他の客たちが不満の声を上げたが、若者は特に嬉しそうな素振りも見せず、品定めするような冷ややかな眼差しを女たちに向けていた。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
女将が出て行って丁寧に頭を下げた。女たちが一人に群がる状況を放ってはおけなかった。さっさといいのを選ばせて、残りは他の客へ回さないと効率が悪くて仕方がない。
若者はテーブルに肘をついて、
「酒はいい。彼女と彼女と彼女……三人ほど連れて行きたいんだが」
と、周囲を順番に指差した。みな長い黒髪を背中に流した若い女だった。指された女たちは色めき立ち、女将は笑顔のまま首を振った。
「まあ豪気ですこと。けれど、うちではお相手は一人ずつ。そんなに広いお部屋もご用意できませんしねえ」
「だからもっと広い宿へ移るよ。料金は同じだけ払う」
「いいじゃないの女将さん。私たちどこだっていいわ」
「あんたたちは黙っておいで」
女将は女たちにぴしゃりと言い放った。客の無体を通していては彼女らの安全が保障できない。自らも同じ仕事をしていたからこその配慮で、その徹底ぶりがこの宿の客筋の良さを保っているのだった。
それから打って変わったにこやかな表情を若者に向ける。
「いえお客さんを疑ってるわけじゃないんですよ。でもこれが真っ当に商売を続けるための『サフラン亭』の決まりですから……どうぞ、いちばんいい娘を選んでやって下さい」
若者は唇の端を吊り上げた。どことなく侮蔑の籠った笑みだった。仕立てのいい上着の中からずっしりと重たげな布の小袋を取り出して、テーブルに置く。
「では今夜は貸し切りにさせてもらおう。それなら文句はないだろう?」
「お客さん……」
「他の客をみな追い出せ」
ゆったりとしているが威圧的な命令口調だった。平素からそういった喋り方が許されている人間のそれだ。気の弱い男の空威張りではない、扱い方を間違うと面倒なことになる――厄介な客には慣れている女将も、いささか困惑した。
不穏な空気が流れ、酒場の隅で客に紛れていた用心棒たちが腰を上げかけた時、女将の隣に優美な姿が割り込んできた。
「珍しい所でお会いしますわね」
キルケは艶然と微笑んで、テーブルに手をついた。若者は歌姫を見上げ、一瞬顔を強張らせた。
「あんた、知り合い?」
首を傾げる女将へ、
「お世話になった方のね、息子さん。詳しくは聞かない方が身のためよ」
最後の一言は小声で囁いて、無粋な客へ向き直る。
「お声をかけるなんて野暮な真似、本当はしたくなかったんですけれど、こんな場所で揉め事を起こせばお名前に傷がつきますわよ?」
「余計なお世話だ。放っておいてくれ」
「あら、少しお酒をお召しになっているのかしら? お顔に出ないから酔っていても分かりませんわね――お父様と同じで」
「俺は酔ってない!」
「酔っ払いはみんなそう言うんです。さ」
キルケは親しげに若者の肩を叩いて、その腕を取った。
「何があったかは存じませんが、優等生に不良の真似事はできませんよ。今夜はもう引き上げましょう。お供の方はいらっしゃらないの?」
「優等生で悪かったな。どこで何をしようと俺の勝手だ。あなたの指図は受けない」
若者はぞんざいに彼女の手を払いのけた。確かに、わずかに酒気を帯びているようだった。
やれやれ、というように息をつく彼女の腕を、今度は若者の方が掴んで自分の方へ引き寄せた。酔いを孕みながらも冷たい瞳が、至近距離で歌姫の顔を映す。
「それとも、あなたが相手をしてくれるとでも?」
「いいですよ」
キルケはあっさりと首肯した。
周囲の娼婦たちが顔を見合わせる。若者も、自分で言い出したことながらすぐに二の句が継げなかった。呆気に取られたように口を開けている。
「ただし私はお金で買われる女ではありません。その財布はしまって下さい」
「……あ、ああ」
「じゃ、上へ行きましょう。部屋借りるわよ」
「ちょっと、キルケ……」
さすがに不安げに眉をひそめる女将に、キルケは軽く手を上げて見せた。自棄を起こしたふうではない、いつもの歌姫の表情だ。
どちらにも恥を掻かさずに場を収めようという配慮だと、それは女将にも分かった。しかしキルケは気に入らない相手に従う女ではないということも、また分かっていた。
若者の逡巡はすぐに終わった。キルケに促されて席を立ち、彼女と腕を絡めながら二階へ続く階段の方へと歩を進めて行く。
そんな二人の姿を、酒場中の客と娼婦が息を飲んで眺めていた。王国随一の歌姫の意外すぎる振る舞いは、今夜中に噂として王都を駆け巡るだろう。好奇と羨望の混じった視線を、キルケはまったく気にしていないようだった。
宿の二階には小さく仕切られた部屋が並ぶ。場所柄、オドナスの建物には珍しく、それぞれ頑丈な木の扉が取り付けられていた。
扉の取っ手にぶらさがった青い木札が空室の印だ。廊下の最奥の一室が空いていることを確かめて、キルケは札を外してから中に入った。
やや大きめの寝台と、小さな長椅子があるだけの簡素な部屋――しかし壁掛けや絨毯はこんな宿にしては上質なもので、女将のこだわりを感じさせた。窓際の花瓶に、赤い花が一輪ささやかに差されている。
キルケは若者を部屋に通してから扉を閉めて、深く息を吸い込んだ。ほんの少しの緊張はそれで消え失せて、舞台の上で見せるのと同じ美しい微笑みが彼女の口元に浮かんだ。
寝台の前に立った若者は腕組みをして、検分するようにキルケを見詰めている。彼女は怯まなかった。
「さて……どうなさいます? 私を抱いてみますか? アノルト殿下」
夜明け前に、キルケは一人で階段を降りてきた。
さすがにこの時刻に酒場に客はいなかった。給仕たちが掃除を始める中、数人の娼婦がテーブルで欠伸をしていた。仕事を終え客を送り出し、これからようやく眠れるのだろう。
待ち兼ねていたように女将が近寄ってくる。キルケは細かく波打つ長い髪を撫でつけながら、
「いくら納めればいい?」
「あんたから金なんて取れないよ。うちと契約してるわけじゃないんだし」
「でも、一部屋使わせてもらったから」
差し出された数枚の銀貨を、女将は戸惑いつつも受け取った。気遣わしげに古い友人の様子を窺う。
「キルケ、あんた何であの人と……」
「彼まだ寝てるから、起きてきたらそのまま帰してあげて。さらっとね」
まるで悪びれずにキルケは答えて、にっこりと笑う。
まだ無名の頃の彼女は、商売として身体を売ることはなかったが、自らの歌を披露する場を得るため計算づくで男を籠絡した経験は何度かあった。押しも押されもせぬ人気歌手になった後は、気紛れに誘いに乗ることはあっても、特定の恋人は作っていない。
それを知っている女将は、どことなく違和感を覚えながらも、無理やりに笑顔を作った。
「またいつものお遊びなんでしょ? あんまり商売の邪魔しないでよ」
「ふふ、またね」
キルケは薄い外套で身体を覆って、軽やかな足取りで酒場から出て行った。
日の出を待つ街は、砂漠の中にあるとは信じられぬほど冷たく澄んだ大気に包まれていた。
花宿や遊郭の立ち並ぶこの界隈にも今は客引きの声がなく、束の間の静寂に包まれている。仕事を終えたのか今夜は客が取れなかったのか、疲れた表情の娼婦がちらほらと歩いているが、呼び止める男の姿はなかった。路地裏で酒瓶を抱えた酔漢が幸せそうに眠っている。
キルケは外套のフードを頭から被り、俯き加減に薄暗い街を歩いた。
身体中に疲労感が溜まっていた。足は重く、一歩一歩に痛みを感じる。錆びた釘の上を裸足で歩いているようだ。
つい数刻前のアノルトの問いが甦る。
「俺は誰の身代わりなんだ?」
キルケを寝台の上に組み敷いて、彼はそう訊いた。無駄なく鍛えられた若い肢体が、濃艶な褐色の裸体と絡み合っている。
いくぶん荒々しい愛撫に身を任せていたキルケは、無意識に閉じていた瞼を開けた。精悍に整った顔立ちが、薄闇の中で彼女を見詰めている。否応なしにある男を想起させる面差しだった。
「殿下を身代わりなんて……そんな、畏れ多い」
「満月の晩に嘘はご法度だ。そうでなくて、キルケ、あなたが俺を誘うはずがない」
アノルトはやはり誰かに似た笑みを浮かべた。キルケを俯せにして、うなじをなぞり上げ、それから背中に刻まれた火傷に指を這わせる。拳大の焼印は、二十年も前に押し当てられた奴隷の証だった。
「こんなものを背負いながら……誰を想い続けてる?」
「あなたこそ、どうしてこんなに飢えているのですか? 花街で女を買わなくても、その気になれば誰でも手に入るお立場でしょうに。本当に欲しいのは……誰なんです?」
アノルトの唇を背中の傷跡に感じながら、キルケは喘ぐように言った。
彼の苛立ちと渇きが、肌を通してひりひりと伝わってくる。自らと同じく道ならぬ恋に身を焼いていると――彼女にはほとんど直感的に理解できた。
アノルトは何も答えなかった。キルケもまたそれきり口をつぐんだ。
二つの身体が重なり、寝台が軋む。切れ切れの吐息だけが、淫靡な歌のように部屋の温度を上げていた。
ずっと想い続けている男の息子と関係を持った。その行為に、後悔も罪悪感も、ない。ただ満足感もなかった。
アノルトが己を失うほど飢え渇いているのを見透かして、キルケはそこに付け込んだのだ。彼の中にある別の男の面影を欲して。
しかしキルケの身体に残ったのは、どうしようもない気だるさとやるせなさだけだった。
つまらない傷の舐め合いをしてしまった、と不毛な気持ちになる。彼が自分と同じような想いを抱いていることは分かった。
第一王子であるアノルトをあそこまで苦悶させる相手――キルケには何となく目星がついていた。向こうもそうだろう。彼女の気持ちに気付いている。
だがそれだけだ。お互いの気持ちが分かっても、満たし合うことなど決してできない。
それができると信じている人もいるけれど――黒い髯に覆われたしかめっ面が脳裏を過り、キルケは足を止めた。
東の空を見上げる。濃紺の空が、下からゆっくりと赤らみ始めていた。日の出が近いのだ。
アルハ神には見られていないが、罰は当たるかもしれない――彼女は自嘲と諦めの混じった苦い笑みを浮かべた。




